どんがばちょ

日常の出来事を鋭い視点、オモロい切り口で綴っていく、オヤジのブログ

「スポーツ」と「道」の違いについて

2010年12月03日 | エッセイ
少年野球や少年サッカーを見ていると、監督が子供がグラウンドを離れる時に一礼をして帰ることを義務付けていることがある。

柔道や剣道などの武道で見られる場面に似ている。

一見教育的にはよいようにみえるが、これは監督の大きな根本的なハチャメチャなミステイクである。

武道が古来日本人のDNAに刻まれていることを考えると違和感はないように見えるのだが、どうやらこのことが根本的に「スポーツ」というもののとらえ方を間違ってしまっているようだ。

そもそも武道の「道」というのは人の生きる道、哲学である。



そこに、明治維新後欧米から色んな競技が輸入され「スポーツ」と呼ばれた。

そもそもこの「スポーツ」は、元々「気晴らし」とかいわゆるレクリエーションという意味合いである。

だから競技性のある楽しいものであればスポーツである。

ダーツやビリヤード、カーリング、TVゲームなどもれっきとしたスポーツである。

日本では長らく今でいう激しいスポーツ的なものは「体育」と称され、レクリエーションとは一線を引いていた。

大学のクラブとかで「体育会系」と称される場合は明らかにレクリエーションではなく、激しく厳しいイメージがあることからも体育という言葉の意味がうなずける。

かつて青春ドラマでもラグビーやサッカーやバレーや野球を明らかに「道」的な意味合いで描かれている。



しかし徐々に、結果的に体を動かすことになる種目が多いスポーツが体育的なものと同じ意味合いで使われるようになってきた。

その結果、サッカー選手にグラウンドに礼をさせるような「道」的な部分を要求したりするヘンテコリンなことになっているのである。

そもそもJリーガーのファッションなどの文化を見ると金髪にしたり、ロン毛にしたり・・・本来の日本人が考える「道」とはかけ離れているが、それはもちろんヨーロッパで発達したサッカーという「スポーツ」の文化の影響である。

それを「あれはどうか」などと眉をひそめることが本来おかしいわけで、サッカーは本当の意味でのレクリエーション「スポーツ」なのである。

ましてや「野球道」のように、哲学である「道」という言葉をレクリエーションに無理やりくっつけるなど愚の骨頂ではないか。

ついでにいうと、「体操競技」はゲーム性があまりないのでスポーツではなく、あくまで「体操競技」らしい。





さてこのような経過で日本人はスポーツという言葉のとらえ方が本来とは違っているという結果になった。

オリンピック競技にPCゲームなんかが入るという議論にJOCが違和感を示しているというが、それは日本人独特の感覚らしい。




卓球の試合などに出ても面白い。

大学の卓球部出身の人は必ず対戦前に相手や審判、応援者などに礼をして始める。

それは彼らには常識なのかもしれないが、明らかに「体育会系」的な要素が刷り込まれている結果だ。

もともと卓球は貴族の遊びが起源であり、本来の意味での「スポーツ」のひとつである。

それは「道」ではない。

大学卓球の応援なんか見ていると皆同じ掛け声、同じように立ち上がる・・・見ていて清々しいほど日本人的だ(笑)



まぁ時代は変わるわけで、いわゆる「道」であった武道が今はスポーツの一員としてオリンピック競技になっていたりする。

ここまで世界的な「スポーツ」が幅を利かせると、スポーツの中で「道」を主張し続ける方が違和感があるというものだ。

柔道のルール改正が日本人に不利だとか、本来の日本人の持っていた心が失われているとかいう人がいるが、これはスポーツに加えられてしまったことであり、日本人だけがひょっとしたら残念な思考を持っていると考えるべきであるのか?



本来のスポーツの概念を日本人が体の芯から理解するにはかなりの時間がかかりそうだ。

そして理解できた時には、武士道的な思想は日本人から失われてしまった時なのか・・・(笑)


無責任な発言

2010年08月03日 | エッセイ
このところ思った「無責任な発言」シリーズ

一見正論だし、もっともらしい説得力を持つのだが実際は当事者や社会にとって何の解決にもならない発言。

結構こういうことを真正面から主張気味に言う人には嫌悪感を感じる。





アナウンサーが自殺する事件が相次いでいる。

こういうニュースを見たとき、

「生きたくても生きられない人もいるのに、自ら命を絶つなんて許せない」

・・・この言葉だ。

難病や経済的理由で生きるのが困難な人と、精神的苦悩を抱え生きることの負担よりも死ぬ方が楽だという選択をした人を並列で論じることはできない。

確かに自殺は当人だけの問題ではなく周囲にも苦痛をもたらします。

「生きていればいずれいいこともある」というのは正論だし僕もそう思うが、その判断ができないくらい病んでしまったのはある意味本人が弱いだけではなく、現代社会のいろんなストレスや家族・職場・友人など様々な問題を示唆しているはずだ。

そこに目を向けず大人になってまで勝手な行動をするな的発言は非常に嫌悪感を感じます。

そういう人は一度死ぬくらいの悩みや壁にぶち当たってほしいと思います。

その上で本当に上記の言葉に勇気づけられて乗り越えたのなら正しいと思います。

でも多分上記の発言は死のうとしたことがある人間が発する言葉ではありません。








「自分の子供を虐待するくらいなら産まないで欲しいわ」

昨今児童虐待どころか死に至らしめるようなニュースが後を絶たない。

子を持つ親としては本当に心が痛くこういうニュースはできるだけ見ないようにしている。

しかしTVをつけなくても自然にこのようなニュースは自分の脳に頻繁に飛び込んでくる。

まず最初は単純にその親の神経が信じられないと思う。

自分ならわが子にビンタすらできないのだ。

しかし詳しく見ていくと、なぜそういう心境になったのか、その親は幼少期どういう教育を受けたのか・・・などが見えてくる。

もちろん虐待する親の肩を持つなどさらさらする気はない。

しかしどこかで何かが歪んでしまったのは確かだ。

本人が精神的に子供だとか屑だとかだけで片付けられる問題ではない。

虐待の連鎖、ネグレクトの連鎖というのもある。

子供を冗談半分で作ったのではないだろう。

もちろん性行為を気楽に行ったというのはあるだろうけど、実際妊娠して産むことを決めたときに、虐待を前提に子供を産む人などあるまい。

それを言うなら、過去人間は間引きのために何の罪もない赤ん坊を殺すという行為をしてきたのだ。

そちらの方がよっぽど悪意のある恣意的な殺人だと思う。

でもそれは実は自然界の摂理だ。

動物でも繁殖しすぎると母親が子供を殺すという行動にでるものもある。

そうしないと一族全体が滅びるからだ。

そうなる前の防衛なのだ。

また「子は親を選べないのよ」という人もいる。

これも無責任だと思う。

親も子を選べないのだ。

というか、選ぶ選ばないの問題ではない。

親が無責任だったという事実はもちろん罰せられるべきだが、虐待はもっと心理学的に深い問題が潜んでいる。

もちろん児童相談所が一方的に悪いだけでもない。

その対応の遅さなどを非難する報道が多いのは無責任日本人によくあるパターンだが、昔はそのような機能がなくても虐待は今ほどなかった。

家庭環境、核家族、など育児環境も今は歪んでいるのだ。

とりあえず児童を救うにはもっと強制的にその親から取りあげるシステムが必要なのだ。






では、逆に一見無責任な発言に見えるが、非常に意味のある(と僕は思う)言葉を挙げよう。

悩んでいる人に「もっと悩め」

窮地に陥っている人に「ツイてるな」

事故った人に「ラッキーやね」

相談しに来た人に「それはわからんわ」

強がっている人に「大丈夫か?」

褒められたい症候群の人に「まだあかん」

どっちがいいか悩んでいる人に「自分で決めろ」

落ち込んでいる人に「お前が悪い」

鬱の人に「頑張るな」

自分を嫌っている人に「ありがとう」

出来の悪い息子に「お前は天才や」

料理が不味い嫁に「最高や」

理由はいちいちあるのだが、いちいち説明していたら長くなるので省くが全てに共通していることがある。

その人への愛情があるということだ。




最初の「無責任発言」は他人を批判することに主眼をおいている。

犯罪を犯したという先入観がそうさせている。

でも愛というのは無償のものだ。

愛とは許すことだ。

もし身近な人が犯罪を犯したら法で罰せられるべきだとは受け入れてもその人への愛という軸でものを考えるだろう。

批判が主眼ではなくその人の成長を願う気持ちが主眼になるはずだ。

愛で持ってその人に接っする。

僕はそういうようにしてきたつもりだしまだまだではあるが、今後もそうしていきたいと思う。














宗教問題

2010年06月21日 | エッセイ
信教の自由が認められた国、日本。

さまざまな宗教があり、色んな信者がいる。

しかし、日本人の大枠は「無宗教」だと言っていい。

冠婚葬祭には宗教を用いるが、普段の生活で信心深い人はあまりいない。

そのこと自体がいいことか悪いことかわからないが、とにかく現代人はあまり宗教にしがみつかない。

それは日本が戦後豊かになったからかもしれない。

戦後、天皇が象徴となったことで、神様という基本的な構造が崩れたのかもしれない。

また、急激な発展の中で、工業化や都会化といった近代化こそが心の拠り所となったからかもしれない。

実際、企業戦士などと外国から揶揄されるくらい、企業勤めが日本人の価値観の中心となった。

そしてその「企業」は神話となるくらい成長していった。

これはある種、信じる対象が変わっただけで、心の拠り所となるという意味では宗教と同じである。

しかし、その信じるべき企業が今は揺らいでいる。

そうして今、日本人は「個人」という能力を今生かさねばならない時を迎えた。

しかし、その個人という教育をされていなかったために自立できていない大人が多い。

自分のことを自分で決めることができないのだ。

自殺率が高いのもそのためなのか。

日照時間が短い国に自殺が多いというのは統計的にもそうだが、日本は異常ではないのか?

それは何を隠そう、「信じるもの」を見つけていないからだ。

経済が衰退すれば、何を拠り所に動いていいのかわからないのだ。

それを表すかのように、新興宗教に入る人も増えている。

また宗教には入信しなくても、「スピリチュアル」にはまる人も増えている。

そのような本も売れている。

神や特定の崇拝する人物がいないだけで、内容は殆ど宗教書と同じだ。

もちろん内容は、愛や思いやり、自分を信じることなど、素晴らしい内容のものである。

宗教の種類を問わず教えは素晴らしいと思う。



しかし、内容はともあれ、「排他的」な宗教が存在するのも事実である。

・・・この宗教を信仰しないと、不幸になる。

変な死に方をする。

他の宗教を信じることは邪悪である。

無宗教も同様に邪悪である。

こういった信仰は周囲の人に摩擦を引き起こし、人間関係にトラブルを起こす。

しかし信仰している人は、本気なのでひるむこともなければ、それが正義だと思っているのだから悪いとも言い切れない。

恋愛や結婚相手にこういうことが絡むと、これは二人だけの問題ではなく、家同士などの大きな問題になる。

本当に難しいことだ。



私は無宗教だが、クリスチャンの経営者を始め、新興宗教にも知人が多い。

皆人間的に素晴らしいと思える人ばかりだが、宗教活動に自分の時間を裂こうとは今のところ考えていない。

それよりもむしろ普遍的な人間としての教えがあるというところをが勉強できて素晴らしいなと思う。

たとえば聖書は難しいが、聖書を解説した本は読みやすい。

聖書はまさに人生の指南書であろう。



話があちこち向いたが、いいたいことはこうだ。

とにかく今は日本人は「自立」を急がないといけない。

ニュースではいつも政治家が悪者だ。

誰かのせいにする生き方ではなく、自分がどう生きるかということにもっと目を向けなければならない。

それなのに、多くの人はいつも批判ばかりだ。

「本当に政治家が変わったら日本はよくなるの?」

・・・政治家だけが経済を動かしているのではない。むしろ政策は経済の決定的要因ではない。

「このビジネスは本当にうまくいくの?」

・・・うまくいくかどうかの他力本願ではなく、自分がうまくいかせようと思っているのかどうかだ。誰もうまくいかなかったことでも、自分がうまくやればいいのだ。また既に先人がうまくいったことでも、乗っかっているだけではうまくいかないのだ。

「私は幸せになれるの?」

・・・ここまでくれば重症患者だろう。幸せは他人が運んできてくれると20歳を過ぎた大人が本気で思っているところが怖い。
幸せは自分が決めるものであり、幸せだと思うゾーンに自分で向かえばいい。
それができた人のことを「成幸者(≠成功者)」という。






いつも正解を求め、パターン化されたマニュアルを好み、




尼崎

2010年04月07日 | エッセイ
尼崎と聞いてあなたは何をイメージするだろうか?

下町、活気、ヤンキー、商店街、食いもんがうまい、ダウンタウン、工業地帯、地盤沈下、外国人、沖縄・・・

色々あるだろう。

私も関西にすんでいるが、尼崎というと何か「特殊な」カンジが昔からしている。

兵庫県にも市が沢山ある。

ただ、周辺の市(西宮、伊丹、神戸、芦屋・・・)あたりとは生い立ちが違う感じがする。

まぁ、それも歴史的な背景を見るとわかる。

例えば、西宮なんかは日本全国である意味「どこにでもある町」なのだ。

昔農村、その後大都市の衛星都市として住宅地として発展。

街にはいわゆる周辺都市としての機能しか備えていない。

大体人口数十万までの市は普通はそんな感じだ。

だから各々歴史や特産品、観光などは特色はあれど、大体日本全国似たような感じになる。

しかし、尼は違う。

市外局番は06だが、場所は大阪府ではないのは有名な話だ。

でもこれは電話が普及しだした頃の都合であって、尼崎が大阪の一部あるいは大阪商圏に近いという事情はむしろ存在しない。

尼崎はどちらかというと、尼崎単体で完結している都市だ。

商圏でいうと縦の交通である伊丹などとのつながりの方が深く、大阪の発展と関連して伸びてきたという関連性は低い。

近代以降、工業地帯として発展して造船や工場が立ち並んだことで、多くの労働者を受け入れてきた。

中には出稼ぎで遠いところから移住してくる人も多かった。

尼崎で働く労働者が、尼崎という街を作ったといっても過言ではない。

在日外国人も多い。

街をみてもコリアンタウンや沖縄的な要素も見られる。

それらと、関西特有の感覚が交じり合って、尼崎は独特の雰囲気をかもし出している。

よく「大阪のおばちゃん」という言い方をするが、それにやや似た、でも大阪とは違う生い立ちの下町風情を感じる。

だから、多くの人は「尼」という言い方をするとき、下町的風情に親しみを込めて言う。

恐らく尼崎は、大阪や神戸という大都市圏に隣接していながら、そことの関連性をあまり持たない独自の発展を遂げてきた街といえる。

もちろん武庫之荘あたりのように、衛星都市として住宅地として近年発展している場所もある。

しかし主流は下町としての発展してきた経緯だろう。

尼崎には美味しいお店が多い。

ホルモン、焼肉、中華、お好み焼き・・・・

全国区にはならない隠れ名店が多い。

どれも地元の人に愛されている。








逆境に打ち勝つ

2010年03月21日 | エッセイ
「名を成すは常に困窮のときにあり、事の破るるの多くは得意のときにあり。」

元伊藤忠商事社長故越後正一さんの言葉である。

他に、

「逆境の時こそ、先見性と機動力を試すチャンスである。」

「成功は窮苦の間に芽生えており、失敗は 得意満面の間に宿る。」

という言葉も残しておられる。




過去の自分を振り返ると、いいことも悪いこともあった。

長い人生、いつも順風満帆というわけには絶対にいかない。

そう・・・「絶対に」だ。


世の中には常に「移り変わり」がある。

ない方がおかしい。

歴史を紐解いてみても、過去よかったものが今後もよいということはまずない。

数百年続いた国や政権は例外的にあるが、大概は数十年単位で変わっていくものだ。

企業も同じであろう。

経営者や内容を改革し、会社自体が長く続いている例はあるが、同じことの繰り返しでずっと続いているものはまずない。

300年続く老舗の饅頭やさんは、常に味を変え続けたことでのれんを守り続けてきたとTVで言っていた。



過去を否定し、新しい価値観こそが次の時代を担うものだ。



変化をする者のみ、生き残る。

逆境につぶれるのではなく、逆境の時こそ、新しい自分へと生まれ変わるチャンスなのである。


人間の家畜化

2010年02月17日 | エッセイ
ミツバチの大量失踪が去年から問題になっている。

神隠しだとか色んな見方があるけれども、一般的には免疫力が弱ったとされている。

世界中のミツバチが同時にそうなることなんかあるのか?

と言われれば、シンクロとはそんなもので共時性は情報交流のないところでも同時に起こる。

ミツバチが食用にする花粉に化学肥料や農薬の成分が見つかっている。

野菜の栄養価も落ちているし、それらを食べている人間ももちろん免疫力が下がっている。

医学が進歩しても進歩しても病人が減らないのはそういう理由だ。

いわゆる疫病は激減したが成人病やアレルギーのような細胞の免疫力の病気は激増している。



ところで牛や馬や鶏や犬や猫や馬や羊や豚などの家畜は全て人間が野生動物を飼いならしたものだ。

家畜は飼われているうちに「家畜化」という現象が起こる。

餌も人間からもらうし、色々管理してもらって、それで一生を終え、それで繁殖している。

今その家畜を野性にはなしたら、果たして生きていけるだろうか?

飼っている豚をもし野生に放したら、毛が生え牙が生え、先祖のイノシシに近づいていくらしい。

鶏の原種は数十メートル飛ぶらしいが、飼っている鶏も野生化したら数メートルは普通に飛んだりするそうだ。

これを先祖がえりというのだが、興味深い。

猫なども野生で生きていける。

でも中には野生に適応できなくなっていて生きていけない家畜も多い。



とまあこのように、人間の都合のいいように飼われているうちに本来の自分の能力を失い、段々と必要な部分が進化し、不要な部分が退化していく。

これを家畜化という。

ミツバチは昆虫だがこの家畜化が進んでいる昆虫である。

生きているミツバチの大半は野生ではなく人間が管理して生きているものだ。

同じく人間が育てている野菜も受粉のほとんどをミツバチに頼っているものもある。

このため、ミツバチの大量失踪によって農産物にも影響が出てしまう。

人間が文明を開発し、便利にし、その結果とばっちりを受けるのも人間だ。

しかも、人間自身も「家畜化」が進んでいる。

まぁ普通に考えてみたらいい、祖先である猿は服を着ていないが、今人間が服を脱いだり、家を捨てたら凍死してしまう。

明らかに自分自身が発明したものに適応して、それなしでは生きていけないというようになっている。


エアコンの効いた部屋
あまり歩かなくても移動できる都市
肉食を調理された形でしかしなくても過ごせる環境
火を通した食べ物ばかり食べるという本来の食物連鎖とは離れた生活
食べ物自体も家畜化された管理されたものになっている


本来、ヒトは一日に数十キロは靴を履かない足で移動し、衣服は殆どまとわず、獲物は天然のものを必要分狩りをし、エアコンもない中で毎日工夫して生きてきた。

それで十分何百年も生き延びてきたのだ。

もちろん癌などという病気は存在しなかった。

人間は脳が発達したお陰で自分自身の周囲を発展させ、その結果自分自身の家畜化を進め、免疫力を下げ、新しい病気を生み、それを解決するために新しい技術を開発する・・・

今後人間はどうなっていくのだろうか?


本来人間にはお金という概念はなかった。

それが狩猟社会から農耕社会になり、所有という概念が生じ、お金という概念が生まれた。

今は直接食べ物を手に入れなくても、お金を手に入れることで生きていけるようになった。

そうするとお金を手に入れるためにどうするかという社会に移行していく。

様々なストレスが生まれる。

鬱や自殺が増える・・・

他の動物を見ても、自殺する動物など見たことはない。

自分で作った社会に適応できないくらい免疫力を下げ、その中で死を選ぶ・・・




ちなみにミツバチの失踪事件は、ミツバチの品種改良によって解決策を見つけるようだ・・・・

似非科学と科学

2010年02月09日 | エッセイ
まあ最近、似非科学がどうとかいう評論が多いね。

別にいいんだけど、科学で証明されていないもの=似非科学、とすぐに目くじらを立てて批判しようという人たちが目に付く。

これは情けないね。

そもそも「科学」で証明されているものなんか、すべての事象のうちごくごく一部にすぎない。

飛行機が飛ぶことも、水に分子があることも、地動説もわかったのは人類の歴史上ごく最近のことだ。

それ以前は、唱える人がいてもバカにされたり、弾圧を受けたりしていたわけだ。

でも「好奇心」や「まだ見ぬものを信じる力」というものがあって初めてそれが研究され、証明され、科学になっていくわけだ。

現時点で証明されているものしか見ようとしないのは、本当に視野が狭いといえよう。

確かに、商売目的で似非科学を振り回し、マスコミなどが同調し、世間に間違ったものを浸透させるのは問題があるといえよう。

しかし、昔は本当にナンセンスだと思われていたものが今は常識になっていたりするわけだから、何も頭ごなしに否定する必要はないだろう。


大不況の原因

2009年09月09日 | エッセイ
去年から始まった大不況の真の原因は・・・

「アメリカのせいにしたり、政治のせいにしたりしている国民の悪いオーラ」が原因です。

誰かが悪いという前に、もう少し皆が感謝の念をもってみたらどうだろうか?

そもそもアメリカがいたから、長い間日本は平和だった。

そしてその日米関係を構築し、引っ張ってきたのは自民党だった。

そのおかげで日本は経済成長も果たせて、主要国の仲間入りができた。

産業も発展し、国民が豊かになった。

アメリカや自民党のお陰である。

なのに、不況がやってくれば、アメリカが金融危機を起こしたのが全て悪いように皆が一様に言う。

街行く人もアメリカは何をしてくれたんだという発言をする。

感謝すべきことが多々あるはずなのに、状況が悪くなると他人のせいにしたくなるという人間の悪い癖だ。

政治も同じである。

自民党政権がどうやらこの不況に対して、何もいいことができなかったというのを、政治の腐敗などのせいにしているような評論が多い。

でも、戦後ずっと今の日本を作ってきた中核の政権だ。

平和でかつ経済発展ができたのも、自民党の役割はかなり大きかったはずだ。

その証拠に多くの人が長い間支持してきたではないか。

そのことに感謝もせず、途中で辞める首相がいれば投げ出しだの言って、その労をねぎらうようなことは誰一人も言わずに、悪い部分ばかりを指摘する。

ブーメラン現象ってありますよね。

したことは返る、鏡の法則です。

親に感謝すれば、自分も子供ひいては部下などにも感謝される。

目下の人を尊敬すれば、目下の人の尊敬を集められる。

といったことです。

政治をよくしたいなら、政治家を尊敬すべきである。

その証拠に自分自身が立候補したところでどうせ当選もないし、仮に当選したところで今の政治家よりもいい政治ができるなんてことは誰しも考えにくい。

そのくせ、批判や中傷ばかり言って、今の状況が恵まれないのを自分のせいにせず、社会や誰かのせいにしている。

こんなことが続いている限り、この大不況から抜け出すことはできません。

「あのころの方が収入がよかった」

という人は今多いです。

それがどうしたというのです?

皆恐らくそうだったのです。

でも自分はまだ何とか屋根のある部屋に住むことができ、食事も三食摂っている。

このことに勤め先や取引先に感謝したことがありますか?

その感謝もなしに、よくなろうということはありません。

いい時は、自分の手柄。

悪い時は、会社のせい。

本来はいい時は感謝すべきである。

でもいい時は誰しも自分が偉いように錯覚し、感謝の気持ちがない。

悪くなったら悪くなったで、自分のせいには全くせず、全て他人のせいにする。

じゃあ悪い時に、感謝できる人間になってみたらどうだろう?

「足るを知る」という言葉がある。

いい時はいい時で「好事魔多し」

戒めなければならない。

悪い時は「足るを知る」ことで、自分の周囲に大いに感謝すべきである。

日本人の多くが何年か以内には自分達が先人の努力に敬意を払わずに批判ばかりしている結果が今の大不況だということに気付く時がきます。

そのときが不況が好況に転じる時です。

今この内容を見ても、

「何いってんのこいつ?」

という感じかもしれません。

でも、恐らく周囲が気付き始めるに違いありません。







ありがとうございます。

大麻

2009年09月08日 | エッセイ
「大麻」について考えてみた。

押尾学や酒井法子など芸能界の覚せい剤汚染が問題になっています。

ニュースを見たり調べたりするほど、その恐ろしさにびっくりしてしまいます。

そんな中、大麻(マリファナ)という麻薬についてちょっとした疑問がありました。

覚せい剤と違い、大麻は、合法化せよとか、害がないとか、外国では合法な国も多いとか、そういった主張が多いのだ。

今の日本では、取締りの対象になっていますが、果たしてどうなんでしょうか?

確かに、精神依存も肉体依存もかなり少なく、害の程度ではタバコよりも低いという見方もできる。

そのため、大麻合法化の運動をしている団体まであるというのだ。

わたしは別に違法なものを支持しようとしているわけではない。

ただ、何故日本ではこういった害の少ないものが取り締まりの対象になっているのかに興味が湧いたのだ。

そもそも麻薬は、化学合成で作られるものも今は多いが、もともとは自然界に存在する植物からその薬効成分を見つけ出されたものだ。

他にも、芥子(アヘン、ヘロイン)や、コカ(コカイン)などがそうだ。

もちろんタバコもそうだ。

アルコールも陶酔成分の一種である。

昔から薬としてや、嗜好品、儀式に用いるなどとして産地では使われてきた。

多くはその地域や国で蔓延し、その害の部分にスポットが当たってから、法規制の動きが出るというルートを辿っている。

だから「昔はOKだったじゃないか!」という理屈はもちろん成り立たない。

かつては大麻も、国が奨励して麻を作るために植えたことがあった。

その名残か、麻は生命力が旺盛なので、その辺の河原や街中でも自生している場合がある。

先日大阪の路地裏をたまたま歩いていたら、路側に生えていてびっくりした。

だから自分で栽培したり、自生する大麻を取りにいったり・・・ということが後を絶たないらしい。

害についても実際覚せい剤などのようにそれが原因でおかしくなったという話も殆ど聞かない。

もちろん直接原因で死亡した例もないそうだ。

むしろ酒の方が危険という見方もできる。

では何故日本では取り締まっているのか?

逆に何故オランダなどでは合法なのか?

オランダでは他の麻薬の汚染がひどくて、大麻を合法化して他の麻薬への汚染を食い止めようという意図もあるようだ。

これは例えていうなら、売春禁止法が出来た後も、性犯罪や違法風俗は後を絶たないが、この程度で済んでいるのはソープランドという合法な(実質)売春があるから、という話に似ている。

日本は「他の麻薬への入口になる」ゲートウェイドラッグということで違法としているが、結局大麻のみならず各種麻薬から直接はいっているひとも多いようだ。

もし今大麻を合法化したとしよう。

簡単に種子が手に入り、その辺の空き地で素人が栽培できるとすれば・・・

国が税金をかけることもできないだろう。

それよりもタバコや酒に依存させておいて安定的な税収を取り続けるという方がいいのかもしれない。

大麻が合法化されさほど依存性がないとなればタバコ常習者は大麻に流れるかもしれない。

そうすれば国も慌てるだろう。

今更「実は害があまりないんです」とはいえない状態になってしまっているのだろうというのが憶測ですが、どうか。

最近タバコの害がクローズアップされ喫煙者は減っているが、何故売るのをやめないのか?

それどころかかつては国が売っていたわけだ。

どうやらこのあたりにカラクリがありそうですね。

あ、何度も言いますが、日本では大麻は違法なので、外国通の方!!その思想にかぶれて自分勝手な論理で日本でやったらだめですよ!

悪法も法なり という言葉がありますように、現時点では自分が前科者になりますよ!(藁)



ベンジャーミン博士に聞いたQ&A

2009年08月28日 | エッセイ
Q:どうして日本は核を保有していないとかいいながら、原子力発電所は沢山あり、すでに電力の大半を原子力に依存しているの?

A:ウラン鉱石を牛耳っているロスチャイルド家(ユダヤ)が、過去産油国にオイルショックになるよう値段を釣り上げる話を持ちかけ、結果的に石油で儲けさせておいて長期的には日本が原子力を使うようにたくらんだ結果。
ちなみに当時の日本の首相はオイルショックから立ち直るべく別で石油を安価で契約できるルートを見つけたとされる。しかしこれはロスチャイルド家にとっては都合が悪かったので、○ッキード事件という汚名を着せることによって権力者から離脱させました。



Q:どうして小泉元首相は「郵政民営化」という国民が何故必要かわからない政策を声高に掲げ、そしてものすごい実行力でやってしまったのですか?
あれで日本人の実際の生活が変わったとは思えないのに、すごいリーダーシップを持った政治家だというような評価ができてしまいました。不思議です。

A:過去の日本の政治の歴史からみても、戦後はアメリカに占領されその後もアメリカのいいなりになっています。それに対しどうして「NO」と言えないかは、実は国民はみなよくわかっておりません。アメリカには軍事力以外にも強い勢力があり、その圧力に逆らった政治家は過去、スキャンダル、賄賂・・・などの陰謀に巻き込まれ、政界から実質消されてしまっています。逆にアメリカの肩を持った人はその後も実力を持っています。郵政民営化は日本の300兆円近い預金を外資系金融機関が奪うために行われたという陰謀説があります。この計画を実行するに当たって小泉や竹中は個人で1兆円近い金額を受け取ったと主張されています。



Q:右翼って国粋主義者だと思っていましたが、何故「北方領土を返せ」とは叫ぶのに、街宣車に「拉致被害者を返せ」とは書かないんですか?

A:共産圏が衰退した現在、反共としての存在意義が薄くなった右翼団体は自身の営利活動を中心に行っています。右翼の思想は天皇崇拝、軍歌を流し、日の丸を立てる・・・といったイメージだが、実際の右翼の構成員は暴力団関係者が多く、その大半が在日朝鮮・韓国人である。その証拠に「拉致被害者」のことには触れないという矛盾が生じている。



Q:先日元プロサーファーの高相祐一容疑者が逮捕されましたが、どうしてサーファーは麻薬をやるのですか?私の周りにいるサーファーは皆真面目でタバコすら吸いません。本当にサーファーに蔓延しているのですか?またそれは何故ですか?

A:麻薬はサーファーや芸能人という枠を超えて、今や若者も含み深刻な汚染をみせています。その昔は麻薬は暴力団ルートで手に入れていた傾向が強かったのですが、今は外国人の売人が暗躍しているようです。これにより気軽に手に入るようになったのが、拡がりの理由です。
因みにサーファーが麻薬をやっているというのは、サーファーの母数から見ればごく一部でしょう。学生や教師、医者や国会議員などまさかというところから逮捕者が出ているくらいですから、サーファーや芸能人だけを槍玉にあげるのはおかしいでしょう。
とはいえ、サーファーは麻薬をやっているというイメージがあるのは何故でしょうか?昔、日本にサーフィン文化が入ってきたとき、当然のように、アメリカのサーファーの生き方、思想、ファッション等のヒッピー文化が同時に入ってきています。当時のアメリカではサーファーは酒やドラッグに溺れて、プロサーファーでも身を滅ぼすものもいたくらいですから、相当危険かつカッコイイ、そして日本にはない憧れ的な要素も強かったのではないかと思います。



Q:何故高相容疑者は、実際はJPSAの公認を受けたプロサーファーだったにも関わらず、逮捕後JPSAは今も過去も関わりのない人物だとわざわざ発表したのですか?

A:確かにおっしゃる通り。誰もが「自称」プロサーファーという報道に、彼を馬鹿者扱いしたものです。しかしサーファーたちの間では彼はプロテストに合格もして登録されていたことは周知の事実だったのです。厳密には「元」プロサーファーなんですが、JPSAは彼を無関係者扱いしたいようです。
まぁこの手の話によくあることですが、組織の保身でしょう。結局過去にプロとして登録していたあるいは現在もしている人の中には、疑惑のある人もいるんでしょう。実際に逮捕歴のあるプロサーファーは何人かいます。イモヅル式に出てきて、イメージが損なわれるのは危険なのでしょう。サーフィンというスポーツも他のスポーツと同じでビジネスなのですから。



Q:本屋さんやCD、DVDなどでも「成功哲学」ものが沢山出ていて、それがベストセラーになるほど売れたりしているのに、読んでいる人皆が成功しないのは何故ですか?

A:これは世の中の常です。誰でも成功したい、皆好奇心があるのですよ。でも実際は、多分その本にも書いてあるが(笑)、強い思いを持ち、信念を持って実行することでしか成功はありえないのです。
その強い思いを持っている人間が100人いたら1人しかいないということです。
逆に言えば、その一人に入っている人は本など読まなくても成功できるということになります。その成功本に書いてある通りに(爆)。
では何故そんな本が次から次へと出てくるのかって?
まだ世の中のことをわかっていないようじゃな!!残りの99人から利益を上げるためだよ。




反面教師

2009年08月10日 | エッセイ
「反面教師」という言葉がある。

諺でいうところの「他人のふり見てわがふり直せ」といったところか。

素直に他人から学ぶのではなく、その人の人の倫理に反する行為を見て、自分はそうならないようにしようと思うことだ。


先日もこういうことがあった。

ある仲間の誕生日にプレゼントをしようと。

まだ知り合ってそう日も深くないし、友人と共同でワインをプレゼントしようということになった。

円高なので今はワインも安価だが、おいしそうなボルドーがあったので比較的高価なのをプレゼントした。

その彼女は喜ぶでもなく、オープナーを持っていないとか、一人で一本は飲めないとか言っていた。

もちろんそのときの我々の気分がどうだったかは想像に難くないと思う。

他人からの施しは、自分の嗜好に合うかどうかは別にして、まず何かしてあげようという気持ちに感謝の言葉を述べるのが先だ。


私も、「堂島ロール」を誕生日の夜に友人に貰ったことがある。

人気のロールだから前日の晩に並んで買ったんだという。

その気持ちは嬉しかったが、「前日」という時点でもう食べられないと思った。

家に帰って食べてみたが、案の定丸一日消費期限の切れた生クリームは吐き気がして食べられず、勿体無いが捨ててしまった。

一瞬、「このくらいのこともわからないのか?」とは思ったが、勿論悪気が有ってやったわけではないし、僕に何かをしてあげようという気持ちはとても嬉しかった。

彼らには丁重に礼を言い、一年以上経った今でも、誰にもそのことは言っていない。

祝福してくれた気持ちと、僕が彼らに大事にされているという気持ちを大切にしたい。

勿論自分がプレゼントするときは、生ものを翌日に渡したりはしまい。



押尾学・酒井法子 二つの不可解な事件

2009年08月05日 | エッセイ
押尾学の薬物使用

酒井法子夫麻薬逮捕



同時に二つのニュースが出ましたが・・・

特に「芸能ニュース」には全く感心がない僕なんですが・・・

何か二つとも不可解な臭いはないですか?

お塩の方は、「薬物使用」というニュースになっているが、そんなことよりも報道しないといけないことがあるだろう!

女性の全裸変死・・・

外傷無し・・・

死亡した女性は誰なのか?

こちらの方が先に報道されるべきなんですが・・・

あと、何故部屋の持ち主である下着会社の社長がお塩に貸していたのか?



僕はニュースについてお塩さんがどうのこうのいいたいのではなく、

また「報道規制の臭い」がする・・・って・・

芸能事務所が絡むのは大概こうだね。

勿論お塩さんもいけないのですが、このことからイモヅル式に出てくる内容の方が怖いです。

春を売る組織があるんですかね。

他の芸能人の名前も出てくるんでしょうね。

それを何らかの圧力がもみ消そうとしているのですね。

お塩一人の薬物を強調して責任を押し付けてるのでしょうかね?

勿論ワタクシ素人には何もわかりません。




のりピーの夫

「自称プロサーファー」には参ったね(笑)

サーフィン連盟には登録ない人だから「自称」なんだろうけど。

覚せい剤使用はまあ無いことない話だとして、どうしてのりピーが失踪しないといけないんでしょうか?

自分も薬物反応があるのではないかという憶測も他のブログで見られますが、勿論そうあって欲しくはないんだけど。

旦那の逮捕に気持ちの整理がつかないから失踪?

ただ報道されている自分たちのことを気にして人前に出たくないから失踪?

それならいいんだけど、まぁそうだとしたら、そこまで大人気ない若者みたいな「連絡つかない」状態になりますかね?

本当に失踪しなければいけない理由って何でしょうね?

誰に狙われているんでしょうね?




妻である二人とも大好きでした~

特に矢田さん!

オイラにしとけばよかったのに・・・(爆)





桑原桑原


何もかも上手くいかない

2009年07月10日 | エッセイ
何もかもうまくいかない。

そんな時どうしますか?

僕はそんな時、よくあるんだけど・・・

というかしょっちゅうかもしれない。

そんな時は

お酒を飲む

どこかへ出かける

楽しいことをする

などなどしてしまいますが、どれひとつとっても完全にすっきりするってない。

何故なんだろう?

そう、「うまくいっている」かどうかは、気持ちの持ち方の問題なのだ。

自分は不幸だなぁと思っていると、そうなるし、

自分は幸せだああ、ありがとう!

って思っていると、そうなる。

周りのせいにしていると、何もかもうまくいかない気分になってしまう。

でも、過去と他人は変えられないのだから、今を変えていくしかないよね。





さしみの法則

2009年06月23日 | エッセイ
刺身(343)の法則を知っていますか?

何事にもいえると思うのだが、あなたが営業などをする時によく言われること。



心から賛成同意してくれる人3割

どっちでもいいから、意見の強い方についていく人4割。

絶対に心を動かさない人3割。



最後の3割には時間を費やしても仕方がない。

数を当たるうちにはこういう人は沢山出てくる。

大事なのは、浮動票の4割だ。

ここをいかに味方につけるかが手腕の見せ所である。





何をやってもうまく行くように見える人がいる。

決してその分野で専門能力が高いというわけでもない。

その人は4割の人に好かれているのだ。

昔小泉首相が選挙で自民党圧勝した時にも言える。

結局賛成勢力でも反対勢力でもない浮動票を惹き付けたことが勝利である。


私も良く言われた。

「尖がっているのもいいが、成功したければ7割の人に好かれるような人になりなさい」

当時は意味がわからなかったが、今ではよくわかる。

10割にならないと成功しないのかと思っていたが、実際はそんなことは不可能だ。

4割を味方につけるような魅力を発揮すれば、それで大成功なのである。

人生は甘い~似非科学からの考察

2009年06月02日 | エッセイ
似非(エセ)科学っていう言葉をご存知ですか?

ニセ科学という場合もある。

先日、youtubeでとある先生がTVで似非科学をバカにしている評論を聞いた。

似非科学とは、例えば「マイナスイオン」のように、誰もがそれが一体何なのか、言われる効果の根拠は何なのか、を科学で証明出来ないのにまことしやかに人を納得させてしまっている、というような場合に用いる。

確かにマイナスイオンは家電製品などを中心に一時期一世を風靡した感があるが、その単語を使った人に、

「マイナスイオンってところでなに?」

といたずらな質問をしてみた(笑)ところ、誰も答えられなというオモローなオチがあった。




しかし、しかしである。

その先生は、頭ガチガチ、科学で証明されたもの自分が見たものしか信じない系の典型的理系的脳みそらしく、他のことまで偉そうに言及していた。

「まだ見ぬものを信じる力」

とか、

「思いが結果を変える」

というような立場には立てないんだろうね。

ぼくなどは、根拠の無い夢にロマンを感じ続け、そんなことばっかりいい続けてきたら手に入れてしまったというようなことばかりこの十数年やってきたので、「科学」という事実関係にしか物差しを持っていないというのも、人間性として少し可哀相である。

人間ってそんなつまらないもんじゃないと思うよ。



例えば「血液型占い」についても言ってたよ。

これは僕も思うに、当たっているとも言えるし、根拠ないとも言える。

「B型にはみえないね」「A型のわりに几帳面じゃないよね」などのような会話は日常茶飯事に行われていて、言われているような特徴ははずれまくっている感があるし、実際たった4分類でカテゴライズするのはどうかと思う。

日本人はとりわけ「カテゴライズ」が好きだから、音楽にしても文化にしてもすぐに○○系というような名目をつけて類型化してしまう。

そしてそこに自分が傾倒していることが美徳であるかのように、ジャンル分けに酔っている。

そのせいか、血液型の本はバカ売れである。

しかし血液型自体もABO式以外に何通りもあるし、正直なところ根拠はないに等しい。

しかし当たっているような部分も確かにある(爆)

ま、「今日はお天気ですね」程度の会話の潤滑材として飲む時の話題にはええかもしれない。




次に面白かったのは、「水の結晶」の話だ。

これはそのガチガチ先生を全否定しておこう(笑)


「ありがとう」と声を掛けた水の結晶

「ばかやろう」と声を掛けた水の結晶


前者はきれいな結晶、後者は結晶にならない。

という、10年ほど前に流行った本の引用である。

「水(H2O)は言葉を理解する器官を持っていないから、ヒトの言葉を聞いただけでそれが・・・」的な論理で似非科学であることを強調していた。

確かに「科学」という切り口でみたら根拠は見出せないだろうよ!!

しかし実際に僕の知人がその本にある別の実験を試していた。

炊きあがった米を二つの密閉容器に入れ、「ありがとう」もう片方に「ばかやろう」と数十日いい続けた結果・・・・

見事に「ばかやろう米」はカビだらけ。

「ありがとう米」はキレイな色だった!!

これは実物の写真も見せてもらったし、なんだか嬉しい気分だった。

あ、そのガチガチ先生はこういうんだろうね。

「そもそも本当に密閉容器?片方にたまたま菌が多かったとも考えられる?実際臨床結果が学会に出たわけ?・・・」

確かにそういう意味では素人実験である。

ま、こういう人は友達にも持ちたくないし、一緒に仕事なんかしたくないよねー

まともな人間はこういうことは言わないだろう。

というかその先生はそういうテーマの番組だから言ってるのであって、実際そういう人間だと決め付けてるわけじゃないですよ(笑)







この日記で言いたかった事は、自分と根本的な考え方が違うと・・・いや違うというよりも発展性の無い否定中心の思考パターンを耳にしてしまうと、



イライラするって本当だったんだね!!(爆)







僕の周りには、どちらかというと夢ばかり語っているロマンチストが多いし、「人生は甘い」と根本的に思っていて、そしてそれを否定する人の意見には耳すら貸さず、本当にステキな人生を手に入れている人ばかりだ。









「人間誰と付き合うかで人生が決まる」











言い得て妙!

感謝!