どんがばちょ

日常の出来事を鋭い視点、オモロい切り口で綴っていく、オヤジのブログ

セックス・アンド・ザ・シティにハマる女たち

2010年06月25日 | 日記
まぁ、よく流行ってますね。

うちの奴は録画してまで観てますよ・・・

題名からすると男性が観るものかと当初思ったら・・・

女性の生き方のドラマなのね。

舞台はN.Y.C.

皆仕事を持つ自立した女性。

でも若くて綺麗な20代ではなく、枯れかけた・・・でも最後の若さと経験がむしろ放つオーラを持つアラフォー。

お金もある。

特別ではないが、普通以上の美貌もスタイルある。

ファッションがお洒落。

ブランドものも出てくる。

そしてその女性たちが繰り広げる恋愛物語。

ま、自分に重ね合わせて観るんですかね。

「このドラマにハマる女は田舎者」なんて誰が言い出したか知らないけど、

ちょっと憧れていて、手に届きそうだけど、ちょっと届かなさそうなもの・・・

その辺りに憧れる心理が描かれているんだね。

そりゃあ流行りますよ。

確信犯的な番組だなぁ。

低視聴率で評判だった「不毛地帯」なんか、フジが力を入れた割には、絶対流行るという要素をことごとく逃している。







「消費者が望むものを調べつくしたサービスは絶対流行る。」





宗教問題

2010年06月21日 | エッセイ
信教の自由が認められた国、日本。

さまざまな宗教があり、色んな信者がいる。

しかし、日本人の大枠は「無宗教」だと言っていい。

冠婚葬祭には宗教を用いるが、普段の生活で信心深い人はあまりいない。

そのこと自体がいいことか悪いことかわからないが、とにかく現代人はあまり宗教にしがみつかない。

それは日本が戦後豊かになったからかもしれない。

戦後、天皇が象徴となったことで、神様という基本的な構造が崩れたのかもしれない。

また、急激な発展の中で、工業化や都会化といった近代化こそが心の拠り所となったからかもしれない。

実際、企業戦士などと外国から揶揄されるくらい、企業勤めが日本人の価値観の中心となった。

そしてその「企業」は神話となるくらい成長していった。

これはある種、信じる対象が変わっただけで、心の拠り所となるという意味では宗教と同じである。

しかし、その信じるべき企業が今は揺らいでいる。

そうして今、日本人は「個人」という能力を今生かさねばならない時を迎えた。

しかし、その個人という教育をされていなかったために自立できていない大人が多い。

自分のことを自分で決めることができないのだ。

自殺率が高いのもそのためなのか。

日照時間が短い国に自殺が多いというのは統計的にもそうだが、日本は異常ではないのか?

それは何を隠そう、「信じるもの」を見つけていないからだ。

経済が衰退すれば、何を拠り所に動いていいのかわからないのだ。

それを表すかのように、新興宗教に入る人も増えている。

また宗教には入信しなくても、「スピリチュアル」にはまる人も増えている。

そのような本も売れている。

神や特定の崇拝する人物がいないだけで、内容は殆ど宗教書と同じだ。

もちろん内容は、愛や思いやり、自分を信じることなど、素晴らしい内容のものである。

宗教の種類を問わず教えは素晴らしいと思う。



しかし、内容はともあれ、「排他的」な宗教が存在するのも事実である。

・・・この宗教を信仰しないと、不幸になる。

変な死に方をする。

他の宗教を信じることは邪悪である。

無宗教も同様に邪悪である。

こういった信仰は周囲の人に摩擦を引き起こし、人間関係にトラブルを起こす。

しかし信仰している人は、本気なのでひるむこともなければ、それが正義だと思っているのだから悪いとも言い切れない。

恋愛や結婚相手にこういうことが絡むと、これは二人だけの問題ではなく、家同士などの大きな問題になる。

本当に難しいことだ。



私は無宗教だが、クリスチャンの経営者を始め、新興宗教にも知人が多い。

皆人間的に素晴らしいと思える人ばかりだが、宗教活動に自分の時間を裂こうとは今のところ考えていない。

それよりもむしろ普遍的な人間としての教えがあるというところをが勉強できて素晴らしいなと思う。

たとえば聖書は難しいが、聖書を解説した本は読みやすい。

聖書はまさに人生の指南書であろう。



話があちこち向いたが、いいたいことはこうだ。

とにかく今は日本人は「自立」を急がないといけない。

ニュースではいつも政治家が悪者だ。

誰かのせいにする生き方ではなく、自分がどう生きるかということにもっと目を向けなければならない。

それなのに、多くの人はいつも批判ばかりだ。

「本当に政治家が変わったら日本はよくなるの?」

・・・政治家だけが経済を動かしているのではない。むしろ政策は経済の決定的要因ではない。

「このビジネスは本当にうまくいくの?」

・・・うまくいくかどうかの他力本願ではなく、自分がうまくいかせようと思っているのかどうかだ。誰もうまくいかなかったことでも、自分がうまくやればいいのだ。また既に先人がうまくいったことでも、乗っかっているだけではうまくいかないのだ。

「私は幸せになれるの?」

・・・ここまでくれば重症患者だろう。幸せは他人が運んできてくれると20歳を過ぎた大人が本気で思っているところが怖い。
幸せは自分が決めるものであり、幸せだと思うゾーンに自分で向かえばいい。
それができた人のことを「成幸者(≠成功者)」という。






いつも正解を求め、パターン化されたマニュアルを好み、




人権資料館

2010年06月18日 | 日記
人権資料館に行ってきた。

差別をなくしていこうという思いで、市が作った施設。

同和対策前の暮らしの様子などが模型で再現されていました。

当時の人々の暮らしなどがわかるように展示され、どのように解放に取り組んできたかがわかる。


しかし、解放については表向きと裏の世界があるのはご存知の通りだ。

逆差別なども存在する。

一般には結婚差別や就職差別はなくなってきているというように感じるが、もし自分が当事者とそういう絡みになった場合に、本当に差別なく対応できるか?

「差別の気持ちはいけないと思うし、自分も差別はしない。」

ということと、

「自分として当事者になってしまったら、ややこしいことには関わりたくない。できれば傍観者で終わりたい。」

という気持ちが両方に存在している人が大半であろう。

当事者が差別はいけないと思っていても、周囲の反対を受けた結果、大人の対応をしてしまう人も多いと思う。

で、そのことが「差別の心があなたにはあるのね」と第三者に言われることもあるかもしれない。

「差別の心がないなら、押し切ったらいいじゃない?」

と言われても、自分たちだけの問題では済まないことを知った時に、何らかの対応をしてしまうかもしれない。

だから「差別の心がある」というのとは違う。

またそれを差別だと糾弾されたりするのもおかしい。




こういう問題は、根が深く、悩んでいる人も沢山いるだろう。

本来なら正義感で戦うべきところも、皆自分が忙しく、そこに関わっている余裕などないのかもしれない。

事なかれ主義がいいとは言わないが、通り過ぎた方が楽だというのは事実なのだ。



そういうことを思いながら、今は改良住宅になり生活も向上したかに見えるその地を離れた。


不合理なこと

2010年06月08日 | 日記
日常には、不合理なことがある。

人間社会には仕方のないことなんだろう。

世の中を浄化したいという思いが強い私も、不合理なことには、日和見主義になっている部分もある。



例えば、差別はいけない、と心からおもっている。

能力や実績の結果、区別することはするべきだとおもっている。

そのために人は努力できるからである。

しかし、スタートラインから制度的に差をつけてしまうことが「差別」である。

出自や、人種などである。

しかし、例えば自分の子供の結婚を相手のそういう理由で反対するという行為に及ぶ親の気持ちは、どうだろう。

結婚は当人同士の幸せだけにはとどまらない。

差別する気持ちが全くなくても、トータルで自分たちの幸せを計算してしまうものだ。

無理に正当化しようというつもりもないが、逆にそれが人間の防衛本能だということもあえて反対する立場を持たない。

自分の生活を脅かすような恐怖にわざわざ知っていて足を突っ込むことなど普通の人間はしないのだ。

東野圭吾の小説「手紙」にこのことの気持ちは大きく取り上げられている。



また、宗教の中には、他人に実害の及ぶものもたまにある。

信じている本人は真剣そのものなのだし、それは全く否定しない。

信教の自由だし、自分もそれでいいと思っている。

ただ、信じない人は不幸になる・・・というタイプの教えがあったとき、その内部にいる人間の気持ちと、外部にいる人間の不快感はまったく対極にあるのだ。

相容れない思想の二人が愛し合い一緒になった時、どちらかが改宗したとして二人の関係がうまくいったとしても、その二人だけの幸せの問題ではないのです。

ケガをしたら、入信していないせいだ、と言われ、子供ができようものなら入信しろということになる。

また両家で信教が違ったらどうだろう。

もしどちらも篤信家だったらどうだろう。

最初から禁断の地雷をわざわざ踏みに行くこともないと考えるのは人間だったら当然の行動だ。



「そういうことをいうこと自体が差別なのよ」

という反論があったとしよう。

差別する気持ちは微塵もないのだが、ではその人に質問したいこともある。

電車の中で迷惑行為に及んでいる大変力の強そうな、大変気性の荒そうな、一見してその筋の人に見える人がいたとき、正義感に基づいて本当に注意する勇気があるだろうか?

「その行為は絶対によくない」とわかっていても、実際にそう行動できるかどうかは別問題なのである。



社会にはタブーがある。

触れてはいけない部分がある。

敢えて立ち向かったために、後ろ指を差される結果にもなりかねない。

かといって、わざわざ「触れません」と公言すべきことではもちろんないのだが、そっと見てみない振りをすることも大切である。



近所の奥さんが不倫をしている事実を知ったらどうだろうか?

ご主人に忠告できるだろうか?

忠告したことを逆に恨まれないだろうか?

逆に自分の隠し事を知らぬ間に誰かが握っていてばら撒かれないだろうか?

何でもかんでも正義感に基づいて行動することがいいのだろうか?



こういうことを理解していくことが大人になることだ、なんていうもっともらしい表現はとてもさびしいし、残念な気持ちが伴う。

何の罪もない当人同士が、進みたい道をこういった理由で曲げられる不合理さ。

でも、乗り越えてまで進む勇気も持ち合わせていない場合はどうだろう。

自分の情熱の上限の範囲内で、楽な方を選ぶものなんだろう。

悔しい気持ちもいずれ時間が忘れさせてくれる。

そういうことを信じて突き進むしかないのか・・・



世界卓球の放映

2010年06月02日 | 卓球
テレビでの世界卓球モスクワ大会の放映は、有料を除けば、テレビ東京で独占放映されていた。

私のところもネットワーク局のテレビ大阪で観る事ができた。

あれだけ卓球に力を入れて放映してくれたのは本当にありがたいことです。

テレビ東京に感謝しています。


しかし、独占放映権についていうと、何故テレビ東京が買ったのか?

残念ながら他局ではいらないと判断されたからだろう。

全国ネットの他局では、もっともっと視聴率の取れるものを優先させたということだ。

そこをテレビ東京が買ったということだ。

テレビ東京のネットワークは全国では観られないので、放映の恩恵を受けなかったところも実は多い。



そしてびっくりしたのは、夜のスポーツニュースで他局が全然世界卓球を取り上げてくれないことだ。

せめて銅メダルなんだからもっとニュースでやってくれてもいいのに・・・

取り上げるということは、視聴率がテレビ東京に流れるということだから、ニュースですら取り上げない・・・

まぁ、経営的には正しい判断なんだろうけど・・・

それだけまだ日本では卓球が注目されていないということだろう。

バスケットもプロリーグができたのに、全然放映されない。

それも人気がないからだ。

日本が金メダルを取るとか、愛ちゃんのようなかつて人気があったプレーヤーのような人が出るか、ダルビッシュばりのイケメン話題プレーヤーが出るとか・・・

それぐらいないと、一般の人は観ないんでしょうね。

卓球人からすれば水谷や松平や石川は超有名人なんですけどね!



結局テレビ東京というややメジャーから外れた局が取ったことで、結局全国ニュースに取り上げられない・・・

卓球のメディア的普及に功をなしたのか、それとも逆だったのか?

取り上げてくれて有難かったが、逆にみんながみるニュースに出ない・・・

・・・複雑なところだ。



同胞の敵

2010年06月01日 | 卓球
世界卓球2010が閉幕した。

今回の団体戦は、男子は中国が優勝したが、女子は中国が破れた。

シンガポールが初優勝。

中国女子は19年ぶりに首位の座を奪われた。

女王張怡寧が長期休暇に入っていることで世代交代を図った中国チーム。

一方シンガポールは監督、選手とも中国から来たベテランで固めた。

同じ中国人でも対照的なチーム編成。



中国エースの劉詩ウェンは若干19歳。

そのエースが2点を落とした。

逆にシンガポールの馮天薇は2点を取った。

いい笑顔だった。

中国は実績のある郭躍ではなく、劉詩ウェンを起用したが、裏目にでた。



ご存知の通り中国は卓球王国で、選手層も厚い。

次々と若手が登場し、どんなに強くても代表入りはなかなか難しい。

他国に帰化して実力を発揮する選手も後を絶たない。

しかし、それは飽くまでその国の補強の役割を担っているにすぎない。

もちろんエースが帰化人というケースもままあるが、全員ということはない。

今回は中国の監督、そして戦犯になってしまった劉詩ウェンの状態が気になる。

責任問題なのだ。

そして勝ったシンガポールも、中国側から見れば自分を他国に売った人たちだ。

中国から後ろ指をさされかねない。



単に今回のシンガポール優勝は「ある国が中国を破って優勝した」という単純な図式ではない。

もちろん馮天薇が優勝を決めた瞬間の喜ぶ顔や、選手たちの歓喜を見ているとそのようなことはどうでもいいように見える。

しかし、日本のサンリツでもプレーしたことのある馮天薇。

色々と苦労もあったのだろう。

そしてシンガポールの地で自分が花咲いた。

サクセスストーリーとしては本当に素敵な話だ。



「中国」のことだから冷静に見れる。

もしこれが日本人だったらどう思うか?

まぁ、今の状態では可能性がない話だが、例えばだ。

数年後、福原愛や平野がどこかの選手として、石川佳純と戦う。

水谷や岸川がどこかの選手として、松平健太や上田と戦う。

これを冷静に見れるだろうか?

そしてその監督は宮崎監督である。

観ている側としては、どちらが勝っても嬉しい。

しかし、相手が勝つと海外に行った彼らを恨むかもしれない。

海外に行って自分より弱かったら納得がいくだろう。

だって今は実力のあるこちらが国内の代表になっているのだから。

そして王国流のハードな練習をこなしているのだから。

それがかつての精彩を失ったかに見える流れ者に負けたらどうだろう。



中国が弱くなったのか、チームが若すぎてメンタルが未熟だったのか、練習方法が悪いのか・・・はたまた・・・。

色んな意見が交錯しているが真実はわからない。

ただ事実上世界ランクトップばかりを集めた精鋭チームが、やや格下であるチームに完敗したのは、力の差だけではないことは明らかだろう。