東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神を信じる道で、良き方向への転換

2020-01-15 22:48:40 | 信仰と生活

長年、神に従ってきましたが、いのちの入りへの道で私はほとんど進展しておらず、これが私を非常に不安にさせていました。特に、いのちの入りに関する説教の録音で、聖霊がこの男性を使って、そこで説教を聞いてた兄弟姉妹に話しかけたという話を聞き、彼が「あなたがたは、今、神を信じており、真理を求める素晴らしさを味わってきました。あなたがたは正しい道を進み始め、あなたがたの救いを求める道は信頼感で一杯です。」というようなことを言ったのを耳にし、不安でいっぱいになりました。私は、「彼らは神を信じ始めて間もないのに既にいのちの入りの道に進み、救われると確信しています。一方、私は長年神を信じているのに、まだ真理を得ることができず、人生における私の性質は全く変わっておらず、正しい道に入ったかを気にしたことさえない。救いを得ると言うのは簡単だが、実行するのはそうたやすいことではない!」と考えました。私は、「真理が人間のすべての腐敗を解決すると、神はどのように話したのだろう」と考えました。私自身はこれを経験したことが全くなかったのです。真理は私以外の人の腐敗を解決しても、私のは解決しないとさえ感じ、真理や救いを求める道に対する信頼を失ってしまいました。私自身の状態が正しくないことに気が付いていましたが、そこから逃れる術はなく、神に助けを求めるより他に何もできないでいました。その後、神の言葉が私を啓き、なぜ、私が長年、神を信じながら人生に進展がなかったのか、なぜ、私の性質が全く変わらなかったかの理由を私に分からせてくれました。さらに、神は私が真理を実践し、いのちの入りへの道に促してくれました。

神の言葉は次のとおりです。「人間のいのちの成長と人間の性質の変化はみな、現実に入ることによるのであり、さらに、詳細な経験に入ることによるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より)「真理を知っているが、真理とはそれ以上の何ものでも無いと考え、その真理を実践しない者も居る。そうした者は、真理は自分の意志や腐敗を解消できないと考えている。こうした者は愚かではなかろうか。こうした者は、不合理ではなかろうか。こうした者は、自分が聡明であるという妄想を抱いているのではないだろうか。人間が心理に従って行動したならば、人間の腐敗した性情は変化する。人間が生来の人間性に従って神を信仰し、神に仕えたならば、性情が変化する者は一人として居ないであろう。終日自分の不安のことだけを考え、真理について調べ、既知の真実を実践することが出来ない者も居る。こうした行動は極めて不合理であり、そうした者は生来苦悶する者であり、祝福を得ていながらそれを享受しない者なのだ。」(『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より)神の言葉の啓示を通してのみ、私は、長年、神を信じてきながら私の性質に一切変化がなかったこと、そしてこれは、私が神の言葉を文字通り、理論的な意味において理解することにのみ集中し、理論上の理解でしかなかったことが主な原因であることに気が付きました。私は、真理を実践することや、現実に入ること、さらには、実践的な経験を通して神の言葉を体感することに意識を集中していませんでした。私が神を信じてきたこれまでの長い年月を思い返し、真理のどのような側面であろうと、それを深く理解したり、真理の性質を理解したりするために努力していませんでした。いわんや、真理の側面を理解するため、細かく実践するための道に入ろうとさえしていませんでした。そうする代わりに、理論上の知識や理解で十分であると考えていたのです。たとえば、実生活の中で、私は名声や利益を得るために常にもがいており、他者に自分の意見を聞いてもらい、自分を尊重し、自分が優れた人間であることを保証してもらいたいと考えていました。これらの腐敗が明るみに出ると、少しの間考え、私自身の腐敗を認め、これは私の傲慢さの現れ以外の何物でもないことを知りながら、神に祈りました。その結果、何度も、自責の念を感じ、神に懺悔をしたところで、私の昔から本性は変わることがなく、同じ過ちをいつまでも繰り返してきました。神が用意した環境で祈り、神を求めることにより、神がこの環境を使って私の腐敗に対処したことが分かるようになりました。このことを理解しても尚、神によるすべての試練や調整、そして神によるすべての私への対応やすげない態度は、神の救いであり、神の愛であり、神の心は常に善良であり、それ以外の何物でもないことを頭で認識するのみでした。その結果、いくつかの困難を経験したにも関わらず、私は全く変わらないでいました。あの男性の説教を聞いた後、私はこの交流こそ私が必要としていたものであり、これにより、私がこれまで理解することのなかった真理を理解することができるようになったと感じました。それにもかかわらず私が行なったことは、交流を頭の中で思い返すだけで、それに特に注意を払わなかったため、少しばかり理解したものも暫く経つうちに消失し、何も得ることができなくなっていたのです。

これらの事実に直面し、私は真理を全く求めていなかったと気が付きました。私は、長年神を信じていましたが、真理を実践したり、現実に入るための努力を一切したりしてきませんでした。そのため、長年、真理を得ることも、私の性質を変えることもできずにいました。これは、神の義なる性質の現れに他ならず、神はかつて次のように言っています。「神の言葉を実行できるよう、生かし出すことに全力を尽くさなければならない。もしあなたが教義上の認識しか持っていないなら、あなたの神への信仰は無意味なものになるだろう。もしあなたが神の言葉を実践し、言葉を生かし出すなら、あなたの信仰は完全であり、神の心と一致していると見なされる。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より)神は義なる存在です。神は誰も不公平に扱ったり、気まぐれに人に与えたりしません。ましてや、人に無条件に与えたりすることもありません。私は真理を実践せず、神の言葉に生きる努力をしませんでした。その結果、今日、巻いた種を刈り取らなければならないのです。今回、私はひどい自責の念にかられ、神の働きを経験しながら、自分からいのちの道に入らず、そして今日、私が信じるものに対して何1つ見せるものがなく、神の救いに則して生きていないことを激しく後悔しました。しかし、このような堕落した生き方は続けたくありませんでした。その代わりに、ゼロからやり直し、実践の中で努力し、神の言葉を自分自身の中で実行したいと思いました。

その後、私は、真理の実践と現実へ入るための訓練を始めました。もう私は、かつてのように、神に祈ったり懺悔をしたりするだけで、他者に自分の意見を聞いてもらい、自分を尊重し、自分が優れた人間であることを保証してもらいたいと思うことはなくなりました。代わって、真理を求めるために神の前に出て、特にこの問題と関連した神の言葉を飲食できるように探し、神の言葉による裁きや刑罰を受け入れ、この方法で私自身の腐敗を解決するようになりました。このようにして真理を実践し、いのちに入る時、神は、私が他人に私を先祖のように敬わせ、あるいは、神のように崇拝させようとし、神の性質と競っていたことを特別の恩寵により見せてくれました。私はその本性において悪魔サタンであり、その本質は、赤い大きな竜のそれと極めて近かったことを知り、無意識のうちに、自分自身の本性に不快感と嫌悪感がこみ上げてきました。その後、神を崇高な存在たらしめる真理、神に証言することに関する真理を学び、実生活の中では、いのちに入るための訓練を受けました。この実践を通して、私は高みに立とうとしていた自分の醜さや忌まわしさをさらに明確に認識し、人々にそれについて伝えました。私は自分自身をさらに嫌い、呪い、肉体を捨て、神に喜んでいただくために真理を実践したいと考えるようになりました。このようにして暫く訓練を受けた後、私の傲慢な性質が現れるのが著しく少なくなったことに気が付きました。

通常の対人関係では、寛容さや忍耐を発揮し、知恵を使い、信条を持ち、正直な人間なる必要があることを過去においても知っていました。しかし、実際にはこれら5つの側面に入ったことがなかったのです。そのため、兄弟姉妹と交流していると、つまらないことや彼らが露呈したいくつかの腐敗した性質により、彼らに対して偏見の念が湧き、彼らと仲良くすることができなくなってしまうことがよくありました。現在、過去に対する理解を実生活に活かし、訓練と実践を続けています。他者が露呈した腐敗した性質により彼らに不親切な態度を取ってしまった時は、神に祈り、真理を求め、私が遭遇したばかりの問題をどのように理解すべきか、どのように神の言葉を実践し、そこに入るべきかをたずねます。神の導きにより、現在、すべての人が変わろうとしていることを知っています。ですから、腐敗した性質が今後も露呈されることがあるでしょうが、その性質を露呈した人自身がそれに気付いていないか、彼自身の性質に無意識に支配されているのです。または、意図的に私に対してそのような態度に出ているわけではありません。これは、私が常に傲慢だった性質が他者をうんざりされていたにも関わらず、私自身が全くそれに気付いていなかったのと全く同じです。これはすべて、サタンが人に行なう害です。憎むべきはサタンであり、兄弟姉妹について人間が意見を持つべきではありません。このように考えると、私の内側に留まる怒りや恨みが瞬時に消え、サタンへの怒りに取って代わり、兄弟姉妹に対する共感や許しの気持ちが湧き、彼らを助けるために適切な機会を模索したいとさえ思うようになりました。自ら進んで他者を助けようとすると、彼らとの関係はずっと友好的なものになり、彼らを助けたことから得る幸福感を味わうことができました。

神の言葉に入り、真理を実践するために訓練をしていると、実践的な経験を得て、真理のあらゆる側面に入っただけではなく、神の素晴らしい働きも目の当たりにしました。神のリーダーシップや導きを感じ、真理を実践することにより私の心にもたらされた確かさ、平和、喜びを味わいました。人生において無意味なものは何もなく、毎日、学ぶべきレッスンがあり、毎日、新しい見方や理解があり、毎日、神が私を救ってくれるのを見ることができ、真理を感じ、これを求めることがとても有意義であり、真理は本当に人を救い、変えるものであることを実感しました。

この個人的な経験と理解を得た後、神を信じる私の道は良い方向へ転換されたと感じ、救いは私の手の届かないところにあると感じることはなくなりました。私が神と一緒に働き、今後も、真理を学び、実践し、これに入り続ける限り、私の腐敗した性質を必ず変えることができると信じています。神の働きは人を助け、神の言葉は人を変えると信じています。私はこれを既に味わったため、これを信じています。今日から、私は、大地にしっかりと足をつけ、真理を求め、実践していきたいと思います。私が神の証人となり、私を救った神の働きの証人となり、人を救う神の力の証人となり、神の素晴らしい偉業の証人となれるよう、真実の人として行動するために、神が今後も私を導き、私の性質を変えてくださいますように!

上海市 転変

 

自分の霊的背丈がはっきり見えた

2020-01-12 22:08:46 | 信仰と生活

ある時参加した教会のリーダーミーティングで、新たに選出された教会のリーダーの1人が次のように言いました。「私には十分な霊的背丈がありません。この本分を果たすのに、私は適任ではないと感じています。あまりにも多くのことにプレッシャーを感じ、ここ数日は眠れていません…」この頃、私は神様を求める中で重荷を感じていたので、彼女に話しかけました。「すべての仕事は神様によるものです。人間はほんの少しばかり協力するに過ぎません。私たちが重荷を感じるならば、もっと頻繁に神様の前に出て、神様に頼ることで、神様の全能さや知恵を知ることができるでしょう。私たちの仕事で重荷を感じるのは良いことです。けれど重荷が苦悩となるならば、これは障害となり、ネガティブな気持ちを招き、神様を誤解することにさえつながります。」神様のお導きにより、私は自分の伝えたことが特に彼女に光を与えたと感じました。この姉妹も、彼女の心に神様の居場所がいない状態になっていたこと、そして神様に頼るのではなく、自力で行おうとしていたことに気が付き、霊的に成長する道を見つけました。この時、真理のこの側面に対する現実を私が把握していることを証明し、姉妹の問題を解決できたと考え、非常に嬉しくなりました。
 
2ヶ月後、教会は私を異動させ、資料の編集にあたらせました。その仕事に携わるようになった当初、私はそれに関係する原則を理解しておらず、編集しなければならない資料を見るたび、消極的になって葛藤を覚えずにはいられませんでした。何も理解していないのに、この本分を尽くす責任だけでなく、これら資料の問題点を明らかにする任務さえ与えられたのです。私がこなせる以上の仕事でした。私は大きなプレッシャーを感じ、気持ちを落ち着かせることができませんでした。また、神様にどう頼れば良いかも分からないでいました。あまりにも不安が大きくなり、三日三晩眠れませんでした。このような状況の中で、とても当惑してしまいました。あの新任の教会リーダーの問題を解決した時、私は真理のこの側面を完全に理解したと感じていました。しかし、自分が同じような問題に直面した時、このような経験の対処方法が分からないのはなぜでしょうか。私は混乱した気持ちと困惑を抱えながら神様の前に出ました。
 
 
その後、「働きと入ること(2)」の中で次のような神様の言葉を見つけました:「人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。…こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、物事がどう生じるかとか、それらがどこに向かうかを説明することはない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。」(『言葉は肉において現れる』)この一節を熟考しているうちに、次のことを理解しました。姉妹が問題を解決するお手伝いをした時に私が理解した真理は、神様の光によるものでした。この時、私が神様と協力したために、聖霊の啓示を受け取ったのです。しかし、それは私の本当の霊的背丈ではなく、真理のその側面を把握していたことを証明したわけでもありませんでした。あの時、聖霊が真理を理解するよう私を啓いてくださったのは、それが私の仕事に必要だったからです。そして私が協力することにより、神様は私の仕事での問題や困難を解決するのを助けてくれました。しかし、この点に関して実際に自分で経験するまでは、私の霊的背丈は極めて小さいものでした。ですから、霊的成長において困難に遭遇した時は、聖霊の啓示を受け入れることによってのみ、真理が自分のいのちとなるのです。
 
神様の言葉による啓示と導きにより、私は心を落ち着かせ、神様に畏敬の念を抱き、頼りました。そして、資料の編集に関わる原則を慎重に比較検討していくと、私は気付かないうちに神様の啓示と導きを受け取り、資料の中にある問題を徐々に見つけられるようになり、資料を修正する中で考えがずっと明確になってきました。さらに、消極的な気持ちや誤解から段々と自分を解放することができました。
 
神様に感謝します。この経験を通して、私は自分の霊的背丈をはっきりと認識し、自分の理解が正しい道から外れていたのを修正することができました。このことにより、聖霊が啓示した真理を理解していることは、真理のこの側面の現実を把握していることを意味するものではないと認識できました。これからは、今以上に聖霊の啓示を実生活に活かし、実践し、成長し、これらの真理が、本当の意味で私のいのちの現実になるようにしていきたいと思います。
 

 


自分の真の姿をはっきり見る

2020-01-07 21:03:42 | 信仰と生活

江蘇省徐州市 小小

教会での働きの必要性から私は配置転換となり、新たな場所で働きをすることになりました。当時その地での伝道活動は低調で、兄弟姉妹たちの状態も概してよくありませんでした。それでも聖霊に心を動かされた私は、任された仕事を全て自信をもって引き受けました。仕事を引き受けた私は、大きな責任感と神からの導きと示しに満たされ、自分は相当意志が固いとさえ思っていました。自分には能力があり、この仕事を上手くできると信じていました。でも実際には、聖霊の働きについて、そして自分の本性について、私はまだ何も分かっていませんでした。完全に自己満足と自画自賛に浸かって生きていました。

私の心が自尊心でいっぱいだったちょうどそのころ、あるホストファミリーのお宅で、私の担当する働きの責任者をしていた兄弟と出会いました。彼に仕事の進捗状況を聞かれたので、きっと私の能力や優れた洞察力に感心するだろうと思いながら、彼の質問にひとつひとつ答えていきました。ところが私の予想は外れました。私の話を聞き終わると、彼は感謝して頷きもしないどころか、私が十分成果を出しておらず、人の動員の仕方も不適正で、何の成果も出していないなどと言ったのです。彼の不満げな表情と自分に対する評価に、私の心は突然冷めてしまいました。そして思いました。「成果が不十分だと言うの?もし私が何も成果を出していないと言うのなら、成果を出したと言えるには一体どれだけやれば良いの?こんなつまらない仕事を嫌がらずに、進んで引き受けた、それだけでも十分なはずなのに、彼は私が仕事を上手くやっていないと言うの?」私の心はひどく反抗的になり、傷ついて涙がこぼれそうになりました。そして私の中の傲慢、反抗心、不満といったものが突然姿を現しました。「私の力ではこれが精一杯よ。私なりに最善を尽くしたわ。不十分なら誰かほかの人を探せばいいのよ・・。」私はひどく落ち込み、どうしてよいか分からなくなり、彼がその後何を話しているのか分からなくなりました。その兄弟と会った後の数日間で、自信にあふれていた私は憂鬱になり、落ち込み、数日前まで自分を誇らしく思っていた私の心は悲しみでいっぱいになってしまいました。私は喪失感に包まれました。その暗闇の中で、私は神の御言葉を思い出しました。「ペテロは、神を愛する人の姿を生きること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ…」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)「それに比べて私はというと、成果が不十分なことを少し批判されただけで腹を立て、辞めたくなっている。これが、自ら進んで神による刈り込みや取り扱いを受け入れようとしている人間か。これがペテロのように神を愛そうとすることか。私の態度は神が嫌われるようなものではないのか。人から仕事ができないと言われたくない、賞賛されたい、褒められたいという思いだけではないのか-これは最も卑しい目的ではないのか。」そう思った瞬間、私の心の中に一筋の光が差しました。そこで『言葉は肉において現れる』を開き、読んでいくと、次の個所が目に留まりました。「あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、ささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。…あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。…これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心をもたないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。あなたがたはこの重大事に自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れることができないところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように向かって行くつもりなのか。歩くべき道をどのように選ぶつもりなのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の御言葉は私の本質を刺し通し、私は言葉を失いました。私は自分の姿に深く恥じ入りました。私の理性、そして心の中の葛藤は煙のように宙を舞って消えていきました。その瞬間、私は神の御言葉の力と権威を心の奥底で自分のものとして理解できました。御言葉の啓示を通して、私はやっと知りました―自分に与えられた働きをするなかで、私は、神に満足して頂くために常に精一杯働き、最高の結果を出そうとしていなかった。現状に満足し自己満足に浸っていただけだったと。私は、自分の置かれた状況が神に嫌われると自覚せず、誰かに批判されると、不当な扱いを受けたと感じてさえいました。私は実に無知で分別に欠けていました。いつも僅かな実績にも称賛を求め、すぐに称賛を得られなければやる気が失せました。自分のした事を感謝されずに疑問視されればイライラと不機嫌になりました。そう思った瞬間、自分の顔は偽善に満ちていると気づきました。私の働き方は自分の要求と取り引きを伴うもので、不純物でいっぱいであると気づきました。神に満足していただくためでも、神の愛に報いるためでもなく、隠れた動機によって働いていました。

それまでは、神の御言葉が人間の醜さを露わにするような時でも私の心に光が射すことはなく、神の御言葉は誇張され過ぎだと思っていました。私の目が開かれたのは、ひたすら神が示して下さったからです。今日私が自分の働きを全うできるのは、神が引き上げて下さったからで、神の素晴らしい愛によるものです。それでも私はその事実を大切で価値あるものとせず、何の価値も意味もないものばかりを追い求めていました。人に褒められ、称賛され、注目され、そして誰にとっても存在感のある人でいることを追い求めていました。そのようなものにどんな意味があるというのでしょうか。人はパンだけで生きるのではなく、キリストが語られる一つ一つの言葉によって生きると言われています。でも私は何に頼って生活していたでしょうか。他人が私にどのように振る舞うか、どのように私を見ているか、そればかりを気にして生きていました。そしてそのようなものが私にどのような損得をもたらすかをよく心配していました。僅かばかりの誉め言葉や称賛、慰めや優しい言葉で元気になり、そうかと思えば、非難の言葉を少しでも聞いたり、否定的な表情を見たりすれば意気消沈し、無気力になり、どの方向へ進めば良いか分からなっていました―結局のところ、なぜ私は神を信じているのだろう、人々に認められたいからなのだろうか、と。神の御言葉が明らかにしているように、私にとって重要だったのは、真理でも、人間として生きることの原理でも、神の偉大な働きでもなく、私の肉が愛するもので、私の人生に何の利益ももたらさないものだったのです。周囲が私に示す熱意など、神の私に対する称賛の証明となるでしょうか。私が神の御旨に叶わないなら、私の仕事は無意味ではないでしょうか。神様、私の目を開いて下さり、感謝します。私自身の啓示の体験から、私はキリストの存在と、人類を救うためにキリストが世に来られたことを思いました。人々の神に対する態度はどうだったでしょうか。神は聖なるお方であり、崇められるべきお方、栄光なる神ご自身であるのに、いったい誰が神を尊いお方とし、心の中に神を受け入れ、心から神に栄光を捧げているでしょうか。反抗心や抵抗だけでなく、人が現わすものはどれも神への拒絶です。それでもキリストは不平を言うことも、人をその罪に従って扱うこともなさらない。神はあらゆる困難を静かに耐え、人類のため無私に費やされます。しかしキリストの謙虚さや優しさ、寛容を心から褒めたたえる者がひとりでもいるでしょうか。キリストと比較することで、私は自分の心がいかに狭いか、何かあれば不平を言い、いつでも人に褒められたい、認められたいと思う自分に気づかされ、自分勝手で卑劣で、恥知らずな自分の振舞いに気づかされました。このような卑しい性格でも、自分は金と同じくらい尊いと考えていたのです。人間の理性はもはや人間には制御できないまでになってしまった、そう神が言われるのも当然です。私は神の御言葉に深く納得しました。この時、万物の主であるキリストの傍にいたいという強い思いが、私の心の奥深くで自然に生まれました。私は神に祈らずにはいられませんでした。「ああ神様、あなたのご性質、本質、そして善良さを羨望して止みません。あなたと比べることができる人間などいません。あなたが示し、明らかにされ、見せて下さったことはすべて、あなたの美しさ、徳、義、そして権威です。ああ神様!あなたは私の心を開き、私を恥じ入らせ、を垂れさせました。あなたは私の自尊心やうぬぼれを良くご存知です。あなたのすばらしい指揮と采配なしでは、私を扱うためにあなたが兄弟を送られなかったならば、もうとっくに自分がどのような人間かを忘れていたでしょう。あなたの栄光を盗んでおきながら自分を誇りに思う私は、何と恥知らずだったことでしょう。ああ神様。あなたの啓示と御守りに感謝します。自分の真の姿がはっきりと見え、あなたの素晴らしさを発見しました。ああ神様!私はもう後ろ向きでいたくありません。もう卑しいもののために生きたくはありません。私の唯一の願いは、あなたの刑罰と審判、あなたの鞭と鍛錬を通してあなたを知ること、あなたを求めること、そしてそれ以上に、あなたの取り扱いと刈り込みによって私のなすべき働きを成し遂げ、あなたに報いることです。」

 


外見から人を識別することはできない

2020-01-06 21:40:10 | 信仰と生活

山西省ユイツー市 楊蕊

私はいつも、父は善人だと心の中で思っていました。しかしある日、父が教会から追放されたと突然聞きました。その時はすっかり驚いてしまい、なぜそのようなことになったのか見当もつきませんでした。私の心の中で、父は世界で一番立派な人でした。短気を起こすこともありましたが、私たち姉妹の面倒をちゃんと見てくれますし、私たちを叩いたり叱ったりすることもありませんでした。私たちの家庭にも苦労はありましたが、父はどれほどの苦しみに耐えなければならないとしても、私たちまで憤慨することがないようにしてくれていました。家族全員が神様の働きを受け入れると、父は本分を尽くすことによりいっそう熱心になり、私たちにも各自の本分を正しく尽くすようよく促しました。父は粗野になることも時折ありましたが、尽くすべき本分があればすぐに、風雨や困難の度合いに関わらず、それをやり遂げる方法を見つけていました。そのような善良な人物がどうして追放されるのでしょう。父が救われないならば、一体誰が救われるというのでしょうか。このことは、私の心を憤りと葛藤で一杯にしました。教会が父を公正に扱っていないと感じたからです。それを口に出すことはありませんでしたが、心を鎮めることは難しく、私は苦しみ悶えました。

数日前、私は神様の次の御言葉を目にしました。

「あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。そのため、あなたは世界で一番腹黒く邪悪な人である、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には極めて親切で献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、その他の家族を細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているからや少しの善行を行うからというだけで、自分はキリストと相容れると思ってはならない。あなたは自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)

神様の御言葉を反芻するうちに、次のことがだんだんと分かってきました。人が義であるか邪悪であるかを見分けるには、表向きの行いがよいか悪いか、または他人とどのような関係を築いているかを基準とすべきではありません。むしろ、神様とどのような関係を築いているか、神様に心から従順で、神様を畏れているかどうか、神様と相容れるかどうかを基準とすべきなのです。他人と良好な関係を築き、頻繁に助け、愛をもって接している人もいるかもしれませんが、神様と相容れることができず、自分の本分に個人的な動機が混じっていて、神様の働きが自分の観念と相容れないときに神様を裁いて抵抗するなら、その人は偽善者です。そのような人は悪賢く、裏表がある悪人なのです。それを理解したとき、私は父が外に表していたことをいくつか思い出しました。前に属していた教派で、父は指導者でした。今の段階の神様の働きを受け入れた後、教会の兄弟姉妹は、本性があまりに傲慢であることを理由に父を指導者に選出しませんでした。表向きは従順を装い、言われたことにすべて従っていましたが、その秘めた動機は指導者の「座」に返り咲くことだったのです。その後、自分の願いが叶わないとなると、父は本性を表し、教会でいつも高慢そのものに振る舞い、誰の意見にも耳を貸さず、何であろうと自分の意見を聞くように人々に強要しました。自分の好みに合わない同労者を見ると、その人を裁き、けなし、見下しました。また兄弟姉妹のあいだに不和の種を蒔き、教会生活をひどく妨げ動揺させました。指導者や同労者は何度も父と真理について交わり、父を刈り込んで取り扱い、警告を与えましたが、それでも父はまったく気に留めず、まして後悔の念を示すことなどありませんでした。これは悪人の振る舞いではないでしょうか。まさに神様が次のようにおっしゃった通りです。「人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)

神様の御言葉によると、父の行いは神様の指揮や采配に従うものではなく、教会に混乱をもたらすものでした。父は権力と地位を求めてありとあらゆる悪事を行ったのです。このような本質は神様に抵抗するものであり、悪人のものです。しかし私は、自分を可愛がってくれたり、面倒を見てくれたり、本分を尽くせたりするといった表向きの行いを基準にして父を善良な人だと判断し、教会は父を追放すべきではなかったと考えていたのです。しかし、表向き善良な父の行いは、神様に従うこととは異なります。もっと言えば、それは「義なるもの」とは呼べません。神様の指揮に心から従い、神様の刑罰と裁きを進んで受け入れ、性質の変化を求める人だけが救われるのです。父が現在の状況にいるのは、ひとえに父自身の責任でした。それは自分の恐ろしい本性のためであり、他の誰のせいでもなかったのです。さらにそれは、神様の義なる性質の現れでした。

ああ、神様。この環境をお使いになり、真理のこの側面を見せてくださることで、私の誤った見方を正してくださったこと、あなたの聖さを見せてくださったこと、そしてあなたの義にして威厳に満ちた性質に誰も背いてはならないと理解させてくださったことに感謝します。今回のことにより、真理がなければ物事を見分けることも見抜くこともできないと理解しました。今後、何が起こっても、外見で人を判断することは決してしません。真理の観点で物事を見て、あなたの御業を残らず受け入れなければならないのです。あなたの御業を見通せなくても、それはすべて正しいと信じます。人間の観点から物事を分析したり、検証したりすることはもうしません。私は真理の側に立ち、あなたの証しをすべく常に自分を戒めてまいります。


純真な人は必ずしも正直だとは限らない

2020-01-04 21:32:38 | 信仰と生活

私は自分を社交的で率直な人だと思い、人とはとても正直に話しをします。言いたいことは何でもそのまま口にしてしまいます。回りくどい言い方はしないタイプです。人とは正直に交流するようにしています。ですが、私はあまりにも簡単に人を信用してしまうので、頻繁に騙されたり、からかわれてしまうのですが、教会に行き始めてからは、やっと自分に合った場所を見つけたと感じていました。私は、「前は自分の純真さのおかげで不利な立場に置かれて、人に騙されやすくなっていたけども、教会に来たら、神は正直な人達、すなわち世間からバカにされてきた人達を好まれるから、純真すぎることはもう心配いらないいだろう」と思っていました。神は正直で真面目な人達を愛され、正直な人達のみが神の御救いを受けることができると聞いた時は得に安心しました。私は、兄弟姉妹達がそれぞれ不実の本性を持っていることに気が付いても、それを変えることができなくて頭を悩ませているところを見て、正直で率直な私はそんな心配をすることがないと思い、さらに安心していたのです。しかし、私はある日、神の御啓示を受け、私は自分が思っていたような正直な人ではなかったことに気が付いたのでした。

ある日、私は神がこう言われたのを耳にしました。「正直な人々は真理を持ち、惨めでなく、哀れでなく、愚かでなく、無邪気ではありません…それだから、あなたが社会で苦しみ、差別され、出会うすべての人に手荒に扱われ、欺かれているためにあなたが正直であると思って、この冠をあなたの頭に乗せないでください。これはまったく間違っています…正直であることは人々が想像するようではありません—人々は率直で公明正大であるという理由だけで正直です—それはありのままではありません。」(『キリストの言葉の記録』より)神の御言葉は私の状況と完全に一致していました。実際に、私は回りくどい話し方をしないし、頻繁に人から騙されるということは、私には不実な部分や悪賢い部分はないことを意味しているんだと常に思っていました。結果的に、私は神が暴露される人の不実さと悪賢さに対して個人的には共感したことが一度もなく、その代りに、自分が正直さの見本であるなどと思い上がっていたのです。他の皆は不実で、どう言う訳か私だけが違って、この誠実さをもって生まれたとまで思っていました。この私の考えは、神にとっては非常に不快なものだったのです。この時私は、神の他の御言葉を思い出しました。「正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。…もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の仰る正直な人とは、利己的な出世や将来の計画を考えずに、自分の心を神に委ねる人のことなのだと私は気づきました。神とは取引をしたり、報酬を要求することなどできません。正直な人は神にご満足いただくために生きるのです。正直な人は神に対してこの上ない程に忠実であり、決して神を欺こうとはしないのです。正直な人はそれぞれの本分を尽くすことに非常に熱心であり、決して仕事をさぼったり、仕事をしているふりをしたりもしません。正直な人は神の前では全てをさらけ出し、それぞれの兄弟姉妹達と自分の私的な事柄や個人的な苦難も共有するのです。正直な人は内容を薄くしたような話をせず、ありのままに話をするのです。正直な人は真実を持ち、人間味があります。一方私は、正直な人であることの意味など全く解っていませんでした。私の世俗的な判断では、神の仰る「正直な人」とは私達が俗世間で言う「純真な人」のことだったのですが、神の仰る「正直な人」と私にとっての「正直な人」は似ても似つかないものだったのです。私はとても無知で、非見識だったのです。

サタンは何千年にも渡って私達を汚し、私達は皆サタンの嫌悪と悪事に満ちた環境で育ちました。私達の発する言葉や行い、私達の社会における振る舞いはすべてサタンの思い通りなのです。「静かな舌は賢い頭をつくる」、「われ勝ちに逃げろ、悪魔は一番遅れた者を捕まえる」、「矛盾したことを言う」といったようなサタンの言葉は既に人の無意識の中に植え付けられているのです。これらは私達を不実と悪賢さに追いやるものでありながら、私達の生活の本質的な部分でもあるのです。全ての人達が不実と悪賢さに苦しむ中、なぜ私は不思議とその影響を受けないだとか、生まれつき正直であるなどと考えたのか?私は隠しだてをしない、率直な人間だからこそ、率直に、曖昧な言葉を使わずに喋るのです。私は無知で賢くないから人によく騙されるけども、だからと言って私は正直な人であるという訳でもないのです。振り返ってみると、私は自分の評判や地位を維持するためにごまかしや嘘をついたことが何回あっただろうか?純粋で纏まった心で神を信じる代わりに、将来の不安に浸ったことも今まで何回あったことか?神に全てを捧げ、結果的に全てを失うことを恐れた私は、神からの約束を常に欲していたのです。いつか神の国に入れるという保証が欲しかったのです。そうでない限り、私は心配せずに心から真理を求めることはできなかったのです。私は今まで自分の本分を尽くす課程において、神に対して不忠実になり、小さな損得について空騒ぎをしたことが何回あっただろうか?そして、私は、神の御機嫌を取ろうと、これ見よがしで口先だけの空言を発して決意をしてはそれを破るといったことを何度繰り返して来ただろうか?兄弟姉妹達に見下されることを恐れる中、心を開き自分の個人的な問題や私的な事柄を共有しなかったことが何回あったのか?利己的な利益につながるだろうと信じたことのみを口にし、自分の守りを固め、他人を疑うといったことを何回やってきただろう?。。。振り返ってみると、私自身の思考、言葉、行動がすべて不実と虚偽で満ちていたように思えます。結果的に、私の信仰における観念、貢献、他の人達や神との交流、そして私の本分の尽くし方すべてが不実さで染まっていたのです。私はまさに不実さの本質そのものに沿って絶えず生きていたのです。

神様、私はあなたの御啓示に感謝し、そして正直な人とはただ単に率直に喋る純真な人のことではなく、真理と人間味を持つ人なのであるということをお示しくださったことに感謝いたします。私が神の御定義に沿った正直な人ではなく、神様が明らかにされたサタンの不実な本性に苦しむ人であると明らかにしていただいたことにも感謝しています。神様、これから私は正直な人になれるよう努力をしていきます。私が自分を軽蔑し、自分の肉を拒み、すぐにでも真理と人間味を兼ね備えた正直な人になれるうように、どうか私という人をさらけ出して、私自身の不実な本性を深く理解させてください。

陕西省西安市 程明潔