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『教理対話』目次 03 堕落後の人類を救済する神の御はからい

2022-11-12 13:56:49 | 日記
目次 03 堕落後の人類を救済する神の御はからい

神父 
ところで、前講義はどこまででしたかね? どうも教えを受けに沢山の人が
来るものですから、すぐに忘れてしまいます。

青年 
ええ、原罪の状態に生れて来る人が、成聖の恩恵をいただくことによりまして、
神の御友情を回復することがどういうふうにしてできるようになったか、
ということを説明するとおっしゃいました。

神父 
やあ、そうでした。この講義で、神は限りなく仁慈にましまし、愛にみち、
情深いお方であることがわかります。ですが、この問題を正しく
理解しますには、三位一体(さんみいったい)のことを多少知っている
ことが必要です。あなたはこの言葉の意味を知っていますか?

青年 
いいえ。

神父 
これは神は一つにましまして、その中に、父たる神、子たる神、
聖霊たる神とよばれる三つのペルソナ(位格)がある、ということです。

青年 
ひとつ今のお話に全然わからないことが二つあります。それは
(一)神がペルソナであるということです。
私は被造物だけがペルソナであると思っていました。それから
(二)一つの神が三つであるということです。

神父 
あなたの最初の問題にお答えしますには、まず、人間ばかりか、
全て霊なるものは、知性と自由意志を持っていますのでペルソナ(位格)である、
という事に注意せねばなりません。
ですから、天使はペルソナであり、また神も同じです。私達人聞も同じように
知性と自由意志を持っていますので、それだけでペルソナです。ですから、
私達の人格は本来霊魂とその理性及び自由選択の能力から由来するのです。
もし私達がこの肉体だけでペルソナになるのでしたら、獣も人格になることでしょう。

第二の問題の方は、まだあなたは全然教会の教えを理解していられませんね。
神は本性上一つです。しかも三つのペルソナともこの神性をもっています。

青年 
すみませんが、もう少しはっきり話して下さいませんか、
とても私の頭では考えられません。

神父 
なにもびっくりするようなことではありません。あなたばかりか、
私や最大の神学者でも、キりストが三位一体についてお示しになりましたことを、
十分に理解することはできません。
これは、私達の十分に理解し得ない御啓示が幾つかあるその中の一つです。

神の御本性は、創られたものの知性をもってしては十分にこれを
理解することはできません。知力に限りある被造物が神を十分に
理解することができましたら、神はもはや神でなく、また神は無限ではなく、
有限になってしまいます。これは私達の理解し得ない幾つかの信仰の教義の
一つである、と私は言いましたね。本性において私達の理解し得ない無数の事物が
あることを考えますと、超自然の秩序の中にも非常に沢山な不思議がありそうに
思われますが、そう沢山ありはしない、ということは、ちょっと変かも知れませんね。
とにかく、三位一体は神の御言葉を信じて、しかも理性で十分に理解し得ない一つの
玄義(奥義・神秘)、真理であります。

青年 
聖書は三位一体のことをどこに述べていますか?

神父 
ヨハネ第一の手紙の第5章第8節に「天において証するもの三つあり、
霊と水と血とこれなり。この三つのものは一に帰し給う」とあります。
キリストは使徒達に「父と子と聖霊との御名によりて」
(マタイ28-19)洗礼を授けよと御教えになりました。それから、
マルコ福音書の第1章、第11、第12節に、キリストが洗せられ給うた時、
聖霊が鳩の形でキリストの頭上に現れ、聖父が「汝は我が愛子なり」
とのたもうたとあります。こういう聖句の中に三つのペルソナのことが
述べられています。

青年 
それでは、それは別々のペルソナのようですね。

神父
そうです。これはお互いに異った三つのペルソナです。
聖父は聖子ではありません。また聖霊は聖父でもなければ聖子でもありません。
(私達の霊魂の場合にも、悟性は、意志でもなく、記憶でもありません。
しかもこの相異った三つの力は、どれも霊魂そのものの本性に属しています。)

ですが、このことは、前に申しあげましたように、理解しようと努める
必要はありません。また、その三つのペルソナと神の一体との関係を私も
説明できません。とにかく、私達は、三つのペルソナは同じ一つの神で
いられますから、お互いに完全に等しいお方であり、また、
どれも同じ一つの神性を持っていられますから、同じ一体の神に在す、
という事を知っています。

さて、これで約束の講義を始めることができます。人類の始祖の
アダムが罪を犯しまして、神の御友情と恩恵を失うということに
私達すべてのものが巻きこまれましてから、天国は人類に向って閉ざされて
しまいました。それは、これまでに勉強しましたように、神を見奉ることが
できますためには、成聖の恩恵を持っているということが条件の一つであるからです。

もし神が全然御あわれみを御示しになりませんでしたら、アダムとエワは、
自ら進んで同じ罪を犯したのですから反逆の天使と同じように、
永遠にみじめな運命にあったことでしょう。
しかし、私達の最初の親達は、外部からの原因に誘惑されたもので
ありますし、現実に罪を犯していない将来の無数の人間がこれに
巻きこまれるという問題がありますので、神はその無限の御あわれみをもって、
人類の救霊の為に道をお開きになられました。

青年 
たしかに一つのなぐさめですね。

神父 
そう、私達にとりましては一つのなぐさめですが、これを完成なさいます為に、
神は大変な犠牲を払われたのですよ!

青年 
大変な犠牲をお払いなったんですつて! 人間を赦してそれでおしまいに
するということは、神におできにならなかったのですか?

神父 
おできになりました。しかし、神は正義そのものでいられますし、
また、罪に対して無関心でいることはおできになれないものですから、
正義の要求が満たされるという事が必要だったのです。
罪が完全に償われる事を要求されたのです。しかし、アダムは
それができませんでした。

青年 
アダムはどうしてそれができなかったのですか? 罪を犯したものは
痛悔によってそれを償うことができそうなものですね。

神父 
いや、理性と自由意志を与えられている被造物は、神に対して背くと
いうことはできますが、その罪を償い得るものは、無限に貴いお方だけです。

青年 
私にはわかりません。

神父 
では、こうです。罪は、その罪を受ける御方が貴ければ貴いほど大きくなります。
それで神に対する罪の中に含まれている侮辱は、侮辱を受け給う神の大きさと
貴さを以て量られます。そして、神の貴さは無量無限です。人間の善業は
どんなものであっても、限りある人間の能力より優るということはありませんから
有限です。そして人間の最上の善業でも、神が厳格な正義をもって
見られますものと比較すると雲泥の差があります。

青年 
わかりました。人間は払うべき無限の負債があって、しかもお返しする方法は
有限なんですね。

神父 
その通りです。三位一体の第二のペルソナにまします神の聖子は、乙女マリアより
お生れになります時、人の性をおとりになりました。神の聖子は必すしも人ではない
のですが、御託身(受肉)の時に人になり給うたのです。この「御託身」という
言葉は、神の御子が神としてそのままマリアの御胎内で私達と同じ肉体と霊魂を
御取りになられた、ということです。ですから、イエス・キリストは聖父と同じ
神性を持っていられますので、真の神にましまし、また、マリアの御子として
私達と同じ肉体と霊魂を持っていられますので、真の人です。

キリストは人となり給うて、人類の罪にふさわしい償いをこの世で天に
まします御父にお捧げになりました一人の人──三位一体の第二のペルソナ──
であります。こういうわけで私達はキリストのことを全人類の救い主と
申し上げるのです。キリストが罪の償いをなさいますと、この償いは、
神の御尊厳を犯しました罪が無限であると同じょうに、無量無際限の
ものになります。聖ヨハネは三位一体の第二のペルソナのことを「御言葉」
といっています。また、「御託身」のことをこういうふうに述べています。
「元始に御言葉あり、御言葉は神と共に在り、御言葉は神にてありたり。
……かくして御言は肉と成りて、我等のうちに宿り給えり」(ヨハネ1-1〜4)

青年 
それはたしかに神の御いつくしみと御憐みですね。人間には本来これを
いただく価値はありません。この地上で「キリスト」といわれていられた
御方が人となり給うた神の聖子なのですか?

神父 
その通りです。

青年 
ですが、アダムとキリストの御時との間には数千年も経っていませんか?

神父 
そうです。時を計算する聖書の方法に従いますと、四千年以上になります。

青年 
そうしますと、その間にいたアダム、エワの子孫は全部神の御償いの
御利益にあずかったのですか。

神父 
そうです。神はアダムとエワに救世主のことを御約束になりました。
それからその後におきましては、他のものを──予言者を通じてこれを
なさいました。そして前以て御来臨になられる救世主を信仰し、
また他の条件、たとえば掟を守るというようなことを果すならば
という条件で、キリストの御贖いの御功徳をその人達の霊魂に施されました。

青年 
それでキリストの新しい面がわかるようになりました。キリストは
いかなる御方かということや、その御業績はこれまで全然私には
わかりませんでした。そういうわけでマリアもまた貴い御方になりますね?

神父 
そうです、あなたはものの道理にふさわしい感覚を持っていられますが、
嬉しいことですね。永遠の昔に、神の聖子が人になり給うとおぼしめされました時、
御自分の肉と血をおとりになる一人の方(母)をお考えになっていられましたと
いうことは明らかなことです。

そのお方はその威厳においてこれまでの被造物も持たなかったような
価値がなければなりません。ですから、主はこの方の霊魂をお創りに
なられます時に、御自分の贖いの御功徳をこれに適用され、そして、
原罪をお除きになりました。主が罪を贖われますために人性をおとり
になるときその御母になる方が、罪のためにけがれているということは、
ふさわしいことではありません。あなたは私達がマリアの無原罪の御宿り
ということを話すのをお聞きになられるでしょうが、これはマリアが
お宿りになられました時、その存在の最初の瞬間から、原罪を免れていられた、
という私達の信仰を表しています。

青年 
無原罪の御宿りは「処女懐胎」と同じことですか?

神父 
いいえ。マリアはほかのすべての人間のように、人たる両親の自然の道によって
お生れになりました。「処女懐胎」はキリストだけの場合です。主の肉体が聖霊
によって処女の胎内に形作られたからです。
(ルカ1-35)

青年 
あの「天使祝詞」という短いお祈りの意味がよくわかりました。
その中でマリアのことが「恩恵満ちみてる」といわれていますね。

神父 
そうです。それはマリアに貴い召命を知らして神の御旨に従う旨の
同意を受けとるために、全能の神から遣わされたガブリエル大天使の言葉です。
この事はルカ福音書の中にありますからお読み下さい。その中に、
マリアは処女であった、そしてすべての女の中で祝せられる、
と録されています──それはマリアは原罪がなく、また、神の御子の母として
すべての女の中から選ばれたからです。また、その中に、マリアは天使の御告
をうけてためらったということが記されています。

彼女にはどうして母になるのか、どうして神に献げられた処女のままで、
永久におることができるのか、ということがわからなかったからです。
それで天使は、奇跡によって、聖霊によってみごもり「至高者の子」と
呼ばれる御子を生むのである、ということを知らせました。使徒信経はこの玄義を
「聖霊によりて宿り、乙女マリアより生れ」という言葉を以て表しています。
それでキリストには、人たる父親はなく、マリアの夫であつた聖ヨセフは
キリストの保護者、養父なのです。

青年 
神父さん、あなたはこの講義の初めに、神は御いつくしみと愛にみちた
神であるということを話そうとおっしゃいましたが、たしかにそうですね。
私はこの勉強を決してやめようとは思いません。神はこれまでよりもずっと
偉大な貴い御方のように感じられて来ましたが、また、同時に、
私はもっと神に親しくなったような感じがします。神は私に深い御心を
持っていられるように思われて来ました。


目次 04 キリストの御生涯における主な出来事 


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