鬼井江の世界(gooブログ)

ハッサク(八朔)画入りのハガキありがとうございました。

 友人のサンドラブロクさんから、ハッサクとレモンの絵入りハガキをいただき、感謝しています。

 「この頃は、ハッサクをよく食べています。」との文面を読み、私自身の高校時代を思い出しました。懐かしい思い出です。

 香川県にある「国立詫間電波高等学校(現 香川高専詫間キャンパス)」に進学した私。大阪府から進学した生徒は私一人だけでした。京都府からは2人。香川県にある高校ゆえに、四国や中国地方の岡山県・広島県などからの入学者が多い学校でした。ほぼ全寮制の学校で、学校の敷地にある寮での生活でした。寮は消灯時間があって、たしか午後9時か10時には消灯になり、部屋の電気は使えませんでした。室外のトイレの電灯はついていましたが・・・。

 冬の夜は寒くても「湯たんぽ」を利用して寝る生活でした。一番困ったのは、深夜に勉強しないと集中できないたタイプだったため、「午後10時を過ぎると電気が使えない」ことでした。寮の建物の外にあるトイレは電灯が灯っていたので、その光で勉強できたのですが・・・。夏は暑いし、虫は飛んでくる。冬は寒くて、長い時間は過ごせませんでした。それで、冬は懐中電灯をつけて、布団をかぶりながらの勉強でした。試験は年間に4回で、試験は20科目(実技試験を含む)あり、一週間もかかりました。試験勉強をしなければ、赤点(49点以下)を取り、落第することもあり、たいへんでした。クラスの中には、落第した生徒もいたので、緊張感がありました。なんとか赤点をといらないようにするには、「それなりの勉強」はしなければなりませんでした。試験勉強は必死でやったつもりでした。小遣いが乾電池購入費用に使い切ってしまって、親に乾電池を送ってもらったりもしました。当時の乾電池は2、3日使えば、光を灯さなくなったものでした。

 あれこれと考えて、何とか寮以外の所を探さなければ・・・と、高校1年が終わりかけたときに考えるようになりました。そして、見つけたところが学校に近い農家でした。その農家は下宿できる家でした。高齢のおばあさんが一人で住んでおられる家で、昔から優秀な先輩の何人かがお世話になっている下宿とのことでした。下宿できる条件(成績優秀のこと)があるとの噂だったので、かなり不安でした。(そのころの成績は、中程度でしたから。)

 春から二部屋空く予定とのことで、幸い、私と同級生のH君が下宿できることになりました。H君は成績を尋ねられた時は、学年(120名)で10番以内だったので、家主のおばあさんは「満足そうな顔」でうなづいておられました。(やっぱり、成績を聞かれるんだなあ・・・)と、一瞬思いました。H君の次に、私が質問される時が来ました。「成績は、今は中ぐらいですが、下宿生活ができたら、がんばります!」と訴えるように答えました。この時、私たち二人以外に下宿希望者はいないようだったので、二人とも下宿OKとなったようでした。

 高校2年生から、下宿生活のスタートができました。勉強に集中できる時間が、夜の9時以後になるタイプの私にとって、下宿生活はラッキーでした。(試験前など)もうトイレの明かりの下での勉強はしなくてもよくなり、冬の「懐中電灯勉強」からも解放されました。電池代もいらなくなり、経済的にも楽になりました。(当時、電池代はかなり高くつきましたから。)

 高2での成績もそれなりに上昇していきました。(学年で)H君のように10番以内には入らなかったのですが、30番前後になっていったように記憶しています。

 ところが、高3になり、電波高校の本筋である「電波関係の勉強」に意欲を失うようになり、成績はだんだん下がっていきました。「人間やる気をなくすと、成績は下がる」ものでした。年間4回の試験での成績は、だんだん下がり、最後の成績は、120人中119番でした。(ビリから2番目)ですが、4回分の成績を考慮してくれたらしく、落第せずに卒業はできました。赤点の教科もあったので・・・、ホッとしました。

 H君は立派な成績で卒業し、就職も日本一の船会社に採用されました。詫間電波高校(当時は3年で卒業でした・現在の高専は5年で卒業)を卒業した人のほとんどは就職しました。当時の就職先例として、日本郵船・三菱商事・NHK・電電公社(現NTT)など、日本を代表する企業に就職した人が多かったですね。一方、私は大学に行きたくなり、浪人生活(たぶん、この年詫間電波高校の卒業生で浪人したのは私だけ)に入りました。予備校通いの生活になりました。

 浪人時代、三菱商事に就職していた(このブログにコメントをしてくださる)柏獅子さんに時々会いに行ったものでした。一浪した後、一期校として大阪市立大学(夜間部)文学部に合格でき、安心しました。そして、二期校は大阪教育大学(国文科)に合格できました。進学する大学は「夜か昼か」に悩んだのですが、昼の大学=大阪教育大学に決めました。

 大学卒業後、教職関係の仕事を36年間続け、60歳で退職しました。退職後、晴耕雨読のごとく、畑作業中心の生活をし、現在に至っている次第です。

 

 さて、「ハッサクと高校時代」の思い出にふれることが遅くなりました。

 高校2年・3年の2年間、下宿した農家が「ハッサク農家」だったのです。ハッサクの収穫は1月ごろから始まりました。1月ごろだったハッサクの収穫時は、私もお手伝いをしたものでした。日曜日に収穫する時、家主のおばあさんの手が届かない部分に実がなっている木に、枝が折れないように(その当時は細かった私が)バランスよく木に登って、ハサミで切って収穫しました。子どものころから木登りは得意でしたので、かなりの数のハッサクを収穫したものでした。まだ青い実もありましたが、納屋に保管しておいて、熟するのを待って、出荷しているようでした。同じ下宿生のH君は、勉強一筋の人でしたが、私は収穫作業の手伝いが好きでした。ハッサクの収穫作業を手伝わなくてもよかったのですが、自主的に自ら好んで手伝っていました。ハッサクの収穫以外に麦踏の経験もしました。農作業が好きだったのです。ハッサク以外に、夏ミカンの収穫もしました。酸っぱい夏ミカン。それに対して、ハッサクはおいしかったですね。下宿生(3人)にはわけへだてなく、全員にハッサクを配ってくれました。シーズンになると、バケツ一杯にハッサクを入れてくれるのでした。後日、食べ終わった頃に、また「バケツ一杯」のハッサクを持ってきてくれました。2年間の下宿生活で、「もう十分! 腹いっぱい!」という思いを何度も何度も経験しましたよ。

 卒業近くなった頃、「あばあさん、もうハッサクは十分満足しました。もう結構です。」とハッサクを断るようになっていました。卒業後、大学生になり、社会人になり・・・何十年間も、ハッサクを口にすることはなくなりました。

 「人間、いくらおいしいものでも、食べ続けると嫌になり、見ただけでも嫌になる」という食べ物になってしまったのです。こういう食べ物に対する「嫌悪感?」はあるものですね。

 しかし、人間は変わるもので、あれほど嫌悪していたハッサクでしたが、60歳ころになり、ハッサクを食べることができるようになりました。いまでは、「ハッサクはおいしい!」と感じて、ハッサクを見たら、購入するようになりました。そして「やっぱり、ハッサクはうまい!」と時々食べています。3月ごろまでがハッサクの美味しいシーズンになります。

 食べ過ぎないように、「おいしいもの」をいつまでも「少しずつ味わっていこう」と思っています。

 ハッサクはうまい! (いくら、好きなものでも、ほどほどがいいですよ・・・)

  以上、「バケツ一杯のハッサク」の思い出でした。

サンドラブロクさんからのはがきより 絵画部分のみ撮影しています。 

(カメラのピントが甘くて、ごめんなさい。実際の絵はすっきりしています。)

コメント一覧

鬼井江
サンドラブロクさん
コメントありがとうございます。文旦もおいしいですね。ハッサクよりも「上品な甘さ」がありますから。僕も、文旦の季節になると、毎年、「おすそ分け」でいただいている果物です。
サンドラブロク
僕の絵を載せていただいて、恐縮です。最近、よく食べています。もうすぐ高知県から頼んでおいた文旦が、我が家に届きます。ハッサクは、文旦の次に好きなです。
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