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今回は、唸声さんの記事からです。 |
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『日帝は1919年3月1日の朝鮮人の平和的独立デモと高揚した闘争を抹殺するため、10万人余りを虐殺する罪悪を犯した』 | |
南京が30万人であれば、朝鮮は10万人と考えたのか、何の論証もない戯言である。中国が上手くいけば、自分達もと考えているのか。 |
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『日本の反動勢力は、植民地支配が「朝鮮人民が要求したこと」とか「朝鮮の発展を助けた」と破廉恥な妄言を繰り返して、反倫理的過去犯罪を公然と否定して美化している』 | |
美化でなく、事実。 |
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『日帝の官制連行犯罪の直接的な被害者とその子孫らの在日朝鮮人と朝鮮総連を相手に重武装した警察まで動員して現代版朝鮮民族抹殺行為を広げて、呆れた謀略宣伝で日本人社会に北朝鮮と在日朝鮮人らを敵視することを助長している』 | |
呆れた謀略宣伝とはこうした労働新聞の記事であり、北朝鮮の姿勢である。北朝鮮へ帰国した在日朝鮮人はどうなっている。敵視しているのはどっちだ! |
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『現日本当局が語る「隣国との友愛」が真心ならば、これ以上過去を無視せず、日帝の反倫理的過去犯罪を清算すべき、それこそが日本の将来の発展と国際社会の信頼回復のための唯一の道だ』 | |
北朝鮮は本当に日本の発展など願っているのか?過去清算の金だけの問題か?国際社会の信頼云々を北朝鮮に言われる筋合いはない。いちいち腹を立てても仕方ないが、こうした謀略宣伝が続いている限り、こんな国とは距離を保つしかない。北朝鮮は常に被害者であり、加害者であることはおくびにも出さない。金嬉老をみるとよく分かる。 |
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以下は北朝鮮の労働新聞の記事↓ |
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K・T 質問
理事長、今回急に児玉先生の話になりましたが、私もよく判らないのですがなぜですか?
A1.自分が自衛隊に入る前に新宿で遊んでいるとき、ある人に出会い多分その人の影響があったと思うけれど、日本人としての生き方を学んだような気がした。それ以来誰にも負けない日本人として生きようと思い、自衛隊に入隊した。
しかし、すでに入隊は決まっていました。19歳のはじめての集団生活・自分も目立っていたので最初のうちは隊内で喧嘩はよくやった
みんなから言わせれば、川崎の人間でも都会の人間と見られていたし、不良をやっていた関係上みんなからは一目置かれていた。それに、自衛隊では格技(格闘技)というのがあって、みんなでやるのだけれど、自分は空手をやっていた関係上、この訓練は、たいしたことなく、本当に闘えるのかと疑問を持った
とにかく、全てが楽しく、そして家から離れて集団生活に入って、初めて気がついたのは親孝行だ。自分は酒もタバコも遊びもやらないから給料の日には親にいろいろな物を買ってあげて、手紙と一緒に送ってあげた
その後何日かして親から長い文の手紙が送られてきた。その手紙を読むのが楽しみで今でも時々思い出す。改めて、親の有難さは、離れてみて初めて気がつくのではないか?
しかし、訓練は人一倍やった。今の若い連中は言葉遣いも判らない、上下関係・親子関係がバラバラ。これはまさしく戦後教育の影響が多分にあるのではないかと思う。中にはしっかりしている若者もいるけど、だいたい限られている。
体育会系とか宗教関係とか警察・消防・自衛隊などや、組織で働いているところ、もっと上下関係で厳しいのは、任侠系とか民族運動の組織だ。自分もあまり偉そうなことは言えないけれど、昔の日本人って今みたいな恥知らずなのはいなかった。
多くの日本人は恥を知るとか、責任を取るという観念が日本人にはあった。それに何か起きれば皆責任をとるというのは、大事なことだという意識を持っていた。それが人として美しいことと、素直に国民の多くは感じていた。
しかし今の日本人の多くは、正義なんか関係無いと、嘘は平気でついて責任を回避をして逃げ延びた人間が大きな顔をして歩いている。それに今は、子供が人権・自由・プライバシーの大合唱。ふざけるな!こんな国はいつかは滅びる。
まして、愛国心と言っただけで色眼鏡で見られる事態!この国はおかしい
話は変わるけど、私が始めて児玉先生と会ったとき、足のつま先から頭のてっぺんまで緊張が走った。今でも覚えています。しかし、何か優しい。今でも児玉先生の印象が忘れられない。
マスコミでは戦後最大の黒幕とか言われていますが、それはマスコミが作っているだけで、本当にこの国を思い活動に徹していたことは間違い無い。何をやるにしても本当に力と資金が必要だし、個人の問題ではない。この国の将来を考え、命がけで、その生き様はすごい。
どうしても今の政治家と児玉先生の生き方を比較をしてしまう。たぶん命を懸けてこの国を憂いている差だと思う。今の政治家の中には、自分の国の国旗や国歌に抵抗を持つ人がいますが、世界の中でこんなとんでもない政治家が果たしているのかどうか?全く非常識以外に言葉が出ない。こんな政治家に国を任せられるか
とっととやめて日本国から出て行け!どうしても児玉先生の話になれば、長くなる。しかし、最後の話になりますが、私の若い連中が交代で児玉邸に当番に入ったのは、たぶん最後だったと思う。児玉先生の葬儀も皆手伝いに行きましたが、生涯忘れられない思い出になったと思っている。
私も詳しいことは判りませんが、確かに言える事はこの日本の将来を真剣に考え、闘ってきたことは確かだし、とにかくすばらしい先生だった。たぶん先生にかかわった多くの人たちは、先生に何かがあったら何時でも体を賭ける覚悟は持っていたと思う。私もそのうちの一人だ。児玉先生の話は次回・・・・・
軍事力をますます増強する意図は何か。日本は改めて中国共産党過去の歴史を振り返って改めて検証すべきだ。 |
全日本教職員組合大会阻止に対しての憂国清心同友会の街宣活動2 | |
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全日本教職員組合大会に対する抗議文 |
我々は、日本の伝統と文化を継承し、赤い教師の蛆虫集団、全日本教職員組合、撲滅解体運動に、日々邁進している民族派団体、憂国清心同友会である。今日の教育荒廃の頑強である諸君らの教育とは祖国を滅ぼす反日教育、赤化教育、自虐史観教育である。国旗である日の丸、国歌である君が代までも批判している諸君らに、明日の日本を担う子供達に、日本を憎む様に仕向け、愛国心を悪と教え、反日を善とする諸君らは、我が国に寄生した「赤い蛆虫」で在る。 |
笹川良一先生はハンセン病(難病)の撲滅に力を注いでいた。昭和61年、ハンセン病予防ワクチンの、第1号実験接種者を志願しWHOで本部でそれを受けた。
笹川先生のハンセン病制圧の意気込みがうかわがれる。
笹川先生は裕福な造り酒屋に生まれたが、高等小学校だけで大学に進まなかった。小学校長のすすめで近くの寺に人間修行にやらされたが、ここで仏教と儒教(孔子の教え)を知り、「聖人、君子」を志すようになる。
笹川先生とは色々縁がありまして、個人情報で詳しいことは言えませんが、先生の実子の○○さんは、私の兄弟と仲のいい関係で、それに又、お孫さんの士心道の笹川能孝さんとは、現在も我々団体と交流を持っており、我々の活動に対しては大変理解して頂き、それと同時に笹川さんの士心道の、人と人との縁を大事にする生き方に感銘し、それから以後活動の中でこの生き方を、会合やその他の集まりで話をさせて頂いております。たしかに私たちの活動を振り返れば、すべて人と人との縁結びではないかと思っております。
詳しくは画像をクリックしてください
私の尊敬する
【笹川良一語録】
「人間としての基本の躾」
(1) 朝、両親や他人様に明るく挨拶すること
(2) 返事は明るく、誰にでも「ハイ」と大きな声ですること
(3) はき物は脱いだら必ず揃え、跡かたづけはきっちりすりこと
日本人の基本
「礼儀」 うやまう心をあらわす作法
「義理」 いやでもやらなければならない、人間としての立場からくる努め
「人情」 人間としての優しさ、柔らかさ
「節度」 度を越さないで、身のほどに合う行いの区切り
「親孝行」 親を敬いよく尽くす行い
父の教え
「法律に触れることを怖れて、人の為、世の為に動けない様では困る。俺の魂はお前の背に付き添うているから安心して国の為に働け」
当時の日本の、よき家庭にあるれていた日本の道徳(人の踏み行うべき道)は、すなわち
忠誠 (人に真心をつくす)
犠牲 (身命を捧げて世につくす)
信義 (約束を守り務めをはたす)
廉恥 (心が清らかで恥を知る心を持つ)
礼儀 (心から敬意を表す挨拶)
潔白 (後ろ暗いところのない潔い行い)
質素 (おごらずつつましい生活)
倹約 (費用を切りつめ無駄使いをしない)
尚武 (武事・軍事を重んずること)
名誉 (誇りあるよい評判を取ること)
情愛 (思いやり、情、慈しむこころ)
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皇紀2670年 平成22年2月7日 |
抗議文 |
天皇陛下の76歳の誕生日を祝う一般参賀が23日、皇居で行われた。陛下は今年、即位20年と結婚50年を迎えられ、記帳を含めた参賀者は平成に入り最多だった昨年(2万2655人)を上回る3万560人(皇宮警察調べ)に達した。 |
まず驚いたのは警察車両の多い事。それと同時に制服警官や公安警察が沢山出て警戒していた。 | |
続々と一般参賀の民衆の大行列。後ろが全然見えない。今日は天気もいいし、こういう素晴らしい人間の大集団と自然の組み合わせ、感激した | |
我々は早速一般参賀の大集団にたちまちのうちに混雑、歩くのが困難なくらい人の波に押された。交通整理をしている大勢の警察官や警護の人達のテキパキとした動き、大変ご苦労様です。 | |
天皇陛下のご一家が宮殿「長和殿」のベランダに立ち、集まった人達の祝意に応えられました。もう我々も、感激の頂点に達した。 |
一般参賀を終え次は多くの隊員と靖国神社に参拝。私も靖国神社は昔から何回も来て参拝していますから珍しいことではありませんが、何回来ても靖国神社の中に入ってくると、妙に活力が湧いてくる。 | |
30名近くの隊員と一緒に本殿に参拝。私はいつも靖国神社に来るときは改めて大勢の軍隊や民間人がこの日本の為に戦い、亡くなった。 | |
参拝が終り、しばらく休憩して無事隊列を組み帰途に入る。本当に私も靖国神社には年6-7回行っているが、事実大勢の軍隊や民間人が日本の為に盾になり、或いは、戦争に参加し亡くなったことは事実である。改めて皆さんにお願いしたいのは、せめて年一回くらいは靖国神社に参拝し、御霊にお祈りをしてやることも、国民の義務として感謝する事も大事なことではないかと思います。彼らの犠牲があって私達が平和に暮らしていられる訳ですから・・・ |
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挨拶文を読み上げる和心塾塾長 | |
NPO法人アジア地域戦没者慰霊協会国分会長と和心塾吉岡塾長 | 和心塾塾長と最高顧問佐々明光氏 |
和心塾塾長の挨拶 |
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そこには、戦後誤って東京裁判史観、及び学校教育によって、戦前の日本は全て悪だったという自虐精神が蔓延し、日本精神が失われていったからだと思われます。 | |
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左から、佐々氏 井上氏 | 左から、尊友同志会 林塾長、 大日本朱光会 名誉顧問 阿形氏 |
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参加した団体(敬称略) | |
それでは、興亜観音について御紹介致します。 | |
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左が興亜観音です。上品な観音様です。右は本堂の建物で、昭和15年の建立当時からのもの。熱田神宮の余財で作ったそうです。堂内中央の瀬戸物の観音様は、瀬戸の加藤春二という方が作ったもの。技術的に陶磁器の観音様は制作が難しいそうです。先人の制作技術は凄いです。 | |
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明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 |
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青少年育成連合会ブログより転用 |
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草壁議長
今回、民族団体・憂国清心同友会の中国に対しての国交断絶の運動に同行し、何故中国に対して国交断絶まで叫ぶのかに関心を持ち、草壁議長に頼み、街宣車に乗せてもらいました。
私の考えとしては、現民主党の友愛外交で信頼を築けと云っただけでは、外交はそんな奇麗事では絶対進まない
確かに理想は大切だが、国際政治には国益が衝突する厳しい現実がある
理想を追う余りに現実を見落としてはいないか
今までの中国の動きを見れば判る
中国の国防予算も21年連続で、2桁を成長させている
国力充実に伴い強力な対外姿勢は、徐々に日本を追い詰めていき、にっちもさっちもいかない状態になっていくはずだ
これを放任していたら日本は必ず中国の属国になるだろう
中国大使館、現地到着。警備厳重。
伊藤 事務局長
石原 石皇百人会会長
鈴木 新風義勇隊隊長
今回、憂国清心同友会の街頭遊説隊の訴えを聞けば、私もその通りだと納得する
確かにわが国は昭和47年9月29日中国共産党と国交を樹立しました
その日から37年の月日が経ちますが、正常かつ友好的であったことは、一切無かった
靖国神社に対する冒涜、歴史の捏造、尖閣諸島への侵犯、東シナ海における海洋資源盗掘、有害食品・粗悪商品の輸出、犯罪を繰り返す不法滞在の不良中国人、など今日まで、中国による主権侵害や内政干渉が頻繁に繰り返されている現実
それに大して弱腰・軟弱・土下座外交しか出来ない日本政府に任せていては、中国の勝手極まりない主張が続き、無駄な経済支援は続き、英霊にきせられた汚名を拭い去ることが出来ず、わが国にとって不利益な国交が永遠に続くであろう
そういう意味で憂国清心同友会は、中国に、媚へつらう日本政府を糾弾し、日中国交断絶を訴えるのは、当たり前だと私も思う
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憂国清心同友会の各団体の代表が中国大使館前で抗議文を読み上げ、その後抗議文を中国大使館のポストに投函した
中国大使館への抗議運動のスナップ写真
活動終了後川崎の憂国清心同友会の本部に帰る
皆さん、いろいろ、ご苦労様でした