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『教理対話』目次 9 真の教会は誤りに陥らぬ

2022-11-12 13:54:10 | 日記
目次 9 真の教会は誤りに陥らぬ

神父 
この前の講義では、カトリック信者の間に信仰の一致が存することについてお話しました。
ところで、この一致は教会の教えの背後に誤ることを得ない権威が存して、始めて可能です。
もしこの世に「活ける神の教会」があるのでしたら、この教会に「人々に教える」
という責務が委任されているのでしたら、しかも、もしこの教会が世々を通じて
生き続けるキリストにほかならないものでしたら、この教会は誤るおそれなき
権威で語ることができなければなりません。教会の声は神の御声でなければなりません。
その教えは神の御教えでなければなりません。その権威は神の権威でなければなりません。
これが教会は誤ることを得ないという意味です。これにより、「教会の不謬性」に対する
信仰は、神の不謬性に対する信仰に基礎を置くものであるということがわかります。
神は一切のことを御存じですから、神は誤り給うことができません。また全善で
いられますから、私達を故意に欺き給うことはできません。

神は神にてまします以上誤るといふことはあり得ません。しからざれば、
神ではないことになります。ですから、神の不謬性はわざわざ証明する必要がありません。
キリストも神ですから、誤りを教え給うことはできぬはずです。事実主が教会を誤りに
陥らしめないと御約束なさいました以上、教会は、キリストが教会を誤りに陥らしめないと
御約束なさった事項を教える限り、不謬(ふびゅう)であるはずです。

青年 
「不謬」という言葉はそんな意味なんですか?

神父 
そうです。しかし、カトリックでない大概の人は、別の意味に想像しています。
教会を代表して教皇が公式に声明する場合、私達が教皇は「不謬」であるといいますと、
この人達は、私達は教皇を罪を犯さず間違いもしない神のようなものに見ている、
と憶測します。しかし、私達が教皇は不謬なりと云う意味は、救霊のために信じ
かつ行わなければならない事項につき、神の御示しになりました事柄を教皇が
教会を代表して述べられる場合は、誤りを教えるような事がないように、
聖霊によって護られている、という意味です。教皇が、これ以外の事項について
語る場合とか、個人的に、或いは私生活で語る場合にもそういう御保護がある、
という意味ではありません。

青年 
私は、それは自明の真理だと思います、教会の代弁者が全信者に誤りを教えますと、
神の真理を拡めるという神の御目的は駄目になってしまいますね。

神父 
その通りです。人々に教えることを神から委任されている教会が、信仰と道徳に
関する問題で誤るかも知れないなどということは、実際信じられませんね?
神が人々に教会に聴けと御命じになりながら、その教会が人々に間違いを教えるのを
神がそのまま放置される、ということはとても考えることはできません。カトリック
でない人々は、「誤りのない教会」と、「教会の為に述べる生ける声」(教皇)
との間に必然的な関係があることを理解していません。この人達は不謬の聖書の
ことを考えますが、不謬な権威がこれを神感による書物であると断言し、
かつ誤解と誤訳から読者を護らねば、聖書は何等の価値も持たない、
ということに思い至りません。この人達は、教会におけるキリストの
代表者(教皇)の不謬性を排斥しながら、一方、聖書のすべての読者に
不謬性を付与するというような極端なことをしております。

青年 
そうです。この前に申し上げたように、私の友達は、自分が聖書を読むとき
誤解しないように聖霊が護って下さる、と言っています。これが本当でしたら、
その人は少くともその時だけは不謬だというのですね?

神父 
そうです。これを教皇にあてはめてみましよう。教皇の不謬性ということは、
神の任命し神の護り給うた教師として、教皇がその権威を行う場合、すなわち、
神の御名において、全世界の人々に神の正しい啓示の何たるかを明らかにする場合に
誤りがない、ということです。不謬性は教皇だけのためにあるのではありません。
教会が自分のために誇りとするものではありません。それは信者のためにあるのです。
教皇の不謬性によって利益をうけるのは全教会です。

青年 
その点は私には十分わかっていますが、できれば聖書に基く証明がほしいと思います。

神父 
同感です。聖書の多くの聖句はキリストの使徒達の不謬性を証明しています。
カトリックでない人達も新約聖書に勝手な教えを附加したり、人々を教え治め
聖別する使徒の権能を否定したりすることは絶対にできません。
「天に於ても地に於ても一切の権能は我に賜わりたり、故に汝等往きて万民に教え、
父と子と聖霊との御名によりて是に洗礼を施し、我が汝等に命ぜし事を悉く守るべく教えよ。
我は世の終りまで日々汝等と偕に居るなり」(マタイ28-18~20)とあるからです。
このようにキリストは使徒達並びにその正当なる後継者に、霊のことについて、
世の終りまで信者を教え治める権利をお与えになったのです。ですから、教会は、
永遠に目に見えぬその頭にてまします聖なる建設者の聖旨を、絶えす実現してゆく、
ということを私達は固く信じています。

しかし、使徒並びにその後継者は自由勝手に働くのではありません。
教会の代弁者なるひとりの人の指導のもとに、初代教会という宗教団体を
形づくることになっていました。キリストは十二人の一団にこのことを
お話しになりました。ですが、主は十二人中の一人を、教会の最初の、
肉眼で見える頭に御任命になりました。そしてその一人の人に、力強く
お告げになりました。

すなわち聖書によれば、イエスは十二人より一人を選び、その名の「シモン」を
「巌(いわお)」(ペトロ)とお変えになりました。巌と呼んだわけは、
この人はキリストの地上の教会の土台として主を代表する時(教会はこの人の
死後も続くものですから、その後継者に付ても同じですが)この団体内の安定と
一致の基になり、また、生ける代弁者となるべきだからです。また論争の生ずるときは、
この人が神の御導きの下に決定する権を有すべきだからです。

マルコ福音書の第1章第16節とルカ福音書の第5章3節から第5節に、イエスが
この使徒を選び給うた時その名は「シモン」だった、と記録されています。
ですが、マタイ福音書の第16章第17節から第19節に、キリストはこの人に
新らしい名を与え給うたと載っています ----- これは彼が全部の使徒に代って
イエスの神性について心から告白した直後の出来事です。シモンの名がペトロに
変ったことは、マタイ福音書第4章第18節、第10章第2節、マルコ伝福音書第3章第16節、
ルカ福音書第6章第14節、ヨハネ福音書第1章第42節に載っています。

ヨハネ福音書の第1章第42節に、アンドレアがその兄弟のシモンをイエスのところに
連れて行ったところ、「イエスこれをみつめて曰いけるは、汝はヨナの子シモンなり、
ケファ=訳せばペトロ=と名(なづ)けられん」といわれたとあります。

「ケファ」という言葉は、イエスの使われました国語の「巌(いわお)」という言葉で、
「ペトロ」はギリシャ語の「巌」です。ヨハネ聖福音書はギリシャ語で書かれたので
ヨハネはケファという言葉に註をつけたのです。キリストの真意は、
「汝はケファなり、我この磐の上に我が教会を建てん」という御言葉に着目すると、
明かになります。これが主の実際の御言葉です。主が御自分の国語でそう宣言なさったのです。
「汝は磐ペトロなり、我この磐の上に我が教会を建てん、敢て地獄の門は是に勝たざるべし。
我尚天国の鍵を汝に与えん、総て汝が地にて縛がん所は天にても縛るべし、
また総て汝が地上にて釈かん所は天にても釈かるベし」(マタイ16-18=19)
というこの御言葉は、他の使徒達に向ってキリストは一度もお使いになりませんでした。

青年 
力のこもつた非常に意味の深い御言葉ですね。

神父 
ペトロだけに対してキリストは更に別なお言葉を申されましたが、これによりますと、
ペトロが、キリストの御名において万人の一般的な指導者、教え手に選ばれたという
事実は、一点の疑う余地もありません。即ち、ヨハネ福音書の第21章第15節から
第17節によりますと、ペトロはキリストの御受難の時に主を三たび否んだ償いに、
三度び愛の告白をなしおえると、キリストはペトロに向って
「我が小羊を牧せよ、我が羊を牧せよ」という御言葉を以って、主の全ての羊の群を
牧することをペトロにお任せになりました。
キリストは御自身のことを「善き牧者」主に従う者を「羊の群」と好んで呼ばれました。
小羊と羊を含めた主の羊の群は、主の御昇天後牧者を要します。それでこの役目が
ペトロに委任されたのです。

青年 
小羊と羊で、成るほど羊の群全部になります。

神父 
同じように、ルカ福音書第22章の第31節と第32節の御言葉も深い意味を持っています。
ペトロに向ってキリストは、サタンが使徒の全部に悪だくみをしていると告げ、
「されどわれ汝の為に、汝が信仰の絶えざらん事を祈れり、汝何時か立帰りて、
汝の兄弟等を堅めよ」と申されました。
マタイ福音書16章第19節、ルカ福音書第22章32節、ヨハネ福音書第21章第15節から
第17節の「汝は」「汝に」という御言葉は、教会内のペトロの地位につき、
万人の目を開かせます。

青年 
ではペトロは初代教会の公認の頭だったのですか?

神父 
確かにそうです。そうでないと主張する人達は、次のような奇妙な主張をします。
すなわち、その人達は、パウロはもっと偉大な使徒だった、パウロはペトロよりも
多く働いた、パウロは面と向ってペトロに反抗した、ペトロはキリストを
否んだことがある、と主張します。しかし、ペトロとパウロの論争は教義上の
問題ではなく(ガラテア2-11〜15)、またペトロは公けの資格で言ったのでは
ありませんから、不謬性の問題と関係ありません。またペトロはキリストを
否みはしましたが、司牧者になれという命令を受ける前に、すでにキリストを
否んだことを悔い改めています。聖パウロもそのほんの数日前までは、教会の
迫害者だったのですから、非難されるとすれば、パウロも同じく非難されても
仕方ないのです。

青年 
正当に考えますと、教会の頭の個人的な私的生活は、教会の代表者としての資格と
同一に取り扱うべきものではないのですね?

神父 
同一には扱えません。大統領の法案に対する署名は、一大統領の私的生活が
どうでありましても、公的なものです。
福音史家は使徒の名を書く場合、ほかの者の名には順番をつけませんが、
ペトロの名だけはその表の最初に挙げるように気をつけています。

聖霊降臨の日に聖霊をお受けした後で、真先に民衆に語ったのもペトロです。
最初の奇跡はペトロが行いました。「使徒行録」の最初の一二章にペトロの名が
五十三回も出ていて、ほかの使徒よりもずっと回数が多くなっています。
ペトロはエルザレム公会議の司会をつとめましたが、これにより、頭としての
彼の地位は認めていたことは明かであります。

ペトロが捕えられた時、皆この人のために祈りました。第一世紀以来ずっと、
ローマの司教の首位と至上権は認められて来ました。ですが、ペトロやその
後継者がローマに居たかどうか、ということは、重大な問題ではありません。
もちろん、ペトロはローマに住んで、そこで殉教しました。この世の教会の最高の
支配者を否定しますと、争論が起きた場合どうしてこれを治めることができますか?
国家は最高裁判所を必要としますが、教会も同じことです。地上の教会の頭には
不謬性がないと仮定しますと、人々は自分の信じていることが正しいのか、それとも
間違っているのかが、わからなくなります。或る言葉の意味に付き私とあなたが
論争しましたら、私達は字引をひいて、字引を最後のよりどころにします。
神の御名において語る声(教皇)に聖なる御保護がないと仮定しますと、教会は人々に
服従を命ずる資格がなくなります。

青年 
私がどの教会にも属さないと仮定し、そしてその私が真理を知りたいと欲するなら、
私は不謬の教会以外に魅力を感じません。不謬性が教会にないとすれば、教会が私を
誤りなく導いてくれるという確信を私は持つことができません。不謬性を主張しない
教会というものは、私に間違いを教えるかもしれないということを白状しているのと
同じことです。

(目次 10「聖書のみ」の主義では失敗する につづく)


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