櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

バッハの風、音楽、踊り

2017-01-15 | ダンスノート(からだ、くらし)
きのう土曜日のレッスン後半でバッハのインベンションを踊ってもらった。ハ短調。
何カ月もかけて少しずつ練習してもらううち、気がつけば何かが溢れそうになってきている。奔放になってきている。というのか。バッハから風がきこえる。
それを見ながら、音楽とカラダが語りかけあっているように思った。

僕らは音楽を耳できくのに慣れている。比べて、カラダできくのは時間がかかる。しかし時間をかけて鼓膜の震えが全身に広がってゆくまで試行錯誤して動きこんでゆくと、音楽はある種のエネルギーになって何かを語りかけ始める。音と運動が溶け合おうとするとき、霊魂と霊魂もまた溶け合おうとするのだろうか。

インベンションは創意工夫という意味だが、バッハは楽譜の出版に「探究され発見されるべき曲想」という言葉を添えた。溢れ出る何かを感じ見つけて欲しい、という気持ちがバッハのインベンションには満ちていると思う。

一人稽古をするとき、僕自身もこのバッハのインベンションはよく練習する。次いでベートーヴェンを練習することも多い。ワルトシュタインやテンペストなど、奔流する音に無心についてゆくとき、からだのあちこちが洗い流されてデフォルトされてゆくように感じる。
からだを白紙に戻す。
それは音楽のもつ、とてつもない力だ。

音楽に身を任せ動いていると、もっともっと、という気持ちが熱のようにカラダの芯から滲み始めて止まらなくなる。この、もっと、っていう気持ちを促す力が音楽にはあるようだ。

もっと熱して、もっと震えて、もっと求めて、と色々な「もっと」をきくうちに、トドのつまり「もっと、すなおに」としか言いようのないところに当たる。いや本当はそれもない。言葉が消える。

そこに当たると、ヘタとか上手いとかを越えて、たとえ動きがスムーズでなくても、踊りがカラダを動かしはじめる感じが来る。そこに当たるまでやらないと、いくら動いても心に何かが届かない。動けど、踊らず。

音楽の底にある「もっと」の気持ちを感じ取ることは、熱の感覚かもしれないが、これは踊りの醍醐味だと思う。振付をしたり教えたりしても、踊っている人に、この音楽が好きになったと言われるのは、とても嬉しい。もっと、こんな風に踊りたい、と言われと、また嬉しい。そこから、同じ音楽を感じあっている感覚が始まる。対話も変わる。

もっと深く、もっと丹念に、もっと正確に、もっと誠実に、もっと深く深く深く、、、。

空間の広がりのなかに、時の深まりのなかに、ともに在ること。

音楽は作曲家が希求した魂の姿を、もっと、という「求めの衝動」で身体に開示するように思う。音楽に揺さぶられ、シンクロ二シティを求めてゆくダンスの練習は、魂を呼吸する作業とさえ思えてくる。

沢山の曲があり曲ごとに異なる調べがあるが、それでも、これは誰の曲だとスグわかるのは、その人の音楽に通底する独特の「もっと」があるからではと思う。生を生きた魂の声が一人一人、はっきりとあるように思う。踊りながら、それを聴きとめた時、誰かの魂と出会えたという歓びが、確かに湧く。新しい風をくれる。

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