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『教理対話』目次5 キリストが真の神である証拠

2022-11-12 13:58:30 | 日記
目次5 キリストが真の神である証拠

神父 
今夜はあなたにキリストの真の神にましますはっきりした確かな証拠をお目にかけるつもりです。

青年 
いや、神父様、私はそれを疑っているわけではありません。

神父 
それもそうでしょうが、私はあなたが論証によってあなたの信仰を守ることが
できるようになっていただきたいのです。他人がたとえ聖書の神感によるもので
あることを信じませんでも、聖書はたしかに確実な歴史ですから、あなたは信仰を
証明することができます。キリストにおいて成就した旧約聖書の予言、キリストの
御言葉を裏づける新約聖書の奇跡、とくにキリストの死よりの御復活を証拠に
すればよいのです。反対者が聖書の論証を理由なしに鼻であしらうような場合には、
主の御性格につきまして、その人が抱いている考えから、逆にイエスの御神性を
証明することができます。

青年 
私と一緒に働いています或る人に、丁度そうした論証がいります。この人は聖書は
無学な軽信な人達が書いたもので、その証明は信頼するに足らないと言っています。

神父 
軽信(けいしん:かるがるしく信じること)どころではありません。この人達は、
信ずるに鈍きものであるとて、キリストからしばしばおとがめをうけました。
目で見、手で触れんことを求め、その後でさえこの人達は疑いました。長く
疑うのでしたら、この人達は「馬鹿」であったでしょう。無学だという非難に
つきましてはこれはかえってこの人達の利益になります。神は学問のある人を
信じさせるために、わ ざと無学な人をお選びになられたのです。それは彼等の
述べる義は神よりのものであるということが、このことで一層証明されるからです。
頭の鋭い学問のある人は他人を「だます」ということはたやすいことです。が、
学問のない素朴な民衆から出るもっともな言葉ほどに力強い証言はありません。
無学で素朴な証人が法廷の審問で、実際にその人達が見たり聞いたりしたことを
述べますと、最良の証明になります。賢しい人には、その人に良心がない場合は
、気をつけることですね。

青年 
キリストの御神性につきまして、旧約聖書の預言はどういう証明をしていますか?

神父
すべての古代民族の伝説と一致して天より地上に降り給う救世主のことを述べています。
そして、その人為や御性格、御生涯と御死去の主な状況をはっきり書いています。

青年 
一体、預言というのはどういうことですか。

神父 
それは、発生が人の自由意志か神の自由な御旨によって定まる事件、それ故、
人間や天使の予知し得ずただ神だけが御存じでいられる事件をはっきり予報することです。

青年 
キリストの成就されました預言はたくさんありますか?

神父 
あります。聖書にある文を少し申しあげましょう。旧約聖書の中にある
キリストについての預言と、新約聖書の中にあるその成就とを比較することができます。
たとえば次のようなことです。

イザヤ第9章第7節とルカ第1章第32節の主は王になり給う、詩篇第109章第4節と
へブライ書第7章第24節の主は司祭になり給う、イザヤ第2章第2節とマラキア
第1章第10節とマルコ第16章第15節の主はすべての人に、礼拝の普遍的な形式を
与えられる、エレミヤ第23章第5~6節に対するルカ第3章第32節とマタイ第3章第6節の
主はダビデの裔(えい:子孫)より生る、イザヤ第7章第14節とルカ第3章第35節の主は
童貞の母より生る、マタイ第2章の主はべトレヘムに生る、イザヤ第35章第4~6節と
マタイ第9章第4~5節の主は奇跡によってその教えを固くするなどです。

主の御受難と御死去の有様は非常にきわだった方法で予言されていました。
銀三十枚で売られ(ザカリア11-12)、鞭うたれ唾きせられ(イザヤ50-6)、
その手と足は釘うたれ(詩編211-17)、罪人の間に死に給う(イザヤ53-12)、
嘲られ(詩編21)、飲物に酢と苦きものを与えられ(詩編68-22)、その衣は分たれ
(詩編21-19)その足は折られぬ(民数記9-12)などです。

こういう預言がみんなキリストにおいて成就しましたことは、とても偶然や
人間のごまかしによるものではなく、必ず神の御業でなければなりませんから、
キリストが約束の救世主であられますことは、はっきりしたことです。

青年 
新約聖書にのっている奇跡は、キリストの神にましますことをどういうように
証明しているのですか?

神父 
すでに申しあげました通り、奇跡は神の全能によってはじめて行うことができます。
これは神だけに源がある結果です。ところが新約聖書には、キリストの御神性に
対する御教えを証明するために、主が行われました奇跡をたくさん記録してあります。
この奇跡は真昼間に、しかも殆ど常に群集の前で行われました。そうです、その大部分は
当の敵の面前で行われました。即ち、主の奇跡の真実であることは疑いませぬが民衆が
あちらこちらから盲目、つんぼ、中風病者を連れて来るのを見て主の御成功をそねんだ
ファリザイ人や律法博士の面前で行われました。

過去千八百年の間、最も厳しい批判がキリストの奇跡に向けられて来ましたが、
かえってその真実を立証するという結果になりました。キリストが敵に向って
おっしゃいました「父が全うせよとて我に授け給いし業、我が為しつつある業
そのものが、父の我を遣わし給いし事を証するなり」(ヨハネ5-36)
「我もし我父の業を為さずば我を信ずること勿れ、然れど我もし之を為さば、
あえて我を信ぜずとも業を信ぜよ。然らば父の我に在し、我の父に居る事を
さとりて信するに至らん」(ヨハネ10-37~38)というお言葉はまことに至言であります。

青年 
「復活」は最上の証明になる、というお話でしたね。

神父 
そうです。キリスト御自身の御復活は、ほかのどんな歴史的事実よりも大きな
証拠と証明を持っていまして、いかに懐疑的な人にとりましても、少しの疑いも
起さずに主の御神性を証明するはずです。もし主が神でいられませんでしたら、
その御予言通りに自分の力でどうして復活することができますか? 主の御復活は、
主の御死去を目撃した、或はこれを確信していて、その後主の生きていられるのを
見ましたその当時の凡そ十二人の歴史家から証言されています。前にも申しあげましたが、
この人達は信ずるに鈍き人達でした。事実、この人達は主を見、主に語り、主と共に
食事をし、手にふれてみて始めて信じました。
信じましてからは、この御復活をキリストに対する全信仰の基礎としました。
ユダの後継ぎを選ぶときは、キリストの御死去と御復活を
証言できる人を選びました。この人達はあらゆる危険をおかし、死に対する
主の赫々たる御勝利を守るために、喜んで命を投げ捨てました。

青年 
キリストは真の神なりということを述べているはっきりした文は、聖書の中にありますか?

神父 
(一)あります。主御みずから神なりとおっしゃっていられます。聖金曜日の朝、
主はユダヤ人の大司祭の前にお立ちになりまして「汝は祝すべき神の子キリストなるか」
という質問をお受けになりましたが、これに対しまして主は「然り」と言われました
(マルコ14-61〜62)。主は御受難の前に、「父よ、世界の存在に前だちて我が汝と
共に有せし光栄を以て、今汝と共に我に光栄あらしめ給え」(ヨハネ17-5)と、こういう
祈りを言われました。

(二)聖書はキリストに神という御名を与えています。「元始に御言あり、御言は
神と偕に在り、御言は神にてありたり」(ヨハネ1-1)そしてこの御言はキリストと
いう人になられました。「御言は肉と成りて我等の中に宿り給えり」(ヨハネ1-14)
とあります。

(三)キリストは「凡て父の有し給うものはことごとく我のものなり」(ヨハネ16-15)と、
神のすべての権能と完全を主張されました。特に聖書は主の御知恵を証明しています。
聖パウロはキリストの御事を述べて「キリストには知恵と知識とのすべての宝かくれあり」
と申しました。(コリント一2-3)

(四)聖書によりますと、神の光栄が主に与えられています。このことは「父は誰をも
審判し給わず、審判を悉く子に賜いたり。是人皆父を尊ぶ如く子を尊ばん為なり」
(ヨハネ5-23)という主御自らの御言葉ではっきりしています。

青年 
自ら進んで信ずる人にとりましてはこれはたしかに豊かな証拠ですが、かりに私達の
反対者が、聖書は今私達がいろいろ引用しました人達の手で書かれたものである、
ということを信用しない場合はどうですか?

神父 
キリスト時代にいました異教徒の歴史家のクキトゥスとプリニーがこれらのことを書いて、
またパレスチナから遠く離れたところに住んでいる人民に対する影響を、ローマ皇帝に
報告しています。それから、俗史によりましても、キリストと呼ばれる歴史上の人物が
現に住んでいて、世界始まって以来の最も完全な人物であるとみられていた、という
ことが証明されます。異教徒 が十分これを認めています。この承認だけで主の神に
ましますという証拠があります。

青年 
どうしてそうなりますか?

神父 
そうですね、彼等は主は神に近い者、最高の完全なる模型、前古未曾有の最高の聖人
であったということを認めています。ところで、もしキリストが自ら主張して
いられます御者、即ち神にましまさぬならば、どうして「完全なる模型」になることが
できますか? また、もし主の御公言がいつわりでありましたら、どうして主は
「前古未曾有(ぜんこみぞう:昔からまだ一度もその例を見ないほど珍しいこと)」
の最大の不信仰者、最大の非礼者、最大の涜神(とくしん)者」にならずにいられ
ましようか?
もしキリストが真の神でなければ、
 いつわりの教師であるばかりか、世界一のペテン師です。

キリスト教の敵がキリスト教の創立者について「神に近い者」などと言っていること
を考えますと、たとえ暗黙なものでありましても、彼等は主の御神性についてはっきりした
承認を持っていることが必ず見出だされます。ですから、論理上、主の敵がペトロのように、
主において「生ける神の子」を認めないのでしたらそれは自らペトロのようにひざまずいて、
主を自分達の御主として認めないからである、と結論せざるを得ません。

要するに、聖書に、或る時キリストが使徒達に向って、人々は主のことを如何に考え始めた
かとお聞きになったということが書かれています。民衆はキリストの神性と奇跡を知つて
いました。それで主を非凡の人物であると知っていました。しかし、主の外見がほかの人
と似ているのを見まして、彼等は主を別の大予言者と考え、或る者は洗者ヨハネと思い、
また他の者はエリヤかエレミアがこの世に戻って来たのだと思っていました。それで
「民衆は我のことを何と信じているか」と使徒達にイエスがお尋ねになったのです。
それでペトロがすべての者に代って、「汝は生ける神の子キリストなり」(マタイ16-17)
とお答えしました。使徒も民衆も正しい考えでした。キリストは神でもあり、また、
人でもあったからです。もしキリストが神にましまさぬなら、世を罪から贖うことは
できません。また人にましまさねば、この世で人々にまじって住んだり、人々のため
に死に給うことはでききせん。

キリストの御神性に肩を持つ聖書や、歴史理論によって提供されている証拠と、
これを反駁するために異教徒が持ち出す根もない議論を比較して考えますと、
異教徒になる方が、キリストの御神性の信仰者に
 なることよりも、はるかに強度の信仰を要する、
ということがすぐにわかります。
キリストは御降誕前の数百年間予言せられていられた御方で、全世界はその御来臨を
渇望していて、異教の予言者さえ世は天よりの教師を持たなければと言っており、
予言者がメシアについて予言していたことは、全部キリストにおいて成就し、キリストの
無類の御人格と罪のない御生涯 があったということをキリスト信者は見聞しています。
また主の多くの奇跡や御復活のことを、数年間日々主と共にあった十二人の心素直な
聖人から聞いています。王や皇帝がある限りの力を尽して妨害しましたが、主の宗教は
建てられ、あらゆる境遇の無数の男女が主の御遺芳(いほう:後世まで残る業績)を
たたえているばかりか、主に全心を捧げることの中に幸福を見出している、ということを
キリスト信者は知って見ています。

(目次6「神の教会」という正しい概念 につづく)


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