祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

鷂子入林・斬首砲

2014-11-19 21:02:19 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系

また、目録の…(技撃精要p45) 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 6月14日(金)18時52分27秒 返信・引用


套路四把に出てくる。鷂子入林・斬首砲は、七膀の鷂子入膀・七砲の斬首砲と原理は同じものですよね…?



深める 投稿者:うさぎメール 投稿日:2013年 6月14日(金)22時49分52秒 返信・引用


土佐の川えびさん 「套路四把に出てくる。鷂子入林・斬首砲は、七膀の鷂子入膀・七砲の斬首砲と原理は同じものですよね…?」

はいそうですよ。技法名が同じものは、同じ技法です。套路の中でやるのか、単式で行うのかの違いです。単式のものは、左右で練習しますから、やはり単式のものを一緒に演習するのがいいですから、套路で学んでから単式のものも習うと効果的です。

kさんへ 戴氏の本質って教授法の中にも大きく反映されていますよね。
外に対しては、非常に保守的で秘密主義を守り通した戴氏ですけれども、教える人に対しては非常に精密に教えた。
 戴魁は、教えるときは、非常に厳しかったそうです。木の棒を持って、「ここが違う、ここだここ」と言いながらその場所を棒でたたいた。質問などすることはできなかった。と王師父は語っていました。
 今だったら、体罰の問題になりそうですし、今の戴氏の懇切丁寧な教え方とはだいぶ違うという風に表面的なものだけを見て判断してしまったら、戴氏の教授法の真意を取り違えてしまう。
 戴氏の教授法に脈々と受け継がれているものは、厳しいか、やさしいかという表面的な教授法ではなく、「不多、而精」に代表される、しっかりと教えるということだと思います。
 戴魁やそれ以前の戴氏の伝承者や王映海師父などを含め、現代の科学、神経学、物理学といった知識や理解はまずほとんどなかった。私はよく師父から「お前はあたまがいい」といわれるのが、いつも恥ずかしくてたまりませんでした。というかいやでした。「お前は、大学も出ている。学問がある。戴氏をさまざまな学問と結びつけることもできる。」といわれながら、戴氏心意拳について、人生について、生きることについて、師父にははるかに及ばない自分自身の無知さ、浅はかさを突き付けられているように思いました。
 師父は、一生、無識字でしたが、拳譜の言葉を漏らさず暗唱されましたし、その言葉を指導の細部にわたって引用し、その言葉で適宜諭されました。一日教えを受ければ、「一生の師である」と戴魁が床に臥されてからもずっと、作った野菜を他の弟子たちと持ち寄り、死ぬまでつくした。いつも謙虚に、「私だけではない。村の弟子たちみんなで師を助けた。」とおっしゃっり、自分の手柄だけにすることをしなかった。年老いてからも、常に自らが練習することを止めず、私に指導する合間を縫って自らも練習されていた。「いくら親しい人であってもいつかは別れ別れになってしまうが、学んだもの、身に着けたものは、自分が死ぬまで離れていかない。貴重なものだ。」とよく私に諭された。
 師は、戴氏心意拳や生活の中から多くのものを学び、それを彼の学問や科学にしていったのだと思います。決して国際的でも幅広い知識でもない。しかし私は彼の前に立った時、深遠なる広大な宇宙を彼の存在から感じることができたし、自分自身の学歴だとか職業、財産教養…といった表面的な鎧を身にまとっている自分が恥ずかしく思えたのです。
 あの武術がどうだとか、これと比べると戴氏はどうだとかといった一般教養は、いったん捨てようと思ったのです。比較の中にある戴氏概論ではなく、戴氏を深めたいという気持ちに変わっていった。それは、師父の前に立った時に、自分自身の何も知らない恥ずかしさからきているものだと思うのです。



Re: 深める(その1) 投稿者:k 投稿日:2013年 6月15日(土)20時21分24秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> 戴氏の本質って教授法の中にも大きく反映されていますよね。
> 外に対しては、非常に保守的で秘密主義を守り通した戴氏ですけれども、教える人に対しては非常に精密に教えた。
>  戴魁は、教えるときは、非常に厳しかったそうです。木の棒を持って、「ここが違う、ここだここ」と言いながらその場所を棒でたたいた。質問などすることはできなかった。と王師父は語っていました。
>  今だったら、体罰の問題になりそうですし、今の戴氏の懇切丁寧な教え方とはだいぶ違うという風に表面的なものだけを見て判断してしまったら、戴氏の教授法の真意を取り違えてしまう。

戴氏は「感覚」を大切にしていると思います。
その意味では、「手を離さない」も「棒でたたく」も「身体の特定部分の感覚に集中する手段」としては共通しているのではないでしょうか。

以前、「腹が肩を催す」感覚を研ぎすまそうとして(肩に力が入るとマズいので)腕をぶらんと垂らしたした状態から丹田功を試していた時期がありました。これはこれで有効だったのですが現在は(霍先生から指導された)腹の上に手をおいた形の丹田功をおこなっています。理由は手を腹の上におくことでこの部分の感覚が手をおいていない時に比べて、意識を集中することでより研ぎすまされるからです。

霍先生の助手で参加者の方に丹田功を指導させてもらった時、胸を押したときの指の感覚で「この人の胸の感覚は私が霍先生に胸を押してもらった時の胸の感覚と近いのではないか」と感じられたことがありました。胸を押した時の感覚は「押す方の指の感覚」と「押される方の胸の感覚」があるわけですが、双方の「表裏一体の感覚」を体験できたことは感覚の理解を深めるのに有効でした。

当たり前じゃないか と思われた方が多いと思いますが、ここがスタート時点になるということです。
「腹を動かす手段として胸を押している」わけですので「胸がいい感じで胸を押せた」時は「腹がうまく動いている」場合が多かったと思います。ただ、「胸がいい感じで押せても腹がうまく動いていない」受講者の方もいましたし、反対に「胸がうまく押せなくても腹がうまく動いている」受講者の方も少数ですがいらっしゃいました。
経験を積んでこの辺りの理由がしっかり判れば、指導力が向上するばかりでなく、自分自身の練拳の質も向上する と思います。
勿論これはある程度のレペルに達して初めて可能になることです。
胸を凹ます感覚が身に付いたら当然のその次のレベルがあるわけです。逆に言えば、次のレベルにいく為に胸を凹ます感覚を身につける必要があるで、そのことを踏まえて胸が押せないといけないわけです。
私の場合のその次のレベルの感覚が曖昧だったので上に書いた「この辺りの理由を判ろう」とするとかえって混乱をきたしたと思います。

平たく言えば教えるレベルに達していなかったわけで、アシスタントはともかく、他人に教えなかったことは、自分にとっても教わる人にとっても良かったと思っています(^_^;)。



Re: 深める(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 6月15日(土)20時38分42秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

>「お前は、大学も出ている。学問がある。戴氏をさまざまな学問と結びつけることもできる。」といわれながら、戴氏心意拳について、人生について、生きることについて、師父にははるかに及ばない自分自身の無知さ、浅はかさを突き付けられているように思いました。

ちょっと違うのですが私にもほろ苦い思い出があります。

霍先生が「私は子供だったので説明してくれる拳譜の内容がよく理解できなかった。だから練習に励むしかなかった。」と言われた時「中国語も中国文明も判らない僕も子供みたいなものですねぇ」と返事をしました。
その時霍先生が横を向いて少したってから、独り言のようにボソッと「そんなこともないんじゃないか」と言われました。霍先生の普段のしゃべり方からすれば「そんなことはない!何故ならば・・・」ととなるところなのですが、この時は「何故ならば」と言う理由の説明はありませんでした。
想像にする「コイツが戴家拳を身につけるのは無理だなぁ」と内心思われたのではないかと思います。

初回の訪中時は五行拳まで教えてもらったのですが、帰り際に「五行拳は無理でも丹田功から引気法までは続けるように」と少し寂しそうに仰られました。

霍先生の予想はある意味あたっていたのですが、なりふり構わず色々考えたので、当初の自分の予想を超えて戴家拳に対する理解は深めることが出来たと思っています。

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