「令和」と新年号が決まり、当然のように「ああだこうだ」とケチがつく。
いろんな意見があって良いのだろうが、とにもかくにも決まったものに今更ケチをつけても仕方がない。
のちに「令和天皇」と呼ばれることになる現皇太子に対する非礼にもなろう。
そもそも元号に対する過剰な思い入れがあるから、そうした批判も生むのだろう。
元号に大昔の中国的意味合いはもうない。
ならば不要かと言えば、そうとも思わない。
「昭和世代だから」「平成だから」と年代論をぶつには都合が良い。
もちろん西暦でも可能で、激動の70年代とか言えるのだが。
「令和」の「令」は命令の「令」だからというのが批判の主軸。
しかし令嬢の「令」でもある。 都合良く解釈すれば良い。
昭和は昭和20年を境に真っ二つに分かれる。
前半は戦争の時代で、後半は高度成長の時代。
つまり元号が、時代を作るのではないということを分かりやすく証明している。
「令和」に時の為政者がどんな思いを込めたのかは知らないが、国民はそんな思惑の外で自由に生きれば良い。
政治家が庶民の暮らしを左右することは否定しないが、どっこい庶民は逞しく生きることもできる。
令和元年。 「令」の意味を決めるのは、令和を生きる国民次第では・・・。