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徒然音楽夜話

つれづれなる音楽の道草情報です

徒然音楽夜話 シューマンの指を痛めた真相

2013年08月26日 | 徒然音楽夜話
シューマンが過酷な練習のために薬指を痛めた、との話は随分昔から、あるい学校でそう習ってきたため、今でもほとんど刷り込み状態で、つい口に出てくる。まさに歴史はファンタジーで創るものだとも言われる所以だ。
この痛めた指にまつわる諸説の1つとして意外な事実が浮かび上がってくる。
この事実に近いと思わざるをえない内容が、アラン・ウォーカーの「シューマン」横溝亮一訳 東京音楽社に出てくる。
そういえば昔習った学校の音楽室に掲げられている古今の作曲家の肖像画は、どれも「音楽への理想のあこがれ」を満たしてくれるものだった。シューマンの「指」にまつわる話も、音楽への美化の形跡なのだろうか。

「この百年間、学者たちはシューマンの手の疾患について頭を悩ませてきた。昔からの決まりきった解説はよく知られている。すなわち、シューマンは指の動きを均等化”させるために、無鉄砲な試みを企て、自らある機械装置を考案した。これは一種の吊り道具で、他の指は使いながら、一本だけはその動きからはずしてしまうというものである。この装置による練習の結果として問題が起った。右手の第四指、第五指の腱を治る見込みなく痛めてしまい、このためピアニストとしての経歴は計らずも諦めざるを得なくなったと思われる……。
だが、このお定まりの解説は果して真実であろうか?

シューマン自身が自分の手の故障についてこのように説明している記述はどこにもない。彼の「自伝的覚書き」(一八三一年)にも「テクニックの練習をし過ぎて、右手がだめになってしまった」と、ごく簡単に記述されているだけである。その後の彼の手紙にも、傷ついた右手については曖昧な表現がなされているのみで、彼自身、この悲劇の原因をつきとめられず、途方に暮れているかのように見受けられる。
 
誰がシューマンの傷ついた指についての公式”見解を発表したのだろうか? 実はそれはヴィークだったのだが、間もなくその理由がわかる。風説は最初にヴィークの著書「ピアノと歌」(一八五三年)にあらわれている。この中でヴィークは次のように述べている。「その指の訓練器は私のある有名な弟子が私の意に反して発明し、ひそかに使っていた。そして当然のこととして、第三、第四指を痛めてしまったのである。」
 
ここでヴィークはどこにもシューマンの名前を出していない。けれども後世の解説者たちはそれほど注意深くはなかった。数年のうちに、この話は途中でいろいろと面白く手が加えられて、辞典類や文献などに取り入れられていった。シュピッタ(グローヴ「音楽、音楽家事典」第一巻)によると、シューマンが装置”を製作し、この装置の不吉な性質が、読者の熱意ある想像力に印象づけられたとしている。更に想像を逞しくした例として、ワシレフスキは。手の込んだ装置の操作”のために友人の学生テプキンの助力を仰いでいたと述べている。いろいろな説があるものである。

この馬鹿げた説を最後に認め、判を押したのは、自説をもって登場してきたオイゲニー・シューマン、つまり作曲家シューマンの娘であった。彼女によれば、父親は第三指を縛って吊り上げ「その間、他の指で鍵盤を弾いた」という。何ともシューマンはこの奇怪な事件を不明確なままに残したのであった。
 一八八九年、シューマンの研究家であったフリードリッヒ・ニークスは、シューマンの痛めた指にまつわる疑惑をいっさい明らかにしたいと考えて、クララーシューマンに会った。
クララは極めて率直に、シューマンの具合の悪かったのは右手の人指し指だったと語り、更に、堅い無音鍵盤で練習したのが原因だと付け加えた。この彼女の証言は、明らかにそれまで知られていた説と矛盾する。ニークスはクララの言を信じなかった。結局のところ、ニークスは七〇歳にもなっていたクララの違い昔の思い出などあやういものだと主張した。ニークスがはるばるフランクフルトまで出掛けて行ったのは、当時、すでに世事にうとく、かなり老け込んでいたクララに問いただしてみるためであったが、彼の推察は当らなかった。こうしてクララの証言を受入れなかったニークスは大失策を犯すことになった。なんといっても、クララは十五年間シューマンと毎日の生活を共にし、最も親密な間柄にあっ
た人である。彼女の発言のはじめの部分、つまりシューマンが主に患っていたのは右手の人指し指であったことは、後に全くの真実であったと判る。

こうしてみると専門家たちの判断がいろいろに乱れたのが少々不思議にも思える。最近になって、ようやく説得力のある医学的な診断が可能になった。現在、我々は「シューマンの手の病いは何であったか?」という問いに答えるには、かなり良い状況に達している。
 
一九七一年、イギリスの音楽学者エリック・サムスは、少くとも一般的に知られているような形のシューマンの指の事故”はなかったと提言している。その代わり、彼はシューマンが水銀中毒のために運動機能に回復不能の症状をきたしていたのではないかと仮定している。これはかなり奇抜ではあるものの、綿密に調べてみるに値する推論ではある。

水銀中毒の結末は誰でも知っている。指やつま先の麻痺はその初期の症状である。シューマンがなぜ水銀を使ったかを知るためには、二十五年後、死因となる病気について理解する必要があろう。彼は大人になってからかかった奇妙な病気の数々について、非常に豊富な資料を我々に残してくれている。(それらの中には、麻痺、言語障害、けいれん、めまい、視力減退、耳鳴りなども含まれている。)これらの症状は常にシューマンの伝記作者たちを混乱させたばかりでなく、医学の分野でも同様に困惑の種となり、過去七〇年の間に、脳腫瘍から精神分裂病まで、さまざまな診断が下された。
 
一九五九年、二人の医師エリオット・スレイターとアルフレッド・メイヤーは共同論文を発表し「あらゆる症状からみて梅毒以外には考えられない」と結論づけた。一九世紀当時、すでに梅毒の治療には広く水銀が使われていて、類似の療法が進歩しても、水銀療法が基本とみなされていた。

シューマンが治療を受けた多くの医者たちの中に、少なくとも二人の類似療法の医師、そして何人ものにせ医者がいた。
 
ある時、シューマンは、母親への手紙に「家中がまるで薬局のようです」と書いている。こうした中で、シューマンが水銀を使わないほうが不思議であろう。その頃はごく少量の服用でも深刻で長期的な悪影響を及ぼすことはあまり知られていなかったのだ。さて、こうした解説は状況証拠に基いたものとして、大方、風説によっている伝統的な解釈と同様程度には、医学的証拠なるものも含めて、支持できようかというほどのものである。
 
ところが、この物語には驚くべき後日談がある。それは、それぞれ勝手な理屈をつけて、シューマンの悪い指を決めていた。専門家”たちの証明を、明白な根拠をもって粉砕してしまうものであった。そして、この話は、クララだけが真実を語っていたことを示してもいた。

一九六九年、ドイツのある学者がライプツイヒ市の資料室を調査した折に、シューマンと軍司令官との間に交された未公開の書簡をたまたま発見した。この書簡によると、シューマンは一八四二年に軍隊に志願したものの、手の疾患により兵役が免除されているのである。この書簡にはシューマンの主治医ロイター博士の著名人診断書が添えられており、それには右手の人指し指と中指が悪いと記されている。これではシューマンはライフルの引き金をひくことも出来なかったであろう。こうして、この不可解な物語の結論が出るまで、130年もかかったという次第であった。

ヴィークはシューマンの指の疾患について不安を感じていた。おそらく彼はピアノ教師としての名声に傷がつくのを恐れ、彼が弟子に強制した”からだという噂がたつのを防ごうとしたに違いない。
彼は自分の著作「ピアノと歌」の中で、「指訓練装置」を批判することによって、自らの立場を世間に明らかにしようとしたのであった。彼が文中でシューマンの名を慎重に伏せておいたのは、次のようなひとつのことを意味している。つまり、ヴィークにはシューマンの名を記すだけの根拠がなかったのだ。というのは、機械装置の助けをかりているとして、名指しでシューマンを批判するには、それなりの明白な証拠を挙げなければならなかったからである。

これまで述べてきたように、シューマンの伝記作者たちはこの問題に関して疑いを持たなさすぎたといえる。シューマン自身にしても、この疾患が決定的にひどくなるまで、かなりの時間を過ごした筈である。この間、医者たちは様々な怪しげな治療法”を試みた。ある医者は動物の血に手を浸す方法を勧めた。(それは殺したばかりの牛の胴体に手を突っ込んでいるというようなものもあって、シューマンは牛の動物性が自分の中に入り込んできはしないかと恐れて、この治療法を嫌っていた。)また別な治療法では、夜、手に薬草の湿布をして寝るというのもあった。シューマンはきわめて控えめに「こうした治療は決して快適なものとはいえなかった」と述べている。さらに、シューマンは一八三一年に、オットー博士の電気療法を受けるためにわざわざシュニーベルクという町まで出掛けているが、これは事態を更に悪くしただけであった。こうして、一八三二年の末には希望が断たれ、ピアニストとして立とうとした希望はごく短くして終ってしまったのである。」

プロの演奏家は、いったいどれくらい練習しているのであろうか?

2013年06月17日 | 徒然音楽夜話
プロの演奏家は、いったいどれくらい練習しているのであろうか?
渡辺克也のベルリン音楽旅行から、”一万回?いやいや二万回”



この疑問のウラには、既に一流の音感、リズム感等音楽の基礎が既に備わっているという前提がある。
アマチュアの団体等は、正職等の合間に練習し、発表会等を行なっているのは当然のことではあるだけに、プロの世界と比較すれば月とスッポンの差の乖離であろうとは、容易に想像できる。
演奏会に足を運ぶたびにこのテーマが浮かんでくるが、かってNHKでのギター講座の中で今はなきギタリストの(1)故阿部保夫氏の”プロでも3分足らずの曲でも演奏会上に乗せるためには、1000回近くの練習を要しています”の一言の記憶が強烈に蘇ってくる。

私達が数千円のお金を払って聞く演奏会は実はこれに近い猛練習を背景にしているのではないかと気にしつつ聴き続けているのが正直なところ。これを考えると、現在の入場料は高いのか安すぎるのか?
そして、これほどの練習に時間を割くと、当然他のやるべき時間を削ることになるのではないか?の疑問が当然湧いてくる。よく音楽家の言動は世間的ではなく、独特のものがある、と指摘する人がいるのも、ひょっとしてこれが淵源かとも思ったりもするが、実際のところどうなのでしょう。



渡辺克也のベルリン音楽旅行
一万回?いやいや二万回

http://www.katsuyawatanabe.com/ より

Q
6月のコラム、「1万回練習の場所探し」につきまして、質問をいただきました。モーツァルトの協奏曲の演奏時間を20分とすると、1万回練習するには、頑張って毎日8時間練習したとしても417日かかってしまい、実際には不可能なのではありませんか? 」

A
私たちは、個人練習の段階で作品を最初から最後まで通すことはほとんどなく、できない部分だけを取り出して練習いたします。

典型的な場合は、4つの16分音符が滑らかなレガ-ドでつながらなかっつたり、均等に運ばなかったりする場合、メトロイームが1分間に80回刻むのに合わせて(かなりゆっくりです)、機械的完璧さを目指して繰り返し練習いたします。

正確に聞こえるようになるだけでは済まされず、指が完全に覚えて一切の違和感がなくなることが大切です。8回連続して完璧にできたらよしとし、ようやくテンポを少し上げます。ここまで厳しくするのも、ステージ上の極限状態におかれた中で、ちょっとやそっとの事では崩壊しないようにするためです。

この計算ですと、1万回で2時間5分ですか。頑固な運指の場合、2時間以上それだけ、なんてことはざらです。まあ時々深呼吸したり水を飲んだりすることを考えに入れても、2時間ずつ3日かけて仕上げるとそれだけで2万回くらいいってしまうでしょう。

このあたりは練習というより、ほとんどリハビリに近いと思われます。貴金属や宝石を一点の曇りもなくなるまで根気よく磨き上ける作業にも、似ているかもしれません。一度仕上がっても、まだおしまいではありません。私たちは『指がぼつれる』という表現をしますが、しばらく安心してすっ飛ばして演奏していると、再び指がスムーズに回らなくなってきます。こうなると、もう一度ゆっくりから練習し直します。
 
好きこそものの上手なれ!

家探しをするときに必ず楽器を持参し、音を出してみて、近所にどれくらい音が漏れてしまうのか確認いたします。「お隣に音楽家が引っ越してきて、これから美しい音色が毎日タダで聞けるんですね。まあ、素晴らしい」なんて喜ばれてしまったりしますもの。聞こえてくるのは極めで機械的な部分練習の繰り返しだけで何の曲かすらわからない有り様ですから、おわびにコンサートのご招待券を差し上げたりして、近所付き合いには気を配ります。(オーボエ奏者)


(1)
故阿部保夫 ギタリスト 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%9D%E5%A4%AB

音楽夜話 関東人と関西人では微妙に音感が異なる?

2013年05月21日 | 徒然音楽夜話
音楽夜話 周波数のある生活
毎日新聞 H25.1.15から・・・by音楽評論家 沼野雄司


マリー・シェーファーの「サウンドスケープ」
マリー・シェーファーというカナダの作曲家が提唱した概念に「サウンドスケープ」というものがある。
ランドスケープ(風景)から転じた造語で、つまりは音の風景、音環境といったほどの意味だ。 

交流電源の周波数
我々は狭義の「音楽」以外にも、多くの音に囲まれて過ごしている。
鳥の声や風の音、そして車や工場の音……。}」
それらは時に「騒音」という形で人々を悩ませるわけだが、
シェーファーが鋭く指摘するのは、現代の家屋で延々と鳴っている僅かな基調音、すなわち交流電源の周波数だ。

周波数の異なる音の高さ、西<シ>と東<ソ#」>
関東地方の周波数は50ヘルツだが、これを音の高さに直すと、ほぼ「ソ#」になる。
あらゆる電気製品はこの周波数の振動を基にして動いているわけで、今この瞬間でも、あなたが耳を澄ませば、さまざまな機器が静かに発する、低い振動を捉えることができるはずだ。

驚くべきことにシェーフア-によれば、50ヘルツの交流電源の地域において、被験者に「心地よい音の高さ」で声を出してもらうと、「ソ#」の協和音であるケースが有意に多いという
(「世界の調律」平凡社ライブラリー)。 

一昨年の震災時にも問題になったが、日本の場合は西と東で交流電源の周波数が異る(こういう国は稀だ)。
静岡よりも西は60ヘルツ、すなわちほぼ「シ」の音。
大雑把にいえば、関東の人間は常に「ソ#」の音を聴きながら生活し、関西の人間は常に「シ」の音を聴きながら生活していることになる。

もしもシェーファー説が正しいならば、関東人と関西人では微妙に音感が異なることにもなろう。
大阪弁のトーンが高いような気がするのは、まさかそのせいではないと思うけれど! 
何やらエスカレーターの左に並ぶか(東京)、右に並ぶか(大阪)の違いのようで面白くもある。しかしいずれにしても、こうした指摘は、電気テクノロジーによる振動に、我々が朝から晩まで浸されていることをあらためて思い出させてくれる。

レーモンド・マリー・シェーファー
(Raymond Murray Schafer, 1933年7月18日 - )は、カナダを代表する現代音楽の作曲家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC

徒然音楽夜話 戦前ジャズブーム 大阪の衝動 東京を虜に

2013年05月08日 | 徒然音楽夜話
音楽夜話
戦前ジャズブーム 大阪の衝動 東京を虜に


服部良一作曲の青い山脈
石坂洋次郎原作で戦後の一時代を築いた日本映画に「青い山脈」がある。
この映画は、服部良一作曲の『青い山脈』の主題歌としても未だに歌い続かれる有名な歌でもある。
1949年に発表された曲であるから、今の若い方たちには馴染みは薄いだろうけど、発表当初の藤山一郎と奈良光枝の歌は、今持って記憶に蘇ってくる。

実は、この作品の動機には有名なエピソードが残っている。
大阪から京都に向かう当時の京阪神急行電鉄京都線(現在の阪急京都線)の電車から北摂の山並みを眺めた服部良一は突然浮かんできた曲想を手帳に書きとめようとしたが、当時は終戦後の頃だし電車内は買い出しの客で満員のため、ゆっくり五線譜を書くことができない。とっさの思いつきでハーモニカの番号を記して記憶に残したという。

『青い山脈』
作詞:西條八十 作曲:服部良一
この曲を歌った藤山一郎と作曲者の服部良一は共に国民栄誉賞を受賞している(作詞の西條八十は国民栄誉賞創設以前に死去)。後の映画では藤山一郎自身が音楽教師の役で出演していた

大阪はジャズの不毛の地?
いままで『青い山脈』の話を長広舌に述べてきたのも、今回の戦前の大阪ジャズ・ブームにしろ、このエピソードにしろ、何かと音楽不毛の地といわれるがいろいろ大阪は、実はポピュラー音楽と縁が深いところであるということである。


毛利真人(音楽ライタ-)コラムから
「戦前ジャズブーム 大阪の衝動 東京を虜に」

ジヤズはいつ始まったか
ジヤズはいつ始まったか?という問いに「戦後から始まった」と答える人は多いにちがいない。その象徴的なキーワードとして、進駐軍、ラジオ、ジャズによって代表される民主主義の自由な空気などを列挙するのが妥当なところだろう。

ところで本当に日本のジャズは戦後に始まったのだろうか?
 
答えは否である。これは考えてみれば当然のことで、戦後のジャズは戦前の延長であり、その発展形にすぎない。しかし、戦前のジャズはなぜかあまり歴史の表舞台に出ることなく、人々から忘れ去られてしまった。今こそ、戦前に盛り上がったジャズブームを正当に再評価するときだと考えている。そして、なかでも大阪はその第一次ジャズ黄金時代において大きな役割を果たしていたのだ、と主張したい。大阪はなにも阪神ファンとお笑いだけではない。かつての大阪人は、日本一ホットなジャズに血を躍らせていたのだ。

大大阪時代のジャズ
大正14(1925)年から昭和10年代にかけてのいわゆる「大大阪」時代、街にはジャズが満ちていた。大阪・道頓堀の戎橋たもとのカフェーでは橋に向かってスピーカーを設置。ジャズを大音量で流して輦蜃を買っていたし、街頭テレビならぬ街頭ラジオというものがあって、やはりジャズをガーガーと放っていた。戦前、ラジオのゴールデンタイムは正午と夜8時台で、特に昼の番組ではジャズを盛んに放送していた。
 
同じような光景は東京や名古屋にもみられたが、昭和初年から10年代にかけて全国を席巻したジャズブームとまったく遜色ない戦前のジャズ人気の口火を切ったのは、大阪だった。

大正末期、千日前のダンスホール「ユニオン」では井田一郎が率いる5人組のジャズバンドが活躍していた。彼らは他のバンドと一線を画した技術と情熱でディキシ-ランド・ジャズを演奏した。また同じころ、大阪でパワフルに活躍していたのはマニラや上海から来たフィリピン人のジャズバンド。当時マニラは完全にアメリカナイズされており、ジャズのフィーリングも本場ゆずりの達者さだった。

こういった火を噴くようなホットジャズは、大阪が東京に輸出したものなのである。もちろん東京にもジャズはあったが、それはジャズというよりはダンス音楽といった方が似つかわしい、ごくおとなしく上品な音楽であった。

道頓堀ジャズ
それに引き換え、後に「道頓堀ジャズ」とも称された大阪のジャズは、大大阪という都市に噴き上がるマグマを体現する音楽的衝動だった。井田のバンドやフィリピン人バンドは昭和3年、相ついで東京に現れて、東京の若者たちを大阪ジャズの虜にした。
東京での成功はラジオとレコードで全国に広がり、爆発的なジャズブームを巻き起こしたのである。

大阪への回帰
大阪からはさらに服部良一、ジミー原田、中沢寿士などのジャズメンがぞくぞく東上した。彼らが戦前のジャズ人気を支え、戦後のビッグバンドーブームに時代をつなげたのであった。その血脈は、いまも古谷充・光広父子(サックス)やアロージャズオーケストラなど数多くのジャズメンの活動に受け継がれている。

大阪から全国に広がったホットジャズはふたたび大阪に回帰し、現代の大阪を熱く彩っている。 

毛利真人(音楽ライタ-)
昭和47年、岐阜県生まれ。日本近代音楽史を専門に執筆活動を続ける。著書に「貴志康一 永遠の青年音楽家」、共著に「モダン心斎橋コレクション」など

徒然音楽夜話 カタロニア民謡 鳥の歌

2013年04月18日 | 徒然音楽夜話
カタロニア民謡 「鳥の歌」 柳 貞子訳
明け染めて 
陽は輝き 虹色の空に 鳥は歌う 
平和の歌 愛に満ち溢れ


鳥の歌
ホワイトハウス・コンサートについて
CD SONY 鳥の歌-ホワイトハウス・コンサート パブロ・カザルス、ミエチスラフ・ホルショフスキ、 アレクサンダー・シュナイダー

世界平和を訴え続けた、偉大なるチェリストが紡ぐ感動の記録が、この3分足らずの短い演奏に凝縮されている。

「平和」という言葉ほど、語り尽くされど未だ実現せずの感を強くするが、この言葉を耳にするたびに、カザルスの歴史的スピーチを思い出す。カザルス自身の心の底から訴えるナマの声は下記のYouTubeでも聞くことができるが、今持って心揺さぶられる迫力だ。

カザルスとチェロの出会いといえば、父親に連れられて入った楽譜屋で、誇りにまみれたバッハの無伴奏楽譜を偶然手にした時から、それまでの眠れるチェロの歴史の幕開けとバツハへの敬愛が始まる。カザルスとバッハといえば、チェロの練習前には必ず平均律クラヴール曲集を引いてから始めたという。それほどカザルスとバッハの関係は深い。
ちなみに、この当時は、ギターのセゴビアといい、リコ-ダ-のドルメッチといい、時代的にが彷彿させるものがあったのだろうか。

■ライナーノーツより
この録音は、1961年11月13日、ホワイトハウスの広い純白の舞踏室イースト・ルームでの演奏である。ちなみに、カザルスは1898年にはウィリアム・マッキンレー大統領主催のレセプションの場で、1904年にもセオドア・ルーズベルトのためにホワイトハウスで演奏したことがありケネディ大統領の招待による演奏は三度目となる。年代的に見ても、前の二回の機会は実に半世紀以上も前の出来事であったわけである。

周知のように、カザルスの反フランコ政権はつとに有名であったが、あろうことかアメリカ合衆国は祖国スペインのフランシスコ・フランコ独裁政権を承認する国であったがゆえに、1938年以来、アメリカでの公の席での演奏を中止していたのである。

このような背景のもとでの、フランコ政権の承認国であるアメリカ合衆国の大統領の公邸での演奏はそれが非公開のものであるにせよカザルス自身が演奏するというのは画期的な行事であった。

パブロ・カザルス「鳥の歌 ホワイトハウス・コンサートでは、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーとピアノの大家ミエティスラフ・ホルショフスキーが共演している。
1961年のそのカザルス・ホワイトハウス・コンサートでは、ホワイトハウスでのライブ演奏録音であり、しかもケネディ大統領による拍手の音なども録音されている、という貴重なドキュメントでもある。

カザルスが信条を曲げてまでケネディ大統領の招待に応じたのは、当時の世界情勢の危機的な実情やケネディ大統領への信頼があったからという。


■パブロ・カザルスの言葉
『私が閣下(ケネディ大統領)ならびに、閣下のお友達の皆様方のために演奏するのであります音楽は、アメリカ国民への私の深い感情と、自由世界の指導者としての閣下に対する私たち全ての信頼を、必ずや象徴化してくれるものと確信しています。大統領閣下、どうか私の心からの尊敬と敬意をお受けください。

1939年5月、スペインの内戦が独裁者フランコの勝利を持って終了したときから、祖国スペインはカザルスが二度と足を踏み入れることのできない土地となり、その後の生涯を通し故国スペインには帰郷することはなかったという。

人間の自由と尊厳をモラルとする共和主義者カザルスは、スペインを去って、ピレネー山脈のフランス側の山村であるプラードに住み、一切の演奏活動を断って、スペイン亡命者の救済に全力を尽くしたという。

今のスペイン人はカザルスをどう評価しているのであろうか。


■数あるカザルスの記録の中でも、極めつけは「CASALS A Living Portrait」だろう。
昔、LPが出ていたが現在は残念ながら廃盤のようだ。しかし、You Tubeで音声を聞くことができる。レコードでのジャケットは日傘をさして海辺を歩くカザルスの後ろ姿を描いている。名ジャケットといえる。

この「CASALS A Living Portrait」のLPからのCD盤が何故か未だリリースされていない。以前からCDとして持ちたかったが、最近LP(針音が入っている)からYouTubeに投稿された方が現れたので、早速RealAudioのConvertを使って、トラックに分けてCD化することが出来た。感謝のみである。長く使いたい。
http://www.youtube.com/watch?v=U04gmrZ4qjc
http://www.youtube.com/watch?v=90IaVI9YE6Q

国連総会でのスピーチ・演奏
http://2jiyu.blogspot.jp/2009/06/p026.html
この中で、「鳥の歌」による平和への切々たる訴えは、政治と音楽を結びつけたまれに見る音楽家であつたと、今にして思う。

パブロ・カザルス 鳥の歌 (ちくま文庫)も大変読み応えがある。これは、すぐにでも手に入ると思う。


徒然音楽夜話 モーッアルト 四季斎日のオッフェルトリウム"主よ、憐れみたまえ”

2013年04月08日 | 徒然音楽夜話
モーッアルト 四季斎日のオッフェルトリウム「主よ、憐れみたまえ(ミゼリコルデイアス・ドミニ」とベ-ト-ヴェンの第九”歓喜の歌”


モーッアルトの作品に、K.222オッフェルトリウム「主、憐れみたまえ(ミゼリコルデイアス・ドミニ」という短い宗教作品がある。

一昔前は手元に盤がなければすぐに聴いたり確認ができなかったものだが、今世の時代は超便利なもので、Youtube等の動画サイトでレファレンスすれば誰でも確認等ができる時代が到来している。

著作権はどうなっているのかいまいち不思議だが、YouTubeでかのRias Chamber Chorusで聴くことができる。Berlin Radio Symphony Orchestra; Marcus Creed Conductorで原盤 はCDからLaserLight 15883
http://www.youtube.com/watch?v=lEBYufTXJQk

この作品を聞くと、ベ-ト-ヴェンの第九の歓喜の歌のそっくりメロディーが出で来ることは音楽内ではよく知られた話だ。
似たものクラシック音楽等の番組でも取り上げられてもよさそうなものだが、この作品に関してはあまり取り上げられることが無いのは、畏れ多いせいなのだろう。

モーッアルトのこの作品が1775年の作品だからベ-ト-ヴェン第九のシラーによる”歓喜に寄す”の1822年から1824年に比べて、モーッアルトの方が明らかに早い。

聞けば聞くほど、モーッアルトの幻影が感じられる。ベ-ト-ヴェンが何処かで聞いた記憶にもとづいて作曲に中に取り入れたのか、としか比較しようがないが、このあたりのことに関する記述はいままで記憶に無い。当時はもちろん著作権の概念などなかったのだから他人の作品の援用など全然問題なかつたことは、バッハなどの例を見れば明らかだろう。
それにしても、この相似性についていままで本格的に記述された形跡が見当たらないのは、ベ-ト-ヴェンへの敬意なのか遠慮なのか。

このあたりの話が、あまり出てこないのも、七不思議のひとつだろう。



オッフェルトリウム《主、憐れみたまえ(ミゼリコルデイアス・ドミニ)》ニ短調 K.222(205a)
作曲:1775年初頭ミュンヘン
編成:cho4部、vn2部、va、bass、0rg
この7分半のオッフェルトリウムは、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世に求められ、対位法の力量をデモンストレーションするために書かれた。
ホモフォニックな「主の御隣れみを」の部分とポリフォニックな「歌い讃えよ、永遠に」の部分が11回繰り返されるが、和声も構造もその度に変化してゆく。伝統的で厳格な手法の誇示と、万華鏡のようにテクスチュアを変容させていく。マルテイーニ師が、”当世の音楽の求めるすべてがある点にこそある。”と賞賛の言葉を送ったという。

徒然音楽夜話 A・ヴェデルニコフの音楽が違って聞こえて来る

2013年03月10日 | 徒然音楽夜話

音楽夜話 H25.03.10
A・ヴェデルニコフの音楽が違って聞こえて来る


アナトリー・イヴァノヴィチ・ヴェデルニコフ 1920年5月5日-1993年7月29日
ロシア語: Анатолий Иванович Ведерников、
Anatoly Ivanovich Vedernikov

1920年5月5日、ハルビンにて誕生。
1926年頃、ピアノを習い始める。ヴェラ・ディロンに師事。
1933年、ハルビンの高等音楽院を首席で卒業。
1935年、初来日。東京に1年程滞在。
1936年、ロシア(ソ連)に移住。モスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事。直後、家族を粛清の波が襲い、父親は銃殺刑、母親は強制収容所送りとなってしまう。師であるネイガウスの計らいで何とか逮捕を免れる。
1940年、初の公開演奏会。
1959年、グネーシン音楽大学で後進の指導にあたるようになる。
1980年、モスクワ音楽院で指導するようになる。
1985年、モスクワ音楽院の教授に任命。
1993年3月10日、ピンネベルクにおける最後のリサイタル。
1993年7月29日、死去。

ロシア・ピアニズムの定義は一言では難しいが、その系譜の伝統は今も脈々と流れている。歴史上悲劇的な数奇な運命をたどった音楽家の中で忘れてはならないピアニストがいる。悲劇的な生涯からは想像できないピアノを通して崇高な真摯な音楽を聞くことが出来るのは、幸せと言っては言い過ぎか。今となってはひとえに録音技術のおかげで”人類の遺産”を聞くことができる。

アナトリー・ヴェデルニコフは、ロシアの中の重要なピアニストではあったが、国外で知られる機会がほんとうに数すくなかったのは、旧ソ連時代を背景に少年時代を除いて国外での活動の機会がほとんどなかったためで、その演奏が広く世界に伝わらないまま世を去ってしまつた。

生地は中国のハルピン。革命逃れのロシア人の両親のもとに生まれたヴェデルニコフは、同地の高等音楽院を修了した13歳のときから中国各地で演奏活動を行い、1935年(昭和10年)には来日もしている。この時は「天才少年ピアニスト、トリア(愛称)・ヴェデルニコフ」の呼ばれていたらしい。しかし、翌年に旧ソ連に帰国した彼と家族は悲惨な運命をたどることになる。政情から国民の敵として両親が逮捕され、父親は銃殺され、母親は収容所で過ごすこととなる。当然子供のヴェデルニコフ本人に対しても警戒の眼が厳しかったという。

その窮地を救ったと言われているのがモスクワ音楽院のネイガウス教授で、逮捕を免れ、その後ピアニストとして順調に歩んでいく。

ネイガウスと言えば、現代のピアニスト、S・ブーニンの祖父に当たり、当時のロシアの代表的なビアニストでありピアノ教育者である。ネイガウスは同想録のなかで、自分の生徒たちのなかでギレリス、リヒテル、ダーク、ヴェデルニコフらを最も才能ある演奏家として名前を挙げている。

1980年代に入ると、ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカという名の改革によって、ロシア(ソ連)以外での演奏活動も出来るようになった。ソ連にとってもペレストロイカは大変革であったが、ヴェデルニコフにとっても彼の人生における大変革でもあった。
そして80年に初めて、制限付きの国外での演奏が許され、日本との関係では1993年の11月には、58年ぶりに待望の再来日も予定されていた。ところが、これまた悲劇というか数奇と言うべきか、その直前の7月29日にモスクワ郊外の別荘で胃ガンのため死去した。

稀有な才能を有しながらヴェデルニコフは、文字通り数奇な運命をたどったロシアのピアニストであったと言える。ヴェデルニコフは1980年からモスクワ音楽院の教授を務め、1983年にはロシア共和国功労芸術家の称号を授けられている。
このように国内では素晴らしい地位を歩んでいたが、国外での活動の機会をほとんど与えられなかったため、一部のフリークを除いてその優れた演奏が広く敷衍しないまま、また日本人にとっては、冷戦後の本格的な来日と録音実現とを目の前にして、残念ながらこの世を去ってしまったため、私たちにとって、リヒテルとは違いまさに幻のピアニストとなったのである。

ヴェデルニコフというピアニストの名は、1994年4月テイチクより発売された1枚のCDから日本で一躍注目を集め出したという。それは、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、リゲティ、シューマン、シューベルトなどの作品を収めた、ドイツでのライヴ録音である

ヴェデルニコフがモスクワで行なった最初の公開の演奏会は、1940年、同門のリヒテルとのジョイントによる協奏曲のコンサートだった。また彼は、演奏活動のなかでストラヴインスキーやシェンベルク、ヒンデミット等の作品を積極的に取り上げたり、あるいは、プロコフィエフの管弦楽曲をピアノのために編曲するなど、多彩な活躍を見せた。

当時旧ソ運での唯一のレーベルと言えば、東京の「新世界」から輸入されていた、少々粗悪ではあったがメロディア盤のLPで、このレーベルで25枚のアルバムが制作されていたということで、それらが発掘されて世に出ることが切に望まれていた。私も当時何枚か通信販売で購入した記憶がある。ジャケットも粗末で厚めの盤が特色であった。後にデンオンから、CDシリーズ「ヴェデルニコフの芸術」がリリースされている。当然ながら、初のCD化であり、選曲は未亡人の協力のもとに、モスクワの放送局に残っていた録音のなかから、ヴェデルニコフ自身が「会心の録音」として自薦していたものが選ばれている。

深い精神性と、華美に飾らずに譜面に忠実で、作品に対して真摯な音楽作りは、高い価値を持つものとして大いに注目されたが、精神的な深さ、内面的な鋭さが強く印象に残ると同時に、その悲劇的な生涯からは想像し難い、清らかな美しささえ放つ彼の演奏には、心を大きく動かされる。本格的な来日を目前にしたヴェデルニコフの死であったと言える。



私の愛聴盤
バッハ:パルティータ全曲

世界初のCD化であるが、今時の録音のような鮮明さはさすがにないが、全体の音質は悪くない。1曲目のみモノで疑似ステレオ?か。
とにかく一音一音格調が高く、指先のみで弾いていない。ピアノのペダルの使い方も秀逸である。和音を弾いた瞬間にペダルを上げてカットし、すぐに素早く後踏みする技術に長けていたという。ひとつひとつの音に深い意味合いを持たせた重厚で威厳も感じさせる。ブラジルのバッハ弾きのホワン・カルロス・マルティンズとならんで個人的には大変好きなピアニストである。


徒然音楽夜話 ベアテ・シロタ・ゴードン女史と現行憲法

2013年02月20日 | 徒然音楽夜話
徒然音楽夜話・・・H25-02-20
ベアテ・シロタ・ゴードン女史と現行憲法


ベアテ・シロタ・ゴードンと言えば、音楽の世界ではレオ・シロタ氏の娘として有名だが、同時に現行憲法24条の「女性」に関する起草者として有名である。


今回の両紙の新聞記事を読んで、つくづく「歴史事実」とは何か?を思わざるを得ない。
従来から、現行憲法の女性部門の起草者として聞かされてきたし、いろいろ読んだ本にもそう記述されていたし、小生は実際に彼女の講演を聞いたこともある。大変流暢な日本語で毎日新聞に書かれている様なお話であった。

ところが「産経」の古森氏によるとトンデモない話が出ている。果たして、ケーディス氏、ベアテ氏のいずれかが思い違いしているのか、どちらが歴史の真実に近いのか。

よく日中韓の歴史感は、「日本ではヒストリ-、中国ではプロパガンダ、韓国ではファンタジ-」と言われている。日本も人のことは言っておられない。とにかく歴史記述は、「ウソも百回言えば真実になる」たとえ通りだ。「歴史」と言うのはメディアや書物や伝承、それをベースに刷り込まれた学者などによって、過ぎ去る事実と併行して形作られて行くものなのだろうか。

今回は、彼女と音楽の世界の直接的な接点は見つからないが、第一回目として取り上げてみたいと思う。

■ 毎日新聞から 2013年(平成25年)2月9日(土)
憲法起草の議論知る「最後の語り部」 すい臓がんのため2012年12月30日死去・89歳
「私の人生で最も悲しい日の一つになったわ」。受話器の向こうから伝わる寂しげな言葉
に、ベアテさんの思いが詰まっていた。06年2月、かつて連合国軍総司令部(GHQ)民政局の同僚として日本国憲法の第1章「天皇」を起草したリチャードープール氏(享年86)の訃報を伝えたときだった。戦後60年の特集取材でニューヨークの自宅を私が訪ねたのは、プール氏が亡くなる3日前。直前に取材したプール氏から「よろしく伝えて」と伝言を預かっていた。
1946年2月、部屋に充満したたばこの煙、鳴り響くタイプライターの音、連日の缶詰の食事……。「人権の条項を草案してくれ」とケーディス民政局 ベアテ・シロタ・ゴードンさん元GHO民政局員次長から指示されたベアテさんは、プール氏と戦後日本の一角で時間を共有した。彼女の死は、GHQ内の憲法起草の議論を知る語り部がI人もいなくなったことを意味する。

「眠気など感じる時間もなかった」。I週間以上にわたる徹夜の作業を屈託のない笑いで表現した。任せられた女性の権利について「男女平等」の理念(24条)は認められたが、草案にあった妊婦と乳児への国の支援など社会福祉に関する条項は削除された。日本の女性のためにと戦った22歳の女性は、失望し、怒り、泣いた。「でもケーディスさんは、私が彼の肩に顔をうずめて泣いたって言うけど、それは覚えていないの」とほほ笑んだ。
 
08年に来日した際、各地で講演し、憲法制定過程などの話をした。戦争放棄を定めた憲法9条を含めて日本国内の憲法改正の動きを批判し、「こんなすばらしい憲法こそ、世界中に広めるべきだ」と説いて回った。戦後日本の礎を間違いなく築いた人たった。「及川正也」

■ 産経新聞から 日本国憲法作成の真実
平成25年(2013年)1月8日 火曜日 古森義久
今年は憲法の改正が国政の主要課題としてついに正面舞台に登場しそうである。改正への取り組みでは改めて、日本国憲法とはなんなのか、その起源にさかのぼって正確に認識することが欠かせないだろう。とくに日本の憲法がどのように作られたかを客観的に知ることが重要である。
 
日本国憲法は日本が占領下にあった1946(昭和21)年2月、米国軍人十数人により10日ほどの間に書かれた。正式には連合国軍総司令部(GHQ)の民政局のコートニー・ホイットニー局長(陸軍准将)の下で次長のチヤールズ・ケーディス大佐が起草の実務責任者となった。その草案は本体が書き直されることはまったくないまま、戦後の日本の憲法となった。この憲法作成の真実は歳月の経過とともに、ぼやけがちとなる。そのことを実感させられたのは作成にかかわった米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんの死去についての日本側の報道だった。

昨年末、89歳で亡くなったゴードンさんは22歳だったころ日本国憲法の「男女平等を規定した第24条を起案し、書き上げた」というのである。しかし公式に残る記録からはその事実は浮かんでこない。死者の名誉を傷つける気はないが、疑問を禁じえないのは憲法作成の実務責任者のケーディス氏から当時の実情を詳しく聞いた経緯があるからである。同氏が元気だった1981年4月、4時間近くのインタビューだった。その英文の記録はすべて残っている。

ケーディス氏によれば、憲法作成は全体11章の各章ごとに起草委員会を設け、法律の知識や経験のある中佐、少佐級の米軍人を委員として任命した。ゴードンさんはその起草の委員ではなかった。だが憲法作成の作業にはかかわっていた。ケーディス氏は若きゴードンさんについてこんなことを語っていた。
「私たちの下で働いていた21、22歳のベアテ・シロタという若い女性はその後、民政局にいたゴードン中尉と結婚したのですが、日本に長年住んで、日本語に熟知し、東京の地理にも詳しかった。だから東京都内の各大学図書館に出かけて、各国の憲法の内容を集めてもらいました。私たちは憲法作りの参考資料がなにもないため、諸外国の憲法から担当領域に役立つ部分があるかどうかを調べたのです」

つまりゴードンさんの任務は資料集めだったというのだ。ケーディス氏の他の言葉も彼女が通訳あるいは秘書だったことを示していた。オーストリア出身のユダヤ人として父とともに6歳で来日したゴードンさんが大学入学のために初めて米国に渡ったのが16歳のとき、米国籍を得だのが21歳だった。いくら才能があってもそのすぐ翌年に米国を代表して日本の憲法を起草するというのは無理に映る。
 
それでも朝日新聞などがゴードンさんの日本国憲法起草をたたえるのは彼女が改憲に反対したからだろう。本人も近年、「憲法第24条は実は私が起草した」と語るようになっていたようだ。それが事実だとしても、日本国憲法が米国製であり、日本側への押しつけだった真実には変わりはない。ケーディス氏が長いインタビューで強調したのも日本側には米国草案を拒む選択肢はなかったという点だった。
なおケーディス氏の発言の全記録は最近の拙著「憲法が日本を亡ぼす」(海竜社)に掲載されている。(ワシントン駐在編集特別委員)

一服一銭 モ-ッアルト

2012年05月16日 | 徒然音楽夜話
モ-ッアルト

モ-ッアルトの音楽は二つの部分からなる。書いてあるものと書いてないもの。大切なのは後者だ。
ヴィットゲンシュタイン

モ-ッアルトとは何か?一言で言えば、自由で雅を失わず、まじめと遊びが一体となり、のびのび呼吸する音楽ではないだろうか。
吉田秀和

モ-ッアルトは子供にはやさしすぎ、大人のピアニストには難しすぎる。
ブゾ-ニ