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『教理対話』目次13 地獄 愉快ではないが道理至極のもの

2022-11-12 13:57:29 | 日記

目次13 地獄 愉快ではないが道理至極のもの

神父 
この前の講義で私達は、恩恵の状態で死ぬ人々に最後の褒賞として与えられる
天国のことを勉強しましたが、今度は、大罪の状態で死ぬ人々に課される罰の
ことをお話しなければなりません。神の正義と、大罪の本当の性質を考えますと、
考えれば考えるほど「エホバを畏るることは智慧の根本なり」
(箴言9-10)という聖書の言葉の事実であることがよく判ります。

青年 
カトリック教会は ----- これはある教会の説なんですが、----- どんな人でも亡びぬ
という意味で、「きよめられる」ということを信じないのですか?

神父 
そうです。聖パウロは「自分は如何なることも(いかなる罪も)自ら意識しない。
しかし、このことにおいて自分は義とせられぬ」と、パウロでさえ自分の救霊に
ついての絶対的な確信を持たぬ、といっています。また、聖書のほかのところには、
何人も己が(神に)愛さるべきものなりや憎まるべきものなりやは知らずとあります。
未来において私達が神の恩恵に一致するだろうか、ということは私達に確かには
わかりません。しかし、聖書は「終まで(正しい生活に)耐え忍ぶ人は救わるべし」
と、私達に教えています。

青年 
では、神父さん、カトリック教会は、地獄についてどういうことを教えているのですか?

神父 
教会は、① 地獄は存在する、② 地獄は永遠につづく、③ 地獄に落された人は怖しい
二重の罰を受ける(すなわち、神を見奉ることを禁じられ、苦痛、ことに火の苦しみを受ける)
と教えています。

青年 
地獄と天国とまるきり反対なんですね。

神父 
そうです。天国の聖人達は神を見奉り、あらゆる種類の苦しみや悩みを免れ、
道理にあった望みはすべてかなえられ、喜びを失う心配は全然ありません。
これに反し、地獄の霊魂は神を見奉ることをえず、烈しい苦しみを受け、
そこから放たれる望みは少しもないのです。

青年 
教会の不謬性に対する信仰がありませんと、永遠の罰に関する教会の教えは、
一番納得しにくい教えでしょうね。私は今の今まで、いつも神は寛大ないつくしみ
深い御方であると思っていました。

神父 
異論は遠慮なくおっしゃって下さい。あなたの異論が、正しい道理や常識に
合うかどうか調べてみましよう。

青年 
では、ます第一に、神がそれほどきぴしく人間を罰し給うということを信ずるのは、
いやな感じがします。

神父 
だが、事実を、隠さずに考えてみましょう。主は、最后の審判の時に、
「来たれ我父に祝せられたる者よ、世界開闢(かいびゃく)より汝等の為に
備えられたる国を得よ。・・のろわれたる者よ、我を離れて・・永遠の火に入れ」
と言わんと、はっきり私達に言っていられますね(マタイ25-34〜46)。
主のおっしゃいました褒賞が永遠であれば、罰も永遠でなければならない
ということは、あなたも同意なされるでしょう。神があふれるほどの褒賞を
なし給うと信じるのは、変ですか。

青年 
いいえ、神父様。神が非常にいつくしみ深いお方で、万物をお創りになり、
ことに御託身(たくしん:受肉)により人類の罪を贖われたほどですから。

神父 
たしかに神はいつくしみ深いお方です。教会の教えは大部分主の慈悲の記録です。
ですが、悔い改めない罪人に、警告が沢山書かれているのはどうしてでしょう。
善人となるために守らなければならないことを、しきりに私達にお教えになった
のはなぜでしょう。神の御子が人になられましたのは、どういうわけですか。
なぜ主は苦しまれ、あのように御生命を捧げ給うたのですか。これらは、
すべて私達に賜った主の限りない御慈愛の玄義(げんぎ:奥義)です。
私達を無限の応報から救うためでないのでしたら、こういう御慈愛の
あらわれがあるはずがないでしょう。主の善は無限、即ち限りがありませんから、
主は善人に永遠の褒賞(ほうしょう)を与えるのです。そう思いませんか。

青年 
そう思います。

神父 
ですから、主は永遠に悪人を罰し給わなければなりません。それは主の正義は無限、
即ち限りがないからです。神の御本質はすべて同等に限りがありません。
神は悪に対しましても善徳に対しても、無関心でいらっしゃれないのです。

青年 
実に理にかなったお話ですね。

神父 
極めてありふれた場合を考えてみましょう。追はぎが一人の男を襲って頭に
拳銃をつきつけ、金を要求したとします。盗むとか、(必要あらば)殺すとかいう
意志で襲ったのですが、逆に「襲われた」人がこの賊をやっつけて、その場で射殺
したとしましょう。追はぎは、神の御前で盗みと殺人の罪を抱いて、全然悔い改める
暇もなく、あの世に行きます。この人は永遠の褒賞を受けることはないでしょう。

青年 
ないに決まっています。

神父 
では、地獄の外に行くべき所はありません。天国から閉め出されるということは、
地獄の中でも一番つらいことです。もしこの閉め出しが永久のものでなければ、
その人はいつかは救われます。地獄の罰が永遠でなければ、悪人は、責任を神に
なすりつけることができます。つまり、神が色々な掟で、「汝はこうせよ、ああするな」
と命ずることはできますが、罪人は「私はこうしません、一生ああします。でも、
あなたは私を救うほかありません、私の霊魂は不滅であり、地獄は永遠ではないからです」
と言い張ることができるからです。無数の罪人は、こういうように神を無視した行いを
しています。

青年 
まったくです。

神父 
地獄の問題を考える場合、人々は理性よりもむしろ感情に支配されがちです。
神の御慈悲ばかりあてにし勝ちで、神の厳正なる事は、我がまま勝手な無責任な
自分の生き方に有難いことでないのですから、神の厳正については目を閉じがちです。

ところがその同じ人間が、自分に対する加害者を扱う段になると、厳正に扱います。
 他人があなたの娘さんを襲ったらどうですか? リンドバーグ(注)の子供が、悪人にさらわれて殺された時、アメリカ人はみな「地獄もこのギャング団には
よすぎる」といいました。人間の裁判に従っても、殺人の罪を犯した者は、永遠に人間の
仲間から棄てられます。人間の裁判は、できるだけ長期の刑罰を課そうとします。
法律は重い罪人をできるだけ長く罰します。人間は慈悲を施すよりも、正義を貫き
たがるものですから、勝手な成敗を下し、犯人に「リンチ」(私刑)をします。

私達は、ただ神の御為に創造され、神にお仕えするためにこの世に送られたのであり、また、
神の恩恵に助けられれば罪を避けることも、天国に入ろうと努めれば天国へ入れて頂けるよう
招かれているのですから -----「必要なる唯一つのこと」(即ち、神の国とその義を求めること)
をよそにして、不必要なことにあくせくしているならば、「無益なる下僕」として
投げ捨てられるのは、当然ではありませんか。

青年 
当然です。

神父 
人間が地獄に落ちるのを自分で避けることができないのでしたら、神は残酷であり、
 また、永遠の地獄は不合理でしょう。しかし、罪人が亡びるのは、
 全くその人自身の罪によるのです。
犯罪者が自分の犯罪のために
刑務所に行くのと同じょうに、地獄に落ちる者は、己の罪のために地獄に落ちるのです。
罪を持ったままの状態で死ぬ人は、永遠に神の御慈悲を拒む状態(地獄)に落ちます。
神は罪人を救うために、十分過ぎるほどのことをなさいました。罪人に救霊を
もたらし給うために、むごたらしい死を御受けになりました。

しかし、人間から自由意志をお奪いにはなりません。善人は地獄を怖れません、
地獄に落ちまいとして固い決心をしているからです。わが国に刑務所が沢山あっても、
あなたや私は刑務所に入らないつもりですから、刑務所のことが少しも気にかからない
のと同じです。地獄は神の掟の違反者のためにあります。刑務所が国の法律の違反者の
ためにあるのと同じです。正しい人は地獄にも刑按所にも入らずにすみます。
一体、不正が人間の不正でなければ、どこに不正というものがあり得ますか。

青年 
人間以外には不正はありません。

神父 
さて、地獄の問題につきまして、聖書の言っていることを引用して見ましょう。
マタイ聖福音書の第25章第41節に、公審判の時にキリストが御自ら罪人に向って
いわれる「呪われたる者よ、我を離れて永遠の火に〔入れ〕」という御言葉が
記されています。この御宣告は、私がお話した地獄についての教会の教えの三つの
点を表しています。「我を離れて」は地獄の一番ひどい罰 ----- 神よりの分離を、
「火に〔入れ〕」は苦しみを、「永遠」はその罰の永久であることを表しています。
この同じ真理が「富豪とラザル」の例話(ルカ16-19〜31)の中に明瞭にのっています。
救世主の申されるには、「富豪も亦死して葬られ」、そこで彼は「我はこの炎の中に
いたく苦しんでいる」から、水を少し与え給え、とアブラハムに哀願しました。
しかし、アブラハムは「我等と汝等との間には大いなる淵の定め置かれたれば、
ここより汝等の処へ渡らんと欲するもかなわず、そこよりここに移る事もかなわざるなり」
と答えました。ですから、このたとえ話は地獄の存在と苦痛と永遠を強調しています。

青年 
では、カトリック教会は、地獄に火のあることを本当に信じているのですか?

神父 
教会は、この世にあるような現実の物理的な火があるとは、信仰箇条の中に
規定していませんが、地獄の火は真であるという信仰を強く有しています。
それは新約聖書の中に、地獄の苦しみの原因として「火」のことが三十回も
述べられているからです。「永遠の火」(マタイ25章)「滅(き)えざる火」
(マルコ9-42)「火の窯」(マタイ13章)「火の満つる谷」「焼きつくす火」
(イザヤ)等と言われています。「我を離れて火に〔入れ〕」という主の御言葉
の中に、真の火が暗示されています。主が「想像上の火」を言われたに過ぎないと
したところで、どうでしょう? 些かの慰めも罪人に与えられるとは思いません。
「火」という形容は、やはり、地獄の苛責は火のように怖しい、という意味を
表わすからです。かりにあなたが、歯が火のように痛い、とおっしゃる場合、
私が「でも、火ではないはずです」と慰めて云ったところで、あなたは
楽にならないでしょう?

青年 
なりません。つらいのは同じことです。

神父 
処罰の方法は神の自由な意志によって決まります。一旦火とお決めになりますと、
どれほど人間が抗議しても、どうにもなりません。ですが、火の苦しみがどれほど
怖しいものであっても、罪の結果神を見奉り得ぬということから起る苦しみの方が
比較にならないほどひどいということを忘れてはいけません。

(目次15 につづく)

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(注)1902年 - 1974年)は、アメリカ合衆国の飛行家で、
1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機で
ニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功。1931年には
北太平洋横断飛行にも成功した。1932年3月1日に1歳8か月の長男ジュニアが自宅から
誘拐され、現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残されていた。10週間に及ぶ
探索と誘拐犯人との身代金交渉の後に、5月12日、ニュージャージー州ホープウェルで
死んでいるのが見つかった(リンドバーグ愛児誘拐事件)。


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