音楽現場における神格化の問題は、音楽が“商品”として流通するようになってから立てられた問題である。しかしその一方、原始的な音楽の由来はお祭りであったり祝祭であったり、あるいは追悼、あるいは雨乞いなど宗教的な儀式と切り離せなかった。つまり、音楽の神格化問題を考える場合、“何が”神格化されたかに意識的でなければならない。
一言で言えば、“アーティスト”の神格化だろう。商品である音楽は“パッケージ”に包まれることで流通が可能になる。物理的にはレコードだったりCDだったり、音楽の複製された媒体であるが、コレクターと言うかなりマニアックな音楽ファンを除けば、レコードやCDが神格化の対象ではないのは明らか。神格化の対象は基本的にはアーティストの存在である。作詞作曲と言う裏方と歌唱演奏と言う表舞台の二層構造で商品としての音楽は流通し、その場合のパッケージはアーティストのネームバリューである。
商品としての音楽は食べ物や日用品と違い、黙っていても店頭に陳列しておけば売れるものではない。宣伝と言うブロセスを考えた時、パッケージはレコードからアーティストになる。
この問題の立て方は、ライブ文化とディスク文化によって違う。いや違うことを説明するためにライブ文化とディスク文化と言う二項対立の概念が生まれたとも言える。要はアーティストと言うパッケージが神格化されるのではなく、音楽それ自体が神格化されるのであれば問題はない。
そう考えると、ライブ文化とディスク文化と言う二項対立を破壊しうるこれからのネットミュージックの時代には、再びパッケージの神格化はなくなり、音楽それ自体の神格化が取り戻されると言う楽観主義はありだと思っている。ネットミュージックの時代にはライブ文化であろうとディスク文化であろうと、アーティストとリスナーが直接つながるので、アーティストのネームバリューと言うパッケージは消えて行く。そこには権威的な操作は何もない。純粋に良い音楽だけが生き残る。
一言で言えば、“アーティスト”の神格化だろう。商品である音楽は“パッケージ”に包まれることで流通が可能になる。物理的にはレコードだったりCDだったり、音楽の複製された媒体であるが、コレクターと言うかなりマニアックな音楽ファンを除けば、レコードやCDが神格化の対象ではないのは明らか。神格化の対象は基本的にはアーティストの存在である。作詞作曲と言う裏方と歌唱演奏と言う表舞台の二層構造で商品としての音楽は流通し、その場合のパッケージはアーティストのネームバリューである。
商品としての音楽は食べ物や日用品と違い、黙っていても店頭に陳列しておけば売れるものではない。宣伝と言うブロセスを考えた時、パッケージはレコードからアーティストになる。
この問題の立て方は、ライブ文化とディスク文化によって違う。いや違うことを説明するためにライブ文化とディスク文化と言う二項対立の概念が生まれたとも言える。要はアーティストと言うパッケージが神格化されるのではなく、音楽それ自体が神格化されるのであれば問題はない。
そう考えると、ライブ文化とディスク文化と言う二項対立を破壊しうるこれからのネットミュージックの時代には、再びパッケージの神格化はなくなり、音楽それ自体の神格化が取り戻されると言う楽観主義はありだと思っている。ネットミュージックの時代にはライブ文化であろうとディスク文化であろうと、アーティストとリスナーが直接つながるので、アーティストのネームバリューと言うパッケージは消えて行く。そこには権威的な操作は何もない。純粋に良い音楽だけが生き残る。
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