【聖パウロの回心】ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
>>以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけていきますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。
『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』
私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである』
(使徒の働き、第26章9~18節)
誰しも、棘のついた棒を蹴るのが好きだ……という方はいないと思います(笑)
わたしの持っている聖書の欄外注を見ますと、
【とげのついた棒をける】――牛に仕事をさせる時、とげのある棒をむちとして使用したが、時には牛がそれをきらってけったことを、比喩的に用いている。
とあります。
この、主の顕現による回心ののち、それまでキリスト教徒たちを迫害していたパウロは、今度はこのキリスト・イエスを宣べ伝える偉大な使徒となります。
ちょっとお話の主旨のほうは違いますが、パウロと同じように棘のついた棒を蹴るような人生を送っている方というのはいらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、ある仕事などに嫌々ながら従事して、時々棘のついた棒で殴られるというか、「俺の人生全般が、大体そんなもんだ」といったように感じられている方というのは案外多いような気がします(「一体どんな仕事だ」、「むしろ虐待で訴えろよ」といった話ですが、あくまでたとえですので^^;)。
けれども、主イエスの顕現によってパウロの生き方が180度変わったように、イエスさまのことを信じて、聖霊さまをいただいた多くの方がパウロと似た経験をされているのではないかと思います。
この回心前と回心後とで何が起こったかというと……パウロの場合は、キリスト教徒を迫害していたのが、今度はそのキリストを宣べ伝える者となったのですが、一度神さまの恵みによってキリスト教徒になると、ひとつの基準として「生き方が変わる」ということが起きてくると思うんですよね。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
自分の肉の努力の力で自分自身の人生を変える、生き方を変える、性格を変える……といったことは、大体十代、あるいは二十代の極若いうちならともかく、年齢が上に上がっていくごとにどんどん難しくなっていくものですよね。
なんと言いますか、最初にイエスさまの弟子になったペテロやヨハネなどは漁師だったわけですが、「いつもこのようにして漁をしている」というやり方を変えて、「こうしてみなさい」と言われても、ペテロたちが聞き従えたのとは違い、ほとんどの方はそれを拒むのではないでしょうか(※参考記事=「浅瀬の人生から、深みへ漕ぎだしてゆく人生へ」)。
何故なら、長く漁の仕事をしてきて、こうするのがもっとも効率的だとのやり方が確立していたら、それ以外の方法なんて試してみようとも思わない……そうした頑なな職人気質のようなものを、(職業が何かの職人でなくても)大抵多くの方が普段生活している生き方の中で持っているものだと思います。
そして、こうした種類のものを「変える」というのは、身近な人や家族がそうと勧めてさえ、なかなか難しいところがあると思うのですが――「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカの福音書、第18章27節)と聖書にもあるとおり、イエスさまのことを信じ、聖霊さまを受けた時に、自分自身の中で変わっていく領域があるのは確かなことだと思うんですよね。
わたしは小さい頃から何故かキリスト教というものが嫌いでした。たとえば、幼いイエスさまを抱っこしたマリア像とか、あとはヨーロッパの教会の建築美などは大好きなのですが、教義自体はおかしいとしか思えなかったというか。
というのも、死んだあとに裁かれるとか、天国や地獄に行くとか、わたしが小学生の時、校門前あたりにいたエ○バの証人の方がそうした説明をしていたことがあるのですが、わたし、それ聞いてて思いましたよ。「あ、そんな変な神さま、絶対神じゃない!」みたいに。
あと、カトリック幼稚園のバスを見るたびに「偽善者養成所に通わされる可哀想な子供たち!」と思っていましたし、キリスト教徒=偽善者というどこから生じたのかわからない刷り込みは、実際に自分がクリスチャンになるまで根深くあったと思います。
けれど、教会へ行って聖霊を受けると、そうした自分の誤解といったこともすべて柔らかく解かされ、今度は聖霊さま御自身が教師として、聖書を通して、あるいは祈りなどを通して色々と教えてくださるようになりました。
そしてこれが、わたしにとっての(他の人から見ればほんのささやかばかりの)回心体験だったわけなんですけど、棘の棒の人生からの解放といったようなことも、まずはイエスさまのことを信じてから起きてくることだと思います。
また、それが仏教でもイスラム教でもキリスト教でも、神さまを求める心の強い方は、現状、人生で物凄く困ってることのある方だと思うんですよね。
もちろん、教会へ行ってイエスさまのことを信じた一秒後に、その時抱えていた問題が解決するといったことは少ないとは思いますが、「問題があるそのままのわたしを神さまは愛してくださっている」(「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ書、第43章4節)、とわかっただけで、心の重荷からの解放が起きたり、霊的な意味での根源的な解放が起きるというのはよくあることと思います。
たとえば、あるひとつの問題があるとしても、その問題をどこから見るか、視点を変えるだけで随分違うものですが、そうしたことをくよくよ考えなくなるですとか、到底解決しそうにない問題を抱えているのに、イエスさまを信じた瞬間に心が明るく晴れやかになり、「きっとなんとかなる!」との希望が与えられるといったようなことです。
>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書、第11章29~30節)
わたしが思うに、人にはある一定の定められたこの「くびき」といったものがあると思います。そして、自ら犯した罪により、このくびきといったものを自らつけて苦しんでいたり、あるいは悪い運命から逃れられず、気づいた時にはこの「くびき」の下にあり、常に自分を見張る監督者が棘の棒で殴ってくる……何かそうした人生を強制的に送らざるをえなかった、といった方もおられるのではないてしょうか。
そして、イエスさまのことを信じたその瞬間から、このくびきからの解放、逆転の勝利といったことが起きてきます。これは教会へ通い、聖霊さまに導かれつつ、聖書的原則を実行するなら、確かに必ず起きてきます。
わたしたちの人生が変わっていくのは、何よりそこからです。
それまで、無意味に思われる虚しいくびきの下にあればこそ、わかるのです。そのような苦しみ・悩みから解放された時、今度は自らイエスさまに従って犠牲の生贄を捧げる人生を送ったほうが、どれほど素晴らしく良い人生を送れるか、ということが……。
犠牲の生贄などと言うと、何か物凄いものを絶えず神さまに捧げていなくてはいけないようですが(笑)、神さまは愛の方ですから、この犠牲の生贄というのは賛美や感謝という形をとって神さまに捧げるべきものです。
なんでも、聖書にはこの「喜び」に関わる聖句が八百もあるそうです(「少女パレアナ」より)。
>>私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の主、神よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。
(エレミヤ書、第15章16節)
>>主よ。あなたは、あなたのなさったことで、
私を喜ばせてくださいましたから、
私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
主よ。あなたのみわざは、
なんと大きいことでしょう。
あなたの御計らいは、いとも深いのです。
まぬけ者は知らず、
愚か者にはこれがわかりません。
(詩篇92編、4~6節)
>>愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者が
いるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。
不法を行なう者らはだれも知らないのか。
彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、
主を呼び求めようとはしない。
見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとを
はずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が、とりこになった御民を返されるとき、
ヤコブは楽しめ。
イスラエルは喜べ。
(詩篇、第14編)
神さまがイエスさまをこの地上に遣わしてくださったことを喜び賛美し、そのお陰で自分もまたイエスさまの救いに与ることが出来たことや、その救いが自分だけでなく、他の兄弟姉妹にもまったく平等であることや、「イエスさまの十字架を信じるだけで救われる」、「天国へ行くことが出来る」恵みについても感謝し、賛美する――イエス・キリストを信じた時に起きる霊的解放、棘の鞭、棘の棒付きのくびきからの解放というのは、そうしたことだと思います。
つまり、イエスさまのことを信じた時から、人生の苦難からの解放といったことや、このくびきからの解放といったことが起き、その後はこのことに代えて、神さまへの喜びと感謝と賛美へと思考が切り替わることで……人生が変わるということが起きてくるのです。
時々、「聖書には「御名をほめよ」といったようによくあるけど、神さまはなんでそんなに自分を褒めてもらいたがってるの?神さまなのに?」といった疑問を聞くことがありますが、この神さまへの感謝や賛美といったものは、言うまでもなく自発的なものです。
また、そのような感情が滲みでるには、「救いの実感」というものがなければ……当然そんなことは到底できないわけです。わたし自身、イエスさまのことを信じてのちに聖霊さまを与えられたのでなかったら、まずそうしたことは短い間は続いたにしても、その後長くは決して続かなかったと思います。
そして、人は誰しもみな、「くびきの下」、「人生の苦難の下」にある時には、神さまのことを恨んだり罵ったり、あるいはのちに救われるにしても、その時期を何故もっと早くしてもらえなかったのだ……など、運命というものに貸しのある人ほど、そうした疑問がたくさん湧いて出、そのうちそんなことを考えるのにも疲れ、=神はいないと結論づけて生きる――ということになるのだと思います。
日本人的な感覚としては、まず、「聖霊」という言葉を聞いただけでも何かうさんくさく感じるでしょうし、「そもそも聖霊と精霊ってどう違うの?」など、疑問が色々あるものですよね。
ただ、父と子と聖霊の御名によっての「聖霊」については、キリスト教の神学の本を何冊読んでも、自分でイエスさまのことを主と信じ、その十字架の血が自分のために流されたものであることを告白した時以降に受けるものなので……この「体験」の領域ということについては、いくらここに言葉を尽くして書いても意味がないと思うのです(^^;)
けれども、クリスチャンの集う教会というのは言ってみれば、「ああ、あなたもあの体験(聖霊を受けるという体験)をしたのですね」ということで一致している団体であるというのは間違いのないところだと思います。
そして、この<聖霊>という神さまからのイエスさまを通した力があればこそ、教会という場所は今日に至るまで存続してきたといっていいと思うんですよね(※キリスト教を名乗っていても実際はその教えがズレているといった場合もありますし、そうした教会はそもそも聖霊を受けていないのですが、外から見た場合にはなかなか見分けがつかないということ――それが日本では特にキリスト教がそしられる礎のようになっている気がします)
わたしもそうでしたが、「イエス・キリストが十字架にかかったことが何故人類の救いになるのだ?」とか、キリスト教というのは理屈の上でまず躓く方が多いと思います(そしてこれもまた聖書に「こうして彼らはイエスにつまずいた」とあるとおりなのです^^;)。
けれど、「最初は意味がわからないながらも」信じた結果、わたし自身はイエスさまの十字架を通して救いを受けることが出来ました。そして、とにかく一度救われ、教会での学びなどを通してわかったことは、「神さまがもしおられるとしたら、このような形でしかありえない。そして、そもそも神さまは人間の罪深くて理屈っぽい、神に不平を並べる性質をもご存じの上で、このような神さまの主権下による「神の救いの計画」を地上に送られたのだ」……ということがわかったのでした。
主によって一時的に目が見えなくなったパウロは、その後アナニヤという人によって目が見えるようになるわけですが、聖書には「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて」(使徒の働き、第9章18節)とあります。まさしく、主イエスを信じる体験というのは、「目からうろこが落ちる」、それまで自分が正しいと思っていた価値観がポロリとはがれ落ち、イエス・キリストの真実の姿が見える体験と言っていいのではないでしょうか。
それではまた~!!
>>以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけていきますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。
『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ』
私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである』
(使徒の働き、第26章9~18節)
誰しも、棘のついた棒を蹴るのが好きだ……という方はいないと思います(笑)
わたしの持っている聖書の欄外注を見ますと、
【とげのついた棒をける】――牛に仕事をさせる時、とげのある棒をむちとして使用したが、時には牛がそれをきらってけったことを、比喩的に用いている。
とあります。
この、主の顕現による回心ののち、それまでキリスト教徒たちを迫害していたパウロは、今度はこのキリスト・イエスを宣べ伝える偉大な使徒となります。
ちょっとお話の主旨のほうは違いますが、パウロと同じように棘のついた棒を蹴るような人生を送っている方というのはいらっしゃるのではないでしょうか。
つまり、ある仕事などに嫌々ながら従事して、時々棘のついた棒で殴られるというか、「俺の人生全般が、大体そんなもんだ」といったように感じられている方というのは案外多いような気がします(「一体どんな仕事だ」、「むしろ虐待で訴えろよ」といった話ですが、あくまでたとえですので^^;)。
けれども、主イエスの顕現によってパウロの生き方が180度変わったように、イエスさまのことを信じて、聖霊さまをいただいた多くの方がパウロと似た経験をされているのではないかと思います。
この回心前と回心後とで何が起こったかというと……パウロの場合は、キリスト教徒を迫害していたのが、今度はそのキリストを宣べ伝える者となったのですが、一度神さまの恵みによってキリスト教徒になると、ひとつの基準として「生き方が変わる」ということが起きてくると思うんですよね。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
自分の肉の努力の力で自分自身の人生を変える、生き方を変える、性格を変える……といったことは、大体十代、あるいは二十代の極若いうちならともかく、年齢が上に上がっていくごとにどんどん難しくなっていくものですよね。
なんと言いますか、最初にイエスさまの弟子になったペテロやヨハネなどは漁師だったわけですが、「いつもこのようにして漁をしている」というやり方を変えて、「こうしてみなさい」と言われても、ペテロたちが聞き従えたのとは違い、ほとんどの方はそれを拒むのではないでしょうか(※参考記事=「浅瀬の人生から、深みへ漕ぎだしてゆく人生へ」)。
何故なら、長く漁の仕事をしてきて、こうするのがもっとも効率的だとのやり方が確立していたら、それ以外の方法なんて試してみようとも思わない……そうした頑なな職人気質のようなものを、(職業が何かの職人でなくても)大抵多くの方が普段生活している生き方の中で持っているものだと思います。
そして、こうした種類のものを「変える」というのは、身近な人や家族がそうと勧めてさえ、なかなか難しいところがあると思うのですが――「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカの福音書、第18章27節)と聖書にもあるとおり、イエスさまのことを信じ、聖霊さまを受けた時に、自分自身の中で変わっていく領域があるのは確かなことだと思うんですよね。
わたしは小さい頃から何故かキリスト教というものが嫌いでした。たとえば、幼いイエスさまを抱っこしたマリア像とか、あとはヨーロッパの教会の建築美などは大好きなのですが、教義自体はおかしいとしか思えなかったというか。
というのも、死んだあとに裁かれるとか、天国や地獄に行くとか、わたしが小学生の時、校門前あたりにいたエ○バの証人の方がそうした説明をしていたことがあるのですが、わたし、それ聞いてて思いましたよ。「あ、そんな変な神さま、絶対神じゃない!」みたいに。
あと、カトリック幼稚園のバスを見るたびに「偽善者養成所に通わされる可哀想な子供たち!」と思っていましたし、キリスト教徒=偽善者というどこから生じたのかわからない刷り込みは、実際に自分がクリスチャンになるまで根深くあったと思います。
けれど、教会へ行って聖霊を受けると、そうした自分の誤解といったこともすべて柔らかく解かされ、今度は聖霊さま御自身が教師として、聖書を通して、あるいは祈りなどを通して色々と教えてくださるようになりました。
そしてこれが、わたしにとっての(他の人から見ればほんのささやかばかりの)回心体験だったわけなんですけど、棘の棒の人生からの解放といったようなことも、まずはイエスさまのことを信じてから起きてくることだと思います。
また、それが仏教でもイスラム教でもキリスト教でも、神さまを求める心の強い方は、現状、人生で物凄く困ってることのある方だと思うんですよね。
もちろん、教会へ行ってイエスさまのことを信じた一秒後に、その時抱えていた問題が解決するといったことは少ないとは思いますが、「問題があるそのままのわたしを神さまは愛してくださっている」(「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ書、第43章4節)、とわかっただけで、心の重荷からの解放が起きたり、霊的な意味での根源的な解放が起きるというのはよくあることと思います。
たとえば、あるひとつの問題があるとしても、その問題をどこから見るか、視点を変えるだけで随分違うものですが、そうしたことをくよくよ考えなくなるですとか、到底解決しそうにない問題を抱えているのに、イエスさまを信じた瞬間に心が明るく晴れやかになり、「きっとなんとかなる!」との希望が与えられるといったようなことです。
>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書、第11章29~30節)
わたしが思うに、人にはある一定の定められたこの「くびき」といったものがあると思います。そして、自ら犯した罪により、このくびきといったものを自らつけて苦しんでいたり、あるいは悪い運命から逃れられず、気づいた時にはこの「くびき」の下にあり、常に自分を見張る監督者が棘の棒で殴ってくる……何かそうした人生を強制的に送らざるをえなかった、といった方もおられるのではないてしょうか。
そして、イエスさまのことを信じたその瞬間から、このくびきからの解放、逆転の勝利といったことが起きてきます。これは教会へ通い、聖霊さまに導かれつつ、聖書的原則を実行するなら、確かに必ず起きてきます。
わたしたちの人生が変わっていくのは、何よりそこからです。
それまで、無意味に思われる虚しいくびきの下にあればこそ、わかるのです。そのような苦しみ・悩みから解放された時、今度は自らイエスさまに従って犠牲の生贄を捧げる人生を送ったほうが、どれほど素晴らしく良い人生を送れるか、ということが……。
犠牲の生贄などと言うと、何か物凄いものを絶えず神さまに捧げていなくてはいけないようですが(笑)、神さまは愛の方ですから、この犠牲の生贄というのは賛美や感謝という形をとって神さまに捧げるべきものです。
なんでも、聖書にはこの「喜び」に関わる聖句が八百もあるそうです(「少女パレアナ」より)。
>>私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の主、神よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。
(エレミヤ書、第15章16節)
>>主よ。あなたは、あなたのなさったことで、
私を喜ばせてくださいましたから、
私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
主よ。あなたのみわざは、
なんと大きいことでしょう。
あなたの御計らいは、いとも深いのです。
まぬけ者は知らず、
愚か者にはこれがわかりません。
(詩篇92編、4~6節)
>>愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者が
いるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。
不法を行なう者らはだれも知らないのか。
彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、
主を呼び求めようとはしない。
見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとを
はずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が、とりこになった御民を返されるとき、
ヤコブは楽しめ。
イスラエルは喜べ。
(詩篇、第14編)
神さまがイエスさまをこの地上に遣わしてくださったことを喜び賛美し、そのお陰で自分もまたイエスさまの救いに与ることが出来たことや、その救いが自分だけでなく、他の兄弟姉妹にもまったく平等であることや、「イエスさまの十字架を信じるだけで救われる」、「天国へ行くことが出来る」恵みについても感謝し、賛美する――イエス・キリストを信じた時に起きる霊的解放、棘の鞭、棘の棒付きのくびきからの解放というのは、そうしたことだと思います。
つまり、イエスさまのことを信じた時から、人生の苦難からの解放といったことや、このくびきからの解放といったことが起き、その後はこのことに代えて、神さまへの喜びと感謝と賛美へと思考が切り替わることで……人生が変わるということが起きてくるのです。
時々、「聖書には「御名をほめよ」といったようによくあるけど、神さまはなんでそんなに自分を褒めてもらいたがってるの?神さまなのに?」といった疑問を聞くことがありますが、この神さまへの感謝や賛美といったものは、言うまでもなく自発的なものです。
また、そのような感情が滲みでるには、「救いの実感」というものがなければ……当然そんなことは到底できないわけです。わたし自身、イエスさまのことを信じてのちに聖霊さまを与えられたのでなかったら、まずそうしたことは短い間は続いたにしても、その後長くは決して続かなかったと思います。
そして、人は誰しもみな、「くびきの下」、「人生の苦難の下」にある時には、神さまのことを恨んだり罵ったり、あるいはのちに救われるにしても、その時期を何故もっと早くしてもらえなかったのだ……など、運命というものに貸しのある人ほど、そうした疑問がたくさん湧いて出、そのうちそんなことを考えるのにも疲れ、=神はいないと結論づけて生きる――ということになるのだと思います。
日本人的な感覚としては、まず、「聖霊」という言葉を聞いただけでも何かうさんくさく感じるでしょうし、「そもそも聖霊と精霊ってどう違うの?」など、疑問が色々あるものですよね。
ただ、父と子と聖霊の御名によっての「聖霊」については、キリスト教の神学の本を何冊読んでも、自分でイエスさまのことを主と信じ、その十字架の血が自分のために流されたものであることを告白した時以降に受けるものなので……この「体験」の領域ということについては、いくらここに言葉を尽くして書いても意味がないと思うのです(^^;)
けれども、クリスチャンの集う教会というのは言ってみれば、「ああ、あなたもあの体験(聖霊を受けるという体験)をしたのですね」ということで一致している団体であるというのは間違いのないところだと思います。
そして、この<聖霊>という神さまからのイエスさまを通した力があればこそ、教会という場所は今日に至るまで存続してきたといっていいと思うんですよね(※キリスト教を名乗っていても実際はその教えがズレているといった場合もありますし、そうした教会はそもそも聖霊を受けていないのですが、外から見た場合にはなかなか見分けがつかないということ――それが日本では特にキリスト教がそしられる礎のようになっている気がします)
わたしもそうでしたが、「イエス・キリストが十字架にかかったことが何故人類の救いになるのだ?」とか、キリスト教というのは理屈の上でまず躓く方が多いと思います(そしてこれもまた聖書に「こうして彼らはイエスにつまずいた」とあるとおりなのです^^;)。
けれど、「最初は意味がわからないながらも」信じた結果、わたし自身はイエスさまの十字架を通して救いを受けることが出来ました。そして、とにかく一度救われ、教会での学びなどを通してわかったことは、「神さまがもしおられるとしたら、このような形でしかありえない。そして、そもそも神さまは人間の罪深くて理屈っぽい、神に不平を並べる性質をもご存じの上で、このような神さまの主権下による「神の救いの計画」を地上に送られたのだ」……ということがわかったのでした。
主によって一時的に目が見えなくなったパウロは、その後アナニヤという人によって目が見えるようになるわけですが、聖書には「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて」(使徒の働き、第9章18節)とあります。まさしく、主イエスを信じる体験というのは、「目からうろこが落ちる」、それまで自分が正しいと思っていた価値観がポロリとはがれ落ち、イエス・キリストの真実の姿が見える体験と言っていいのではないでしょうか。
それではまた~!!
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