カトリック要理(公教要理)のご案内

カトリックの入口「カトリック要理」への熱い期待が近年高まっています。
そこでWEB要理や古本も含めて紹介します。

目次 11 カトリック教会が決定し得ないような事項は何人も決定し得ない

2022-11-12 13:59:10 | 日記
目次 11 カトリック教会が
 決定し得ないような事項は何人も決定し得ない

神父 
さて、この前の講義はどこで終ったのですかね。

青年 
いわゆる「聖書のみ」の主義と教皇の不謬性のことをお話しになりました。
聖ペトロはローマに居たことはないという話はどうですか?

神父 
ばかげたことです。十九世紀までの歴史家は、誰一人としてそういう非難を
しようとしたものはいません。教会最大の敵でさえも、しませんでした。
今日でも有名な歴史家はみんな、ペトロはローマの司教で、聖パウロといっしょに
そこで殉教した、ということを認めています。かりに彼がローマの司教でなかったと
いうことが事実だとしましても、それがどういう証明になるのですか? 論争点は、
彼はキリストから教会の可見的な頭に任じられたか、というところにあります。
エルサレムに居たか、ローマにいたかということは問題ではありません。
その死後数年にしてその後継者がローマに移ったのでしたら、それ以後の
ローマの司教は彼の後継者です。
合衆国政府の所在地はフィラデルフィアからワシントンに移転しましたが、
ワシントンに住んでいる大統領はジョージ・ワシントンの後継者です。

青年 
もちろん、居住の場所は要素ではありません。ですが、教皇の中にはよくない人がいた、
というのは本当ですか。

神父 
非常に稀なので、かえって目だつのです。ことに、中世時代に悪い王や皇帝達が、
自分達の邪魔にならない教皇を選挙させるために、一生懸命だったという事情を
考えに入れなければなりません。信仰のために殉教した教皇が四十人もおり、
およそ九十人の教皇が聖人に列せられています。かりに教皇の十二分の一が
個人的に悪い人だったとしても、キリスト御自ら選ばれ率いられていた十二使徒の内
からも一人悪い人が出たのに比べて、その比率は悪いと云えません。モーゼは
旧約時代の主の民の指導者として神のお選びになった人で、主は親しくこの人
と語り給い、この人を通じて主の掟を世にお与えになりましたが、罪を犯したため、
「約束の地」におもむくという希望を取り消される罰を受けました。

しかし、それでも、モーゼは地上における神の代理者であることには
変りはありませんでした。(出エジプト記一八ノ一五)イエスの処刑に関係した
カヤファでさえユダヤ人にとり神の代理者でした(ヨハネ11-49〜50)
主は律法学者とファリサイ人の欠点をお責めになりましたが、民衆に向っては、
彼等は「モ-ゼの講座に坐せり」されば彼等の教に聴け、といわれました(マタイ23-2〜3)

教会は神の御業であり、世の終りまでキリストは共に居るべしと御約束なさいましたし、
また、聖霊が教会の超自然の生命の要素でありますので、教会は聖でなければなりませんが、
この構成員は人間であり、その意志を強いて神の掟を守らせることはできません。

青年 
聖霊と教会の関係について今神父さんは何とおっしゃったのですか。

神父
聖霊はキリストの霊であり、聖父の霊であり、三位一体の第三のペルソナですが、
その聖霊が教会に超自然の生命を与えています。これは聖霊降臨の第一回の
日曜日以来主のなし給う所で、世の終りまで変ることはない、と申し上げたのです。

青年 
ですが、教会の構成員は自由意志を有する人ですから、その多くの人は、
神の恩恵があるにせよ、罪を犯さずにすむでしょうか。

神父 
罪を犯します。キリストは教会を、刈入れ前の小麦と毒麦が一緒に生えている畑や、
良き魚と悪しき魚をいれてある網にたとえられました。全体としての教会は聖であります。
全体として見れば教皇は世界で一番聖なる方々であります。なぜ世の人は三人四人の
聖でない人を以てキリストの代理者(教皇)を批評し、ニ百六十人の聖なる人をもって
判断しないのですか。彼等は十二人の使徒を、その中の二三人のものに罪があるから
といって、咎めだてをしません。たとえ最高裁判所の判事の一人の私生活が感心
できないものであっても、世人は最高裁判所の判決を拒みはしません。

青年 
その点は私にはよくわかっていますが、ほかにおたずねしたいことがあります。
私の考えに間違いがないとしますと、キリストは信条を系統的にお作りには
ならなかった、と思います。では、どうして教会の教えは系統的に組立て
られているのですか?

神父 
キリストは事実、御自分でそうなさいませんでしたが、確かに明かな真理を
使徒にお教えになりまして、我が汝等に命ぜし事をことごとく守るべく他に教えよ、
と命じられました(マタイ二八ノ二〇)それから、救世主は、自分は十分にまだ
教えきっていないが、「かの真理の霊〔聖霊〕来らん時、一切の真理を汝等に教え給わん」
(ヨハネ16-13)といわれました。教会が信条の中に表していることは、初めから
教えられて来ているものでありますが、世の誰かが、教会の教えていることと
違った教義を説き出した時に、初めてその意義がはっきり定められました。

キリストの御時から殆どどの時代におきましても、使徒の後継者である世界の
司教達は、エルザレムの公会議に集った使徒と同じように、その時代時代の
人々に教会の見解を発表するために、公会譲に召集されて会合しました。

いつわりの教師が危険な誤りをひろめると、その説は咎められ、その事項についての
正しい真理が述べられました。たとえば、第四世紀の初めに、かなりの信奉者を
持っていた或る人が、キリストの真の神にましますことを否定しました
。それで、教皇は、三二五年に、二ケアの公会議を召集して、キリストは
聖父と同じ真の神にまします、と権威を以て宣言しました。同世紀のもう
一つの異端を破って、公けに真理を述べるために、コンスタンチノープルの
公会議が開かれました。こういうことは各時代に行われています。

第十九世紀になってからも、「聖母の無原罪の御孕り」、「教皇の不謬性」というような、
ほかの信仰の真理が厳粛に規定されました。この真理は、カトリック信者によって
公然に否定されたことはなかったのですから、これまでにあえてこれを明確に述べる
機会が教会にはなかったのです。

青年 
教会の不謬の決定は、いつでもこういう公会議を通じて与えられているのですか。
私は教皇は聖なる御保護をいただいていますので、こういう決定は、司教全部の
会議を召集しないでもできると思っていました。

神父 
あなたの御考えは正当です。ですが、全部の司教が教皇といっしょに決定をしますと、
教会の命令は一そう外面的な荘厳さを加えます。それからこの手続の方法は
、紀元五一年に、同じ仕方でエルザレムの公会譲に集りました使徒の方法と
よく一致しています。

その上、こういう会議に集ることは、たしかに司教全部の益になります。
初代からのこういう会議の成文化した記録は、非常に貴重なものでありまして、
これによりますと、今日の教会が、一般に行われている信仰は遠い昔の信仰と
一致しているか、ということを決めるのに非常に容易になります。こういう
記録は教会録になっていて、これによって信仰に関する教会の権威は重きを
加えますから、現代のいかなる教会もこれに疑いをはさむことは、愚しいこと
になります。近代になってできた教会は、今から千四百年前と千五百年前に
開かれた公会議で、キリストの教えであると決定しました所と異った主張を、
ただ一つでも主張する権利はありません。教会の不謬性はこれで十分おわかりになりましたか?

青年 
教会に関して教えていただいた事項の中で、不謬性が一番はっきりわかりました。
人が或る真理を信じなければならない場合、その真理の何たるかの決定を、神は
各人のなすがままになさるということは、考えるだにばからしいことですからね。
聖書以外に神のお定めになった権威がなければ、疑いや争いをどうして解決する
ことができますか。

人は聖書を勝手に解釈してどんなことでも証明できるのですから。
もしカトリック教会が誤りに陥ったとしますと、改革した教会の
どれが正しいものであるかということは、ただ不謬の権威だけが決めることが
できまして、しかも、この教派の中には、こういう権威を主張するものは一つも
ありませんから、私にはとてもこれをきめることはできません。

神父 
あなたの信仰はもう全然微動だにもしませんね。

青年 
もう動きはしませんよ、神父さん。この際にもう一つだけ少し明かにしたい
ことがあります。カトリック教会はその教えのあるものを聖伝に基礎をおいている、
ということを私は聞いたことがあります。教えが口づてに時代から時代へ伝えられて
行きますと、その間に誤るという危険がありませんか。

神父 
教会に聖霊の御導きがなく、(二)聖伝が主に口による場合は、おっしゃる通り、
そうしたこともありましょう。しかし、教会の聖伝は大部分「書かれ」ています。
教会は使徒の時代から各時代を通じて、学識のある聖人の著作を保存して来ました。
それから、前にお話したように、殉教時代のすぐ後に始められた公会議の布告を
持っています。私達が、神の御言葉を含むと信じている聖伝は、神の御伝えで
ありまして、人の伝えではない、ということをおぼえて下さい。聖伝は教会の初代に、
聖職者が常に記録したものですが、キリストを使徒が口づから教えられた、
聖書にのっていない神の御示しになった真理です。

(目次12につづく)

『教理対話』目次6「神の教会」という正しい概念

2022-11-12 13:58:53 | 日記
目次6「神の教会」という正しい概念

神父 
さて、私達は、キリストは真の神にましまし、死に給うほど「世を愛し給うた」という
ことを見ましたね。これはキリストの御贖罪(しょくざい)といわれています。キリスト
は御自分の御苦しみと御死を、人類の罪を贖(あがな)う犠牲として神にお捧げになり、
「神の子、天国の相続者」になる権利を人類に回復されました。しかし、キリストの
御死去という事実だけでは全人類は救われません。

青年 
私も、救われるとは考えません。私の友人の中には自分はもう救われていると言っている
人がいますが…。キリストがすべての人のために死に給うたということだけで、どんな
生き方をしていましても救われるというのでしたら、御贖罪は罪への奨励になるでしょう。
これは神の嫌い給うところだと思います。

神父 
全くです。ところが、キリストを救い主として認めるだけで救われると思っている人が
たくさんいます。これは教会と神の掟を捨てることです。

青年 
救世主の死は、天国に入る新しい機会を人に与え、神と共なる永遠の幸福を得る可能性を
与えた、と私は考えます。

神父 
あなたの御考えは正当です。私達の町で町民に電燈とか飲料水を供給する制度を作った
だけでは、町民は相変らすその利益にあずかることはありません。たとえ町が各家庭の
必要以上の水を供給し得る大貯水池を作りましても、各人は家に管を備えつけこれを
配水管に接続させる工事をしなければ水は出ません。これと同じように、キリストの
御功徳は全人類を救うためには 十二分にありますが、各人は教会の一員になって、
神の掟を守り、キリストの用意し給うた恩恵のトンネルを通って神のお助けをいただか
なければなりません。

青年 
お話はよくわかります。自分流では立派な人でも、キリストの御功徳にあずかれない
かもしれません。それはその人が、主御自らがお定めになりました条件全部に合って
いないからです。

神父 
その通りです。そして、これに矛盾する主義が、今日の最大の謬説(びゅうせつ)
の一つになっています。

青年 
今日までの私自身は、電線の設備をしておりながら、発電所から電流を運んで来る
電線に接続もしていない家のようなものでした。こんな家は電線を取りつけていないも
同然で、電気を使うことができません。

神父 
あなたのお考えは的確です。世の中には、自分流のやりかたで自分の救霊をなし
遂げることができる、と主張している人が無数にいます。この人達は、天国は
超自然の報酬である、--- 恩恵によって超自然の価値をつけられた働きによって
始めて得られるものである ─ ということを認めることができないのです。
人間最上の働きでありましても、それを行う人が恩恵により神と共にあるのでなければ、
ただ自然的な価値を持っているにすぎません。

ところで、あなたにおたずねしますが、この二十世紀の世界に住む私達を教えるために、
救世主はどんな方法を御備えになったと思っていられますか?

青年 
そうですね、私はこういう考を持っています。キリストは救い主としてばかりではなく、
教師としてもお出でになられました。御自分はパレスチナという小さな地方でお教えに
なられただけですが、世界の果のすべての人にまで教えたいという使命を持って
いられました。私の考え が間違いないとしますと、主はその時間の大部分を費して
十二人の人をお教えになられましたが、それはこの人達を主のメッセージを携えて
他の国々へお遣しになるお考えだったからです。その通りでしよう? 神父様。

神父 
あなたの今述べられたお話では、初代の人々がキリストの教えを持つに至った
次第しかわかりません。キリストの教えが、絶対に間違いなしというスタンプをされて、
今日まで幾百年伝って来たのは、どういう方法によってでしょう。

青年 
そうですね、キリストから教えを受けた十二人の使徒が、自分達の受けた教えを書いて、
それを聖書にして将来の人々に残したのでしょう?

神父 
違います。大抵のカトリックでない人達の持っているような誤った考えを、あなたも
持っていられるのではなかろうか、と私は心配していました。プロテスタントはいつでも
自分個人の信仰を守る時だけ聖書を利用しますので、宗教をひろく研究したことのない
人達は、キリスト教の開祖が自分でこの本を書いたのだとか、将来の万国万世の人々を
教えるために使徒に命じて書かせたのだとかいう印象を抱いています。

青年 
神父様、私もそう思っていました。

神父 
それは間違いです。キリストは聖書を一言も書いておられません。また、使徒にも
これを書けという命令はなさいませんでした。実際は十二人の中の五人だけが
書いたのです。マルコとルカは十二使徒ではありません。ですが、この人達は神の霊感を
受けて、神のお望みになっていられることを書きました。ですから、神が事実聖書の作者です。
しかし、聖書だけで人々が教えを受けて救われるということは考えられていませんでした。

青年 
聖書の記者が「天国の霊感を受けた」というのはどういうことですか?

神父 
それは聖霊が働いて直接記者を助け神の欲し給うことを書かしめたということです。
多くの人は、カトリック教会はあまり聖書を利用しないという印象を抱いていますが、
あなたはそういう印象をお持ちにならないで下さい。教会が聖書をあまり用いない
という噂を、あなたは人からお聞きになったことがあるでしょう?

青年 
はい、神父様、カトリック信者は聖書を読むことさえ許されていない、ということを
聞いたことがあります。

神父 
私はもっとひどいことを聞いています。司祭が聖書を燃やしたという噂を聞きました。
確かな歴史の研究家なら誰でも、カトリック教会が世に聖書を送ったのである、
ということを知っています。また、教会の権威によってはじめて、この本が
霊感の筆を持っているということが判るとか、教会の最も学識のある子供達が
幾百年も生涯を費してこれを筆写し、いろいろな国語に翻訳した、ということを
知っています。

それはそれとしまして、聖書の問題は後でお話しましょう。唯今のところは、
すべての人の救霊に対する神の御計画について、正しい考えを持っていただき
たいと思います。キリストが、その時代の他の国の人々に主の真の教えを宣べる
ことができるようにするため、大勢の弟子達の中から使徒達を選び出し給うて
三年間訓練なさったとあなたはおっしゃいましたが、それは本当です。ですが、
この十二人の人達は、真の目に見える組織・社会たる御国の、最初の教師でありまして、
この御国は、「その治世は終りなかるべし」(ルカ1-33)と、世の終りまで存在を
続けるものであります。キリストは「我 、我教会を建てん」(マタイ16-18)と、
この御国のことを教会とよばれ、「さて、我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」
(マタイ28-20)と、永遠にこれと共にまします約束をなされました。それで、
教会は教師としてのキリストを代表するばかりではありません。教会は、主のすべての
お働きを永遠に続けます。かかる事は聖書のよくなし得ないところで、教会のみ
 なし得るところです。教会が聖書を作ったのでありまして、
 聖書が教会を作ったのではありません。
新約聖書は教会の組織が
十分にでき上がって、しかも活動が困難な時に始めて書かれました。

キリストは三年間の御伝道中に教会という「体」を形づくられました。そして、
御昇天後十日目に、キリストの御約束に従って、聖霊が遣わされたのも、聖霊が
この「体」を活かし、これに聖なる生命を与え、またこれを誤りから守らんためで
ありました。この神の御国は聖パウロから「活き給える神の教会なり」(1テモテ3-15)
といわれていますが、立派なことばです。教会が「真理の柱にしてかつ基」(同前)
であるということは明かなことですね?「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マタイ16-6)
ということも明かですね?「教会にも聴かすば、汝に取りて異邦人税吏(みつぎとり)
のごとき者とみなすべし」(マタイ18-17)ということはもっともなことです。
「汝らに聞く人は我に聴くなり」(ルカ10-16)ということも当然です。

キリストと使命を同じくするこの「活ける神の教会」の教える権威が、
キリスト御自身よりも劣るということは、どうしてあり得ますか?
罪を除く権能も同じです。人をきよめる聖なる助けが教会にないということも、
どうしてあり得ましよう?「父の我を遣わし給いし如く、我も汝等を遣わすなり」
(ヨハネ20-21)といわれています。

青年 
あなたのお話で、もはや全然議論の余地がありませんね。そこで私に全部呑み込めたか
どうか調べてみましょう。キリストは、教え、罪の赦し、人類のきよめという主の御働き
を一つの組織体を通して続けようとなさいました。この組織体は、主のお始めになった
ものであるというためばかりでなく、聖霊がその中に住み給うために聖なるものであります。
主御自らは目に見えぬ頭首として、初めの主の使徒達の後継者を通して働きつつ、永遠に
教会と共におられます。

神父 
そうです。あなたは要点を立派につかんでいらっしやいますね。教会は世界的な
ものでありますから、教会の教え、導き、聖なる助けは、すべての人に広められます。
すべての人は教会に入って教会の要求に従う義務があります。そして、その代りに、
その人達は聖なる助けをいただいて永遠の救霊に導かれます。

青年 
もちろん、今日の宗教界の情勢はそうなってはいませんね。大抵の人は、
教派のことをみな教会のように思っています。それは誤解ですね?

神父 
誤解です。キリストの教会の本質、権能、教えは、今日でも、十二使徒を通して
行われていた当時のものと同じものでなければなりません。救われるために万人の
属すべき教会はこの教会です。自分自身の重大な過失のために真の教会を知らず、
あるいは知りつつこれに入ることを拒む人は救われません。

青年 
自身には過失がなくて教会外にある人はどうなりますか?

神父 
そういう人達は、神より与えられた恩恵を良く用うるならば、恩恵の状態に入って
自分の霊魂を救うことができますから、やはり教会の霊に属すことができます。

青年 
教会の本質や使命、権威、権能に対する一切の疑いを取り除くために、
教会の特徴を明瞭に述べることができますか?

神父 
キリスト御自らが極めて明瞭にこう言っておられます。
「天においても地においても一切の権能は我にたまわれり。故に汝等往きて万民に
教え、父と子と聖霊との御名によりて是に洗礼を施し、我が汝等に命ぜし事を
ことごとく守るべく教えよ。我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」
(マタイ28-18〜20)この御言葉は、ひとまとめにして使徒といわれている十一人の人に、
キリスト御自らが申されました。

この人達はキリストが親しくお教えになった人達で、その名前は、
ペトロ、大ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、
マタイ、トマス、小ヤコブ、タダイ、熱心党のシモンといいます。
使徒の中の一人のイルカリオテのユダは、主を裏切って自殺したので、
世界におもむき万人に新約の宗教を宣べ伝えることをキリストから委任された
人は十一人だけです。

青年 
ユダの跡を埋めるために、誰かが選ばれなかったのですか?

神父 
選ばれました。キリストが十一人の人にああいわれましてから間もなく、この人達は
一緒に集り、弟子達の中から、ユダの跡をつぐ人を一人選びました。選ばれた人は、
主の公生活の始めから熱心な教えの信者で、主の御復活と御昇天を立証し得る人で、
名前はマッテヤといいます。

青年 
キリストは使徒達に、しかも使徒達だけに、何か別の任務を
お委せになりませんでしたか?

神父 
非常に重要な任務を幾つかお与えになりました。主は御死去になられる前の晩に、
血を流さない新約の最初の犠牲を奉献して、御聖体の中なる御自分を使徒達に
与え給うてから、直ちに、主の今なし給うたと同じことを行うよう使徒達に
お命じになりました。即ち主の献げ給うたこの犠牲(いけにえ)を「続ける」
ことを使徒達に託されました。「我記念として之を行え」(ルカ22-19)と、
パンとぶどう酒を主の御体、御血に変えてこれを信者に与える権能を使徒達に
授けられたのです。

それから三日目の御復活の日に、主は十一人の者に(ユダはいませんでした)、
罪を赦す権能を授けられました。罪は神だけがお赦しになることができるのですから、
この権能は神から使徒に委任されたものにちがいありません。ですから、聖書に
「息吹掛けて曰(のたま)いけるは、聖霊を受けよ、汝等誰の罪を赦さんも
その罪赦されん、誰の罪をとどめんもその罪とどめられたるなり」
(ヨハネ20-22〜23)とあります。

キリストを予言していましたあの名前、即ち「メシヤ」は、「遣わされた者」
という意味です。主は「神の御子」として、第一には全人類を神と和解させるために、
第二には霊の御国を建て、主の御教えと罪の救済法と、秘跡(即ち、超自然の生命を
与えてこれを養うための聖なる儀式)とをその御国に委託するために、この世に
「遣わされ」給うたのです。

「さて我は世の終まで日々汝等と共に居るなり」というキリストの御言葉は、
使徒という最初の共同体がその後継者を通じて永久に続くのでなければ、
何の意味もなしません。

聖パウロは、使徒は神より任命された教師であるから、何人も自分勝手に使徒の職
には就けないという事を明言しています。この点は、誰しも、よく心得ていなければ
なりません。最初の使徒達のなくなった後においては、その正当な後継者たる人で
なければ、最初の教国に委任された職務を執り行う職権を授けられていないのです。

(目次7 聖書と教会との関係 につづく)
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『教理対話』目次5 キリストが真の神である証拠

2022-11-12 13:58:30 | 日記
目次5 キリストが真の神である証拠

神父 
今夜はあなたにキリストの真の神にましますはっきりした確かな証拠をお目にかけるつもりです。

青年 
いや、神父様、私はそれを疑っているわけではありません。

神父 
それもそうでしょうが、私はあなたが論証によってあなたの信仰を守ることが
できるようになっていただきたいのです。他人がたとえ聖書の神感によるもので
あることを信じませんでも、聖書はたしかに確実な歴史ですから、あなたは信仰を
証明することができます。キリストにおいて成就した旧約聖書の予言、キリストの
御言葉を裏づける新約聖書の奇跡、とくにキリストの死よりの御復活を証拠に
すればよいのです。反対者が聖書の論証を理由なしに鼻であしらうような場合には、
主の御性格につきまして、その人が抱いている考えから、逆にイエスの御神性を
証明することができます。

青年 
私と一緒に働いています或る人に、丁度そうした論証がいります。この人は聖書は
無学な軽信な人達が書いたもので、その証明は信頼するに足らないと言っています。

神父 
軽信(けいしん:かるがるしく信じること)どころではありません。この人達は、
信ずるに鈍きものであるとて、キリストからしばしばおとがめをうけました。
目で見、手で触れんことを求め、その後でさえこの人達は疑いました。長く
疑うのでしたら、この人達は「馬鹿」であったでしょう。無学だという非難に
つきましてはこれはかえってこの人達の利益になります。神は学問のある人を
信じさせるために、わ ざと無学な人をお選びになられたのです。それは彼等の
述べる義は神よりのものであるということが、このことで一層証明されるからです。
頭の鋭い学問のある人は他人を「だます」ということはたやすいことです。が、
学問のない素朴な民衆から出るもっともな言葉ほどに力強い証言はありません。
無学で素朴な証人が法廷の審問で、実際にその人達が見たり聞いたりしたことを
述べますと、最良の証明になります。賢しい人には、その人に良心がない場合は
、気をつけることですね。

青年 
キリストの御神性につきまして、旧約聖書の預言はどういう証明をしていますか?

神父
すべての古代民族の伝説と一致して天より地上に降り給う救世主のことを述べています。
そして、その人為や御性格、御生涯と御死去の主な状況をはっきり書いています。

青年 
一体、預言というのはどういうことですか。

神父 
それは、発生が人の自由意志か神の自由な御旨によって定まる事件、それ故、
人間や天使の予知し得ずただ神だけが御存じでいられる事件をはっきり予報することです。

青年 
キリストの成就されました預言はたくさんありますか?

神父 
あります。聖書にある文を少し申しあげましょう。旧約聖書の中にある
キリストについての預言と、新約聖書の中にあるその成就とを比較することができます。
たとえば次のようなことです。

イザヤ第9章第7節とルカ第1章第32節の主は王になり給う、詩篇第109章第4節と
へブライ書第7章第24節の主は司祭になり給う、イザヤ第2章第2節とマラキア
第1章第10節とマルコ第16章第15節の主はすべての人に、礼拝の普遍的な形式を
与えられる、エレミヤ第23章第5~6節に対するルカ第3章第32節とマタイ第3章第6節の
主はダビデの裔(えい:子孫)より生る、イザヤ第7章第14節とルカ第3章第35節の主は
童貞の母より生る、マタイ第2章の主はべトレヘムに生る、イザヤ第35章第4~6節と
マタイ第9章第4~5節の主は奇跡によってその教えを固くするなどです。

主の御受難と御死去の有様は非常にきわだった方法で予言されていました。
銀三十枚で売られ(ザカリア11-12)、鞭うたれ唾きせられ(イザヤ50-6)、
その手と足は釘うたれ(詩編211-17)、罪人の間に死に給う(イザヤ53-12)、
嘲られ(詩編21)、飲物に酢と苦きものを与えられ(詩編68-22)、その衣は分たれ
(詩編21-19)その足は折られぬ(民数記9-12)などです。

こういう預言がみんなキリストにおいて成就しましたことは、とても偶然や
人間のごまかしによるものではなく、必ず神の御業でなければなりませんから、
キリストが約束の救世主であられますことは、はっきりしたことです。

青年 
新約聖書にのっている奇跡は、キリストの神にましますことをどういうように
証明しているのですか?

神父 
すでに申しあげました通り、奇跡は神の全能によってはじめて行うことができます。
これは神だけに源がある結果です。ところが新約聖書には、キリストの御神性に
対する御教えを証明するために、主が行われました奇跡をたくさん記録してあります。
この奇跡は真昼間に、しかも殆ど常に群集の前で行われました。そうです、その大部分は
当の敵の面前で行われました。即ち、主の奇跡の真実であることは疑いませぬが民衆が
あちらこちらから盲目、つんぼ、中風病者を連れて来るのを見て主の御成功をそねんだ
ファリザイ人や律法博士の面前で行われました。

過去千八百年の間、最も厳しい批判がキリストの奇跡に向けられて来ましたが、
かえってその真実を立証するという結果になりました。キリストが敵に向って
おっしゃいました「父が全うせよとて我に授け給いし業、我が為しつつある業
そのものが、父の我を遣わし給いし事を証するなり」(ヨハネ5-36)
「我もし我父の業を為さずば我を信ずること勿れ、然れど我もし之を為さば、
あえて我を信ぜずとも業を信ぜよ。然らば父の我に在し、我の父に居る事を
さとりて信するに至らん」(ヨハネ10-37~38)というお言葉はまことに至言であります。

青年 
「復活」は最上の証明になる、というお話でしたね。

神父 
そうです。キリスト御自身の御復活は、ほかのどんな歴史的事実よりも大きな
証拠と証明を持っていまして、いかに懐疑的な人にとりましても、少しの疑いも
起さずに主の御神性を証明するはずです。もし主が神でいられませんでしたら、
その御予言通りに自分の力でどうして復活することができますか? 主の御復活は、
主の御死去を目撃した、或はこれを確信していて、その後主の生きていられるのを
見ましたその当時の凡そ十二人の歴史家から証言されています。前にも申しあげましたが、
この人達は信ずるに鈍き人達でした。事実、この人達は主を見、主に語り、主と共に
食事をし、手にふれてみて始めて信じました。
信じましてからは、この御復活をキリストに対する全信仰の基礎としました。
ユダの後継ぎを選ぶときは、キリストの御死去と御復活を
証言できる人を選びました。この人達はあらゆる危険をおかし、死に対する
主の赫々たる御勝利を守るために、喜んで命を投げ捨てました。

青年 
キリストは真の神なりということを述べているはっきりした文は、聖書の中にありますか?

神父 
(一)あります。主御みずから神なりとおっしゃっていられます。聖金曜日の朝、
主はユダヤ人の大司祭の前にお立ちになりまして「汝は祝すべき神の子キリストなるか」
という質問をお受けになりましたが、これに対しまして主は「然り」と言われました
(マルコ14-61〜62)。主は御受難の前に、「父よ、世界の存在に前だちて我が汝と
共に有せし光栄を以て、今汝と共に我に光栄あらしめ給え」(ヨハネ17-5)と、こういう
祈りを言われました。

(二)聖書はキリストに神という御名を与えています。「元始に御言あり、御言は
神と偕に在り、御言は神にてありたり」(ヨハネ1-1)そしてこの御言はキリストと
いう人になられました。「御言は肉と成りて我等の中に宿り給えり」(ヨハネ1-14)
とあります。

(三)キリストは「凡て父の有し給うものはことごとく我のものなり」(ヨハネ16-15)と、
神のすべての権能と完全を主張されました。特に聖書は主の御知恵を証明しています。
聖パウロはキリストの御事を述べて「キリストには知恵と知識とのすべての宝かくれあり」
と申しました。(コリント一2-3)

(四)聖書によりますと、神の光栄が主に与えられています。このことは「父は誰をも
審判し給わず、審判を悉く子に賜いたり。是人皆父を尊ぶ如く子を尊ばん為なり」
(ヨハネ5-23)という主御自らの御言葉ではっきりしています。

青年 
自ら進んで信ずる人にとりましてはこれはたしかに豊かな証拠ですが、かりに私達の
反対者が、聖書は今私達がいろいろ引用しました人達の手で書かれたものである、
ということを信用しない場合はどうですか?

神父 
キリスト時代にいました異教徒の歴史家のクキトゥスとプリニーがこれらのことを書いて、
またパレスチナから遠く離れたところに住んでいる人民に対する影響を、ローマ皇帝に
報告しています。それから、俗史によりましても、キリストと呼ばれる歴史上の人物が
現に住んでいて、世界始まって以来の最も完全な人物であるとみられていた、という
ことが証明されます。異教徒 が十分これを認めています。この承認だけで主の神に
ましますという証拠があります。

青年 
どうしてそうなりますか?

神父 
そうですね、彼等は主は神に近い者、最高の完全なる模型、前古未曾有の最高の聖人
であったということを認めています。ところで、もしキリストが自ら主張して
いられます御者、即ち神にましまさぬならば、どうして「完全なる模型」になることが
できますか? また、もし主の御公言がいつわりでありましたら、どうして主は
「前古未曾有(ぜんこみぞう:昔からまだ一度もその例を見ないほど珍しいこと)」
の最大の不信仰者、最大の非礼者、最大の涜神(とくしん)者」にならずにいられ
ましようか?
もしキリストが真の神でなければ、
 いつわりの教師であるばかりか、世界一のペテン師です。

キリスト教の敵がキリスト教の創立者について「神に近い者」などと言っていること
を考えますと、たとえ暗黙なものでありましても、彼等は主の御神性についてはっきりした
承認を持っていることが必ず見出だされます。ですから、論理上、主の敵がペトロのように、
主において「生ける神の子」を認めないのでしたらそれは自らペトロのようにひざまずいて、
主を自分達の御主として認めないからである、と結論せざるを得ません。

要するに、聖書に、或る時キリストが使徒達に向って、人々は主のことを如何に考え始めた
かとお聞きになったということが書かれています。民衆はキリストの神性と奇跡を知つて
いました。それで主を非凡の人物であると知っていました。しかし、主の外見がほかの人
と似ているのを見まして、彼等は主を別の大予言者と考え、或る者は洗者ヨハネと思い、
また他の者はエリヤかエレミアがこの世に戻って来たのだと思っていました。それで
「民衆は我のことを何と信じているか」と使徒達にイエスがお尋ねになったのです。
それでペトロがすべての者に代って、「汝は生ける神の子キリストなり」(マタイ16-17)
とお答えしました。使徒も民衆も正しい考えでした。キリストは神でもあり、また、
人でもあったからです。もしキリストが神にましまさぬなら、世を罪から贖うことは
できません。また人にましまさねば、この世で人々にまじって住んだり、人々のため
に死に給うことはでききせん。

キリストの御神性に肩を持つ聖書や、歴史理論によって提供されている証拠と、
これを反駁するために異教徒が持ち出す根もない議論を比較して考えますと、
異教徒になる方が、キリストの御神性の信仰者に
 なることよりも、はるかに強度の信仰を要する、
ということがすぐにわかります。
キリストは御降誕前の数百年間予言せられていられた御方で、全世界はその御来臨を
渇望していて、異教の予言者さえ世は天よりの教師を持たなければと言っており、
予言者がメシアについて予言していたことは、全部キリストにおいて成就し、キリストの
無類の御人格と罪のない御生涯 があったということをキリスト信者は見聞しています。
また主の多くの奇跡や御復活のことを、数年間日々主と共にあった十二人の心素直な
聖人から聞いています。王や皇帝がある限りの力を尽して妨害しましたが、主の宗教は
建てられ、あらゆる境遇の無数の男女が主の御遺芳(いほう:後世まで残る業績)を
たたえているばかりか、主に全心を捧げることの中に幸福を見出している、ということを
キリスト信者は知って見ています。

(目次6「神の教会」という正しい概念 につづく)

『教理対話』目次12 天国 神へ良く奉仕した者に与えられる褒賞

2022-11-12 13:58:12 | 日記
目次12 天国 神へ良く奉仕した者に与えられる褒賞(ほうしょう)

神父 
ところで、あなたは教会の本質や組織、使命をはっきり理解しましたから、これまでに
触れなかった教会の教えを一つずつお話しましょう。御存じのように、私達は三つの
ペルソナ(位格)にてまします神を信じ、また、第二のペルソナにてまします聖子が、
人類の罪を贖うため、そして霊的王国を建てるために、人となり給うたことを信じています。
また私達は、聖子がこの霊的王国を通じて、人々に正しい教えを与え、救霊上、超自然的
助けをお与えになることを信じています。このように、神の掟を忠実に守って
「主の教会に聴く」人々には褒賞が備えられており、主の掟をも教会をも無視する人々
には罰が待っています。では、教会の教えを幾つか、こまかくお話しましょう。

青年 
お願いします。神父さん、天国から話して下さい。

神父 
そうしましょう。あなたは、永遠に幸福な場所のあることは、容易に信じられるでしようね?

青年 
いやなことであれ、楽しいことであれ、私は信ずるつもりです。神御自ら導き給う
ところのキリスト教会が、どういうことを教えているのですか、それだけ云って下されば
、私はそれを信じます。

神父 
なるほど。天国につき教会の教える事と云えば、天国は神御自身の御家で、
救われた者は天国で目のあたり神を見奉り、天使と交り、人間の考えも及ばない
幸福、終りなき幸福をうけるという事です。

青年 
それを手に入れるためには大いに頑張る値打がありますね、神父さん。

神父 
そうですとも。全能の神が備えて下さるような幸福は、たとい一年とか十年とかいう
期間の幸福でありましても、これは一生努力するだけの値打があります。それが、
神の欲し給う限り・・・永遠に・・・続く幸福であるということを考えますと、
これを手に入れることは、すべての人の最大の関心事でなければなりません。
自ら好んでこれを失うというような危険は、いささかでも冒すべきではありません。

青年 
大罪で死ぬ人は、神を見奉る喜びに与ることはできないのでしょう?

神父 
できません。大罪によって、その人はこの幸福をしりぞけ、これをいたゞく力も
資格も自分でなくしているからです。

青年 
神父様のおっしゃるような天国の褒賞は、人間には頂く資格がなさそうに、
私には思えますが・・・。

神父 
神の恩恵がなければ、いかなる人間といえどその資格がないことは確かです。
しかし、神は、この世で神を愛し神に仕える人には、そういう褒賞を与えることに、
なさったのです。神の御旨を行うが行うまいが救われると思い上っている人も
大勢いますが、あなたがそう思い上っていないということは、非常に良いことです。

青年 
悪い人に褒美を与えるということは、道理に合わす、正義に反します。考えてごらんなさい、
神の掟を破って罪を過した人が、心から痛悔もしないで、永久に褒賞されるなんて!

神父
地獄の存在をあなたに証明するのは、簡単ですね。あなたは、もう地獄の存在を
認めかかっていますから。

青年 
ええ、天国は善徳と神に対する奉仕とに報いる褒賞なんでしょう?

神父 
そうです、洗礼の恩恵をいただいて死んだ赤ん坊だけは別ですが、赤ん坊は
贈物としてこれをいただくのですから。理性を使うようになった人は、
神の御要求に従うことにより、始めて天国を手に入れるのです。

青年 
それでこそ本当ですね。神は人に天国を与えなければならぬ、という義務は
ないのですから、天国に到着するための条件をお命じになることは、もちろん
神の御旨です。そして、こういう条件を拒んで従わないなら、その人は自分を
責めるほかありません。

神父 
全くその通りです。

青年 
これと同じ原理からしまして、天国の褒賞には等級があると思いますが?
人はお互いに値打が違っていることはたしかですから。

神父 
ええ、そうです。長い年月を悪魔に任していて、死ぬ前に悔い改めた人は、
生涯神を信心深く愛した人よりも、その受ける褒賞は劣ります。天国に
つきましては、キリストは「我が父の家に住み所多し」(ヨハネ14-2)
とおっしゃいましたね。天の褒賞は私達の働きに比例します。
「けだし人の子は・・・人毎にその行に従いて報ゆべし」(マタイ16-27)、
「星と星とは輝により相異れり、死者の復活もまた然り」(コリント一15-41〜42)
とあります。

青年 
ですが、みんな聖人と呼ばれるのでしょう?

神父 
そうです。救われた人は皆聖人といわれます。ですが、この人達が天国に入つた
事情は、いろいろです。或る人は殉教時代に、キリストに背くよりはと自分の
生命を捨てました。この人達は殉教者とよばれています。初めの三百年間に無数の
人々がこうして天国に入りました。また、自分の霊魂と体をすっかりキリストに
捧げて、天国に入った人もいます。この人達は全心の愛をイエスに注ぐため、
結婚の機会を犠牲にしました。極めてささいな罪をも避け、罪によって神を
怒らせるよりは、むしろ死を幾度でも受ける覚悟でいました。中には砂漠に
行って苦しみの中に全生涯を祈りと静かな黙想に捧げた人もたくさんいます。
ですが、この外にも私達大抵の人と同じように、無数の誘惑のある罪の世界の
中で暮した後、天国に入った人もおります。この人達は家族の世話をし、
俗務についていましたが、自分の霊魂をおろそかにするということはしませんでした。
祈りを唱え、キリストの課し給う重荷を甘んじて受け、神の教会が与える救霊の道を
自ら進んで歩みました。

青年 
しかし、天国に行くのは善人の霊魂だけですか?

神父 
世の終りの公審判の時までは霊魂だけ行きます。使徒信経の中で、私達は
「我は肉身のよみがえりを信じ奉る」といいます。神は全能の御力を以て、
すべての人の肉体を土より起し、これを天国や地獄、煉獄にある霊魂と再び
合せて復活させられます(ヨハネ5-29)。そこで人類は神から審判せられまして、
その後で、或る人は人間として、 肉体と霊魂を一に合して天国に迎え入れられ、
ある人は、永遠の地獄に落される宣告を受けます。最後の審判の後は煉獄は
ありません。救われた者の肉体は、光栄にみち、天上の美で輝く聖化された
キリストの御復活体に似ています。そして、もはや針ほどの苦しみもありません。
ところが、悪しき者の肉体はその霊魂の罪の状態を反映しています。肉体は多くの
善業や多くの悪い行いに関係しているのですから、当然、褒賞や処罰にあずから
なければなりません。

青年 
霊魂はその人の死と同時に裁きを受けてその運命がきまるのではありませんか?

神父 
そうです。これは私審判といわれています(ヘブル9-27)

青年 
おや、それじゃ、世の終りにもう一つ審判があるのですね?

神父 
そうです。それには二三の理由があるのですが、その中の二つを申しあげますと、
それは第一に、主の御光栄を全世界の前に公けに表わすためです。キリスト御自身、
この世にて、人々から不当な御裁きを御受けになり、死刑に処せられています。
第二は神の正義を証するためです。この地上では、人々は神は不正であるといって
しきりに非難し、また、わかりもしない主の御摂理をいろいろと批評します。
この世では、貧苦、災厄、病気、不運が徳や聖に伴ない、ともすれば悪人が
栄えるのをよく見ます。しかし、公審判において、神は御自分の正義の神に
ましますことを御示しになるでしょう。

青年 
世の終りがいつ来るかを知っている人はいますか?

神父 
いません。ですから、予言書を多くの新宗派が悪用して金もうけをしているのです。

青年 
それはどういうことですか?

神父 
或る説教家はダニエル書や黙示録のような予言書を世界大戦に合うように解釈して売り、
ひともうけをしました。善意の人が彼等の喰物になっています。

青年 
親類や友達は天国でお互いにわかりますか?

神父 
もちろんです。天国に入った人達の幸福になるものならば、何でも神から与えられます。
道理にあった望みはすべて満たされます。

青年 
他人よりも幸福の劣る者が、自分よりも幸福の大きい者をうらやむということは
考えられませんか?

神父 
いいえ、天国で最小の褒賞しか持っていないものでも、自分の持ち得る限りのものは
持っています。聖人は、夫々天国の喜びを受け容れる量は異りまして、その量一杯に
あふれるばかり喜びを受けています。水を入れて溢れているバケツは、それ以上の水
を入れている樽をうらやむことはないでしょう。入れるだけは入れているのですから。

(目次13 地獄 愉快ではないが道理至極のもの につづく)
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『教理対話』目次14 煉獄 教会の教えの内で一番わかりよいもの

2022-11-12 13:57:52 | 日記
目次14 煉獄 教会の教えの内で一番わかりよいもの

青年 
神父さん、煉獄につき教会がどう説いているのか私は全然知りませんが、
煉獄という観念は、人々から、ひどい非難をうけていますね。

神父 
それは私達の教えが正しく理解されていないからです。煉獄は、
非常に理屈にも合い、慰め多い教えです。そして、これは神の正義に
よって要求されています。天国には最善の人だけが死後直ぐに
行くことができ、また最悪の人は地獄におちる、という点は、
すでにあなたもお認めでしよう。

青年 
認めます。

神父 
それでは、最善の人の部類にも最悪の人の部類にも入らない
大多数の人はどうなりますか? この人達の霊魂は死後どこに
行くのでしょう?

青年 
そんなことは今までに考えたこともありません。どこかに行くことはたしかです。

神父 
そうですよ、煉獄へ行くのです。

青年 
そんなら、私にも、わかります。大多数の人は天国に直接行けるほど、
罪がないとは云えませんし、また、地獄で永久に罰せられるほど
悪くはないのですから。

神父 
あなたの考え通りです。これは人間の審判と神の審判のやり方を
比較しますと、もっとよくわかります。人間の審判は神の審判を
模範にしなければ、その名を以て呼ばれる価値さえありません。
人間の正義は大罪人、小罪人の区別を認め、それに従って罰を加えます。
人間の審判には、一日、十日、一カ月という風に犯人に罰を加える刑務所と、
無期刑を入れる刑務所があります。この町で二人の人が、一人は殺人、
もう一人は規定以上の速力で自動車を走らせたということで逮捕され、
二人とも取調べを受け、無期で刑務所に行く宣告を受けたらどうですか?

青年 
それはそういう不公平をしたら誰も非難するに決まっています。

神父 
煉獄を否定して御覧なさい。そうすれば、神が不従順な人間を、
今述べた例のように不公平に処理をしたからとて神を非難する
ことはできませんよ。

青年 
では、煉獄は小罪を償わずに死んだ人達が、一時的に罰を
受けるところですか?

神父
そうです。ですが、煉獄に行く人も恩恵の状態で死ぬ者である、
ということに注意して下さい。この人達は神の友ですが、死ぬ前に、
小罪(容易に赦される罪)を犯したままになっているか、でなければ、
罪は赦されたものの、まだその罪の償いを十分に果してなかったのです。

青年 
少しでも理性のある人なら、こういう場所の存在する必然性は
わかるはずです。

神父 
また、それは心の目から偏見の霧を取り去りさえすればわかります。
キリスト信者はどれほど猛烈に煉獄を口で攻撃しましても、
心の中では煉獄の存在を信じています。このことは、
災いにあった友人や親族のために、殆ど無意識裡に
お祈りをあげることから見ても明かです。祈りのない
キリスト信者の葬式は殆どありません。これは行いが
言葉以上にものをいう一つの実例です ----- もし煉獄が
ないなら、お祈りしたところで何の役にたちますか?
故人の霊魂が天国にいるのでしたら、祈りは全然いりません。
もし地獄におとされているのでしたら、祈りもこれを救う
ことはできません。

青年 
では、煉獄のことは聖書にのっているのですか?

神父 
そういう場所のことは述べていますが、「煉獄」という名では
呼んでいません。「煉獄」という名が聖書に出ていないからとて
反対するのは、反対論の中では一番薄弱です。霊感の書の中に
「聖書」という名が見当らないから、聖書という本はないというのと
同じ筆法です。そういう筆法なら、三位一体、御託身などは、
聖書の中にそういう言葉が見当らないからという理由で否定されましょう。

名前は場所を作りません。まず場所が存在しなければなりません。
それからこれに名が与えられます。一時的な罰を加えるこの場所は
どんな名前で呼んでもかまいません。カトリックはこれを煉獄と
呼んでいます。これは浄める場所という意味です。神の聖なる
御前に行く妨げになっている罪の小さな汚れを、霊魂はそこで
浄められるからです。

青年 
その場所のことが聖書に出ているとおっしゃいましたが、どこに出ていますか?

神父 
聖マタイは5章26節で来世の監獄のことを述べ「最後の一厘を還すまで」
霊魂はそこから免かれないと云っています。ところで、最後の一厘(りん)は、
天国では返す必要はありません。また地獄から絶対に免かれないのです。
ですから、話は当然第三の場所に持って行かなければなりません。
同じ福音史家聖マタイは第12章の第32節の中で、聖霊に対する罪について、
この罪は「この世、後の世、共に赦されざるべし」といっています。
これは言外に「後の世で赦される罪もある」という意味を含んでいます。
ですが、これは絶対に放免のない地獄のことでもありません。また、
天国でもありません。天国は「潔からざるものは之に入らず」(黙示録21-27)
ですから。一時的に死後の罰を受ける場所のことは、神は人の働きに従って
報い或は罰し給うということを述べている多くの聖句の中に、はっきり
いっています。

かりに、煉獄はないとしてみましょう。その時、私やあなたはどうなりますか?
聖書は一方では、汚れた者は天国に入ることを得ずといい、また一方では、
無益なる言葉(小さな罪)も霊魂を汚すといっています(マタイ12-36)。
一時的に罰を加える場所がないと、小罪を犯した人まで地獄に送られる
こととなり、誰が一体救われますか?

青年 
そうなってしまいますね。ですが、神父様、死者のために世間では
祈るならわしがあると先程お話しになりましたが、祈祷によつて
煉獄の霊魂を助けることができる、というのですか?

神父 
そうです。祈祷、善業、免償によって、とくに、神のお定めになった、
御ミサとよばれる教会の犠牲によりまして、助けることができます。
免償と御ミサのことは後でお話します。

青年 
たしかに慰めになる教えですね ----- 私達が死者を助けることができるとは。

神父 
そう、その通りです。この教えを聞いただけで多くの人がカトリックの
信仰に回心しました。丁度、私があなたに代って八百屋や肉屋のあなたの
借りを支払うことができますように、私は、煉獄の霊魂が神に負うている
償いの最後の一厘までお返しする為に、私の善業をこれに捧げることが
できます。

キリストは御自ら、主を信ずる者の中のいと小さきものに
なすことは、これ主のためになすことである、と言われましたが、
或る意味では、煉獄の霊魂はキリストを信ずる者の中のいと小さき
ものであります。それは、煉獄の霊魂は祈りを以て他の者を助ける
ことはできても、自分を救うことができないからです。御存じのように、
死ぬと同時に、痛悔をなす時期も御慈悲を蒙る時期も終ります。
死後は、神は正義だけを行使されます。こういうわけで、最後の一厘まで
支払わなければなりません。

青年 
祈りは死者を助けるということは、聖書にのっていますか?

神父 
のっています。旧約聖書マカバイ記二の第12章第46節に、煉獄が存在
することの聖書的証明と、ユダヤ人が戦場で死んだ同信者のために、
いけにえを捧げたということの証拠があります。------ これは、
「その罪のゆるされんとて、死者のために祈るは、聖にして益ある思念なり」
であるからです。天国や地獄にいる死者のためなら祈って何の役に立ちますか?
彼等が祈ったということは、まだ死者の救われる場所(私達はこれを煉獄と
よんでいます)があるというととと、生ける者の祈りが彼等を救うことが
できるということを信じていた、ということを現わしています。この聖句は
明かにカトリック側の行いの利益になりますので、これを含んでいる篇を
全部、プロテスタント側の聖書から取り除かれました。しかし、そうしても
彼等の立場は有利にはなりません。この本は、たとえ神感によるもので
ないとしても、神の選民の中に、どんな習慣があったかを語っています。
今日でもユダヤ人は死者の為に祈ります。

青年 
しかし、どういうわけでカトリックでない人達は、こういう慰めにみちた
教えを排斥しようとするのですか?

神父 
そうですね。その人達は、主を信ずる罪人にキリストの御功徳が
あてがわれるとその人の罪は全部除かれる、だから、信ずる者は
すぐ天国に行く、ということを信じたいのです。生命に入る為には、
人は掟を守り、教会に聴き、聖父の御旨を行わねばならないと、
キリストはいっていられますから、これは反聖書的です。

青年 
煉獄に行く人は、どれ位い長い間そこにおらなければなりませんか?

神父 
私達には判りません。その霊魂の状態によって一切はきまります。
多分あなたは、カトリック外の人が、「司祭は知っているふりをして、
なにがしの金を受取れば霊魂を煉獄から救い出すために祈ってあげようと
云っている」と、しゃべっているのをお聞きになったことがあるでしょう?

青年 
ええ、聞いたことがあります。

神父 
煉獄には誰がいるのかいないのか、またどれ位い長い間そこにいるのか、
司祭にはわかりません。限りなく正義にまします神は、各人の霊魂に
相当した罰を宣告されなければなりません。罰のきぴしさと長さは
どんなものかということは、神だけが知っていられます。ですが、
私達は祈りによって煉獄の霊魂を助けて、早く天国に入らせることができる、
ということを固く信じています。

(目次15につづく)
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