古代ギリシアの哲学者でピュロンという人がいて、懐疑論の祖と呼ばれるそうだ。平安(アタラクシア)を得る手段として判断中止(エポケー)を説いたというが、私にとって驚きだったのは、この人アレクサンドロスの遠征にしたがってインドに行き、ヨーガ行者に出会ったという。
なぜ私は驚いてしまったかと言うと。
ヨーガの根本教典『ヨーガ・スートラ』の代表的注釈「バーシャ」は、『スートラ』が説く「煩悩」を、「倒錯」というような意味の語彙(「誤謬」と訳す人もいる)で説明している。私はこのあたりの記述を、実態にそぐわない「地図」のせいで心が本来の状態を見失う、というように理解しているが、これは木村敏の著作を自分なりに読んだときに考えたことだった(念のために言い添えると木村氏は精神科医で、少なくとも私が読んだ本にはヨーガだのインドだのへの言及はない)。そして、その著書での木村氏の所論は、用語からすると現象学を踏まえているらしかった。
フッサールなど現象学者たちも判断中止(エポケー)を説くわけで、西洋のピュロン以来の伝統を、ある意味継承しているのだろう。その現象学を参考にする木村氏の著作が、私にとっては『ヨーガ・スートラ』の一部を解釈する助けになった。ところがエポケーの元祖ピュロンは、インドでヨーガの行者に会っている。『ヨーガ・スートラ』の成立は、研究者の言うところではピュロンの時代より数百年後だけれど、肝心な点では、彼が学んだり会得したりした(かもしれない)ことも『スートラ』などと同じだったのではなかろうか。
ヨーガ教典を解釈するのに西洋哲学の助けを借りたと思っていたら、その遠祖の教えには当のヨーガの教説が隠れていた・・・ように思ったのでございます。
なぜ私は驚いてしまったかと言うと。
ヨーガの根本教典『ヨーガ・スートラ』の代表的注釈「バーシャ」は、『スートラ』が説く「煩悩」を、「倒錯」というような意味の語彙(「誤謬」と訳す人もいる)で説明している。私はこのあたりの記述を、実態にそぐわない「地図」のせいで心が本来の状態を見失う、というように理解しているが、これは木村敏の著作を自分なりに読んだときに考えたことだった(念のために言い添えると木村氏は精神科医で、少なくとも私が読んだ本にはヨーガだのインドだのへの言及はない)。そして、その著書での木村氏の所論は、用語からすると現象学を踏まえているらしかった。
フッサールなど現象学者たちも判断中止(エポケー)を説くわけで、西洋のピュロン以来の伝統を、ある意味継承しているのだろう。その現象学を参考にする木村氏の著作が、私にとっては『ヨーガ・スートラ』の一部を解釈する助けになった。ところがエポケーの元祖ピュロンは、インドでヨーガの行者に会っている。『ヨーガ・スートラ』の成立は、研究者の言うところではピュロンの時代より数百年後だけれど、肝心な点では、彼が学んだり会得したりした(かもしれない)ことも『スートラ』などと同じだったのではなかろうか。
ヨーガ教典を解釈するのに西洋哲学の助けを借りたと思っていたら、その遠祖の教えには当のヨーガの教説が隠れていた・・・ように思ったのでございます。
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