水月光庵[sui gakko an]

『高学歴ワーキングプア』著者 水月昭道 による運営
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博士を減らせ←に正義はあるか!

2009年06月08日 | 庵主のつぶやき
いままた、城繁幸さんが面白い。

なにが?って、思いもよらない毒舌ぶりが、たまらなくいい!

大学院に対してもバッサリだ。

もう大学院なんて潰したほうがいい  城繁幸 J-cast会社ウォッチ

名著『なぜ若者は3年で辞めるのか?』では、たんたんとした語り口で静かに、しかし我が国に横たわる年功序列という根深い問題をズバッと切っていくスタイルに惚れ込んだが、現在「J-cast会社ウォッチ」に連載中の記事では、一転して過激な突っ込みが満載で、しかもそれが考えさせる味のある笑いを誘ってくれるから記事を読むのが楽しくなる。

城氏は、現在の大学院に対して不要論さえ唱えるが、その論拠が見事だ。
年功序列、新卒至上主義のシステムのなかでは、27際になる博士修了者などまったく見向きもされないのだから、旧帝大あたりをのぞいて大学院はなくなってもよいのでは?と鋭く指摘する。
こんな世の中では、勉強したいと思っていても、それを追求して博士にまで到達した瞬間、つぎにはワーキングプアの道が待っているだけだし、最近では博士の就職に500万円の補助金をつけるなどということが文科省から発表されたが、これって「学びを極めたことが失点としてカウントされてるんだろ、ようするに」と、バッサリなのだ。

この視点のするどいところは、「質の問題」などということに一切ふれないところにある。

よく、博士が増えすぎたせいで質が落ちた、だから数を減らせなどと、何の根拠も示さず雑なことをまことしやかに言う輩がいるが、城氏はこんなつまらない論にまったく与しない。きっと、それが問題の本質ではないと見抜いているからだろう。

博士の数を減らしたほうがいいという時に、なにをもってそれが正しいと言えるのかということは、本来もっと丁寧に議論されるべきだが、これまでは、毎度のごとく表面的なところでの誤魔化しの論法が繰り返し用いられてきた。

くだらない「質」の論議はもううんざりだ。

我が国では、学びを極めたとしても、それが社会的な評価には全く繋がっていないのである。それだけでなく、国家としての高学歴者生産をいかなる戦略のなかに落とし込んで推進しようとしているのかさえ全く見えない。

だから、「博士なんてそんなに必要ないじゃん」なんていう意見さえ、方々から出てくる始末である。

しかし、本来、社会のなかに「数多くの高学歴者が存在する」ことは、社会そのものの質を豊かにするということに直接・間接に貢献する歓迎すべきことのはずだろう。ただし、それは彼らが〝ある程度〟活躍できる土壌があってのことであるが。現状では、博士を活かす道筋が、アカデミアという場所以外に全くないのが、この国の実態である。

その大学の先生は、全国で、17万8千人あまりおられる。もちろん、専任教員の数だけでである。
これを少ないととるか、多いと考えるか。ちなみに、私立大学の多くでは、開講されている科目の約半数は、専任の先生ではなく非正規雇用の非常勤の先生が担当しているという実態もある。それを考えると、正規雇用の先生はやはり大学の規模からすれば、数的にはかなり少ないといってもよいだろう。

だから増やせなどというつもりも毛頭ないが、博士という人材をココだけでなく他にもっと生かして使えるのなら、いちいちこんなことを指摘しなくともすむのになぁとは思う。私見だが、大学の先生など、逆に限られた数さえいればよいとも思うのだ(今はまだ少なすぎると思うが)。むしろ、その何倍もの人たちが社会のなかで、そのチカラを存分に発揮できることのほうが、豊かな市民社会を長期的に構築していくうえからは重要かつ必要となるはずだ。

すでに、その日に向け気力・体力・知力をバランスよく鍛え待機している博士たちは、大勢育っている。
この人材をいかにして生かして使うか。質がどうのなどという前に、こうしたことこそをもっと議論すべきではないだろうか。

東大出身の博士でさえ、就職率40%台という現実。そして、それほどの社会問題を前にして、就職できない博士を指さして〝悪口〟をいうようなことをしていても意味はあるまい。日本全体を覆う危機をいかにしたら乗り越えられるのか、そうした方向でこそ議論は行われるべきだろう。

城氏は、それを皮肉を混じえながらも丁寧に教えてくれているのだ。

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