カトリック要理(公教要理)のご案内

カトリックの入口「カトリック要理」への熱い期待が近年高まっています。
そこでWEB要理や古本も含めて紹介します。

カトリック要理のご案内

2022-11-12 14:01:00 | 日記
【WEBカトリック要理の紹介の部➡をクリック】

『教理対話』ノル大司教/ファロン師共著 1956年、中央出版社


緒 言

親愛なる皆様

この問答体の連続講義は、若き日に神の御教えを学ぶことができなかったカトリックの人達のために編んだものです。また、宗教上の教えと規律についてカトリック教会が公式に教えていることがらを、学びたいと望んでいられるカトリックでない人達のためにも役立つと思います。

 しかし、人は学問から集めた厖大な宗教上の知識をいくら持つても信仰がこれに伴わない、ということがあり得ることを決して忘れてはなりません──これは、信仰は超自然の秩序に属するものであり、又、神の賜物であるからです。自分達は真の信仰を所有していると確信しているカトリック信者は、神が自分達にこの御恵みを賜ったことをいつも全能の神に感謝し、そして、この感謝の念を、他の人々にも此の私達の宗教へ興味を持たすように努力することによって表わさなければなりません。神の特別の御恵みによりまして、真の信仰に回心された人達は、カトリックでない親しい人達にもこれを分ち得るように努力して、感謝を表わさなければなりません。

カトリックの人もカトリックでない人も、共に、キリストと人々の霊魂とのために、使徒的な働きをして、神が私達の極めて親しき人々を御許に引き給わんことを、日々に祈らねばなりません。こういうふうに祈りますと、不信心なカトリック信者は、神の聖寵によりまして、いよいよ自分の宗教に熱心でなければならなくなり、カトリックでない人達はより以上に神の教会の声に耳を傾けるようになることでしょう。

多数の人が抱いている偏見に拘らず、又、カトリック信者が暮して行かなければならない厳しい戒律に拘らず、カトリック教徒は他の全教会を合せたものよりも迅速に成長しています。

あなた方はこの御探求を御続けになるに従って、カトリックは、他の教会と本質的に異っている事を主張している、ということがお判りになりましょう。それは起原が神的であり、性格が神的であり、又、聖化の方法が神的であるからです。
あなた方の先生は恐らく「公教要理」によって、あなた方が良く理解なさったかどうか試験なさると思いますが、もしあなた方がこの書に精通なさるなら(この書は実に面白いとお考えになると思いますが)、「公教要理」の中にある質問には曲りなりにお答えになることができましょう。

本著者はこの著作に御示し下さった御好意と、通信を以て講義に長らくの間賜った御監督とにつき、セントルイスの司祭L・J・ファロン師に非常に御世話になりました。
また本著者は、ファロン師の手で始められた本著作の進行に極めて惜しみなく資金を賜りました The Daughters of Isabella に、有難く思っています。

この書によつて神を更によく知り、更に多く愛さんことを求むるすべての人に、神の御祝福のあらんことを祈り、又、これに対してその人達も祈られんことを願いつつ……

著者 ノル大司教



【ノル大司教の経歴・仕事】

 ジョン・フランシス・ノール(1875年-1956年)は、アメリカ・インディアナ州の出身。1925年から1956年に亡くなるまで、ウェイン砦のカトリック 司教でした。彼は国立教会組織で活躍しました。1912年に彼は全国カトリック週刊新聞 OurSundayVisitorを設立しました。または地元の新聞と調整して多くの小教区で広く配布されるようになり、最も人気のあるカトリックのニュースウィークリーになりました。教皇ピオ十二世は、彼が大司教 区を率いたことがないという事実にもかかわらず、1953年に彼を大司教アドペルソナムに昇格させました; 大司教として、彼は準備神学校、いくつかの高校、孤児院を建設し、カトリック慈善団体のシステムを再編成しました。彼は全国レベルの主催者として活躍し、全国カトリック福祉会議の信徒組織局の議長を務めました。



目 次

緒 言

第一部 神の教会と教会の教え
00 初対面
01 キリスト教の基礎
02 人類の堕落と原罪
03 堕落後の人類を救済する神の御はからい
04 キリストの御生涯における主な出来事
05 キリストが真の神である証拠
06 「神の教会」 という正しい概念
07 聖書と教会との関係
08 キリストの教会は 「一つの檻(おり)、一つの牧者」 であらねばならぬ
09 真の教会は誤りに陥らぬ
10 「聖書のみ」 の主義では失敗する
11 カトリック教会が決定し得ないような事項は何人も決定し得ない
12 天国 ─ 神へ良く奉仕した者に与えられる褒賞
13 地獄 ─ 愉快ではないが道理至極のもの
14 煉獄 ─ 教会の教えの内で一番わかりよいもの

第二部 神の十戒と公教会(カトリック教会)の掟(以降現在作成中)
15 自罪
16 第一戒は形像の作成を禁ずるか
17 第一戒の禁止事項、聖人崇拝の意味
18 第二戒は何を禁じ、何を命ずるか
19 第三戒と安息日
20 第四戒の命令
21 第五戒は殺人だけを禁ずるのではない
22 第六戒と第九戒、貞潔に反する罪
23 第七戒と第十戒、正義と正直について
24 第八戒の説明
25 主日と祝日の守り方
26 大斎と小斎
27 教会の維持費
28 婚姻に関する掟

第三部 聖寵を受ける方法
29 成聖の恩恵
30 キリストの神秘体
31 洗礼
32 堅信の秘跡とは
33 御聖体、教会最大の宝物
34 ミサ聖祭(真実唯一の礼拝の形式)
35 聖体拝領
36 祭壇の司祭
37 ミサ聖祭のあずかり方
38 赦しの秘跡とその理由
39 赦しの秘跡を聖書で証明
40 痛悔と告白
41 免償
42 病者の塗油、死に臨んだ人のための秘跡
43 叙階、キリストの御事業を継ぐための秘跡
44 キリスト信者の婚姻は秘跡
45 準秘跡
46 祈祷の必要とそのお恵み
47 主祷文(主の祈り)と天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)

第四部 信心業と信心会

48 ロザリオ
49 十字架の道行き
50 聖体降福式
51 スカプラリオ会
52 祈祷の使徒会
53 黙想、九日間の祈祷
* カトリック以外では見落とし勝ちな聖句

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版』

 従来の「カトリックの教え」を修正・大幅加筆:
「公教要理」から、「最後の審判」まで70項にわかれて、詳しく説明されています。

求道者や入門者からベテランの方にまでわかりやすいと好評なカトリック要理(推薦)。
とても役立つ参考書籍などが脚注で多数紹介されています。

第1部 信経
第2部 秘跡
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
心のともしび「カトリック要理の友」
キリストの行いとみ教えは、言葉で、世代から世代へ、神の御助けによって教会の中に
伝えられてきました。これを聖伝といいます。聖書とこの聖伝がカトリック教会の
教えのもとになっています。このカトリック教会の教えは問答の形で、カトリック要理
という書物にまとめられています。その書物の中からこのカトリック要理のもっとも重要な
問答を簡単に説明していきたいと思います。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++
子どものカトリック要理
ネットで拾えるもう一つは「子供のカトリック要理」だ。
分かりやすく、子供用だからといって決して侮れない。これから勉強しようという
お年寄りなんかは、これくらい易しいほうがいいかもしれない。
(サイト:「神父の放言」:カトリック要理について)
光明社発行 ベネディクト富沢札幌司教認可(昭和三十五年(1960年)七月二十五日)


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【書籍のカトリック要理(公教要理)】

年代順

1.小学生用 教理問答   志村辰弥神父編著  中央出版社  1951年
2.カトリック要理(旧版) カトリック中央協議会 中央出版社 1960 年(オレンジ版)
.カトリック要理(改訂版)カトリック中央協議会 中央出版社  1972 年 (ピンク版)
.やさしい教理問答    志村辰弥神父編著   中央出版社  1975 年
.これだけは知っておきたい教理問答    志村辰弥神父編著   中央出版社 1986年(小学生向)
6.やさしい教理問答解説  志村辰弥神父編著   中央出版社  1991年
7.世の光イエズス・キリスト    イバニエス・
  「カトリック教会のカテキズム」 ラングロイス著  精道教育促進教会 1994年
  要約Q&A
.カトリックの教えー新カテキズムのまとめー ドミニコ研究所  1994年
9.カトリック教会のカテキズム 日本カトリック司教協議会   2002年 (原本)
10.カトリック教会の教え 新要理書編纂特別委員会       2003年
11.カトリック教会のカテキズム要約              2010年
   (コンペンディウム)
12.カトリック要理Q&A  大山 繁神父著   サンパウロ   2014年(総ルビ)
13.カトリックの信仰  岩下壮一神父著 ちくま学芸文庫  2015年


以上の書籍の番号がオレンジ色になっているものは、アマゾン通販で古本/新品のいずれかで
現在のところ(2021/03)購入可能です。
       


カトリック教理対話

2022-11-12 14:00:42 | 日記
『カトリック教理対話』ノル大司教/ファロン師共著
 1956年、中央出版社


緒 言

親愛なる皆様

この問答体の連続講義は、若き日に神の御教えを学ぶことができなかったカトリックの人達のために編んだものです。また、宗教上の教えと規律についてカトリック教会が公式に教えていることがらを、学びたいと望んでいられるカトリックでない人達のためにも役立つと思います。

 しかし、人は学問から集めた厖大な宗教上の知識をいくら持つても信仰がこれに伴わない、ということがあり得ることを決して忘れてはなりません──これは、信仰は超自然の秩序に属するものであり、又、神の賜物であるからです。自分達は真の信仰を所有していると確信しているカトリック信者は、神が自分達にこの御恵みを賜ったことをいつも全能の神に感謝し、そして、この感謝の念を、他の人々にも此の私達の宗教へ興味を持たすように努力することによって表わさなければなりません。神の特別の御恵みによりまして、真の信仰に回心された人達は、カトリックでない親しい人達にもこれを分ち得るように努力して、感謝を表わさなければなりません。

カトリックの人もカトリックでない人も、共に、キリストと人々の霊魂とのために、使徒的な働きをして、神が私達の極めて親しき人々を御許に引き給わんことを、日々に祈らねばなりません。こういうふうに祈りますと、不信心なカトリック信者は、神の聖寵によりまして、いよいよ自分の宗教に熱心でなければならなくなり、カトリックでない人達はより以上に神の教会の声に耳を傾けるようになることでしょう。

多数の人が抱いている偏見に拘らず、又、カトリック信者が暮して行かなければならない厳しい戒律に拘らず、カトリック教徒は他の全教会を合せたものよりも迅速に成長しています。

あなた方はこの御探求を御続けになるに従って、カトリックは、他の教会と本質的に異っている事を主張している、ということがお判りになりましょう。それは起原が神的であり、性格が神的であり、又、聖化の方法が神的であるからです。
あなた方の先生は恐らく「公教要理」によって、あなた方が良く理解なさったかどうか試験なさると思いますが、もしあなた方がこの書に精通なさるなら(この書は実に面白いとお考えになると思いますが)、「公教要理」の中にある質問には曲りなりにお答えになることができましょう。

本著者はこの著作に御示し下さった御好意と、通信を以て講義に長らくの間賜った御監督とにつき、セントルイスの司祭L・J・ファロン師に非常に御世話になりました。
また本著者は、ファロン師の手で始められた本著作の進行に極めて惜しみなく資金を賜りました The Daughters of Isabella に、有難く思っています。

この書によつて神を更によく知り、更に多く愛さんことを求むるすべての人に、神の御祝福のあらんことを祈り、又、これに対してその人達も祈られんことを願いつつ……

著者 ノル大司教



【ノル大司教の経歴・仕事】

 ジョン・フランシス・ノール(1875年-1956年)は、アメリカ・インディアナ州の出身。1925年から1956年に亡くなるまで、ウェイン砦のカトリック 司教でした。彼は国立教会組織で活躍しました。1912年に彼は全国カトリック週刊新聞 OurSundayVisitorを設立しました。または地元の新聞と調整して多くの小教区で広く配布されるようになり、最も人気のあるカトリックのニュースウィークリーになりました。教皇ピオ十二世は、彼が大司教 区を率いたことがないという事実にもかかわらず、1953年に彼を大司教アドペルソナムに昇格させました; 大司教として、彼は準備神学校、いくつかの高校、孤児院を建設し、カトリック慈善団体のシステムを再編成しました。彼は全国レベルの主催者として活躍し、全国カトリック福祉会議の信徒組織局の議長を務めました。



目 次

緒 言

第一部 神の教会と教会の教え
00 初対面
01 キリスト教の基礎
02 人類の堕落と原罪
03 堕落後の人類を救済する神の御はからい
04 キリストの御生涯における主な出来事
05 キリストが真の神である証拠
06 「神の教会」 という正しい概念
07 聖書と教会との関係
08 キリストの教会は 「一つの檻(おり)、一つの牧者」 であらねばならぬ
09 真の教会は誤りに陥らぬ
10 「聖書のみ」 の主義では失敗する
11 カトリック教会が決定し得ないような事項は何人も決定し得ない
12 天国 ─ 神へ良く奉仕した者に与えられる褒賞
13 地獄 ─ 愉快ではないが道理至極のもの
14 煉獄 ─ 教会の教えの内で一番わかりよいもの
第二部 神の十戒と公教会(カトリック教会)の掟
15 自罪
16 第一戒は形像の作成を禁ずるか
17 第一戒の禁止事項、聖人崇拝の意味
18 第二戒は何を禁じ、何を命ずるか
19 第三戒と安息日
20 第四戒の命令
21 第五戒は殺人だけを禁ずるのではない
22 第六戒と第九戒、貞潔に反する罪
23 第七戒と第十戒、正義と正直について
24 第八戒の説明
25 主日と祝日の守り方
26 大斎と小斎
27 教会の維持費
28 婚姻に関する掟

第三部 聖寵を受ける方法
29 成聖の恩恵
30 キリストの神秘体
31 洗礼
32 堅信の秘跡とは
33 御聖体、教会最大の宝物
34 ミサ聖祭(真実唯一の礼拝の形式)
35 聖体拝領
36 祭壇の司祭
37 ミサ聖祭のあずかり方
38 赦しの秘跡とその理由
39 赦しの秘跡を聖書で証明
40 痛悔と告白
41 免償
42 病者の塗油、死に臨んだ人のための秘跡
43 叙階、キリストの御事業を継ぐための秘跡
44 キリスト信者の婚姻は秘跡
45 準秘跡
46 祈祷の必要とそのお恵み
47 主祷文(主の祈り)と天使祝詞(アヴェ・マリアの祈り)

第四部 信心業と信心会

48 ロザリオ
49 十字架の道行き
50 聖体降福式
51 スカプラリオ会
52 祈祷の使徒会
53 黙想、九日間の祈祷
* カトリック以外では見落とし勝ちな聖句

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)第1版』

2022-11-12 14:00:19 | 日記
『尾崎明夫神父のカトリックの教え(公教要理詳説)  第1版 第1部  信経 :  第2部 秘跡』

従来の「カトリックの教え」を修正・大幅加筆:
 第1部 信経「公教要理」から、「最後の審判」まで70項にわかれて、
 詳しく説明。

 第2部 秘跡全般「洗礼」から「堅信」「聖体」「ミサ」までを詳説。

求道者や入門者からベテランの方にまでわかりやすいと好評な
Webカトリック要理(推薦)。
 とても役立つ参考書籍などが脚注で多数紹介されています。
信仰上の疑問にぶつかったときなど大きな助けとなってくれるでしょう。
詳細な目次もついてあり、事典としてもお使いください。

第1部 信経

第2部 秘跡
(2022/08/21よりWEB公開開始)

尾崎神父のカトリックの教え第2部「秘跡」 に加筆された改訂版が公開! 「少しでもカトリックの教えに関心の ある方々がこの要理で
カトリックの信仰が 論理的に堅固であり十分に説得的であることを
 理解してもらえば本望です」(尾崎神父談)

尾崎明夫神父のカトリックの教え (公教要理詳説)第2部 秘跡 は
大人の生涯要理学習として最適! 各章を読むごとに目から鱗が
落ちる気が します。天国が読むごとに近くなって ゆくような気がします』

内容: (1)ゆるしの秘跡 (2)究明(3)痛悔(4)告白 
   (5)償い(6)免償(7)病者の塗油
(これで、すこしでも多くの人々が天国へ歩み始めるすばらしい糧
 となることでしょう。)

(拡散希望!)🌹 🕯✞🕯 📿


『教理対話』目次10「聖書のみ」の主義では失敗する

2022-11-12 13:59:49 | 日記
目次 10「聖書のみ」の主義では失敗する

神父 
昨日は御ミサにお出でになりましたか?

青年 
ええ、参りました。ですが、神父様、何だか良くわかりませんでした。教会の教えを理解することよりも、聖祭の意味を知ることの方が、ずっとむずかしいですね。

神父 
まあ、余りせかないで下さい。この講義が進んでゆけば、そのうちに御ミサの意味がわかりますよ。

青年 
そうならいいです。

神父 
教会が、信仰または道徳に関する問題を決定する場合、教会の宣言は不謬でなければならない、ということがわかりましたね。不謬でないとすれば、「教会に聴け」というキリストの御言葉に従う無数の人は、誤りに導き入れられるかもしれません。この不謬性が必要であるということは、十分お判りですね。

青年 
ええ、神父さん、もし教会の言葉が最終的且つ不謬のものでないとしますと、多くの人を同じ信仰に一致させるということは、とてもできません。国には最高の法廷があり、国民はこれに論争の問題を持ち出して最終の決定を仰ぎ、訴訟の関係者はその判決に従わなければなりません。教会においては、こういう法廷は尚更に必要だと思います。論争になる問題が多いのですから。

神父 
その通りです。意味のぼんやりした憲法の条文の正しい意味を最高裁判所が決めてくれなければ、どうなりますか? 政府が憲法の写を各家庭に配り、人々がこれを読んでその解釈するままにこれを適用して構わないということにしたら、どうなりますか。その或る条項に幾百という違った意見が存在し、国家がすべての法律家やその他の人々に、そういう意見を支持させ、また行動させるとしたら、どうでしょう。全くいけないことになります。もはや国家はなくなって、国内に大混乱が起ります。

青年 
ほかの教会はそういう宗教上の原則(権威ある解釈)を守っていますか?

神父 
大概守っています。正教会(ギリシヤ)と高教会 [1](アングリカン)は、その信仰箇条の大部分──これはカトリックと一致しています──を、初代の六回の一般公議会の決定に従って守っています。ですが、この会議は教皇やその代理者が主宰していたものです。ルーテル派の人々は「聖書のみ」の主義を信奉していますが、その大部分の人は自分達の信仰を、教区附属学校が明確に教えている一つの説に引き下げてしまいました。その他の人は聖書を家庭におくということを信仰して、すべての人にこれを自分勝手に解釈させています。この不合理な主義は、キリスト教を数限りない分派に引き裂いてしまったのですが、今も相変らす主張されています。この主義に基いて行動していると、牧師でさえ自分の正しいことがはっきりわからなくなります。つい先ほど、私は或る牧師の協会の会合に出席しまして、聖書に対するカトリック教会の態度を説明しました。そして、その人達に二三の問題を尋ねてみました。聖書を手に取り上げて、皆さんはこれは神の御言葉であるということを信じますか、と尋ねました。九つの異った教派を代表する牧師さん達は、「そう、私達は信じます」といいました。それで私は「私もこの書は始めから終りまで神の御言葉であることを信じますが、どうしてあなた方にもこの本全体が信じられるのですか、教えて下さい」と答えましたところ、「どうしてですか」とその人達は尋ねました。私はこれに、「そうですね、あなた方は、どの書物の内容が神感によるものであるということを、カトリック教会の権威によらないで、ほかの方法で証明して下さいませんか? ところで、カトリック教会がこの書物が神感によると主張する場合、カトリック教会は不謬であるかないかのどちらかです。もし不謬でないとしますと間違いをしているかも知れません。教会が不謬でないとすれば、あなた方には、この書物が神の御言葉であるかないかということがわからないはずです」と申しました。

青年 
そのお話にその人達はどういいましたか?

神父 
その中の一人は、「なあに、神感を受けているということは、その文章の特徴を見れば、はっきりしている」と云いました。私はこれに答える代りにその本を開いて、旧約聖書の中から、外観上、悪魔が作ったのではないかと思われるところを読みました。そして、マホメット教徒が神感によってできたと思っているコーランの中にも、非常に教訓になる文がある、ということを話しました。モルモン教信者が尊んでいる「スミスのお告」も同じようなものなのです。そういう書物が「神の御言葉」であるとは、その牧師達は決して認めはしないでしょうが。

青年 
それで、牧師達はどう云いましたか。

神父 
黙っていました。ですが、その中の一人が、話題を転じようとして、多分、私をやりこめようとしたのでしょうが、カトリックの正典に「偽経」は入ってないか、と尋ねました。

青年 
神父さんは前にも、聖書のそのことをお話しになりましたが、「正典」(カノン)とか「偽経」(アポクリファ)とかいうのは何ですか。

神父 
プロテスタントは、旧約聖書中の或る部分は神感によるということが疑わしいとし、その部分を「偽経」だと考えています。それから、「正典」というのは、教会が聖書の内に入ると公認した書き物の、目録乃至はその集成のことです。

青年 
それで、神父さんはどうお答えになられたのですか?

神父
プロテスタントの人達は、もしカトリック教会の不謬性を否定するならば、プロテスタント聖書は全部「偽経」になる。なぜなら、プロテスタントの人達が神感の書であると認めている書を神の御言葉であると断言したと同じ声が、私達のほうの他の七書も同じように神感によるものであると断言しているのですから、と私は申しました。辻つまを合せるためには、彼等は聖書全体を認めなければなりません。

青年 
彼等は納得しましたか?

神父 
それ以上質問しませんでしたから、納得したようです。ですが、私が少し質問をしました。

青年 
何を質問されたのですか?

神父 
先ず第一に、あなたがたは「聖書のみ」が信仰の基準であると、本当に信じているのかと尋ねました。その中の三人が「その通りです」と答えました。それで、私はなぜあなたがたは聖書通りに土曜日を守ろうとせずに日曜日を守っているのか、なぜ救霊のため洗礼が絶対的に必要であることを信じないのか、どうして聖油で病人をきよめないのか、なぜ離婚後の再婚を認めるのか、聖ペトロが聖書の「私的解釈」に反対して宣言したことはどういう意味であるか(ペトロ後一〜二〇)、聖パウロが、我等より受けし伝えを守るべしといったのはどういう意味か(テサロニケ後二ノ一四、三ノ六)、「教会に聴け」(マタイ一八ノー七)とか「汝等を軽んずる人は我を軽んずるなり」(ルカ一〇ノ一六)というキリストの御言葉はどういう意味か、自分の教えに違うとは天よりの使であれ詛われよと言った聖パウロの言葉(ガラチア一ノ八)はどういうことか、謬りより教会を守らんというキリストの明白な御約束に反して、教会が謬りに陥る、ということはどうして云えるか(マタイ一八ノ二〇、マタイ一六ノ一八、ヨハネ一四ノ一六、ヨハネ一六ノ一三、チモテオ前三ノ一五)神の御名において罪を赦す権能をどういう根拠で否定するか(マタイ九ノ六、ヨハネ二〇ノ二三、マタイ一八ノ一八)、なぜ婚姻を秘跡としないのか(エフェゾ五ノ三二)、などと尋ねました。

青年 
あなたは彼等が聖書に従っていない点を指摘なさったのですね。

神父 
それから私はその牧師達に向って「あなた方が九つの相異る教派の牧師さんとして、ここに出席していられることは、とりも直さず、皆さんが聖書を同じように理解していられない、ということを表しています。また、皆さんの議論により、皆さんは、夫々御自分の信仰を正しいと確信してはおいでにならないということがわかります」と申しました。

青年 
それに対してその人達はどう云いましたか。

神父 
ひとりの人は、「それはそうですが、研究の点では、私達は真面目で率直です。私達は意味の明白でない事について、意見を交換するために会合をします」と云いました。私は微笑して、「それではあなた方が意味を確信しないのでしたら、神感の書物があった所で何の役にたちますか。キリストは「真理を知らしむべし」と明白に申され、「求むべし」とは云われませんでしたよ」と答えました。そして、私は、あなた方は呼名はともかく、どうしても教皇のような人が必要であると話しまして、「これ我が体なり」というキリストの短いお言葉の正しい意味を、一人一人に尋ねてみましたところ、九人の間に全く違った四つの意見がでました。私は、この点につき正しい信仰は非常に重要です。キリストのおっしゃった意味は御言葉通りであるとしたらどうですか、と注意しておきました。帰る前に、「皆さん、あなた方の『聖書のみに頼り、私的に解釈する』という主義は、たしかに弱点があります。争いのもとです。あなた方は、『誤りにおちぬよう神が守り給う教会に聴け』という主義を尊重なさったらどうですか、その方がずっと安全ではないですか」と私は言い切っておきました。

管理人注
[1] 聖公会には、カトリック的な要素の強いハイ・チャーチ(高教会)とプロテスタント的な傾向を持つロー・チャーチ(低教会)の二つの流れがあるということです。

(目次11につづく)
 ➡目次に戻る  https://blog.goo.ne.jp/eiennomisa/e/64524e64257cc8eeaebd3b1e23df8420


『教理対話』目次10「聖書のみ」の主義では失敗する

2022-11-12 13:59:29 | 日記
目次 10「聖書のみ」の主義では失敗する

神父 
昨日は御ミサにお出でになりましたか?

青年 
ええ、参りました。ですが、神父様、何だか良くわかりませんでした。
教会の教えを理解することよりも、聖祭の意味を知ることの方が、
ずっとむずかしいですね。

神父 
まあ、余りせかないで下さい。この講義が進んでゆけば、
そのうちに御ミサの意味がわかりますよ。

青年 
そうならいいです。

神父 
教会が、信仰または道徳に関する問題を決定する場合、教会の宣言は
不謬でなければならない、ということがわかりましたね。不謬でないとすれば、
「教会に聴け」というキリストの御言葉に従う無数の人は、誤りに
導き入れられるかもしれません。この不謬性が必要であるということは、十分お判りですね。

青年 
ええ、神父さん、もし教会の言葉が最終的且つ不謬のものでないとしますと、
多くの人を同じ信仰に一致させるということは、とてもできません。国には
最高の法廷があり、国民はこれに論争の問題を持ち出して最終の決定を仰ぎ、
訴訟の関係者はその判決に従わなければなりません。教会においては、こういう
法廷はなおさらに必要だと思います。論争になる問題が多いのですから。

神父 
その通りです。意味のぼんやりした憲法の条文の正しい意味を最高裁判所が
決めてくれなければ、どうなりますか? 政府が憲法の写を各家庭に配り、
人々がこれを読んでその解釈するままにこれを適用して構わないという
ことにしたら、どうなりますか。その或る条項に幾百という違った意見が
存在し、国家がすべての法律家やその他の人々に、そういう意見を支持させ、
また行動させるとしたら、どうでしょう。全くいけないことになります。
もはや国家はなくなって、国内に大混乱が起ります。

青年 
ほかの教会はそういう宗教上の原則(権威ある解釈)を守っていますか?

神父 
大概守っています。正教会(ギリシヤ)と高教会 [1](アングリカン)は、
その信仰箇条の大部分──これはカトリックと一致しています──を、
初代の六回の一般公議会の決定に従って守っています。ですが、この会議は
教皇やその代理者が主宰していたものです。ルーテル派の人々は「聖書のみ」
の主義を信奉していますが、その大部分の人は自分達の信仰を、教区附属学校が
明確に教えている一つの説に引き下げてしまいました。その他の人は聖書を家庭に
おくということを信仰して、すべての人にこれを自分勝手に解釈させています。

この不合理な主義は、キリスト教を数限りない分派に引き裂いてしまったのですが、
今も相変らす主張されています。この主義に基いて行動していると、牧師でさえ
自分の正しいことがはっきりわからなくなります。つい先ほど、私は或る牧師の
協会の会合に出席しまして、聖書に対するカトリック教会の態度を説明しました。
そして、その人達に二三の問題を尋ねてみました。聖書を手に取り上げて、
皆さんはこれは神の御言葉であるということを信じますか、と尋ねました。

九つの異った教派を代表する牧師さん達は、「そう、私達は信じます」といいました。
それで私は「私もこの書は始めから終りまで神の御言葉であることを信じますが、
どうしてあなた方にもこの本全体が信じられるのですか、教えて下さい」と
答えましたところ、「どうしてですか」とその人達は尋ねました。私はこれに、
「そうですね、あなた方は、どの書物の内容が神感によるものであるということを、
カトリック教会の権威によらないで、ほかの方法で証明して下さいませんか?

ところで、カトリック教会がこの書物が神感によると主張する場合、カトリック教会は
不謬であるかないかのどちらかです。もし不謬でないとしますと間違いをしているかも
知れません。教会が不謬でないとすれば、あなた方には、この書物が神の御言葉で
あるかないかということがわからないはずです」と申しました。

青年 
そのお話にその人達はどういいましたか?

神父 
その中の一人は、「なあに、神感を受けているということは、その文章の特徴を見れば、
はっきりしている」と云いました。私はこれに答える代りにその本を開いて、
旧約聖書の中から、外観上、悪魔が作ったのではないかと思われるところを読みました。
そして、マホメット教徒が神感によってできたと思っているコーランの中にも、
非常に教訓になる文がある、ということを話しました。モルモン教信者が尊んでいる
「スミスのお告」も同じようなものなのです。そういう書物が「神の御言葉」
であるとは、その牧師達は決して認めはしないでしょうが。

青年 
それで、牧師達はどう云いましたか。

神父 
黙っていました。ですが、その中の一人が、話題を転じようとして、
多分、私をやりこめようとしたのでしょうが、カトリックの正典に
「偽経」は入ってないか、と尋ねました。

青年 
神父さんは前にも、聖書のそのことをお話しになりましたが、
「正典」(カノン)とか「偽経」(アポクリファ)とかいうのは何ですか。

神父 
プロテスタントは、旧約聖書中の或る部分は神感によるということが疑わしいとし、
その部分を「偽経」だと考えています。それから、「正典」というのは、
教会が聖書の内に入ると公認した書き物の、目録乃至はその集成のことです。

青年 
それで、神父さんはどうお答えになられたのですか?

神父
プロテスタントの人達は、もしカトリック教会の不謬性を否定するならば、
プロテスタント聖書は全部「偽経」になる。なぜなら、プロテスタントの
人達が神感の書であると認めている書を神の御言葉であると断言したと同じ声が、
私達のほうの他の七書も同じように神感によるものであると断言しているのですから、
と私は申しました。つじつまを合せるためには、彼等は聖書全体を認めなければなりません。

青年 
彼等は納得しましたか?

神父 
それ以上質問しませんでしたから、納得したようです。ですが、私が少し質問をしました。

青年 
何を質問されたのですか?

神父 
先ず第一に、あなたがたは「聖書のみ」が信仰の基準であると、本当に
信じているのかと尋ねました。その中の三人が「その通りです」と答えました。
それで、私はなぜあなたがたは聖書通りに土曜日を守ろうとせずに日曜日を
守っているのか、なぜ救霊のため洗礼が絶対的に必要であることを信じないのか、
どうして聖油で病人をきよめないのか、なぜ離婚後の再婚を認めるのか、
聖ペトロが聖書の「私的解釈」に反対して宣言したことはどういう意味であるか
(2ペトロ1〜20)、聖パウロが、我等より受けし伝えを守るべしといったのは
どういう意味か(1テサロニケ2-14、3-6)、「教会に聴け」(マタイ18-17)とか
「汝等を軽んずる人は我を軽んずるなり」(ルカ10-16)というキリストの
御言葉はどういう意味か、自分の教えに違うとは天よりの使であれ呪われよと言った
聖パウロの言葉(ガラテア1-8)はどういうことか、誤りより教会を守らんという
キリストの明白な御約束に反して、教会が謬りに陥る、ということはどうして云えるか
(マタイ18-20、マタイ16-18、ヨハネ14-16、ヨハネ16-13、1テモテ3-15)
神の御名において罪を赦す権能をどういう根拠で否定するか(マタイ9-6、ヨハネ20-23、
マタイ18-18)、なぜ婚姻を秘跡としないのか(エフェソ5-32)、などと尋ねました。

青年 
あなたは彼等が聖書に従っていない点を指摘なさったのですね。

神父 
それから私はその牧師達に向って「あなた方が九つの相異る教派の牧師さんとして、
ここに出席していられることは、とりも直さず、皆さんが聖書を同じように
理解していられない、ということを表しています。また、皆さんの議論により、
皆さんは、御自分の信仰を正しいと確信してはおいでにならないということが
わかります」と申しました。

青年 
それに対してその人達はどう云いましたか。

神父 
ひとりの人は、「それはそうですが、研究の点では、私達は真面目で率直です。
私達は意味の明白でない事について、意見を交換するために会合をします」と
云いました。私は微笑して、「それではあなた方が意味を確信しないのでしたら、
神感の書物があった所で何の役にたちますか。キリストは「真理を知らしむべし」
と明白に申され、「求むべし」とは云われませんでしたよ」と答えました。

そして、私は、あなた方は呼名はともかく、どうしても教皇のような人が必要で
あると話しまして、「これ我が体なり」というキリストの短いお言葉の正しい意味を、
一人一人に尋ねてみましたところ、九人の間に全く違った四つの意見がでました
。私は、この点につき正しい信仰は非常に重要です。キリストのおっしゃった意味は
御言葉通りであるとしたらどうですか、と注意しておきました。帰る前に、
「皆さん、あなた方の『聖書のみに頼り、私的に解釈する』という主義は、
たしかに弱点があります。争いのもとです。あなた方は、
『誤りにおちぬよう神が守り給う教会に聴け』という主義を尊重なさったらどうですか、
その方がずっと安全ではないですか」と私は言い切っておきました。

管理人注
[1] 聖公会には、カトリック的な要素の強いハイ・チャーチ(高教会)と
プロテスタント的な傾向を持つロー・チャーチ(低教会)の二つの流れがあるということです。

(目次11につづく)
 ➡目次に戻る  https://blog.goo.ne.jp/eiennomisa/e/64524e64257cc8eeaebd3b1e23df8420