
昨日少女漫画雑誌「マーガレット」に発表された「ベルサイユのばら 新作エピソード4 アラン編」は、あまりにも重く深い内容だった。初めて読んだ時、打ちのめされそうになった。
マーガレットに連載を開始して今年で41年目。原作者の池田理代子さんは昨年から不定期に新作エピソードを発表している。既に「アンドレ編」「ジェローデル編」「フェルゼン編」を描き上げ、今回は革命後のアランにスポットを当て、これまでで最長の56ページの作品に仕上げた。これまでの3作品と比べ、今回の「アラン編」は一番読み応えがあり、ずしりとくるものにどう向き合えばいいか戸惑った。
「アラン編」は決して懐古趣味のセンチメンタルで甘い内容ではない。漫画「ベルばら」の愛読者にとって一番つらい1789年7月13日、14日のあの場面から始まる。オスカル・アンドレ・ディアンヌ----亡くなった人たちが語る言葉は細い字で印刷されている。オスカルを名前で呼ばず、アランは「あの方」「隊長」と言って語りかける。漫画では「あの方」と一度も言うことはなかった。それだけオスカルへの想いが深く、畏れ多いのだろう。けれど亡くなった人たちよりも、あとに残された人たちの悲しみや苦しみがひしひしと伝わってくる今回のエピソード。
池田先生はたとえオスカルであろうと、死の場面は容赦しない。死は誰に対しても手加減なくやってくる。ご自分がお創りになったキャラだから愛着があるだろうに、情に流されることなく、軍人としての生涯をまっとうしたオスカルにふさわしい壮絶な最期を描いている。今回のエピソードでも自分の体内から流れ出た血の海に染まる石畳の上で、陥落するバスティーユを眺めるオスカルが描かれている。オスカルファンの方には、このコマを見るのはかなりつらいはず。しかし私は、オスカルにはこのような最期が一番ふさわしいように思う。胸の病いでじわじわと迫りくるその日、あるいは7月14日を生き延びたとしてもその後、もしギロチンにかけられるようなことがあったとしたら、そのほうがずっと切ないし不本意に思う。
そしてアラン。オスカルが衛兵隊に異動した当初は「女の下では働けない」と猛反発していたが、やがて彼女に心酔し愛するようになる。しかしそれは永遠に叶わぬ思いだった。原作ではアランのオスカルへの深い心情は語られなかったが、今回のエピソードでは、オスカルのためなら「俺の持っているものすべてを 何もなければ この命さえも すべて差し出して かまわないと俺は思っていた。それが人を愛するということなのだと ようやくわかった」と言っている。愛する人のためなら、自分の命すら惜しくない----究極の愛、無償の愛。もはや男女の愛を越えている。41年の時を重ね、池田先生ご自身もいろんな経験をされてきた。修羅場も味わったことだろう。その中で到達した「本当の愛とは?」の答えがこれだろうか?命を差し出しても惜しくない----おそらくこれはアンドレも同じだろう。アランの前から可愛い妹ディアンヌ、慕うオスカル、固い男同志の友情で結ばれたアンドレが去っていく。どれほどつらかったことか。アンドレはオスカルを庇って命を落とした。けれどアランはオスカルを守り切れなかったことを、生涯悔やんだのではないだろうか。アランは、アンドレとオスカル両方の死を看取っている。どれほどつらかっただろう。
(2)に続きます。
マーガレットに連載を開始して今年で41年目。原作者の池田理代子さんは昨年から不定期に新作エピソードを発表している。既に「アンドレ編」「ジェローデル編」「フェルゼン編」を描き上げ、今回は革命後のアランにスポットを当て、これまでで最長の56ページの作品に仕上げた。これまでの3作品と比べ、今回の「アラン編」は一番読み応えがあり、ずしりとくるものにどう向き合えばいいか戸惑った。
「アラン編」は決して懐古趣味のセンチメンタルで甘い内容ではない。漫画「ベルばら」の愛読者にとって一番つらい1789年7月13日、14日のあの場面から始まる。オスカル・アンドレ・ディアンヌ----亡くなった人たちが語る言葉は細い字で印刷されている。オスカルを名前で呼ばず、アランは「あの方」「隊長」と言って語りかける。漫画では「あの方」と一度も言うことはなかった。それだけオスカルへの想いが深く、畏れ多いのだろう。けれど亡くなった人たちよりも、あとに残された人たちの悲しみや苦しみがひしひしと伝わってくる今回のエピソード。
池田先生はたとえオスカルであろうと、死の場面は容赦しない。死は誰に対しても手加減なくやってくる。ご自分がお創りになったキャラだから愛着があるだろうに、情に流されることなく、軍人としての生涯をまっとうしたオスカルにふさわしい壮絶な最期を描いている。今回のエピソードでも自分の体内から流れ出た血の海に染まる石畳の上で、陥落するバスティーユを眺めるオスカルが描かれている。オスカルファンの方には、このコマを見るのはかなりつらいはず。しかし私は、オスカルにはこのような最期が一番ふさわしいように思う。胸の病いでじわじわと迫りくるその日、あるいは7月14日を生き延びたとしてもその後、もしギロチンにかけられるようなことがあったとしたら、そのほうがずっと切ないし不本意に思う。
そしてアラン。オスカルが衛兵隊に異動した当初は「女の下では働けない」と猛反発していたが、やがて彼女に心酔し愛するようになる。しかしそれは永遠に叶わぬ思いだった。原作ではアランのオスカルへの深い心情は語られなかったが、今回のエピソードでは、オスカルのためなら「俺の持っているものすべてを 何もなければ この命さえも すべて差し出して かまわないと俺は思っていた。それが人を愛するということなのだと ようやくわかった」と言っている。愛する人のためなら、自分の命すら惜しくない----究極の愛、無償の愛。もはや男女の愛を越えている。41年の時を重ね、池田先生ご自身もいろんな経験をされてきた。修羅場も味わったことだろう。その中で到達した「本当の愛とは?」の答えがこれだろうか?命を差し出しても惜しくない----おそらくこれはアンドレも同じだろう。アランの前から可愛い妹ディアンヌ、慕うオスカル、固い男同志の友情で結ばれたアンドレが去っていく。どれほどつらかったことか。アンドレはオスカルを庇って命を落とした。けれどアランはオスカルを守り切れなかったことを、生涯悔やんだのではないだろうか。アランは、アンドレとオスカル両方の死を看取っている。どれほどつらかっただろう。
(2)に続きます。
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