ボチボチかめさん

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日本のこと 日本人のこと

会津人 柴五郎 最終章

2009-07-10 00:26:28 | 図書館
このあたりは自分の頭の整理のために書いています。

第14代将軍・徳川家茂が病死。徳川慶喜が第15代将軍となる。
孝明天皇36歳の急死により16歳の明治天皇が第122代天皇となる。

岩倉具視(いわくらともみ)は明治天皇の祖父である中山忠能(なかやまただやす)と、たくみに親交を深め
1867(慶応3)10月14日に徳川幕府を倒す密名の命令書を明治天皇からもらう。
(しかしこの勅命(ちょくめい)は、本当に明治天皇がかいたものか不明)

この倒幕の密書を受け、薩摩藩の西郷、大久保、長州藩の品川弥二郎 倒幕の戦を始める準備にかかる。
同じ1867(慶応3)10月14日、徳川慶喜、幕府をなくして政治を朝廷に返す「大政奉還」を宣言する。

武力討幕派にとっては、戦が始まる前に消えてしまい、慶喜の大政奉還は
さぞや肩すかしを食らった感じであったでしょう。

同年、12月9日、京都御所で慶喜に将軍職だけでなく800万石の領地の返上させることが決まる。
返上しないなら朝敵として討つことが決まる。
慶喜を怒らせ戦に持ち込むことが狙いである。

坂本龍馬の暗殺が1867(慶応3)の11月15日。
慶喜が大政奉還した以上、武力討幕の理由は龍馬にはなく、むしろ平和路線で
新政府の樹立を画策していたと思われる。

と、なると討幕派にしてみれば、龍馬の存在は目の上のタンコブで、邪魔な存在にほからならい。


柴五郎は、このことについては一行もふれてはいないが、龍馬を斬った相手が誰であろうと
暗殺命令を下したのは、西郷、大久保あたりではなかったのか、、と
今になってぼんやり考えている。

薩長の思惑とおり幕府から戦を始め、1868(慶応4)の1月3日。「鳥羽・伏見の戦い」が始まる。

慶喜と容保がするりと入れ替わり、朝廷に刃向ったわけではない会津が朝敵とされ
征伐されるという理不尽な話である。

当時の「会津人」たちの想いは、今の「会津人」においてどうなのだろう。


遺書の中に、薩長両藩の出身者に対して、激しい口調の言葉が沢山でてくる。

一部の心なき「軽る者」が権力の座につき、折り目正しい会津の教育を受けた柴五郎少年の
澄んだ目を通して映った時代の有様を、これだけ大胆率直に語った資料はあるのだろうか。

成人した五郎は、その後 長州が主流の陸軍に入り、複雑な感情もあっただろうが、
日清・日露・第一・第二次大戦を生き 昭和20年12月に亡くなっている。


現代に生きるものとして柴五郎の遺書からなにを学べばいいのだろう。

戊辰戦争を通じて戦争の本質を直視し、そこから歴史の見方、国家や指導者のあり方
自分自身がどう生きるかという問いに直結し、日本人としての見事な生き方を見せてくれた
柴五郎の心の継承こそが大切なことなのだと思う。

開国は必要だったと思う。維新というキラキラしたものに映っていたものが
60にもなって歴史から突き放され、自分は今まで何を生きてきたのかなぁと尽々思う。
わたしの稚拙な文章では、とてもこの本の本質を説明できません。書くことができません。


「他藩もおおむね同様なりしと思わるるも、徳川三百年の封建の体制は、公私を問わず、
その組織と生活とをすみずみまで厳格に律したるも、余ら、幼き者にとりてさえ、
さして窮屈の感なし。その体制に添うがごとく 幼児より訓育されたるためと思われる」

とても心に響く言葉です。

『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』 石光真清著(中公新書)




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