柴五郎の遺文を薦めたのは、櫻井よしこ氏だ。
新書本で、さして厚くはないのだが、読み終わるまで相当の時間を費やした。
何故かというと、少なくとも わたしが思っていたあの明治維新の裏に、本書の内容のような
一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件があったことを
今日まで具体的に伝えられず隠されていたこと自体に強い衝撃を受けたからに他ならない。
幕末から維新にかけて権力者が交代し、新政府が威信を誇示して国民を指導するために、
歴史的な事実について多少の修飾を余儀なくされたとしても、これは酷すぎるのである。
わたしは深刻な驚きと歴史に対する疑惑、歴史を左右する闇の力に怖れさえ感じる。
日本の歴史に関しては、つくる会が編纂した歴史教科書を信用しているが、
この教科書に再度目を通したのだが、ここにも書かれてはいなかった。
五郎は遺文が本になることなど考えてはいなく、10歳の少年の目を通して見た戊辰戦争を通じて
柴家の人びとの弔いにと、自分が亡くなった後に菩提寺に埋められることを願いって書いた綴りものだ。
青森県の地図を開くと、東にマサカリの形をした下北半島、西に津軽半島が突き出ている。
この二つの半島にかこまれているのが陸奥湾だ。野辺地(のへじ)は下北半島のつけ根の一番奥にある。
野辺地についた会津藩の人々は、さらに北へ北へと歩くと田名部(たなぶ)の町があり、
火山灰が降り積もった荒地がある。ここに23万石の会津藩は「朝敵」とされ征伐され、
下北のわずか三万石の斗南(となみ)の地に国替えとは聞こえがいいが、「国流し」となるのである。
会津藩は、今の福島県の会津地方を領土としていた藩だ。
徳川時代に三代将軍・家光の弟の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩23万石の領主となり、
保科正之のあと、九代の松平容保(まつだいらからもり)までつづく。
三代の正容(まさかた)のとき、保科から松平に姓が変わっている。
第九代松平容保が藩主になったのは17歳のときである。
京都の町は天皇を頼りにして、外国を追い払う尊王攘夷の中級、下級の武士、商人、町人たちであふれている。
やがてこの人たちが幕府を倒せと叫ぶようになり、京都で殺し合いがつづくようになる。
この京都の平安を守るために、徳川幕府と深い親戚である会津藩が、「京都守護職」の任を幕府から命ぜられる。
会津藩は京都から遠く、守護職となれば京都まで大勢の藩士を連れて行かなければならず
それにたいへんなお金もかかる。
さらに尊王攘夷を叫ぶ志士たちが暴れている京都を守ることに
万が一にも失敗すれば、朝廷にも徳川幕府にも迷惑がかかることになる。
このように考えて容保は断るのだが、執拗に説得され1862(文久2)に引き受け
藩士二千人を引き連れて京都に向かうのである。
幕府と朝廷を守っていた会津藩が、なぜ朝敵にならないといけないのか。
柴家の人びとだけではなく、会津落城後の本州北端の青森県下北半島に移され、
餓死地獄の生活をつぶさにつづられた箇所を読むと唖然とするのだ。
このような暮らしに現代人は、一週間も耐えたれないだろう。
「明日の死を待ちて今日を生くるはかえって楽ならん。死は最後の手段になるぞと教えられるしこと度々。
まことにその通りなり」
「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、
生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、
父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、
生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、
少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。
遺文より引用 つづく
新書本で、さして厚くはないのだが、読み終わるまで相当の時間を費やした。
何故かというと、少なくとも わたしが思っていたあの明治維新の裏に、本書の内容のような
一藩をあげての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件があったことを
今日まで具体的に伝えられず隠されていたこと自体に強い衝撃を受けたからに他ならない。
幕末から維新にかけて権力者が交代し、新政府が威信を誇示して国民を指導するために、
歴史的な事実について多少の修飾を余儀なくされたとしても、これは酷すぎるのである。
わたしは深刻な驚きと歴史に対する疑惑、歴史を左右する闇の力に怖れさえ感じる。
日本の歴史に関しては、つくる会が編纂した歴史教科書を信用しているが、
この教科書に再度目を通したのだが、ここにも書かれてはいなかった。
五郎は遺文が本になることなど考えてはいなく、10歳の少年の目を通して見た戊辰戦争を通じて
柴家の人びとの弔いにと、自分が亡くなった後に菩提寺に埋められることを願いって書いた綴りものだ。
青森県の地図を開くと、東にマサカリの形をした下北半島、西に津軽半島が突き出ている。
この二つの半島にかこまれているのが陸奥湾だ。野辺地(のへじ)は下北半島のつけ根の一番奥にある。
野辺地についた会津藩の人々は、さらに北へ北へと歩くと田名部(たなぶ)の町があり、
火山灰が降り積もった荒地がある。ここに23万石の会津藩は「朝敵」とされ征伐され、
下北のわずか三万石の斗南(となみ)の地に国替えとは聞こえがいいが、「国流し」となるのである。
会津藩は、今の福島県の会津地方を領土としていた藩だ。
徳川時代に三代将軍・家光の弟の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩23万石の領主となり、
保科正之のあと、九代の松平容保(まつだいらからもり)までつづく。
三代の正容(まさかた)のとき、保科から松平に姓が変わっている。
第九代松平容保が藩主になったのは17歳のときである。
京都の町は天皇を頼りにして、外国を追い払う尊王攘夷の中級、下級の武士、商人、町人たちであふれている。
やがてこの人たちが幕府を倒せと叫ぶようになり、京都で殺し合いがつづくようになる。
この京都の平安を守るために、徳川幕府と深い親戚である会津藩が、「京都守護職」の任を幕府から命ぜられる。
会津藩は京都から遠く、守護職となれば京都まで大勢の藩士を連れて行かなければならず
それにたいへんなお金もかかる。
さらに尊王攘夷を叫ぶ志士たちが暴れている京都を守ることに
万が一にも失敗すれば、朝廷にも徳川幕府にも迷惑がかかることになる。
このように考えて容保は断るのだが、執拗に説得され1862(文久2)に引き受け
藩士二千人を引き連れて京都に向かうのである。
幕府と朝廷を守っていた会津藩が、なぜ朝敵にならないといけないのか。
柴家の人びとだけではなく、会津落城後の本州北端の青森県下北半島に移され、
餓死地獄の生活をつぶさにつづられた箇所を読むと唖然とするのだ。
このような暮らしに現代人は、一週間も耐えたれないだろう。
「明日の死を待ちて今日を生くるはかえって楽ならん。死は最後の手段になるぞと教えられるしこと度々。
まことにその通りなり」
「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、
生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、
父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。
「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、
生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、
少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。
遺文より引用 つづく