薄墨からやや離れた摂取村。
昔、この村に、老いた母とその息子が住んでいた。
ある夕。
突然嵐に襲われ、漁に出ていた人々は
慌てて戻ってきたのに
せがれの舟だけが、戻って来なかい。
じき、日が暮れて、
荒れた海では村に戻れなくなる。
そうなれば、
命を落とすのは目に見えていた。
来月には嫁取りが決まっており、
この先、嫁が来て、
孫も生まれて
せがれ頼みで安楽に暮らすはずが、
肝心のせがれが死んではすべて台無しになってしまう。
老いた母親は、なんとかせがれが戻るようにと、
神さんにすがることにした。
村のはずれ、
眉が浜近くには、
人魚を祀った犀気神社がある。
海で遭難しても、この神社で祈れば、
人魚が助けてくれると摂取の人々は信じていた。
夜、風が強いなか
母親は闇を突っ切って犀気神社に行き、
一心に祈り続けた。
どうかどうか。
なにとぞ、なにとぞ、
うちのせがれが無事に戻って来れるように、
お願いいたしぁんす。
せがれのためなら、命を捨てます。
命なんぞはこれっぽっちも、惜しくありません。
なにとぞお願いいたしぁんす。
生温かい強風にもまれながら
どれほど祈ったことか。
「もうし」とふいに声がして、
母親は驚いて目を開けた。
ごうごうと波音が響き、
強風の海がうっすらと見える闇のなか、
白く光る娘が立っている。
娘は母親に、こう告げた。
「私は、人魚の神さんのつかいの者でぁんす。
我が子のためにと祈る気持ちに心打たれて、
神さんは、お前さまのせがれば、
助けてやると申しておりぁんす」
そうか、我が子が助かるのか。
母親は喜びのあまり、むせび泣きながら、
娘の前にひれ伏した。
だが、娘は続けて、
「したんども、せがれの命と引き替えに、
お前さまの命を貰い受ける、と、神さんは言っておりあんすえ。
それでも良がんすか」
「はあ、もちろん。
こったら婆々の命なんか、なんぼのもんでもない。
せがれが助かるなら、命なんか惜しくありぁせん。
いくらでも差し上げますへんで」
応えると、娘はちらりと、
小意地の悪い表情を見せた。
「したら、お前さまが死んで、
引き替えにせがれは助かる、
それで良がんすか。
助かったせがれは、すぐに嫁っこをもらって、
嫁は姑に使えることなく、気ままに過ごす。
夫婦睦まじくしてれば、親のことなんぞは思い出しもしなくなる。
そのうち、赤ん坊が生まれて、
誰も、お前さまが命を差し出したことなんか忘れ果てて、
幸せに暮らす。
それでも構わないんすか」
娘の言葉に、母親は呆然と立ちすくんだ。
せがれが助かればと、その一心だけで、
助かったその先を、考えてはいなかったのだ。
「さて、それで構わないんすか」
再び娘がたずねたが、
母親の舌は硬くこわばったままで、
「構わない」のひと言が、どうしても出なかった。
娘は皮肉な笑みを浮かべ、
「したら、せがれの命を助けるのは
無理でぁんすなあ」
言うなり、
ふっと姿を消した。
それきり。
息子は海から戻らなかったと。
★★★

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ひとつよろしくお願いいたしぁんす。
今宵の焼酎は「小鹿本にごり」。コクがあり、結構気に入ってます。
昔、この村に、老いた母とその息子が住んでいた。
ある夕。
突然嵐に襲われ、漁に出ていた人々は
慌てて戻ってきたのに
せがれの舟だけが、戻って来なかい。
じき、日が暮れて、
荒れた海では村に戻れなくなる。
そうなれば、
命を落とすのは目に見えていた。
来月には嫁取りが決まっており、
この先、嫁が来て、
孫も生まれて
せがれ頼みで安楽に暮らすはずが、
肝心のせがれが死んではすべて台無しになってしまう。
老いた母親は、なんとかせがれが戻るようにと、
神さんにすがることにした。
村のはずれ、
眉が浜近くには、
人魚を祀った犀気神社がある。
海で遭難しても、この神社で祈れば、
人魚が助けてくれると摂取の人々は信じていた。
夜、風が強いなか
母親は闇を突っ切って犀気神社に行き、
一心に祈り続けた。
どうかどうか。
なにとぞ、なにとぞ、
うちのせがれが無事に戻って来れるように、
お願いいたしぁんす。
せがれのためなら、命を捨てます。
命なんぞはこれっぽっちも、惜しくありません。
なにとぞお願いいたしぁんす。
生温かい強風にもまれながら
どれほど祈ったことか。
「もうし」とふいに声がして、
母親は驚いて目を開けた。
ごうごうと波音が響き、
強風の海がうっすらと見える闇のなか、
白く光る娘が立っている。
娘は母親に、こう告げた。
「私は、人魚の神さんのつかいの者でぁんす。
我が子のためにと祈る気持ちに心打たれて、
神さんは、お前さまのせがれば、
助けてやると申しておりぁんす」
そうか、我が子が助かるのか。
母親は喜びのあまり、むせび泣きながら、
娘の前にひれ伏した。
だが、娘は続けて、
「したんども、せがれの命と引き替えに、
お前さまの命を貰い受ける、と、神さんは言っておりあんすえ。
それでも良がんすか」
「はあ、もちろん。
こったら婆々の命なんか、なんぼのもんでもない。
せがれが助かるなら、命なんか惜しくありぁせん。
いくらでも差し上げますへんで」
応えると、娘はちらりと、
小意地の悪い表情を見せた。
「したら、お前さまが死んで、
引き替えにせがれは助かる、
それで良がんすか。
助かったせがれは、すぐに嫁っこをもらって、
嫁は姑に使えることなく、気ままに過ごす。
夫婦睦まじくしてれば、親のことなんぞは思い出しもしなくなる。
そのうち、赤ん坊が生まれて、
誰も、お前さまが命を差し出したことなんか忘れ果てて、
幸せに暮らす。
それでも構わないんすか」
娘の言葉に、母親は呆然と立ちすくんだ。
せがれが助かればと、その一心だけで、
助かったその先を、考えてはいなかったのだ。
「さて、それで構わないんすか」
再び娘がたずねたが、
母親の舌は硬くこわばったままで、
「構わない」のひと言が、どうしても出なかった。
娘は皮肉な笑みを浮かべ、
「したら、せがれの命を助けるのは
無理でぁんすなあ」
言うなり、
ふっと姿を消した。
それきり。
息子は海から戻らなかったと。
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ひとつよろしくお願いいたしぁんす。
今宵の焼酎は「小鹿本にごり」。コクがあり、結構気に入ってます。