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[和菓子] 食生活について語ろう

2021年06月15日 | 美容ダイエット

・和菓子Japanese sweets  わがし
  お菓子資料館などの参考資料から古くからのわが国における菓子Confectioneryの歴史から紐解いて見ました。

◇上古時代(弥生~飛鳥時代)は、大陸文化輸入以前で、果は菓の本字で、木の実、草の実で「くだもの」と呼ばれ、現在のような菓子ではなく果実であり桃、アンズ、胡桃、石榴(ざくろ)、梨子(なし)、柑子(かむし)などを意味していたようです。
瓜、青瓜など、くさくだものとして瓜(うりのさね)、青瓜(あおうり)、白瓜(しろうり)などを含めています。この他に焼米、糒(ほしい)などの穀物の加工品も菓子の類として用い餅、飴もすでにあったと思われます。
饗膳(きょうぜん)の献立の一部をも構成したものです。古事記(712年)、日本書紀(720年)によるとBC69年頃に垂仁(すいにん)天皇の勅命(ちょくめい)により、田道間守(たじま もり)が、常世の国(とこよのくに:中国南部地域)から永遠に香る果実非時香菓=橘を持ち帰ったと記しています。 
   
◇唐菓子時代(奈良~平安時代)には、大陸との交流の開始があり奈良時代(710年~794年)には遣唐使(7~9世紀)により、さまざまな物品とともに穀類による加工品の菓子が輸入されはじめています。これは唐菓子(からくだもの)と呼ばれ上流貴族社会の人気を集めました。
739年に渤海(ぼっかい)使節が蜂蜜をもたらした記録があり、754年には唐僧鑑真(がんじん)が朝廷に黒糖を献上しています。
食用油や蜂蜜、飴などは庶民の手の届かない貴重品でした。当時日本には製糖は伝わっていなかったので、砂糖は遣唐使によって少量ずつ持ち帰られ、薬用に利用し、当時、菓子の多くの甘味としては甘葛(あまずら:あまちゃづる)を用いていました。
日本では酪農製品は上流階級だけのもので菓子の結合をみないうちに、その交流の機会の遮断を受けたのです。
平安時代(794年~1192年)前期までに輸入は粳米や小麦、豆の粉で作られ唐菓子、果餅(かへい・かべい)でした。唐菓子の一種で米粉で作った餡ドーナツのようなものの餢飳(ぶと)は、現在、春日大社、静原神社、住吉大社製式などとして伝えられています。
この唐菓子が和菓子の形成に大きな影響を与えているようです。

◇点心時代(平安後期~室町時代)に入ると1191年、栄西によって茶が伝えられ、茶会が盛んになりました。茶の点心(定食と定食の間に食べる小食)としての菓子が用いられるようになり、製菓の技術が急速に発達していきました。
点心は必ずしも菓子に限らず平安末期から鎌倉初期にかけて点心としては主として羮(あつもの)が用いられています。羮とは蒸物を入れた汁で喫茶が盛んになり、その添物(点心)として羮が用いられるようになります。後に汁が不用になり蒸物のみになっていき、これが蒸菓子の起源になっています。
1341年には宋の林浄因(りんじょういん)によって饅頭が伝えられ、蒸菓子が茶道の点心の主流となります。
落雁は、京都が応仁(おうにん)の大乱(1467年)で疲弊しきっていた文明(ぶんめい)年間(1469~1487)に山城国壬生(みぶ)の板倉治部(じぶ)広定という武士によって手作りの落甘を後土御門(ごつちみかど)天皇に献上したと伝えられています。
帝が落甘の白地を雪に、黒胡麻を雁に見立て、近江(おうみ)八景の「堅田(かたた)の落雁」に例えたところから、打菓子全般を落雁と総称するようになったとのいい伝えがあります。
茶道の確立とともに茶の情緒を引き立たせる菓子が求められるようになり、干菓子や棹物(さおもの:長い直方体・円筒形・ 三角形などの和菓子の形状の総称)などの現れが、故実や有職(ゆうそく)にこだわる趣味的で、観賞用の色彩を強め、一般庶民の生活からは、かけ離れたものでした。
これらが京菓子の源流となっています。
  
◇南蛮菓子時代(安土・桃山~江戸初期)としてポルトガルスペインなどヨーロッパ諸国との交易が始まり、長崎夜話草(ながさきやわぐさ:著者 西川如見)からフランシスコ・サビエルによりハルテ、ケジアスト、カスティラ、タルトなどの南蛮菓子が伝えられたことを知ることが出来ます。
日本人の好みに合わないで消えたものもありますが、カスティラ、ボーロ、コンペイトウ(金平糖)、アルヘイトウ(有平糖)、鶏卵そうめん、カルメラ、ビスケット、パンは今日に伝えられています。
南蛮貿易の開始とともに砂糖が大量に輸入されるようになり、一般に使用されるようになっていきました。南蛮菓子の輸入と同時に砂糖菓子の製法が伝えられ、菓子の甘味として砂糖を用いることが一般化しています。
  砂糖の使用の一般化のなかで、小豆に砂糖を加えた餡(あん)の発明はこの頃であると考えられています。鶴屋の練り羊かんは1589年(天正17年)に京都聚楽第(じゅらくだい)において豊臣秀吉から大名諸侯に披露しています。
アンは和菓子の主要材料であり、これにより現在のまんじゅう、落雁、羊かんは完成品として和菓子の世界の基礎が固まったと考えられます。
  
◇全盛の京菓子・上菓子時代(江戸時代)は、世の中は安定期に入り、茶道とともに発達した趣味的・観賞用菓子はますます優美な方向に進み上級菓子的な京菓子に進展をしています。室町時代より作られるようになった京菓子は江戸時代にはいり、一時期江戸では京菓子全盛時代を迎えたのです。
この貴族的趣味の京菓子に対し庶民的な長命寺桜餅、塩瀬饅頭、きんつば、大福など、蒸菓子、棹物・干菓子に江戸独特の個性をもたせると同時に、新しい雑菓子が作られていきます。雑菓子に対して京菓子見られる優美的なものを上菓子と呼んでいます。
上菓子は白砂糖の配給を受ける菓子司(かしつかさ:製造者)で作られたものです。街中で売られる駄菓子は白砂糖の使用が禁止されたので黒砂糖が用いられていたことから雑菓子、駄菓子と呼ばれていました。
  日本で始めて製糖がおこなわれたのは、江戸時代(1603年~1867年)初期1609年に奄美大島の直川智(すなおかわち)が琉球に渡る途中台風のため中国福健省に漂着しました。
その地でサトウキビ栽培と製糖を習得し帰国する際に国禁としていたさとうきびの苗を密かに持ち帰り、大和村で栽培し、翌1610年(慶長15年)に黒糖の製糖に成功しています。1727年八代将軍徳川吉宗がサトウキビ栽培を奨励し以後太平洋沿岸・瀬戸内沿岸でサトウキビの栽培が広まっています。江戸末期には薩摩、紀伊、讃岐など各地でつくられるようになりました。
  特に、四国地方で製造される砂糖は三盆白(さんぼんじろ)と呼ばれ、最高級品として珍重し和菓子に独特の風味をもたらしたのです。現在も徳島県でわずかにつくられています。
  
◇和洋菓子並立時代(明治時代)として明治の文明開化とともに、開国で外国から白砂糖が入るようになりバターやミルク中心の洋菓子の紹介がありました。本格的な洋菓子専門の製造会社も設立しキャラメル、チョコレート、ドロップス、ビスケットなどが一般に普及、現在の大量生産時代を迎えるに至っています。
今日では、・麦などの穀類、そばなどの雑穀類および砂糖を原料とする和菓子と、小麦粉にバター、ミルクなどの酪農製品や、砂糖、鶏卵、香料などを組み合わせた洋菓子とに大別できます。現在では和菓子もこうした洋菓子の影響を受けたものが作られるなど和洋菓子混合時代となっています。
 


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(初版:2020,1.21)


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