↑ 僕のおばあちゃんです。
僕は小さい頃から、おばあちゃんっ子で
お兄ちゃん達から泣かされてはよく、おばあちゃんの部屋に逃げてました。
「そうか。もう泣かんとき。チョコレートあげよう」
って、よく慰めてもらってました。
介護の世界に入ったのも、おばあちゃんがいたからかも知れません。
おばあちゃんは、孫の僕が言うのもおかしいけど、
人情深い性格で、頭が良く、人望が厚い人だったと思います。
野菜作りの名人で、料理も上手く、時々、持たせてくれる漬け物は絶品です!
そんなある日、胃癌が見つかりました。しかも末期の癌です。
胃癌が見つかってから、数日後、自宅で大量の吐血。
おばあちゃんは地元の総合病院「京都中部総合医療センター」へ緊急搬送されました。
おばあちゃんの状態を聞く僕たち家族に、ドクターは
「状態はかなり悪いです」
と教えてくれました。
だんだんと話しもしはらへんようになって、意識もなくなっていくおばあちゃん。
ベットの頭には「絶飲食」と貼られ、点滴と、輸血、それに痛みをとるモルヒネが投与され、
ベッド脇には「ピッピッピッ」とモニター。
実はおばあちゃん。緊急搬送されて僕と僕の母親だけになった時に、ドクターに
「私にはようけぇ家族がいてますさかいに最後は家で迎えようと思てます」
って言ってはったんです
・
なのにこの状態。
・
現実は・・・
色んな医療機器が繋がれ、おばあちゃんのことを心から大切に思っている親戚が毎日のように病室に集まる中、僕には言えなかった…
・
「おばあちゃんはこんな最後を望んでなんかいない。家に連れてかえろう」
なんて…
これでいいのかぁ。本当にこのままおばあちゃんはこの病室で最後を迎えていいのかぁ。
心の弱い僕は葛藤はするものの、時間だけが過ぎていきました。
そんなときに声をあげてくれたのが、おばあちゃんの娘、カヨコおばさんでした。
「もう、こんなお母さんみたくない。コウタ、家に連れてかえれるか?」
「よしきた」とばかりに早速ドクターに交渉にいき、家に帰ってからの安心してみれる環境を整え、
ひだまり(当時運営していたデイサービス)から送迎車を持ってきてもらいました。
ドクターは
「車の中でということも考えらるので、くれぐれも気をつけて」
と言われ、みんなで覚悟をきめて病院を後にしました。
病院から家までの20分がめちゃくちゃ長く感じてやっと家に到着
「おばあちゃん。神殿やで!
おばあちゃんが建てた神殿に帰ってきたで」 (カヨコおばさん)
帰ってきた日↓
自分の部屋でヤレヤレって感じかな。
ちょっと疲れたなぁ。(一緒に写ってるの、ユウゾウおっちゃんです)
カヨコおばさんの
「帰って来れてよかったなぁ」
の言葉に
「ほんまやなぁ、そら家ほど良いとこないわ」
と笑顔で言ってくれました。
僕は病院から家に帰る道すがら
「なんか無理に連れて帰ってきたみたいになってしまった。でも本当に帰ってきたので良かったんかぁ?」
ってすごくすごく不安に思っていました。
なので、おばあちゃんのこの言葉を聞き、
「良かったぁ。やっぱり僕とおばあちゃんは一緒の気持ちやったんやぁ」
と思ったら、思わず涙が溢れてしまいました。
ほんで、ほんで、次の日の朝です!
おばあちゃんの部屋から、弟のナツキの僕を呼ぶ声がするんですよ。
急いで行ってみると
「おばあちゃん。トイレ行くんやって」
ってもう立ってるやん!
おばあちゃんは、歩いてトイレしに行かはったんですよ!
「トイレですると気持ちエエなぁ。私はオムツはカナン」
やっぱり僕のばあちゃんスゲェって感動しましたね。
それからというもの、
(おばあちゃんとお母さん。仲の良い嫁姑です)
水から初まり、桃は食べるわ、ブドウ、トマト、お粥。
おばあちゃん 「おいしいわぁ。おい、コータ飲んでるの何や?」
僕 「えっ?ビールやで」
おばあちゃん 「ちょっとおくれ ゴクゴク!あぁ~うまい!!」
おいおい!めっちゃ元気やん。
病院にいる時は血圧も酸素濃度も低くて、鼻から管入れてたのに、
「こんなんもう取ってーな」
わぉ!
どんどん元気になっていくおばあちゃん。
みんなと色んな話をし、いっばい写真を撮って、
めちゃくちゃ多い親戚もいっぱい来て泊まっていったりするので、
「盆と正月が一緒にきた」と思うくらい毎日が賑やかで楽しくなりました。
(ひ孫のトモカ。夏祭り前に)
(末っ子のヨリコおばさんと)
(孫サトル。おばあちゃんが食べたいって言うたモン。
ほとんど箱で届けてくれました。冷蔵庫いっぱいや!!)
一番右が長女のサトコおばちゃん。
ほとんど毎晩一緒に寝てくれていました。
(内ひ孫だけで7人!おばあちゃん孫おおい!)
そんな時にふと
「コータ。ちょっとそこのタンスに入ってるペンと紙をとってくれ」
と言われ、生まれ故郷である山形県の実家に宛てて手紙を書き始めました。
(おばあちゃんは縁あって遠くは山形県からここ京丹波に嫁いできたのでした)
ちょっと見えたんやけど達筆な字で
「私は幸せでした。さようなら」
って書いてあって、書き終えた途端
「あぁ~」って、力使い果たしたように、横になったはりました。
僕と、弟のナツキのお手伝いで自宅のお風呂に何度も入れて
「お風呂はホンマに極楽や。私は幸せやなぁ」
って言ってくれはりました。
でも本当に幸せなのは僕たちのほうだと思いました。
僕は、おばあちゃんが、「麦と兵隊」っていう歌が好きってことを耳にし、
何度か部屋までギターをもって歌いにいきました。
徐州、徐州と陣馬は進む~♬
「この歌聞くと、亡くなったお爺ちゃんのことを思い出すんや」ってベッド上で涙されてました。
(徐州とは現在の中国、北西端の町。おじいちゃんは日中戦争で招集され歩兵隊として徐州に配置されたそうです)
あんなに調子良かったのに、
吐血も何度かあって、口から入る量も少なくなって
徐々に、しんどくなっていったんですよね。
それで先日の7日。
ひ孫たちに手を振ったかと思うと
枯れるように、眠るように、みんなが見守る中
そして退院してからずっと、おばあちゃんと寝てくれていた
長女のサトコおばちゃんが到着すると
静かに息をひきとりました。
「おばあちゃん。ちょっとしんどくてお風呂入れてなかったなぁ。お風呂入ろう」
僕と、ナツキと、お母さんと、ヨウコおばさんで、最後のお風呂入れさせてもらいました。
お母さんはおばあちゃんの頭を洗い、泣きながら「おばあちゃん、良かったなぁ。良かったなぁ」
と何度も語りかけていました。
僕はお湯の中に浸かっているおばあちゃんに、
「麦と兵隊」を大声で泣きながら歌いました。
すると外で見守っていた子どもや孫、ひ孫も、一緒に口ずさんだり、手拍子をしてくれました。
おばあちゃん。ありがとう。おばあちゃんのお陰で何か確信が持てたわ。
これからは、自信持ってやっていくしな!
見ててな!!
倒れてからの17日間は神様が与えてくれた貴重な時間でした。
読んで頂きありがとうございました。
皆さんにとって、本当になくてはならない時間たったんだと思います。
私もおばあちゃん子でした。乳ガンで片方をごっそりとってしまい、退院してからの消毒、薬塗りは小学生だった私の仕事でした。今のように、ポータブルトイレがなかったので、女性用の尿器を使ってました。その洗浄も私の仕事でした。今思うと、消毒も掃除も全然イヤじゃなかったんです。普通にやってました。
私の介護の仕事の原点はそこにあったんだと思います。介護の仕事を始めてまだ10年ですが、まだまだ勉強中です。もっともっとくろまめさんのお話をお聞きしたいです。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。
またきっとお会いできると思いますので、いっぱいお話しましょうね。
ブログ拝見しました。
おばあさまの記事を拝読し、感動しました・・・。
ずっとご家族のことを、今は天国から見守って下さってるんでしょうね。
またお会いした時に、色々なお話が伺えますのを楽しみにしています。
温かく見守って頂いてうれしかったです(T_T)
今でもきっとリエさんを見守ってはると思います。
コメントありがとうございます。