2014(平成26)年9月8日(月)快晴 自宅を8時30分 再出発
神威岬灯台
(女人禁制について)
北海道には義経伝説がたくさんあるが、ここでも絵に書いたような物語が
展開される。日高アイヌの酋長の娘で、名はチャレンカという。このピリカ
メノコが蝦夷地まで逃れてきた義経を慕いここまで彼を追ってきたが、すで
に立ち去った後だった。新しい彼女ができたと思い込んだメノコは失恋した
我が身を憂い海に身を投じた。それが神威岩になったという。
女性が乗った舟が神威岬を通ると転覆させられたためこの一帯を女人禁制
にした。
なにせ義経は大陸に渡って成吉思汗になったという謂われもあるくらいだ。実際には
和人(シャモ)がここより奥地へ入り定住でもするようになれば、莫大なニシン漁の権利、
権益を失うことを危惧した松前藩による規制であったようだ。やがて江戸時代の
安政年間になり蝦夷地全域は松前藩から江戸幕府直轄になり、禁制は解除された。
「アイヌ民族なんてもういない」・・・札幌市議がツイッターに書き込み、物議を醸し出し
ているが、アイヌ語でアイヌとは人間を意味しており、世界中の○○民族は、その前に
すべての人々は民族であると同時に「人間」なのだ。
(念仏トンネルについて)
神威岬灯台は1888(明治21)年に完成した。灯台へは険しい岩の道を余別
から40キロ歩かねばならない。岬に近い崖道は1キロも続き、子供や女性
にはとても恐ろしく、困難だった。1912(大正元)年11月29日朝、当時
の草薙灯台長夫人と3才の次男、土谷補助員の奥さんが、天皇誕生日お祝い
の食料品を買出しに余別の集落まで行く途中、大波にさらわれ海に転落し行
方不明になった。村人たちはワクシリのこの危険な道を避けるためトンネルを
掘るよう役所に陳情したが、一般の道路ではないため工事はしてくれず、
村人が協力してトンネルを掘った。1914(大正3)年のことだ。
これが難工事で、トンネル工事の専門家がいるわけでもなく測量もおおざっ
ぱだった為、両側から掘り進めるトンネルは中央で食い違い出会えない。
そこで両方で秋祭りの囃しの時に使う鐘を打ち鳴らしてみると、かすかに聞
こえ互の位置を確認できた。少しずつ近づき、タガネを打つハンマーを振り
上げる村人は誰ともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えるようになった。
きっと波にのみ込まれ死んだ三人の冥福を祈る想いがそうさせたに違いな
い。ワクシリのトンネルは4年後の1916(大正7)年11月8日ついにつな
がった。全長60mのトンネルは天井は低く、中央でクランク状になってつ
ながっているので、光が届かず真っ暗だが村人の手で1ノミ1ノミ掘られた
心暖まるトンネルが開通した。神威岬灯台は1960(昭和35)年に自動化、
灯台職員や、その家族が岬の灯台に住まなくてもよくなり、その三人の命が
奪われた痛ましい事故が起ってから実に48年もの後になってからのことだ
った。
北海道青少年叢書(16)
北国に光を掲げた人々
北の灯台を守る人々 小山 心平著
編集発行人 (財)北海道科学文化協会
より引用
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