Looking for the DIAMOND at FLEA market  “がらくた市のダイヤモンド”

今日は復帰52年。しかし、79年前、天久(ゆいレール・おもろまち付近)で激戦中。村民は防衛協力隊として強制徴用。

1972年5月15日、沖縄は日本に復帰した。戦後27年続いた米軍統治が終わり、新しい歴史を開いた。復帰運動の先頭に立ち、激動の時代を引っ張った、屋良朝苗知事は新沖縄県発足式典で、「鉄石のような厚い壁を乗り越え、険しい山をよじ登り、イバラの障害を踏み分けてついに」と悲願をかみしめた。以降、沖縄は国の振興策などによって道路や港など社会基盤の整備が進み、県民の暮らしは豊かになった。が、拒み続けた基地は今もなお居座り、穏やかな日々を脅かす。【沖縄タイムズ】
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天久台洞窟を死守していた独立混成第2大隊長古賀宗一少佐(少16期)以下の残存者は、無線をもって適時敵情を報告し、斬込みを実行していたが、15日夜残存者総員の斬込みを敢行し大隊長以下ほとんどが戦死した。軍は独立混成第44旅団に防衛築城隊(長牟田大輔大尉)を増加し、海軍から20組の斬込隊を天久、眞嘉比方面に派遣させ、那覇正面の米軍の攻撃力減殺に努めた。(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 231頁より》

日本軍の猛烈な迫撃砲弾、それに斬り込みで、ついにシュガー・ローフの海兵は、5月15日の未明には将校わずかに1人、それに疲れきった兵19人だけになってしまった。日中はなお危険だった。というのは、シュガー・ローフの南にある〝馬蹄ガ丘〟やその東側にあるクレセント(大道森)にたてこもっている日本軍は非常に正確な射撃を浴びせていたからである。
… 集中砲火はますますはげしく海兵隊のいる峰の上に加わり、反対側の洞窟からは、日本兵がにじり寄ってきた。…すばやく、救援するには、高地奪回を目指して肉迫しつつある日本軍を攻撃する以外にないとさとり、小隊長ジョージ・マーフィー中尉はつけ剣で突撃を命じた。
小隊は丘の頂上まできた。そこではげしい手榴弾戦にはいり、もっていた350個の手榴弾がたちまちにしてなくなった。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 344-345頁より》 

すでに日本軍は大隊の勢力でシュガー・ローフ周辺を砲撃し、第6海兵師団の左翼を攻撃しつつあった。夜明けごろになって、日本軍は約800メートルの戦線に展開し、シュガー・ローフの戦闘やクレセントの高地前方での戦闘で、米第6海兵師団の全左翼戦線はおおいに弱まってきた。第2大隊はついに退却した。日本軍はあえてこれに追いうちをかけてこようとはしなかった。第2大隊は、3日間で約400人の死傷者を出していた。
《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 364頁より》
15日、さらに米軍は、強引な攻撃を開始。わが歩兵15連隊も、正確な射撃を米軍に浴びせて、一歩も退かない。52高地では、はげしい手榴弾戦がつづく。米軍の一小隊は、60名が11名だけになった。米軍も頑張った。被害続出しても、退却しない。しかし、ついに米軍が押し負けた。米第2大隊は退却した。死傷400。わが15連隊1大隊が夜襲をかけ、大隊長みずから軽機を握り、仁王立ちで撃ちまくる奮戦が効を奏した。
《「沖縄 Z旗のあがらぬ最後の決戦」(吉田俊雄/オリオン出版社) 261頁より》

15日朝安里東方の52高地の米軍は撃退したが、眞嘉比及び安里北側高地の一部は米軍に占領された。独立混成15聨隊長は52高地正面に増加配置した。…(日本側の公式戦記: 戦史叢書沖縄方面陸軍作戦より)
《「沖縄 シュガーローフの戦い 米海兵隊 地獄の7日間」(ジェームス・H・ハラス/猿渡青児・訳/光人社NF庫) 231頁より》
【~シリーズ沖縄戦~】WEBから
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住民巻き添えの状況=総務省「西原町における戦災の状況(沖縄県)」WEB

 西原町の戦災の状況(西原町は那覇の北東10kmに位置 )
 昭和20(1945)年4月1日米軍が沖縄本島に上陸した後、第32軍は西原村にも陣地壕を構え、待ち受けていた。4月5日に米軍は上原―棚原のラインに到達し、村内ではここから日米両軍の激しい攻防戦が繰り広げられることとなる。この時点では多くの村民が疎開せず、村内に残っていた。証言の中には、米兵が近くまで来ていることを聞いて初めて島尻へ移動を開始したことを伝えるものもある。4月24日には、宜野湾村(現宜野湾市)の嘉数高地が壊滅し、西原村内でも内間や幸地が米軍に占領され、第32軍は戦線の整理を行うこととなった。そして村民に親しまれていた石部隊独立歩兵第11大隊は浦添村(現浦添市)の前田高地に移動し、島尻に温存されていた第24師団(山部隊)の歩兵第22連隊と歩兵第89連隊が代わって西原村に配備された。同時期に第32軍司令部は、非戦闘員への南部・島尻への移動を命じており、当時の小波津正光村長は避難壕や墓内部に残っている村民を説得し、自ら陣頭指揮を執って島尻へ避難している。村内では引き続き戦闘が続き、5月4日には呉屋・翁長・小波津一帯で総攻撃をしかけ、死闘を繰り広げたが、失敗に終わった。この総攻撃で山部隊89連隊第1大隊、第3大隊の2,000人のうち、殆どの将兵が戦死し、生存者は負傷者を含めて約100名程だった。5月15日、東風平・具志頭に避難した村民には臨時防衛収集がかかり、村長以下約50人が防衛協力隊として山部隊へ入隊させられ、前線への弾薬・食糧運搬に従事した。小波津村長はその後戦場で殉職している。5月22日に第32軍司令部は島尻へ撤退することを決め、戦場は南部へと移動していくことになり、島尻へ避難していた村民を巻き込んでいく。
 そこで生き延び、米軍の捕虜となった村民は、糸満や知念など南部の収容所、コザや現在の金武町、宜野座村等北部の収容所へと連行された。
(太線はブログ筆者)
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