宮尾登美子
出版社:中央公論新社
京都は西陣に、織物を美術の域まで高めた男がいた。
芥川龍之介が「恐るべき芸術的完成」と評した“龍村の帯”で知られる龍村平蔵。
安物の帯地の行商から始め、やがては法隆寺の錦の復元に成功した伝説の工芸家をモデルに、美にとりつかれた男の生涯を描いた小説である。
主要な登場人物は4人。龍村平蔵をモデルとする吉蔵、曲尺(さしがね)屋から嫁にきた地味で我慢強い妻、芸妓(げいぎ)出身のけなげで可愛らしい妾。
ここまでは正統的な人物配置といえるが、作者はここにもう一人の人物を配する。
主人公のもとで献身的に働く、仙という女。骨太で濃い眉の、がっしりした大女である。
仙は15歳のとき、美男の吉蔵にひと目惚れし、一生そばで仕えようと決心する。
妾宅の世話をし、そこに生まれた子供の面倒まで見るが、それはひとえに自分の恋心のためだ。不器量な女が恋しい男の近くで暮らすためには、役に立つ存在になるしかないと割り切って、妾に尽くすのである。
しかしただ一度、嫉妬が表立つときが来る。妾が病死した際、仙はわざと吉蔵に伝えなかった。三七日(みなぬか)近くなってそれを知った吉蔵は、仙を殴り足蹴にする。
<最初の罵声以外、叱声のない折檻を無抵抗で受けているうち、仙は一種得もいえぬ清涼感の立ってくるのをおぼえた>と作者は書く。
それが怒りであったにせよ、このときはじめて仙は、吉蔵からまっすぐで強い感情を、
身体ごとぶつけられたのである。愛されない女の壮絶な悲しみと、それでも好きな男のそばで生きることの幸福とが鮮烈に描かれた、鳥肌の立つようなシーンである。
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上記は、ノンフィクション作家・梯(かけはし)久美子氏の文章である。
この評を読まずに、いきなり「錦」を読んだとしても、梯氏のような、
きりっと纏めた文は書けなくても、恐らく作者の創作であろうと思われる仙という女に
惹かれた感想をわたしも書いたことだろう。
宮尾は、あとがきに、構想30年と告白し、そして難関の最たるものは、
伝記と小説の難しさといい、私は私の龍村平蔵を独自に構築してゆかねばならなかったと述べている。
正倉院裂といわれる錦のかけらの話が中でも圧巻だ。
小さいのは小指の先くらいのものから、大きな裂(きれ)は、てのひらまでのボロ屑と
思える小山の裂に、一千年以上を経た文化が息づくくだりには、しばし目を閉じ溜息さえもれた。
さて、話は仙に戻るが、仙という女は決して醜くはない。
少しばかり男にとって女としての「華」に欠けたとこではないかと思うのだけれど、
吉蔵が人生を賭けた絢爛たる錦織りへの執念を縦糸に、この仙を横糸としてからませ
なければ、ただの平たんな小説に終わったのではないかとさえ思えるほどに、
この仙の存在はずっしり重い緞子の、まったりとした漆黒の光彩を放っている。
最後に、ほのぼのと空が白んで来たとき、扉がそーっと開いて吉蔵をひとりで見取った
妻のむらが、あらわれる。
それまで庭で立ちつくしていた仙に「いまからわて、ちよっと母屋でやすみますよって、
あんた旦さんとしっかり名残を惜しみやす。わてが許しますさかい、遠慮はいらん」と
告げたあとからの展開には、多分、男には生涯理解しがたい、女たちの懐の深さに、
思わず嗚咽が漏れてしまった。
★★★★★