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徒然音楽夜話 ベアテ・シロタ・ゴードン女史と現行憲法

2013年02月20日 | 徒然音楽夜話
徒然音楽夜話・・・H25-02-20
ベアテ・シロタ・ゴードン女史と現行憲法


ベアテ・シロタ・ゴードンと言えば、音楽の世界ではレオ・シロタ氏の娘として有名だが、同時に現行憲法24条の「女性」に関する起草者として有名である。


今回の両紙の新聞記事を読んで、つくづく「歴史事実」とは何か?を思わざるを得ない。
従来から、現行憲法の女性部門の起草者として聞かされてきたし、いろいろ読んだ本にもそう記述されていたし、小生は実際に彼女の講演を聞いたこともある。大変流暢な日本語で毎日新聞に書かれている様なお話であった。

ところが「産経」の古森氏によるとトンデモない話が出ている。果たして、ケーディス氏、ベアテ氏のいずれかが思い違いしているのか、どちらが歴史の真実に近いのか。

よく日中韓の歴史感は、「日本ではヒストリ-、中国ではプロパガンダ、韓国ではファンタジ-」と言われている。日本も人のことは言っておられない。とにかく歴史記述は、「ウソも百回言えば真実になる」たとえ通りだ。「歴史」と言うのはメディアや書物や伝承、それをベースに刷り込まれた学者などによって、過ぎ去る事実と併行して形作られて行くものなのだろうか。

今回は、彼女と音楽の世界の直接的な接点は見つからないが、第一回目として取り上げてみたいと思う。

■ 毎日新聞から 2013年(平成25年)2月9日(土)
憲法起草の議論知る「最後の語り部」 すい臓がんのため2012年12月30日死去・89歳
「私の人生で最も悲しい日の一つになったわ」。受話器の向こうから伝わる寂しげな言葉
に、ベアテさんの思いが詰まっていた。06年2月、かつて連合国軍総司令部(GHQ)民政局の同僚として日本国憲法の第1章「天皇」を起草したリチャードープール氏(享年86)の訃報を伝えたときだった。戦後60年の特集取材でニューヨークの自宅を私が訪ねたのは、プール氏が亡くなる3日前。直前に取材したプール氏から「よろしく伝えて」と伝言を預かっていた。
1946年2月、部屋に充満したたばこの煙、鳴り響くタイプライターの音、連日の缶詰の食事……。「人権の条項を草案してくれ」とケーディス民政局 ベアテ・シロタ・ゴードンさん元GHO民政局員次長から指示されたベアテさんは、プール氏と戦後日本の一角で時間を共有した。彼女の死は、GHQ内の憲法起草の議論を知る語り部がI人もいなくなったことを意味する。

「眠気など感じる時間もなかった」。I週間以上にわたる徹夜の作業を屈託のない笑いで表現した。任せられた女性の権利について「男女平等」の理念(24条)は認められたが、草案にあった妊婦と乳児への国の支援など社会福祉に関する条項は削除された。日本の女性のためにと戦った22歳の女性は、失望し、怒り、泣いた。「でもケーディスさんは、私が彼の肩に顔をうずめて泣いたって言うけど、それは覚えていないの」とほほ笑んだ。
 
08年に来日した際、各地で講演し、憲法制定過程などの話をした。戦争放棄を定めた憲法9条を含めて日本国内の憲法改正の動きを批判し、「こんなすばらしい憲法こそ、世界中に広めるべきだ」と説いて回った。戦後日本の礎を間違いなく築いた人たった。「及川正也」

■ 産経新聞から 日本国憲法作成の真実
平成25年(2013年)1月8日 火曜日 古森義久
今年は憲法の改正が国政の主要課題としてついに正面舞台に登場しそうである。改正への取り組みでは改めて、日本国憲法とはなんなのか、その起源にさかのぼって正確に認識することが欠かせないだろう。とくに日本の憲法がどのように作られたかを客観的に知ることが重要である。
 
日本国憲法は日本が占領下にあった1946(昭和21)年2月、米国軍人十数人により10日ほどの間に書かれた。正式には連合国軍総司令部(GHQ)の民政局のコートニー・ホイットニー局長(陸軍准将)の下で次長のチヤールズ・ケーディス大佐が起草の実務責任者となった。その草案は本体が書き直されることはまったくないまま、戦後の日本の憲法となった。この憲法作成の真実は歳月の経過とともに、ぼやけがちとなる。そのことを実感させられたのは作成にかかわった米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんの死去についての日本側の報道だった。

昨年末、89歳で亡くなったゴードンさんは22歳だったころ日本国憲法の「男女平等を規定した第24条を起案し、書き上げた」というのである。しかし公式に残る記録からはその事実は浮かんでこない。死者の名誉を傷つける気はないが、疑問を禁じえないのは憲法作成の実務責任者のケーディス氏から当時の実情を詳しく聞いた経緯があるからである。同氏が元気だった1981年4月、4時間近くのインタビューだった。その英文の記録はすべて残っている。

ケーディス氏によれば、憲法作成は全体11章の各章ごとに起草委員会を設け、法律の知識や経験のある中佐、少佐級の米軍人を委員として任命した。ゴードンさんはその起草の委員ではなかった。だが憲法作成の作業にはかかわっていた。ケーディス氏は若きゴードンさんについてこんなことを語っていた。
「私たちの下で働いていた21、22歳のベアテ・シロタという若い女性はその後、民政局にいたゴードン中尉と結婚したのですが、日本に長年住んで、日本語に熟知し、東京の地理にも詳しかった。だから東京都内の各大学図書館に出かけて、各国の憲法の内容を集めてもらいました。私たちは憲法作りの参考資料がなにもないため、諸外国の憲法から担当領域に役立つ部分があるかどうかを調べたのです」

つまりゴードンさんの任務は資料集めだったというのだ。ケーディス氏の他の言葉も彼女が通訳あるいは秘書だったことを示していた。オーストリア出身のユダヤ人として父とともに6歳で来日したゴードンさんが大学入学のために初めて米国に渡ったのが16歳のとき、米国籍を得だのが21歳だった。いくら才能があってもそのすぐ翌年に米国を代表して日本の憲法を起草するというのは無理に映る。
 
それでも朝日新聞などがゴードンさんの日本国憲法起草をたたえるのは彼女が改憲に反対したからだろう。本人も近年、「憲法第24条は実は私が起草した」と語るようになっていたようだ。それが事実だとしても、日本国憲法が米国製であり、日本側への押しつけだった真実には変わりはない。ケーディス氏が長いインタビューで強調したのも日本側には米国草案を拒む選択肢はなかったという点だった。
なおケーディス氏の発言の全記録は最近の拙著「憲法が日本を亡ぼす」(海竜社)に掲載されている。(ワシントン駐在編集特別委員)