夜遅く、カメキチは、
ふらりと阿弥陀小路の「善」に出かけた。
「あら先生、お久しぶりです」と女将が、
いつもどおり出迎えてくれる。
「いつまでも暑いので、お体心配してましたよ。お元気でした?」
そんなうれしいことも言ってくれる。
手早く運ばれてきたのは、
「季節外れですが、まだまだ暑いので」と、滝川豆腐。
厨房から女将の弟が、白衣に和帽子姿で顔をのぞかせ
「もう秋ですがね、夏の名残ということで召し上がってください」
と頭を下げた。
細く切った豆腐をつるっとすすり上げる。
冷たい舌ざわり。
寒天で寄せた豆腐の甘さ、うまさ、なめらかさ。
やわらかく柑橘酢をきかせたつゆのさわやかさ。
「この酢はなんだ? 柚子はまだ早いんでないか?」
「すだちです、すだち」
「そっか、いいもんだな」
他愛もないやりとりがうれしい。
そこへ、薄墨酒造のひやおろし「うれし」が出てきた。
グラスになみなみと注がれた冷やを一口。
舌のつけ根が、うまみでキューっと絞られる。
ひゃあ、うまい、とカメキチが小さく叫ぶ。
その飲みぶりを見ながら、女将が、
「先生、ひやおろしには謎ありません?」
とたずねた。
「ひやおろしに謎、なんだそれ?」
首をひねると、
「ほら、前に『十里の道を今朝帰る』って謎々を
教えてくださったじゃありませんか。
十里は五里と五里で、<に・ごり>。今朝が返って、<さけ>。
だから『十里の道を今朝帰る』というなぞなぞ、
答えは『にごりさけ』。そうでしたよね」
ほお、よく憶えてるなあと言いながら、また一口。
「残念だが、ひやおろしの謎々は、ないだろう。
だがな、こんなのがある」
カメキチはちょっと居ずまいを正した。
「えーっと、『戀にはこころもこと葉もなし』、どうだわかるか? あ、戀は旧漢字だぞ」
「恋には心も言葉もなし、なにかしら、それ」
女将は首をひねった。
カウンターの奥に座っていた二人連れが、
「え、なになに」と身を乗り出し、この謎を聞いて、
「恋には心も言葉もなし…、いいねえ、わかるねえ、恋は黙って見つめ合うだけよ」
「ヤマさん、黙って見つめると気持ち悪いとか言われない?」
「いーや、恋はだな、いとしいとしと言う心ってわけでな…」
ヤマさんたちが、馬鹿話を始めたところに、
突然カメキチが、そう、それだと割って入った。
「戀は、いとしいとしと言う心。それと同じだ。
戀は心も言葉もなし、心と言葉がないわけだから、『心』と『言』を取ると…」
「糸がふたつですね」と女将が言った
「大正解! 戀は心もこと葉もなし、謎々の答えは『絲』だ」
はあ、と隣のヤマさんがため息をついた。
「そりゃ、あんまりおもしろくない。いとしいとしと言う心のほうがいいなあ」
「ヤマさん、いいじゃないの。心も言葉もなくても、二人の間には糸が残るって、なんか歌みたいだ」
となりの二人組はそんなことを言い、
たーての糸はあなたーと、大声で歌いだした。
ヤマさんも彼の連れも、そろって歌好きらしい。
カメキチは、また「うれし」を一口含む。
のぼせあがった恋もやがて落ち着く。
心も冷め、言葉も消えたその末でも
一筋の糸は残るというわけか。
、
室町時代の『なそたて』に載っている、この謎を知ったとき、
若かったカメキチは、恋の末の糸とは
どんなものかと考えたものだった。
考えたが、答えは出なかった。
情であるとか、未練とか思い出とか、
解釈はいろいろだろうが、どれもぴったりとはこない。
考えながらまた一口。
うまみが口中に満ち、
香気が鼻に抜ける。
「先生、いかがです?」
女将が、茗荷田楽の皿を置く。
そして、カウンターにおいたカメキチの手に
素早く自分の手を重ね、
一瞬、
ほんの一瞬だけ
カメキチの指に強く爪をたてた。
驚いて顔を上げると、
女将はすまして離れていく。
。
カメキチと女将の間をつないでいる糸が
ぴんと張り詰めた、一瞬だった。
ふらりと阿弥陀小路の「善」に出かけた。
「あら先生、お久しぶりです」と女将が、
いつもどおり出迎えてくれる。
「いつまでも暑いので、お体心配してましたよ。お元気でした?」
そんなうれしいことも言ってくれる。
手早く運ばれてきたのは、
「季節外れですが、まだまだ暑いので」と、滝川豆腐。
厨房から女将の弟が、白衣に和帽子姿で顔をのぞかせ
「もう秋ですがね、夏の名残ということで召し上がってください」
と頭を下げた。
細く切った豆腐をつるっとすすり上げる。
冷たい舌ざわり。
寒天で寄せた豆腐の甘さ、うまさ、なめらかさ。
やわらかく柑橘酢をきかせたつゆのさわやかさ。
「この酢はなんだ? 柚子はまだ早いんでないか?」
「すだちです、すだち」
「そっか、いいもんだな」
他愛もないやりとりがうれしい。
そこへ、薄墨酒造のひやおろし「うれし」が出てきた。
グラスになみなみと注がれた冷やを一口。
舌のつけ根が、うまみでキューっと絞られる。
ひゃあ、うまい、とカメキチが小さく叫ぶ。
その飲みぶりを見ながら、女将が、
「先生、ひやおろしには謎ありません?」
とたずねた。
「ひやおろしに謎、なんだそれ?」
首をひねると、
「ほら、前に『十里の道を今朝帰る』って謎々を
教えてくださったじゃありませんか。
十里は五里と五里で、<に・ごり>。今朝が返って、<さけ>。
だから『十里の道を今朝帰る』というなぞなぞ、
答えは『にごりさけ』。そうでしたよね」
ほお、よく憶えてるなあと言いながら、また一口。
「残念だが、ひやおろしの謎々は、ないだろう。
だがな、こんなのがある」
カメキチはちょっと居ずまいを正した。
「えーっと、『戀にはこころもこと葉もなし』、どうだわかるか? あ、戀は旧漢字だぞ」
「恋には心も言葉もなし、なにかしら、それ」
女将は首をひねった。
カウンターの奥に座っていた二人連れが、
「え、なになに」と身を乗り出し、この謎を聞いて、
「恋には心も言葉もなし…、いいねえ、わかるねえ、恋は黙って見つめ合うだけよ」
「ヤマさん、黙って見つめると気持ち悪いとか言われない?」
「いーや、恋はだな、いとしいとしと言う心ってわけでな…」
ヤマさんたちが、馬鹿話を始めたところに、
突然カメキチが、そう、それだと割って入った。
「戀は、いとしいとしと言う心。それと同じだ。
戀は心も言葉もなし、心と言葉がないわけだから、『心』と『言』を取ると…」
「糸がふたつですね」と女将が言った
「大正解! 戀は心もこと葉もなし、謎々の答えは『絲』だ」
はあ、と隣のヤマさんがため息をついた。
「そりゃ、あんまりおもしろくない。いとしいとしと言う心のほうがいいなあ」
「ヤマさん、いいじゃないの。心も言葉もなくても、二人の間には糸が残るって、なんか歌みたいだ」
となりの二人組はそんなことを言い、
たーての糸はあなたーと、大声で歌いだした。
ヤマさんも彼の連れも、そろって歌好きらしい。
カメキチは、また「うれし」を一口含む。
のぼせあがった恋もやがて落ち着く。
心も冷め、言葉も消えたその末でも
一筋の糸は残るというわけか。
、
室町時代の『なそたて』に載っている、この謎を知ったとき、
若かったカメキチは、恋の末の糸とは
どんなものかと考えたものだった。
考えたが、答えは出なかった。
情であるとか、未練とか思い出とか、
解釈はいろいろだろうが、どれもぴったりとはこない。
考えながらまた一口。
うまみが口中に満ち、
香気が鼻に抜ける。
「先生、いかがです?」
女将が、茗荷田楽の皿を置く。
そして、カウンターにおいたカメキチの手に
素早く自分の手を重ね、
一瞬、
ほんの一瞬だけ
カメキチの指に強く爪をたてた。
驚いて顔を上げると、
女将はすまして離れていく。
。
カメキチと女将の間をつないでいる糸が
ぴんと張り詰めた、一瞬だった。