
関西学園の建物のエントランスから撮影すると少し高い位置から撮影が出来る事は以前から承知していました。この眼線はシゴキュウが一番美しく見えるアングルです。後は夕方に西から太陽が射すだけですが、さすがに梅雨の時期だったためにあまりチャンスがありませんでした。この日は授業が終わり受講生だけで復習をしているときに雲の切れ間から西陽が射してきたのでトイレに行くふりをして寮に戻りカメラを持ってエントランスへ向かいました。たしかこの写真1枚だけ撮影したら太陽は雲の中に入ってしまったと記憶しています。 85,07,09 関西鉄道学園 C59166号機
国鉄からJRになっても吹田の鉄道学園(JRになってからは社員研修センター)にC59166号機が静態保存されていました。屋外展示ですのでけして保存状態は良くはありませんでしたが時折ゴマスリ軍団が清掃活動をするおかげで(あいつらはゴマスリなので”おかげ”と言う言葉は適さない気もしますが・・・)それなりに見れる状態で保管されていました。特に公園等だといの一番に盗難に遭うバルブや計器類がほぼ完ぺきな状態で遭ったのは特筆されました。
それが福知山線事故以降、同事故のメモリアル施設を建設するためと言う理由であっけなく解体されてしまいました。今だかつてこの処遇には納得いきません。なんでC621号機は広島学園から梅小路蒸気機関車館へ移転させたのにC59166号は解体してしまったのか?
私も”大好きな蒸気機関車を3形式あげろ”と言われればD51とC57に迷わずC62を選ぶと思います。しかし日本の蒸気機関車の完成された本当の形式はC59だということも知っています。やはり旅客列車が高速化されている中で使いやすさから言うとC62ではなくC59ではなかったのでしないでしょうか?それはC62はお召列車を一度もけん引していないのに対してC59は幾度どなくお召列車けん引の栄光を与えられています。これからしてもC59が日本の幹線旅客けん引に適していた形式である事がかがうかがい知れます。
しかもこのC59の保存はきわめて少なく166号機以外には梅小路蒸気機関車館に呉線で活躍していた糸崎機関区のC59161号機他3両が保存されているだけでした。それだけ貴重だったC59をいとも簡単に解体してしまったJR西日本幹部の判断は後世に残る失態だった事は明白です。今持ってこのC59166号機の解体には胸を痛めています。
さて話が変わって私の様な関東の人間がなんで吹田に保存されていたC59についてこれだけ語るかと言うと私が1977年当時、国鉄に入社して現場着任前の新人研修がこの関西鉄道学園だったのです。憧れの国鉄に入社して意気揚々とやって来た関西学園の正門にこのC59166が出迎えてくれたわけです。
ここで4ヶ月間国鉄職員としての教育を受けたわけですが○生(マル生)崩壊後の鉄道学園は現場を追われた管理者の墓場みたいなところで活気がない空間でした。それに対して国労・動労は学園に労働運動を持ち込むな!という当局の言葉も何処吹く風でビラなどは貼りませんでしたが授業が終われは集会が毎日のようにあり、その後は激励会とか歓送迎会とかいろいろ理由をつけて、大宴会の毎日で未成年の私にお誘いはほとんど来ませんでしたが夜な夜な宴が繰り広げられていました。まぁ~あれが”国鉄とはなんぞや!”と言うことを知る良い機会だったのかもしれません。
そして8年後の85年7月、私は再び関西鉄道学園の生徒となりました。その時の講座名は”新幹線検修幹部養成講座”と言う名前でした(たしか?)。そう、今は所属する労働組合が会社側とは反りが合わず差別につぐ差別を受けていますが当時はこんな私も当局から期待されていた職員のひとりでした。そのため現場長の第一推薦をもらい”10年後、20年後には指導的管理者、いや現場長になる気迫でこの講座を受講してほしい!”と当時の現場長から肩を前から叩かれ(今は後ろからだけ叩かれる事があります)、激励を受けて入所した記憶があります。たしかにこの講座ではかなり高度な仕事の勉強もたくさんありましたが今でいう管理者マネージメントみたいな授業も多数ありました。
また講座の特情から国鉄本社や大鉄の幹部がやってきて毎日一授業講義をしていった事を覚えています。その中で大鉄職員局長がやってきて職員の規律粛清の講義をしたのですが最後に”私たちはつい先日西明石で列車脱線事故を起こしてしまっているので君たちの前で偉そうな事は言えない立場であり、立場をわきまえない発言もあり申し訳ない”と私たちに頭を下げたのが今でも良く覚えています。その時、私はこの人なら知っているかも?と思い当時、鷹取工場に入場した24系事故車のうちどれだけ現役復帰するかを質問したところ、後日、大鉄から丁寧に復帰車号とそのスケジュール表が送られて来ました。
それたけの講座でしたからその数年後にはこの時のクラスメイトが現場長になっていたことを鮮明に覚えています。