カトリック要理(公教要理)のご案内

カトリックの入口「カトリック要理」への熱い期待が近年高まっています。
そこでWEB要理や古本も含めて紹介します。

『教理対話』目次7 聖書と教会との関係

2022-11-12 13:55:16 | 日記
目次7 聖書と教会との関係

神父 
キリストが神にしてまた人でましますのと同じように、主がその御業をお続けに
なるためにお建てになった組織(教会)も、人間によって構成されながら、
神的な起原を持っているということは上述の通りです。キリストがその人性を
通じて聖業(みわざ)を完成するために、御父から「遣わされ」たと同じように、
キリストは人を「遣わし」、この人を通じて「主の民を罪より救う」(マタイ1-21)
御使命を続けられました。こういう仕組により、今日の私達は、それらの人を通じて、
主から聖なる助けを頂いていますから、私達は、キリスト御自ら伝道を受けた
千九百年前の人々に比べ、少しも不利なところはありません。主はかつて在しまし
今も在しまし、「昨日も今日もまた、永遠に同じイエス」であられます。
今夜は講義を簡単にしたいと思いますので、この前の講義のやめたところに
戻りましょう。あなたは今日の教派はすべてある意味で教会でないか、
とお尋ねになりましたね。

青年 
私はこれまでに何度もそういう説を耳にしたということを申しあげまして、
彼等がどういう口実であんなに大勢の信者を集め、また、その説をどういう
基礎の上においているのか、御説明願おうと思っただけです。

神父 
カトリック信者は「教会は受洗者が、同じ真の信仰、同じ犠牲、礼拝において
一体となり、また聖ペトロの後継者である教皇と、これに連結している司教の
権威の下にて同じ秘跡にあずかりつつ組織している団体である」ということを
誰も信じていますが、大抵のカトリックでない人達は、「教会」という
言葉の意味を極めて漠然としか知っていません。

礼儀正しい生き方をしていれば ----- ことに、イエスが自分達の救い主であると
公けに言い表しさえすれば -----、イエスの御功徳によって自分達は救われる
のであるという単純な信頼だけで、自分達はキリスト信者になれるのだと、
その人達は思っています。

その人達は教派に入るというのですが、多くの人はその必要はないと思っています。
メソジスト、パブテスト、プレスビテリアン、その他幾百という教派のどれを
選んでもいいと思っています。これらの教派は一つの点で ----- キリスト教的生活の
発展を導くために、聖書を読むことを信者に命令しているという点で ----- すべて
一致しています。彼等は個人個人が直接神に対して責任を持っていると教え、
これこれのことを信じよと要求したり或る信条を与えることは思想の自由の制限で、
或る義務を課することは行動の自由に対する干渉である、と教えます。

彼等は教会の義務は唯二つだけ、即ち洗礼を授けることと説教することであると
見ています。そして、「説教する」ということは、キリストを救世主として宣べて、
人々をしていい生活を送らせることであるとしています。「彼が汝等に命ぜしことを
ことごとく守るべく彼等に教えよ」ということには、ほとんど注意を払いません。
彼等は、キリストは私達に「聖書を調ベよ」と命じ給うたと主張しています。
しかし、事実キリストがユダヤ人達に向って仰せられた言葉は、主のことが
予言されている聖書をユダヤ人達は読んでいるという事でありまして、
キリストはただ事実をお話しになっただけで、命令をお出しになったわけではありません。

かりに主が現に「聖書を調べよ」とおっしゃったとしましても、旧約聖書の
ことだけをおっしゃったのです。当時の人々は、教会の事を書いてある新約聖書は
まだ全然見ていません。

使徒達自身でさえも新約聖書は全部を見てはおりません。キリストの後の
四百年間は教会の黄金時代で、幾万という人が信仰のために死んだほどですが、
当時の人々も新約聖書を全部見てはいません。その後の千年間も一般の
キリスト信者は聖書をよむことはできませんでした。それは、教会がこれを
かくしたからというのではありません。現在書物をドンドン作っている印刷術が、
1438年まで発明されなかったからです。

教会から離れて行った私達の兄弟が、「聖書を調べる」時に、キリストの
おっしゃいました「教会にも聴かずば」(マタイ18-17)とか、
「われ、我が教会を建てん」(マタイ16-18)とか、
「一の檻(おり)、一の牧者となるべし」(ヨハネ10-16)とかいうような
御言葉の真意がどうして判らないのか、と私は不思議に思います。
真の教会は、これを一つの頭を持つた一つの「体」「一つの王国」
「山上の一つの町」「一軒の家」「一つの羊の群」にたとえると良くわかります。
そうすれば他の教会と区別し鑑別できるのですが、どうしてあの人達はそれに
気づかないのでしょうかね。

青年 
それは結局、その人達が、救霊という神の御計画について全く誤った考えを
持っているからにほかならないのではありませんか?

神父 
そうです。私達はむずかしい聖句を解釈するときには、神の守り給う教会に、
その正しい解釈を仰がなければならないのですが、教会と離れて勝手に
「聖書を研究する」結果、種々の教派ができ、その為にキリスト教が異教徒に
嘲られるような始末になったのです。カトリック教会は、聖書を大切にし、
聖書を教えの基礎とし、また毎日これを読む信者に特別の御恵を与えておりますが
同時に教会は聖ペトロが注意したように、その中には「理解しがたき所ありて、
無学者と心の定まらざる者とは・・曲解して滅びに至る」(2ペトロ3-16)と、
信者に注意を与えております。

青年 
私の友達に一人、聖書を良く読む人がいます。数日前、この人に難解の聖句が
本当に判るのかと尋ねて見たところ、「うん、聖霊の御助けによって、読者に本当の
意味が判るのです」といいました。

神父 
そこでもう一つ質問すると良いところでしたね、「もしそれが事実なら、
その聖霊のお助けがあるのに、どうしてすべての聖書読者が同じ聖句を
同じように解釈するようにならないのですか?」と尋ねてみるのでしたね。

このほかにも、こう質問すると良かったですよ。「あなたは、あなたの
読んでいられる本が事実神の御言葉であるということがどうして判るのですか?」
「これは翻訳された本ですが、この訳が信頼できるということはどうして判りますか?」
「これは原書の写しから翻訳したものですが、この写しが正確で、省略や変更が
ないということはどうして判りますか?」などです。聖書が神の御言葉を含んで
いるということは、カトリック教会の権威によらない限り、彼も確信できないはずです。
彼は、聖書の中に何らその保証がないのに拘らず、「人の信ずべきことは聖書だけで
決定され、聖書だけでわかる」と勝手に想像しているのです。

青年 
カトリックの聖書は、すべての点で、プロテスタントの使っているものと同じですか?

神父 
新約聖書は普通全然変りはありませんが、旧約聖書は私達の方が七書だけ
多くなっています。カトリックでない人達は皆がみな一致してこの七書を
排斥しているわけでありません。なぜなら、他の書が神の御言葉である事を、
彼等に信ぜしめるところの権威が、同じくこの七書も神感による神の言葉である事を、
彼等に信ぜしめているからです。キリストは、彼等のいわゆる「経外書」である
この七書を是認なさっていました。なぜなら、主は、この七書を含んでいる旧約聖書の
定本から頻繁に引用なさったからです。主の当時は旧約聖書に二つの定本がありまして、
その一つはこの七書を含むギリシャ語本で、もう一つの方はそれを入れていない
ヘブライ語本でした。ですが、新約聖書が旧約から引用しているおよそ350の引用文の中、
300はカトリック教会の使っている訳本から出ています。

(目次8 キリストの教会は「一の檻、一の牧者」であらねばならぬ につづく)
 ➡https://blog.goo.ne.jp/eiennomisa/e/120d4a5f5b98c3ff76a1df43e8c30d6c
 ➡目次に戻る  https://blog.goo.ne.jp/eiennomisa/e/64524e64257cc8eeaebd3b1e23df8420


最新の画像もっと見る

コメントを投稿