雷座の部屋

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訃報 山本小鉄

2010-08-29 23:17:51 | プロレス・格闘技関連
1971年当時の日本プロレス。

レスラーはジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、
吉村道明の四天王に大型新人の坂口征二。
山本小鉄と星野勘太郎のヤマハ・ブラザース。

テレビ中継のリング上にいたのは上記の7人が主だったレスラー。

もちろんそれ以外にもグレート小鹿、上田馬之介、大熊元司、松岡厳鉄、
高千穂明久といったレスラーもいたがまだまだグリーンボーイの時代の
レスラー。(小鹿と上田はアメリカ帰り、高千穂は後のカブキ)

そんな日本プロレスを追放され、翌年新団体「新日本プロレス」を設立
したアントニオ猪木。
しかし、【会社乗っ取り計画の張本人】とされた猪木について行く者
はほとんどいなかった。

その猪木と共に新日本プロレスに参加したレスラーに山本小鉄がいた。
猪木以外で知名度のあるレスラーといったら「山本小鉄」だけだった。
「藤波?」
まだデビューして1年もたたない単なる新人レスラー。

豊登の参加はサプライズだったが、本当に新日本プロレスに知名度の
あるレスラーは猪木と山本小鉄のふたりだけだった。

そして「過激なプロレス」「ストロング・スタイル」といった新日本
プロレスの基礎を作ったのはもちろん新日本の道場。
その道場に鬼コーチとして「若手レスラー」を鍛えた人こそ
山本小鉄
だった。

彼がいたからこそ、藤波、小沢(キラー・カーン)、長州、前田などの
凄いレスラーたちが育ったのだろう。

山本小鉄が猪木についていった理由。
それは知らない。
ただ、日本プロレス時代、くそ真面目に【一番練習をしていたレスラー】
が誰であったかを知っていた。
さらに猪木たちが改革しようとした会社、日本プロレス。
その幹部たちが自分たちの血や汗で稼いだお金を湯水のごとく銀座などで
毎晩散財していたを許せなかったのではないだろうか。

山本小鉄もまたくそ真面目な性格。
日本プロレスに残るか、猪木について行くか。
新日本プロレスに参加したのは当然だったような気がする。

今日8月29日のニュース。
「山本小鉄さん急死」

サンケイスポーツによれば
【元プロレスラーで新日本プロレス顧問の山本小鉄さんが28日
午前6時42分、低酸素性脳症のため亡くなった。68歳。】
との事。

引退後もシャツがはち切れそうな肉体をしていたように見えたけ
ど…

今年の5月に亡くなったラッシャー木村も68歳。
山本小鉄も68歳。
今の寿命を考えれば68歳は若いよね。

サンスポ山本小鉄さん急死 新日本プロレスの鬼軍曹2010.8.29 13:38

ご冥福をお祈りいたします。





最初の2分間が新日本プロレス旗揚げ戦。
そこのリング上にいたのは猪木、豊登と山本小鉄の3人。
(レフェリーはユセフ・トルコ)


1969年に行われた第11回ワールド・リーグ戦。
猪木がクリス・マルコフを破って初優勝したリーグ戦。

その初戦、日本人組は馬場がゴリラ・モンスーンに、猪木が
ボボ・ブラジルに敗退する波乱の幕開け。
その波乱のリーグ戦で金星をあげたのが山本小鉄。
初戦でジャイアント馬場に勝ったゴリラ・モンスーンから勝利
をあげたのだった。

どうしても星野勘太郎とのコンビ、ヤマハ・ブラザースとして
活躍が語られる事の多い山本小鉄。
でもこのワールド・リーグ戦はシングルの総当たり戦。
それで自分の倍もあるような巨体のゴリラ・モンスーンに勝った
のだから、この時は嬉しかっただろうなぁ~

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