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徒然音楽夜話

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徒然音楽夜話 A・ヴェデルニコフの音楽が違って聞こえて来る

2013年03月10日 | 徒然音楽夜話

音楽夜話 H25.03.10
A・ヴェデルニコフの音楽が違って聞こえて来る


アナトリー・イヴァノヴィチ・ヴェデルニコフ 1920年5月5日-1993年7月29日
ロシア語: Анатолий Иванович Ведерников、
Anatoly Ivanovich Vedernikov

1920年5月5日、ハルビンにて誕生。
1926年頃、ピアノを習い始める。ヴェラ・ディロンに師事。
1933年、ハルビンの高等音楽院を首席で卒業。
1935年、初来日。東京に1年程滞在。
1936年、ロシア(ソ連)に移住。モスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事。直後、家族を粛清の波が襲い、父親は銃殺刑、母親は強制収容所送りとなってしまう。師であるネイガウスの計らいで何とか逮捕を免れる。
1940年、初の公開演奏会。
1959年、グネーシン音楽大学で後進の指導にあたるようになる。
1980年、モスクワ音楽院で指導するようになる。
1985年、モスクワ音楽院の教授に任命。
1993年3月10日、ピンネベルクにおける最後のリサイタル。
1993年7月29日、死去。

ロシア・ピアニズムの定義は一言では難しいが、その系譜の伝統は今も脈々と流れている。歴史上悲劇的な数奇な運命をたどった音楽家の中で忘れてはならないピアニストがいる。悲劇的な生涯からは想像できないピアノを通して崇高な真摯な音楽を聞くことが出来るのは、幸せと言っては言い過ぎか。今となってはひとえに録音技術のおかげで”人類の遺産”を聞くことができる。

アナトリー・ヴェデルニコフは、ロシアの中の重要なピアニストではあったが、国外で知られる機会がほんとうに数すくなかったのは、旧ソ連時代を背景に少年時代を除いて国外での活動の機会がほとんどなかったためで、その演奏が広く世界に伝わらないまま世を去ってしまつた。

生地は中国のハルピン。革命逃れのロシア人の両親のもとに生まれたヴェデルニコフは、同地の高等音楽院を修了した13歳のときから中国各地で演奏活動を行い、1935年(昭和10年)には来日もしている。この時は「天才少年ピアニスト、トリア(愛称)・ヴェデルニコフ」の呼ばれていたらしい。しかし、翌年に旧ソ連に帰国した彼と家族は悲惨な運命をたどることになる。政情から国民の敵として両親が逮捕され、父親は銃殺され、母親は収容所で過ごすこととなる。当然子供のヴェデルニコフ本人に対しても警戒の眼が厳しかったという。

その窮地を救ったと言われているのがモスクワ音楽院のネイガウス教授で、逮捕を免れ、その後ピアニストとして順調に歩んでいく。

ネイガウスと言えば、現代のピアニスト、S・ブーニンの祖父に当たり、当時のロシアの代表的なビアニストでありピアノ教育者である。ネイガウスは同想録のなかで、自分の生徒たちのなかでギレリス、リヒテル、ダーク、ヴェデルニコフらを最も才能ある演奏家として名前を挙げている。

1980年代に入ると、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカという名の改革によって、ロシア(ソ連)以外での演奏活動も出来るようになった。ソ連にとってもペレストロイカは大変革であったが、ヴェデルニコフにとっても彼の人生における大変革でもあった。
そして80年に初めて、制限付きの国外での演奏が許され、日本との関係では1993年の11月には、58年ぶりに待望の再来日も予定されていた。ところが、これまた悲劇というか数奇と言うべきか、その直前の7月29日にモスクワ郊外の別荘で胃ガンのため死去した。

稀有な才能を有しながらヴェデルニコフは、文字通り数奇な運命をたどったロシアのピアニストであったと言える。ヴェデルニコフは1980年からモスクワ音楽院の教授を務め、1983年にはロシア共和国功労芸術家の称号を授けられている。
このように国内では素晴らしい地位を歩んでいたが、国外での活動の機会をほとんど与えられなかったため、一部のフリークを除いてその優れた演奏が広く敷衍しないまま、また日本人にとっては、冷戦後の本格的な来日と録音実現とを目の前にして、残念ながらこの世を去ってしまったため、私たちにとって、リヒテルとは違いまさに幻のピアニストとなったのである。

ヴェデルニコフというピアニストの名は、1994年4月テイチクより発売された1枚のCDから日本で一躍注目を集め出したという。それは、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、リゲティ、シューマン、シューベルトなどの作品を収めた、ドイツでのライヴ録音である

ヴェデルニコフがモスクワで行なった最初の公開の演奏会は、1940年、同門のリヒテルとのジョイントによる協奏曲のコンサートだった。また彼は、演奏活動のなかでストラヴインスキーやシェンベルク、ヒンデミット等の作品を積極的に取り上げたり、あるいは、プロコフィエフの管弦楽曲をピアノのために編曲するなど、多彩な活躍を見せた。

当時旧ソ運での唯一のレーベルと言えば、東京の「新世界」から輸入されていた、少々粗悪ではあったがメロディア盤のLPで、このレーベルで25枚のアルバムが制作されていたということで、それらが発掘されて世に出ることが切に望まれていた。私も当時何枚か通信販売で購入した記憶がある。ジャケットも粗末で厚めの盤が特色であった。後にデンオンから、CDシリーズ「ヴェデルニコフの芸術」がリリースされている。当然ながら、初のCD化であり、選曲は未亡人の協力のもとに、モスクワの放送局に残っていた録音のなかから、ヴェデルニコフ自身が「会心の録音」として自薦していたものが選ばれている。

深い精神性と、華美に飾らずに譜面に忠実で、作品に対して真摯な音楽作りは、高い価値を持つものとして大いに注目されたが、精神的な深さ、内面的な鋭さが強く印象に残ると同時に、その悲劇的な生涯からは想像し難い、清らかな美しささえ放つ彼の演奏には、心を大きく動かされる。本格的な来日を目前にしたヴェデルニコフの死であったと言える。



私の愛聴盤
バッハ:パルティータ全曲

世界初のCD化であるが、今時の録音のような鮮明さはさすがにないが、全体の音質は悪くない。1曲目のみモノで疑似ステレオ?か。
とにかく一音一音格調が高く、指先のみで弾いていない。ピアノのペダルの使い方も秀逸である。和音を弾いた瞬間にペダルを上げてカットし、すぐに素早く後踏みする技術に長けていたという。ひとつひとつの音に深い意味合いを持たせた重厚で威厳も感じさせる。ブラジルのバッハ弾きのホワン・カルロス・マルティンズとならんで個人的には大変好きなピアニストである。


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