このところ思った「無責任な発言」シリーズ
一見正論だし、もっともらしい説得力を持つのだが実際は当事者や社会にとって何の解決にもならない発言。
結構こういうことを真正面から主張気味に言う人には嫌悪感を感じる。
アナウンサーが自殺する事件が相次いでいる。
こういうニュースを見たとき、
「生きたくても生きられない人もいるのに、自ら命を絶つなんて許せない」
・・・この言葉だ。
難病や経済的理由で生きるのが困難な人と、精神的苦悩を抱え生きることの負担よりも死ぬ方が楽だという選択をした人を並列で論じることはできない。
確かに自殺は当人だけの問題ではなく周囲にも苦痛をもたらします。
「生きていればいずれいいこともある」というのは正論だし僕もそう思うが、その判断ができないくらい病んでしまったのはある意味本人が弱いだけではなく、現代社会のいろんなストレスや家族・職場・友人など様々な問題を示唆しているはずだ。
そこに目を向けず大人になってまで勝手な行動をするな的発言は非常に嫌悪感を感じます。
そういう人は一度死ぬくらいの悩みや壁にぶち当たってほしいと思います。
その上で本当に上記の言葉に勇気づけられて乗り越えたのなら正しいと思います。
でも多分上記の発言は死のうとしたことがある人間が発する言葉ではありません。
「自分の子供を虐待するくらいなら産まないで欲しいわ」
昨今児童虐待どころか死に至らしめるようなニュースが後を絶たない。
子を持つ親としては本当に心が痛くこういうニュースはできるだけ見ないようにしている。
しかしTVをつけなくても自然にこのようなニュースは自分の脳に頻繁に飛び込んでくる。
まず最初は単純にその親の神経が信じられないと思う。
自分ならわが子にビンタすらできないのだ。
しかし詳しく見ていくと、なぜそういう心境になったのか、その親は幼少期どういう教育を受けたのか・・・などが見えてくる。
もちろん虐待する親の肩を持つなどさらさらする気はない。
しかしどこかで何かが歪んでしまったのは確かだ。
本人が精神的に子供だとか屑だとかだけで片付けられる問題ではない。
虐待の連鎖、ネグレクトの連鎖というのもある。
子供を冗談半分で作ったのではないだろう。
もちろん性行為を気楽に行ったというのはあるだろうけど、実際妊娠して産むことを決めたときに、虐待を前提に子供を産む人などあるまい。
それを言うなら、過去人間は間引きのために何の罪もない赤ん坊を殺すという行為をしてきたのだ。
そちらの方がよっぽど悪意のある恣意的な殺人だと思う。
でもそれは実は自然界の摂理だ。
動物でも繁殖しすぎると母親が子供を殺すという行動にでるものもある。
そうしないと一族全体が滅びるからだ。
そうなる前の防衛なのだ。
また「子は親を選べないのよ」という人もいる。
これも無責任だと思う。
親も子を選べないのだ。
というか、選ぶ選ばないの問題ではない。
親が無責任だったという事実はもちろん罰せられるべきだが、虐待はもっと心理学的に深い問題が潜んでいる。
もちろん児童相談所が一方的に悪いだけでもない。
その対応の遅さなどを非難する報道が多いのは無責任日本人によくあるパターンだが、昔はそのような機能がなくても虐待は今ほどなかった。
家庭環境、核家族、など育児環境も今は歪んでいるのだ。
とりあえず児童を救うにはもっと強制的にその親から取りあげるシステムが必要なのだ。
では、逆に一見無責任な発言に見えるが、非常に意味のある(と僕は思う)言葉を挙げよう。
悩んでいる人に「もっと悩め」
窮地に陥っている人に「ツイてるな」
事故った人に「ラッキーやね」
相談しに来た人に「それはわからんわ」
強がっている人に「大丈夫か?」
褒められたい症候群の人に「まだあかん」
どっちがいいか悩んでいる人に「自分で決めろ」
落ち込んでいる人に「お前が悪い」
鬱の人に「頑張るな」
自分を嫌っている人に「ありがとう」
出来の悪い息子に「お前は天才や」
料理が不味い嫁に「最高や」
理由はいちいちあるのだが、いちいち説明していたら長くなるので省くが全てに共通していることがある。
その人への愛情があるということだ。
最初の「無責任発言」は他人を批判することに主眼をおいている。
犯罪を犯したという先入観がそうさせている。
でも愛というのは無償のものだ。
愛とは許すことだ。
もし身近な人が犯罪を犯したら法で罰せられるべきだとは受け入れてもその人への愛という軸でものを考えるだろう。
批判が主眼ではなくその人の成長を願う気持ちが主眼になるはずだ。
愛で持ってその人に接っする。
僕はそういうようにしてきたつもりだしまだまだではあるが、今後もそうしていきたいと思う。
一見正論だし、もっともらしい説得力を持つのだが実際は当事者や社会にとって何の解決にもならない発言。
結構こういうことを真正面から主張気味に言う人には嫌悪感を感じる。
アナウンサーが自殺する事件が相次いでいる。
こういうニュースを見たとき、
「生きたくても生きられない人もいるのに、自ら命を絶つなんて許せない」
・・・この言葉だ。
難病や経済的理由で生きるのが困難な人と、精神的苦悩を抱え生きることの負担よりも死ぬ方が楽だという選択をした人を並列で論じることはできない。
確かに自殺は当人だけの問題ではなく周囲にも苦痛をもたらします。
「生きていればいずれいいこともある」というのは正論だし僕もそう思うが、その判断ができないくらい病んでしまったのはある意味本人が弱いだけではなく、現代社会のいろんなストレスや家族・職場・友人など様々な問題を示唆しているはずだ。
そこに目を向けず大人になってまで勝手な行動をするな的発言は非常に嫌悪感を感じます。
そういう人は一度死ぬくらいの悩みや壁にぶち当たってほしいと思います。
その上で本当に上記の言葉に勇気づけられて乗り越えたのなら正しいと思います。
でも多分上記の発言は死のうとしたことがある人間が発する言葉ではありません。
「自分の子供を虐待するくらいなら産まないで欲しいわ」
昨今児童虐待どころか死に至らしめるようなニュースが後を絶たない。
子を持つ親としては本当に心が痛くこういうニュースはできるだけ見ないようにしている。
しかしTVをつけなくても自然にこのようなニュースは自分の脳に頻繁に飛び込んでくる。
まず最初は単純にその親の神経が信じられないと思う。
自分ならわが子にビンタすらできないのだ。
しかし詳しく見ていくと、なぜそういう心境になったのか、その親は幼少期どういう教育を受けたのか・・・などが見えてくる。
もちろん虐待する親の肩を持つなどさらさらする気はない。
しかしどこかで何かが歪んでしまったのは確かだ。
本人が精神的に子供だとか屑だとかだけで片付けられる問題ではない。
虐待の連鎖、ネグレクトの連鎖というのもある。
子供を冗談半分で作ったのではないだろう。
もちろん性行為を気楽に行ったというのはあるだろうけど、実際妊娠して産むことを決めたときに、虐待を前提に子供を産む人などあるまい。
それを言うなら、過去人間は間引きのために何の罪もない赤ん坊を殺すという行為をしてきたのだ。
そちらの方がよっぽど悪意のある恣意的な殺人だと思う。
でもそれは実は自然界の摂理だ。
動物でも繁殖しすぎると母親が子供を殺すという行動にでるものもある。
そうしないと一族全体が滅びるからだ。
そうなる前の防衛なのだ。
また「子は親を選べないのよ」という人もいる。
これも無責任だと思う。
親も子を選べないのだ。
というか、選ぶ選ばないの問題ではない。
親が無責任だったという事実はもちろん罰せられるべきだが、虐待はもっと心理学的に深い問題が潜んでいる。
もちろん児童相談所が一方的に悪いだけでもない。
その対応の遅さなどを非難する報道が多いのは無責任日本人によくあるパターンだが、昔はそのような機能がなくても虐待は今ほどなかった。
家庭環境、核家族、など育児環境も今は歪んでいるのだ。
とりあえず児童を救うにはもっと強制的にその親から取りあげるシステムが必要なのだ。
では、逆に一見無責任な発言に見えるが、非常に意味のある(と僕は思う)言葉を挙げよう。
悩んでいる人に「もっと悩め」
窮地に陥っている人に「ツイてるな」
事故った人に「ラッキーやね」
相談しに来た人に「それはわからんわ」
強がっている人に「大丈夫か?」
褒められたい症候群の人に「まだあかん」
どっちがいいか悩んでいる人に「自分で決めろ」
落ち込んでいる人に「お前が悪い」
鬱の人に「頑張るな」
自分を嫌っている人に「ありがとう」
出来の悪い息子に「お前は天才や」
料理が不味い嫁に「最高や」
理由はいちいちあるのだが、いちいち説明していたら長くなるので省くが全てに共通していることがある。
その人への愛情があるということだ。
最初の「無責任発言」は他人を批判することに主眼をおいている。
犯罪を犯したという先入観がそうさせている。
でも愛というのは無償のものだ。
愛とは許すことだ。
もし身近な人が犯罪を犯したら法で罰せられるべきだとは受け入れてもその人への愛という軸でものを考えるだろう。
批判が主眼ではなくその人の成長を願う気持ちが主眼になるはずだ。
愛で持ってその人に接っする。
僕はそういうようにしてきたつもりだしまだまだではあるが、今後もそうしていきたいと思う。