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東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神様に聞いていただく3つの祈り方

2019-11-06 08:40:08 | 文章

兄弟姉妹の皆さん:

主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。

主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなくてはならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中では、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです。

私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を与えて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです。

恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエスが現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえエホバの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです。

私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです。

祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来たならば、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです。

律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

すべての栄光が神様にありますように。

 

カトリックの信仰:主は本当に再臨された

2019-11-02 14:00:41 | 文章

レンシー(米国)
私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。

「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。
その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。
「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。
その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。
「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)
私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。
「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」
私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。
ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。
「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」
ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。
「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」
この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。
「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」
私はこう思った時、気持がとても楽になりました。
その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。
「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」
私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。
「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。
「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)
「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。
「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」
私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。
リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。
「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」
神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。
「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」
これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。
「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」
ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)
「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)
ヤン兄弟は言いました。
「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」
神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。
「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」
私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。
その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。
編集者注 このエッセイを読むと、今日の教会がすべてひどく荒廃している理由、そして私たちはどのように主の再臨をお迎えするべきかがついに理解できました。私たちは、本エッセイの主人公が成し遂げたように、忠実な兄弟姉妹のすべてが聖霊の働きを受け、神様の足跡を辿ることを私達は願っています。では、私たちはどのように注意して主の再臨をお迎えするのを待つべきでしょうか。 (待つ―主の再臨をお迎えするにはどのように目を覚まして待つべきか?)」と題した素晴らしい映画からの抜粋をお勧めします。

 

私のいのちが幾許も事態に神はその御手で私を御救い下さりました

2019-10-28 20:16:49 | 文章

神に救われなければ 今もさまよっていただろう

もがき罪に苦しんで 虚しく、望みもなく

神に救われなければ 悪魔に踏みにじられて

罪の快楽に溺れ 先のこと考えもせずに

全能神に救われ その言葉に清められ

罰と裁きにより 堕落した心も変わり

明かされた真理で 新たな生命下さり

目の前の神を見て 真実の愛を知る

ようやく気づいた 神の愛のお守り

神の声を聴いて 玉座へ引き上げられ

婚宴を楽しもう 完成され、清められ…

(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)

私は、この讃美歌を耳にする度に、いつも深く感極まる思いになります。もし、この讃美歌が歌うように神から御救いいただいていなければ、私は依然として当ても無く世界中をさまよい、お金を追い掛けて疲れ果て、ずいぶん前に自分の命を失い異国の地で死んでいたかもしれません

私は80年代にごく普通の農家に生まれました。私の兄は幼い頃からいつも体調が悪く病気を患っていました。私の父は私が10歳の時、事故で怪我を負って、その後2年間は体がまひしていました。私の家計の状態は元々厳しく、父の治療で膨大な借金を抱えてしまいました。私達の友人と親戚は私達が借金の返済が出来るようにならない事を懸念して、私達にお金を貸そうとしてくれませんでした。私は、どうすることも出来ずに、16歳の時に学校を中退し実家を出て働くことを余儀なくされてしまいました。 深く静まり返った夜、私はよくこう思いました:“自分と同じ年の子供達は幼かった時、放課後になると自分が畑仕事をしている間自由に遊びまわっていたよな。でも今あの子達は自分と同じように大きく成長してからも未だ学校に通ってるし、親といる時は甘えん坊みたいに振る舞っているのに、自分は家族のサポートをするために若くして仕事を始めて、沢山しんどい思いをする羽目になるなんて…” 当時、私は自分の両親に何で私を生んだのか、何で私は苦しみながらあくせく働くためだけにこの世に生まれてきたのかと文句と言ったことがありました。しかし、私がこれに対して出来ることは何もなく、この現実を受け入れる他ありませんでした。当時、私は一生懸命働き、収入を得て、両親が快適に暮らせるようにして、他人から見下されないようにする事を何よりも望んでいました。

私は最初、民間のアルミ合金工業で働きました。私は児童労働者であったため、上司はいつも私の食事や住宅の事で面倒を見てくれました。1年が過ぎた後、私は自分の賃金は低すぎると感じ、誰もやりたがらなかった家具工場でのラッカースプレー作業に就く選択をしました。当時私は、どんな仕事でももっとお金を稼げるなら法に触れない範囲で働きました。私の目標は、また貧乏人の生活を送る羽目にならないよう金持ちになることでした。その後、親戚が仕事で海外に行ける機会を提供してくれる会社に私を紹介してくれたのです。私は数年後に海外に行けるなんて考えてもいませんでした。

2012年の春、私は日本に来て新生活を始め、自分の願いを叶えました。私は造船業界で、見習いとしてある企業と3年間の契約を結びました。仕事を始めた時、私はくたくたになり、大変な思いをしました。料理の仕方を知らなかった私はカップヌードルを1か月間食べ続けた後、吐き気がして食べれなくなったので料理を学ばざるを得なくなりました。私は芯が残った米を何日食べたか見当もつきません。 日本では、私達は外国人であったため、企業で働く作業員が不公平な扱いから逃れることは容易ではありませんでした。私達は企業から汚くて、しんどくて、危険な仕事をさせられていました。ラッカ―のスプレー作業をしていた時は、非常に怖い思いをしました。なぜからガスが火に触れると発火してしまい、一瞬でも目を離したら命が危ないからです。しかし、私生活で苦しんだり、職場が危険であったとしても、もっとお金を稼いで家族に仕送りをする事を考えたり、帰国してたら車と家を購入して、他人よりも上に行ってもう貧乏にならなくて済むことを考えるている内は当時の苦難はさほど大したことではないと感じました。そこで働きながらあっという間に3年が経ち、私のビザは有効期限が近づいていました。この企業には契約更新のポリシーがあったので、私はもっとお金を稼ごうと契約を更新して日本で働き続ける選択をしました。予想外に嬉しかったのは、契約を更新して直ぐに全能神の神の国に関する福音に巡り合うことが出来たことでした。

2015年9月、私が日本で知り合った友人が終わりの日における神の働きについて語ってくれたのです。彼女が神への信仰について話してくれていた時、私はこれは単なる信念の一種であり、興味深いことだとは思わず、神を信仰しても私の運命は変わらないと感じていました。そして直ぐに、私はこの友人に自分の考え方と今まで絶えてきた苦難について話した後、彼女にこう聞きました:“神を信じると運命を変えられるの?今まで沢山辛い経験をしてきたから、私は運が悪いんだよね。でも、お金があれば、辛くなくなるだろうから、今一番現実的なのはお金を稼ぐことなんだ。自分が神を信じることはないと思うよ。” 私がこう言ったのを聞いた友人は、神の御言葉のこの箇所を私に読んでくれたのです:「あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、『創造主の権威は超越不可能である』という知らせを伝えないもの、『創造主の権威は至高のものである』という恒久の真理を伝えないものは存在しない。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)これを聞いた後、私はこの御言葉はとても道理になかっていると感じ、更には自分が契約の更新が出来たことも、神が御用意して下さったものであるように考えずにはいられなくなりました。これには自分が生まれた家庭や自分の家族との生活は選択の余地がなかったのではないかとまで考えさせられました。私は、支配権を握る主権者がどこかにいるのではないかと感じました。

私の友人からは、『言葉は肉において現れる』の「唯一なる神自身III」における神の御言葉も読むように促され、それには人が人生を通して経験する必要のあるこの6つの節目について書かれていました:節目1 出生:節目2 成長:節目3 独立:節目4 結婚:節目5 子孫:節目6 死。私は神の御言葉を読んで唖然としました。私は、神が人類の運命についてこれほど明確に語られているとは思ってもおらず、現実は正に神の御説明通りだったのです。一般的な環境において、人はその人生を通してこの6つの節目を経験することになるのです。私は世界中には苦しんでいる人達が沢山いて、自分だけではないという事について考えました。もし人々が自分の運命を選択することが出来て、それをコントロール出来たとしたら、皆が大きく豪華な家に住むことを選び、貧困や苦難で苦しむ人々が存在しているでしょうか?実際には、人がどの家庭に生まれるかを選択する余地などはなく、どんな両親を持つかを選択することも出来ないのです。大人になった後、どの旦那や妻と一緒になるかも私達次第で決まることはないのです。。。私はこれについて考えれば考えるほど、増々神の御言葉が現実的だと感じるようになり、それから全能神の御言葉を心の中で信じ始めたのです。運命は自分で変えられるものではないのです。それ以降、私は神への信仰に増々興味を持ち始め、神の存在を信じ、人の運命は人がコントロールし得るものではないと信じるようになったのです。しかし、神についてあまり知らなかった私は、神をとても遠い存在に感じました。しかし、私は、その後すぐの体験の中で “神は私のすぐ側で、私のことを見守って下さっており、保護して下さっておられる”と実感したのです。

ある雨降りの日、私はいつも通りに職場に着きましたが、まさか大惨事が自分を狙って忍び寄っているとは思いもしていませんでした。午前10時過ぎ、私が現場で勤務中に突然 “ドカーン” と鳴る音がしたのです。私は一体何が地面と衝突したのか分かりませんでしたが、恐怖のあまり体がひんやりゾクッと震えました。振り返ると見ると、直径40センチで長さ4メートル、重量が0.5トンもある鉄パイプがクレーンから落下していたので呆然としてしまいました。それは私が立っていた場所から0.5メートル以内の所で地面に落ちたのです。その瞬間、私はあまりの恐怖感で開いた口が塞がらず、ショックから落ち着きを取り戻すのにも時間がかかりました。私は心の中でこう続けて叫びました:“神様、有難うございます!神様、有難うございます!” もし神がそこで私のことを見守りながら保護して下さっておらなければ、あの鉄パイプは私に向って真っすぐ落下し、私の小さないのちは終わりを迎えていたことでしょう。

仕事が終わって、私が兄弟姉妹達にその日起こったことを話していた時、彼らはそれは神の御加護であったのだと言って話してくれたのです。彼らは私に全能神のこの御言葉も読んでくれました:「基本的に、長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇します。これは、あなたの傍らには、常にサタンが存在し、あなたを見据えているからです。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、何事もうまくいかなかったりすることを喜び、また、あなたがサタンの罠にかかることを喜びます。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難からあなたを守ります。これが、平安や喜び、祝福、身体の安全など、人間が持つものは、実際のところ全てが神の支配下にあり、神が各人の人生と運命を導き、決定する、とわたしが言う理由です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より) 私は神の御言葉を読んで、人々は毎日サタンの罠の中を生きており、残酷なまでに傷つけられているのだと理解しました。神による御見守りと御導きを受けていなければ、人々は随分前にサタンに飲み込まれていたことでしょう。長年の間、私は何度神に見守っていただいた事があったのかは不明ですが、今までずっと神のことを知らなければ、神を敬うことも知らなかったのです。私は本当に全く何の良心も持っていなかったのです。その瞬間から、私は神の御救いの恵みについてより深く理解出来るようになりました。私が今日まで生きてこれたのも、神の愛情こもった御手が私を御導き下さっていたおかげで、私は心からそれを神に感謝しました。また、私は今後、神に従うために自分が出来ること全てを行う決意をしました。それ以降、私は頻繁に兄弟姉妹達と一緒に集会に参加し、普通の教会生活へと移行し、私の生活に少しずつ変化が表れ始めました。すると私はもう以前のような切望、苦しみ、虚しさを感じなくなったのです。私達兄弟姉妹は共に神の御言葉を読んで交流し合い、神を讃える讃美歌を歌い、心に自由と解放感を感じながら霊的生活の中でお互いを助け合っていました。私を見下したり、貧乏人を軽蔑したり、金持ちの機嫌を取るような人はこの中に独りもおらず、私は威厳を以て生きて行ける気になりました。私は、この全能神教会の大きくて、温かくて、恵まれた家庭で暮らしていると、以前よりも大きな幸せと満たされた気分を味わうことが出来たのです。

ある日のこと、私の勤めていた会社にいたある日本人に事件が起きました。彼はその会社の永年勤続者で、既に10年を超える勤続経験を持っていました。彼は安全意識においても、テクノロジーにおいても非常に優秀な人でした。その日、彼は勤務中にリフトトラックを運転していたのですが、それを地上20メートルの位置に上げたまま他の作業をしていました。運転中に、彼は注意不足でトラックから液化ガスを自分に漏出させてしまったのです。同時に他の作業員が彼の上で溶接作業を行っており、突然火花が彼の服に落ち、漏出した液化ガスが火花と接触した瞬間、それが突然炎上して火事が起ってしまったのです。 多くの作業員達はこの年配の作業員がその場で炎に包まれるのをただ呆然と見つめる以外にどうしようもなく、何もしてあげる事が出来なかったのです。彼を助けられる人を探しに行くのは既に手遅れで、数分の内に彼は焼死してしまったのです。この悲劇を見て、多くの人が彼を気の毒に思いましたが、自分達の命について、“私達は結局何のために生きているんだ?”と考えずにはいられませんでした。こんな悲劇がすぐ側で起こった事を踏まえ、私は、神から離れて神の御見守りと御加護を失ってしまったら、人の命は常に保護されていない状態にあるのだと正しく理解出来たのです。人は災難の前では非常に小さな存在であり、容易に潰れてしまい、人の専門性がどれだけ優れていても、どれだけ金持ちであっても、自らを救うことは出来ないのです。

後に、私は神の御言葉のこの1節を読みました:「創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。」 (『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より) 私はこの神の御言葉を読んで深く動揺しました。人々の魂は神から来るもので、それは人類の世界に入り込むよう神によって運命付けられているのです。しかし、人々はそれでも神を信仰して敬おうとしないのです。彼らは創造主である神の権威を体験する機会を大切にせず、金、名誉、親族のためだけに生きることしか知らないのです。彼らは皆、自分達の運命の采配を振り払おうと精力的に走り回り多忙にしていますが、人々はこういったものを求めて一体何を手にすることが出来るのでしょうか?死が差し迫っている時に親戚、名誉、富の内いったい何が命を救ってくれるのかと、考えた事がある人はいるのでしょうか?私の年配の同僚の死について考えてみてください、これはこの事実を示す最良の実例だと言えないでしょうか?私が以前追い求めていた事を振り返ると、私も同じ事をしていたと言えないでしょうか?海外に出稼ぎに行った時、貧乏で恥をかきたくなかった私は、お金を稼いで人から高い評価を得るためなら汚くても、しんどくても、危険でも、仕事なら何でも引き受けていました。 私はありとあらゆる苦難を通ってきましたが、この生き方を変えようと思ったことは一度もありませんでした。私は同じ道をずっと歩み続けていたのです。心の中で、私は神の存在を知らず、人の運命は神の手中にあることも知りませんでした。私は自力で自分の運命を変えようとし、自分の人生において既に運命付けられている神の御計画と御采配から懸命に逃れようとしていたのです。私が歩んでいた道は没落に繋がる道だったのではないでしょうか?神の御救いを受けていなければ、また神の御見守りと御加護がなければ、わたしのちっぽけな命はとっくの昔にサタンにもぎ取られていたことでしょう。さらに言うと、私の人生がどうやって今ほどに充実感のある有意義なものになり得たでしょうか?この瞬間、私は、生きることの意味は富や名誉を求めたり、人から高い評価を受けるために他の人よりも出世することでもなく、むしろ神の存在の中に自ら入り込み、神を敬い、神の御救いを受けてサタンの害から抜け出すことなのだとやっと分かったのです。 このように考えれば考えるほど、私は増々深く感動してしまいます。私は、自分は神を信じることが出来ると言うこと、そして、これは神が特別な御恵みを以て私を御扱い下さったおられるということが分かるようになったのです。私は心に抱く神への感謝の意をどう表現してよいのか分からないので、代わりに“神に救われていなければ”という讃美歌を学んで、神への称賛を示し、全能神に私を御救い下さったことを感謝しました。

リン・ウー(日本)


宗教界の各宗派はそれぞれの道が真理の道であると信じている。真理の道を偽りの道からどのように区別するのか。

2019-10-17 22:13:25 | 文章
神の御言葉による答え:
真理の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真理の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。…もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。…もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。
『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より



中国における終わりの日のキリストの出現と働きの背景についての概要

2019-10-08 17:48:17 | 文章

中国は赤い大きな竜が棲む地であり、有史以来、神が最も激しく拒まれ、非難されてきた場所です。中国は難攻不落の悪魔の砦のようであり、悪魔に支配されている脱走不可能な監獄のようなものです。その上、赤い大きな竜の政権は、あらゆる行政階層において警戒を強化し、各家庭において防衛手段を講じています。その結果、神の福音神の働きの実行が中国より困難な場所はありません。中国共産党が政権を得た1949年、中国本土の宗教的信仰は完全に弾圧、禁止されました。数百万名にのぼるキリスト教信者が公に屈辱と拷問を与えられ、投獄されました。全ての教会が完全に封鎖され、一掃されました。家庭における集会さえも禁じられました。集会に参加しているのが見つかると、参加者は投獄され、斬首されることもありました。当時、宗教的活動は、ほぼ跡形も無く消え去りました。ごく少数のキリスト教信者が神への信仰を続けましたが、ただ黙って神に祈り、心の中で賛美歌を歌い、教会の復興を神に嘆願することしか出来ませんでした。ついに1981年、教会が本当に復活し、聖霊が中国において大々的に働きを開始しました。幾つもの教会が雨後の竹の子のように現れ、多くの人々が神を信仰するようになりました。教会の復興が絶頂を迎えた1983年、中国共産党は新たに残虐な迫害を開始しました。数百万名が逮捕、禁固され、労働による再教育を受けました。赤い大きな竜の政権が神を信じる人に入会を許可したのは、政府が創設した三自愛国教会のみでした。中国共産党政府が三自愛国教会を設立したのは、地下組織のハウスチャーチ(家庭教会)を一掃し、主を信じる人々を政府の管理下に置くためでした。政府は、信仰を禁じ中国を神が不在の地とする目的を達成するには、その方法しか無いと考えたのです。しかし、聖霊はハウスチャーチと神を真に信仰する人々の中で働きを継続し、これを止める術は中国共産党にはありませんでした。当時、聖霊が働いていたハウスチャーチにおいて、終わりの日のキリストが働きを行なうため人知れず出現なさり、神の家を皮切りに真理の表明と裁きの働きを開始されました。

1991年2月初頭、教会にいたある人が聖霊の啓きを授かったかのように話し始める、神の御名と神の降臨を証しました。その言葉が各教会へと伝えられ、皆それを読んで大いに胸をときめかせ、喜びに溢れ、それが本当に聖霊の啓きであり御言葉であることを信じました。その時点から、キリストが語り始められました。キリストは御言葉を毎日一言だけ述べられる時もあれば、一日おきに一言述べられる時もあり、言葉を述べられるのが次第に頻繁になってゆきました。皆がその御言葉を広め、大いに心をときめかせ、集会は喜びに溢れ、皆幸福に満たされていました。キリストがさらに御言葉を表されるにつれ、神の御言葉を享受することに誰もが注意を向け、神の御言葉に完全に心を奪われました。それゆえ、集会のあいだに参加者は聖霊の現在の御言葉を正式に享受し始めました。当時、人々は神が受肉されたこと、それがキリストの御出現であることをまだ知りませんでした。人々はただキリストの表現なさることを、普通の人が授かった聖霊の啓きとみなしました。なぜなら、その表現において、キリストは神の受肉を正式に証ししておられなかったからです。受肉がどのようなものであるかを理解する者はおらず、人々はその御言葉が聖霊の啓きであることしか知りませんでした。したがって、人々は引き続きキリストを普通の人間として扱いました。キリストの話が絶頂に達した時に、初めて神はその受肉を証しし始められ、人間への聖霊の降臨と人間の中における聖霊の働きの相違点の説明を開始され、肉における霊の具現化の神秘を解き明かされました。その時初めて人々は、自分達と共に生活し、教会を牧し、必要なものを授けるために言葉を発していたその普通の人が受肉した神であり、キリストであり、出現した神であられることを知りました。これに気が付くと人々は皆、自分達がいかに盲目で、愚かで、無知であったかを憎み、キリストの御前にひれ伏して泣き、悔い改め、深い悲しみにより心を引き裂かれ、その泣き声がいたる所に響き渡りました。当時、人々の心は悲しみと喜びが入り混ざった、言いようのない気持ちで満たされていました。人々がキリストを見た時は、地にひれ伏すことしか知らず、そうしなかった場合は心に不安を感じました。キリストの御前でひれ伏す時、人々は喜びを感じ、自分たちは本当に神の御前に戻り、自分たちは神のものであると感じました。キリストは出現された後、さらに多くの御言葉を述べられ、神の御働きの正しい道に次第にお入りになり、神の家から始まる裁きの到来をお告げになりました。神の御言葉は人々を完全に征服しました。キリストが神の御名の意味を明かされたことにより、全能神の御名が現れました。したがって、人々は全能神の御名に直接祈り、集会時は全能神の御言葉を授かりました。なぜなら、御言葉(つまり『言葉は肉において現れる』の全ての御言葉)は神の現在の御働きであり、新たな時代の神の御言葉であり、人々が現在必要とするものだからです。神の新たな御働きと御言葉が存在するので、必然的に聖書は旧来のものとなり、そして当然ながら、恵みの時代の言い習わしや、理論に留意する者はいませんでした。あたかも天国が開くのを見たかのように、人々は全て神の現在の御言葉に征服されました。なぜなら、神があらゆる奥義を開示され、人間の目が開かれ、かつて恵みの時代に人々が固執していた言い習わしの大部分が観念であり、逸脱や誤りが含まれていたことを知ったからです。神の御出現のおかげで、神を信仰する正しい道を人々は歩み始めました。神の御言葉に征服された後に初めて、その神の御言葉を表した普通の人間がキリストであり、受肉した神であることを人々は知ったのです。

キリストは中国北部の一般家庭に生まれました。幼少時以来、キリストは心から神を信じていました。普通の人間と同様に徐々に成長しました。1989年、聖霊がハウスチャーチで大規模な御働きを行われていた時、キリストは学業を諦め、ハウスチャーチに正式に加わりました。当時、キリストの心は燃えさかり、神に仕えて自らの本分を尽くすことを熱望していました。その二年後、キリストは心の中の御言葉を書きとめ教会に授けることで、御言葉を発されるようになりました。その後、キリストが一層多くの真理を表されるにつれ、人々は御言葉に惹き付けられ、表された御言葉を読むことを渇望しました。とりわけ堕落した人間の性質の本質とサタンのような性質を暴いて裁く御言葉は、諸刃の剣のように人々の心を貫きました。その時に初めて、人々は神の御言葉により完全に征服され神の御前に跪き、その時に初めてキリストは人々に受け入れられ、知られ、崇められ、人類に崇拝され、愛され、貴ばれる実際の神になりました。キリストは正常な人間性と完全なる神性の両方を備えておられます。キリストは随時、随所にて真理を表し、人間の堕落の本質を暴くことがお出来になります。キリストの御言葉と識見は、主イエスと同様に、真理と知恵に満ちています。キリストが述べる御言葉やキリストが備えられていることは書籍から習得されたものでは無く、全てキリストが備えておられる神性の本質に由来するものです。キリストは神より生み出されました。キリストの生活において、人々は完全に正常な人間性を見ます。人間に対するキリストの御働きと忍耐強さから、人々はキリストの神性の本質と人間に侵されることのないキリストの御性質を理解します。主イエスと同様、キリストは人間性の弱さと神の御霊に対して従順な性質も備えておられます。キリストは真理と知恵に満たされており、それが心と言葉で完全に確信するように人々に霊感を授けます。キリストは名実ともに真理であられ、道であられ、いのちであられます。神は貧弱な一人の人として受肉され、人間のそばで密かに、慎ましく御働きを行われ、真理を表すことにより人間を征服し、敵を倒されます。キリストは遙か以前に完全に征服し、証しされ、宣言されました。それが神の全能性であり、知恵であり、栄光です。キリストの御出現と御働きの結果、全能神教会が誕生しました。その後、全能神教会の兄弟姉妹は神の御働きの証しに立ち始め、キリストの御国の福音を広める働きを開始しました。これが神の受肉と御働きを行われるために密かに神が降臨されたことの背景に関する概要です。簡潔に言えば、受肉されたキリストは赤い大きな竜が棲む地へと来られ、裁きと刑罰の御言葉を発せられ、中国における神の選民を征服し救われました。つまり、受肉された神は赤い大きな竜の棲みかでサタンと戦われ、人間を目覚めさせるために全てを捧げられ、人類に神の声を聞かせ聞分けるようにされ、それにより人間を神の御前へと連れ戻し、神により救われるようにされました。これは極めて希有な事であり、想像を絶するほど深遠な意味をもつことです。今回受肉された神は、人間を救う御働きを行われます。すなわち、神は人間の終着点を用意し、この時代の幕を閉じるために来られたということです。神は赤い大きな竜の棲む中国本土に来られ、深く堕落した人間を征服して救い、特定の人間の集団を勝利者として完全にするという御働きをされるために密かに到着されました。このことにより、終わりの日における大いなる白い王座の裁きが始まり、次の段階において世界各国および各地において神が公衆の前に出現されるための道が拓かれたのです。