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東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

あなたはヨハネの黙示録の預言に関する主の再臨についての二つの方法はどういうことなのか知っていますか

2019-10-06 14:55:17 | 文章

周静

ある日、インターネットで活気ある議論が行なわれているのを目にしました。西半球の夜空で四回観測されたブラッドムーンは最後の日を警告するものだとか、地球全体で大地震がさらに頻発しつつあるといったことが書き込まれていました。私はこう考えました。「ブラッドムーンがもう四回も観測されているし、天体現象も起きている。それに世界中で災害が頻発して、テロ事件も増えていて、いつもどこかで戦争が起きている……これらの現象はすべて、主イエスの再臨の預言が基本的に成就したことを示しているけれど、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、いまだに見ていないのはなぜかしら。主イエスはまだ戻られていないということなのか、それとも主はすでに戻られているけれど、自分がまだ主を見ていないということなのか。どうしたら主の再臨をお迎えできるだろう」この疑問が心の中を駆け巡り、私を当惑させました。この件について何らかの理解を得ようと、私は何度も主に祈り始めました。そして主の再臨をお迎えできて主に追い払われることがないよう、私を啓いて導いてくださいとお願いしました。

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それからしばらくして、数ヶ月ほど顔を合わせていなかった甘姉妹が私に会いに来ました。それが主の采配であることを私は知っていました。甘姉妹は長年にわたって主のために働き、思慮深く洞察力に満ちた人でした。彼女なら自分の問題を解決できるかもしれないと考えて、私はこう言いました。「甘姉妹、ちょっと混乱している問題があって、それを追求したいと思っているんです。聖書には次のように記されています。

『そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう』(ルカによる福音書21:27)

『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(ヨハネの黙示録1:7)

それによると、主イエスはおいでになるとき、大いなる栄光と力をもって、雲に乗ってこられることになっています。主は公然と姿をお見せになり、誰もが主を見ることができるのです。だから私たちは、主が雲に乗っておいでになり、私たちを天へと導いてくださるのをずっと待ち続けてきました。現在、世界中で災害や地震や干ばつが絶えず、戦争が頻発し、加えて多くの天体現象が起きています。これらの現象はすべて、主の再臨の預言が基本的に成就したことを示していますが、主が私たちとお会いになるべく雲に乗って降りてこられるのを、私たちがいまだに見ていないのはなぜですか。いったいどういうことでしょう」

甘姉妹は私の言葉に耳を傾け、少し考えてから言いました。「あなたのその質問は、主の再臨をお迎えしたいと願う私たち全員が理解したい問題です。主の再臨をお迎えしたいなら、まずは主が終わりの日に実際どうやっておいでになるかを知らなければなりません。それは重大な問題です。実を言うと、聖書の中には、あなたが言ったように雲に乗っておいでになる以外に、主がおいでになるもう一つの方法の預言があります。例えば、黙示録16章15節には『見よ、わたしは盗人のように来る』とあります。また黙示録3章3節には『もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない』と記されていて、マタイによる福音書24章44節にも『だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』とあります。これらの預言は、主は盗人のように密かに来られ、誰一人知ることはないと述べています。姉妹、ここでいま話した聖句を検討しましょう。その中には、主は公然と雲に乗って戻られると記されている箇所もあれば、主は密かに来られて誰一人知ることはないと記されている箇所もあります。それを考えたことがあるでしょうか。主の再臨という同じことに関する預言が、異なることを述べているのはなぜでしょうか」

私は彼女の言うことがよく分かっておらず、心の中でこう考えました。「確かにそうだわ。黙示録1章7節には『彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう』と書かれているけれど、黙示録16章15節には『わたしは盗人のように来る』と記されている。それはどういう意味なのか。主は実際どうやっておいでになるのか」

私は困惑して、甘姉妹にこう返事をしました。「これらの預言には、主は公然と降りてこられると述べているものもあれば、主は密かにおいでになると述べているものもあります。矛盾しているように見えますが、主の御言葉に欠陥はなく、単にいま自分が理解していないだけだということは分かります。どうかこの件について私と交わってください」

甘姉妹は笑みを浮かべて言いました。「主は誠実でいらっしゃるので、これらの預言はきっと成就します。それはきっと起きるのです。矛盾しているように見えても、まったくそうではありません。『盗人のように』は、主が密かに戻られることを述べており、『雲に乗ってこられる』とは、主が公然とおいでになることを指しています。つまり、主は戻られるとき、まずは密かにおいでになり、それから公然と姿をお見せになるのです」

「まずは密かに、それから公然と」私は驚いて声を上げました。

「そうです。主は戻られるとき、まずは人の子として受肉なさることで密かに来られ、その働きを完了なさったあと、今度は雲に乗っておいでになり、すべての国のすべての人に公然と姿をお見せになるのです」彼女は辛抱強く説明してくれました。

私は待ちきれなくて言いました。「つまり、主は最初に人の子として受肉なさって密かに来られ、それから雲に乗って姿をお見せになるんですね。そんなことは初耳です」

甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書の聖句をもっと見ましょう。そうすれば理解できます。主イエスはこのようにおっしゃいました。

『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう』(マタイによる福音書24:27)

『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』(ルカによる福音書17:24-25)

これらの聖句は『人の子』と『人の子の到来』に触れています。『人の子』は人間から生まれ、普通の人間性を有し、普通の人のように食べ、服を着、暮らし、行動なさいます。外見上、人の子は普通の人と同じようにしか見えません。しかし、人の子は神性の本質を有しておられ、真理をあらわして人類を救う働きがおできになります。それはまさに、主イエスが受肉された神様の御霊でいらっしゃったために『人の子』と呼ばれ、外見上こそ普通の一般人に見えたものの、その肉体は本質的に神様であり、完全な神性を有しておられたことと同じです。主イエスがキリストでいらっしゃり、神様ご自身でいらっしゃったのはそのためです。ゆえに、主イエスは『人の子』と『人の子の到来』に触れられたのです。それらはいずれも、神様が終わりの日に肉において戻られることを指しています。聖書には『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』とも記されています。私たち全員が知っているとおり、人が神様を神様として認識できないのは、神様が人の子として肉をまとわれ、人類のあいだに密かに来られる場合に限ります。人間は受肉なさった人の子を普通の人と認識しますが、そのせいで神様を拒み、誹謗し、裁き、ひいては受肉なさった神様に反抗して敵対しさえするのです。神様が『多くの苦しみ』を受けられるのはそのためです。主イエスは肉において現われて働きをなさったとき、人間による拒絶、誹謗、嘲笑、冒涜、断罪を受け、最後は十字架にかけられましたが、まさにそれと同じなのです。主が戻られるとき、雲に乗って降りてこられ、人々に公然と姿をお見せになったら、誰もがそれを見て恐怖に震え、神様の御前にひれ伏して崇拝するでしょう。誰一人、あえて神様に反抗したり敵対したりはしないはずです。それならば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という預言がどうして成就するでしょう。ゆえに、主イエスはまず肉において密かに再臨され、その後雲に乗って公然と姿をお見せになることが確かめられるのです」

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彼女の言葉を聞いたあと、私はそれを心の中で反芻しました。「つまり、主イエスは戻られるとき、まずは密かにおいでになり、その後雲に乗って公然と姿をお見せになるという主張には、聖書の中に根拠があるのね。何年もずっと聖書を読んできたのに、主の再臨に二通りの方法があると気づかなかったなんて、いったいどういうことなの。すごい。でも、主がまずは肉となられて密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜかしら。どういうことなの。訊かなくちゃ」そこでこう言いました。「甘姉妹、あなたのお話から、主の再臨がまずは密かになされ、それから公然と姿をお見せになることがわかりました。そう考えれば、もう聖書の預言に矛盾はないように思われます。でも、主がまずは密かに来られ、それから公然と姿をお見せになるのはなぜなのか、私にはどうしても分かりません。これに関する主の御心はどういうものでしょう」

甘姉妹は答えて言いました。「実を言うと、神様がまず肉となられて密かに働きをなさり、次いで終わりの日に公然と姿をお見せになるのは、いずれも神様の働きに必要なことであって、私たち堕落した人類にとっても必要なことなのです。私たちは主を信じ、主イエスに贖っていただきました。私たちの罪は赦されたのです。しかし、私たちの罪深い本性は未だ深く根を張っており、どうしても頻繁に罪を犯したり、神様に反抗することや敵対することをしたりしてしまいます。それは否定できない事実です。ヤーウェ神は『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃいました。また『ヘブル人への手紙』12章14節には『……きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』と記されています。いつも罪を犯して告白する私たちのような人間は、主のお顔を拝見するのにまったくふさわしくなく、天国に入る資格もありません。そのため、主イエスははるか昔に次の預言をおっしゃいました。

『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)

『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:48)

また『ヨハネの黙示録』2章7節にも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』と記されています。私がこれらの預言から理解したのは、主は終わりの日に来られるとき、さらに多くの御言葉をあらわされ、神様の家に始まる裁きの働きをなさるということです。主はおいでになって人類を変え、清め、お救いになり、私たちをサタンの領域から完全に救い出されます。また終わりの日の主の働きには、人々を種類に応じて選り分けることも含まれています。つまり、真の信者と偽信者、小麦と毒草、羊と山羊を明らかになさり、その種類に応じて選り分け、そうして善に報いて悪を罰せられるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、神様による裁きの働きを受け入れる人は神様の玉座の前に引き上げていただけます。そのような人は神様の御言葉による裁きと刑罰を経験し、自分のサタン的な本性と神様に抵抗する根源について真の認識を得ます。また背きを許さない神様の義なる性質も認識するようになります。そのような人の堕落した性質は徐々に清められ、変えられます。そうして真理を求める道に踏み出し、神様によって完全に救っていただけるのです。しかし、神様が密かに働きをなさるあいだ、神様の出現を探し求めず、神様の働きと御言葉を拒んで断罪しさえする人は、終わりの日の神様の働きにおいて、非信者、悪人として暴かれます。神様の密かな働きが終わりを迎えるとき、神様は大災害を降らせて善に報い悪を罰せられ、それらの災害のあと、万人の前に姿をお見せになります。神様を拒んで抵抗した人が、そうしていた相手が実は再臨なさった主イエスだったと知ると、胸を叩き、泣きわめいて歯ぎしりします。これは主イエスの次の御言葉を成就しています。

『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン』(黙示録1章7節)

このことから、神様の働きにはお知恵が満ちあふれていることがわかりますし、それはまた神様の義なる性質のあらわれでもあるのです。

甘姉妹によるこの話を聞いて、私の心は大いに明るくなりました。主の再臨の預言がそのようにして成就するのだとわかったからです。主はお戻りになるとき、まずは受肉なさって密かにおいでになり、真理をあらわされ、裁きの働きをなさり、勝利者の集団をお作りになります。その後はじめて、公然と人類に姿をお見せになるのです。神様が密かに働きをなさっているあいだ、それを受け入れず、不当にも神様の働きと御言葉を裁いて断罪する人はみな真理を憎む人であり、神様が公然と姿をお見せになるとき、災害に襲われて罰せられるよりほかありません。また神様はこの方法をお使いになることで、小麦と毒草、羊と山羊、良き召使いと悪い召使いを明らかになさり、すべての人を種類に応じて選り分けられます。神様は本当にお知恵があり、かくも全能なのです。私はそれまで、主イエスが実際にはどのようにしておいでになるのかを理解しておらず、空に浮かぶ雲をぼんやり眺めながら、主がその一つに乗って降りてこられるのを待つことしか知りませんでした。主の再臨に関するすべての預言を探し求めも考えもせず、そのせいで主が密かにおいでになる預言を見逃してしまったのです。それは実に危険なことでした。そのように待ち続けていたら、主をお迎えできなかっただけでなく、神様に完全に救っていただき、天国に入る機会を失っていたでしょう。そう考えると少し不安になり、慌ててこう尋ねました。「甘姉妹、それなら主が密かに来られるとき、私たちは主の働きを見つけて再臨をお迎えするために何をしなければならないのでしょう」

甘姉妹は微笑んで言いました。「聖書で預言されていることから、主は終わりの日に戻られるとき、さらに多くの御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさることがわかりました。したがって、主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、終わりの日の主の御言葉を受け入れ、神様の新たな働きに歩調を合わせることです。主イエスは次のようにおっしゃいました。

『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)

『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る』(ヨハネによる福音書10:27)

神様の羊は神様のお声を聞くことができます。神様のご発言を聞き、そこから神様のお声を聞き分けられる人はみな、主の到来をお迎えすることができます。ペテロ、ヨハネ、マタイをはじめとする主イエスの弟子も、まさにそれと同じです。彼らは天国の福音に関する主イエスの説教を聞いて、その働きと御言葉から、イエスが自分たちの待ち望んでいたメシアでいらっしゃると判断でき、かくしてためらうことなくイエスに付き従いました。彼らは賢い乙女なのです。私たちも主の再臨をお迎えしたければ、賢い乙女になって主のお声を聞くことに集中しなければなりません。主はもうお戻りになったとか、主は新たな御言葉を発せられ、人類を裁いて清める働きをなさっているとか誰かが言うのを聞いたら、一刻も無駄にせずそれを調べなくてはなりません。それが神様の働き、神様の御言葉だと確かめられる限り、受け入れて服従しなければなりません。そのようにして、私たちは主の再臨をお迎えし、主と婚宴の席に着くことができるのです。

私は甘姉妹の話を聞いて、胸を躍らせて答えました。「主よ、感謝いたします。主の再臨をお迎えするうえで鍵となるのは、賢い乙女になって神様のお声に耳を澄ますことだと、いまようやくわかりました。その御言葉が神様の発せられたものだと確かめられる限り、私は急いでそれを受け入れなければなりません。それが主の再臨をお迎えする唯一の道なのです。ああ甘姉妹、あなたと出会ってから数ヶ月しか経っていないのに、これだけ多くのことをこんなに早く理解するようになったのはどうしてですか」

すると甘姉妹は嬉しそうに言いました。「主よ、感謝いたします。今日私が話したことはどれも、ある本を読んではじめて理解するようになったことばかりなんです。ここに一冊もってきました。一緒に目を通してみませんか」

私はわくわくしてうなずき、「素敵ね」と言いました。

 
 
 

人生の明るい道を歩んでいます

2019-09-28 18:46:36 | 文章

人生の明るい道を歩んでいます

以前、私は世界のトレンドを追い掛けるような人で、遊蕩生活に身を任せてしまいたくて肉の快楽だけを欲していました。私はよく友達と一晩中カラオケに行ったり、夜中に車を乗り回したり、海に出て釣りをしたり、美味しい食べ物を探して世界中を旅したりしていました。自分の周りにいる他の人達を見ても、皆が美味しい物を食べたり、高価な物を身に付けたり、贅沢を楽しもうとしていました。私は、人は人生においてこういったものを目指して働く必要があり、これが一生懸命働いて収入を得る必要がある理由であり、これが皆が持つべき人生の目標なんだと感じていました。こういったものを手にしてのみ、人生を無駄にしなくて済むと思っていました。 こういったものを手にするためなら、どれだけの距離を旅しても構わないと思いました。そして私は海を渡って渡米し、数年間苦労した後に、自分のビジネスを立ち上げたのです。私は自分の車と家を持っていました。私は夢にまで見た恵まれた生活を送っていたのです。私は毎日、満腹になり心が満足するまで食べて、呑んで、快楽を追い求めました。私はこういう生活を送ってのみ人生には意味があるのだと思っていましたが、それは私が終わりの日における全能神の働きを授かるまでの話しでした。私は、神の裁きと刑罰を受けてから初めて本当に意義深い人生というものを認識し、それから私は人生の明るい道を歩み始めたのです。

2016年の5月、私の妻が全能神の国に関する福音書をくれました。全能神の御言葉を読み、私は神の6000年の人類救済に向けた経営計画について知り、更には、全能神はイスラエル人をエジプトから導き出されたヤ―ウェ神であられ、十字架に釘付けにされて人類の罪を贖われた主イエスでもあられ、そして今、真理を説いて、人類に対する裁き、清め、救いの働きを実行されるために、肉として御戻りになられたということも理解できました。しばらく経たない内に、私は全能神教会で教会生活に参加するようになり、そこで兄弟姉妹達と出会ったのです。私は、彼らが皆誠実で、彼らの言葉には見せ掛けや、口先だけの社交辞令などがない事を知り、彼らと出会ったことで今まで感じた事がないような解放感を味わいました。

私は教会で集会に参加し始めた頃、とても新鮮な気分がして、兄弟姉妹達と共に集い、真理を追い求めて、いのちの性情の変化を遂げたくなりました。しかし、私はそれまでの間、肉の安楽を切望し、人生の快楽を求めていたため、彼らと一緒に集まって真理を追い求めたいという思いはあっても、これを気にせずにはいられませんでした。ある時、私は友達からディナーに招待されたのですが、それは教会の集会と同じ時間だったので、心の中で強い葛藤を感じました。 行くべきか、行かないべきか?私はこの決断についてこう考えました:“最後に出掛けて楽しんでからずいぶん経つよな。友達が今日私を招待するのは簡単なことでもないだろうから、行くべきかな。友達には毎日招待してもらえる訳でもないし、教会の集会は次回にすればいいか。” こうして、私は用事があると断言して、教会の集会に行く予定を変更してディナーに出かけたのです。私達は食べて、呑んで、カラオケにまで行ったのですが、帰宅途中、私は心の中では何の幸せも感じていなかったのです。私は、心の奥底で、説明できないような虚しさと罪の意識まで感じていたのです。 私は過去を振り返ってみました。私が友人達や他の村民達と食事をしていた時、ディナーのテーブルでは全員がいつになく誠実に私と接してくれていたのですが、私の知らない所ではどうやって私からお金を騙し取ろうかと頭を悩ましながら悪巧みをしていたのです。私は彼らの相手をしながらとても疲れてしまいました。私はどうしても自分の関心事について話せる人が見つけられなかったのです。今日、私は出掛けて、満足するまで呑んで、食べて、友人達を満足させることも出来ましたが、私はこれから一体何を得たのでしょうか? 私は虚しくて、心細くなり、神を失望させてしまったような気分になり、自分の兄弟姉妹達にも申し訳ない気持になりました。

しかし、心に感じるこの虚しさと自責の念を以てしても私を肉の快楽から解放することは出来なかったのです。私は、依然として心の中では遊蕩生活や肉に属するものに身を任せてしまいたいと思っていたのですが、神は私の追い求めることに関する誤った考え方を正すために、実際的に様々な出来事をご用意して下さり、環境をご計画して下さったのです。国慶節が近づいていた時、私の妻がこう言って提案をしてきました:“シンプルなお祝いをしてから、残った時間で神の御言葉をもっと読んで、神の家族の動画を見ましょう。そしたら、真理をもっと授かることが出来るし、神の御救いの恵みを理解することが出来るわ。” しかし、私は妻の言葉を真剣に考えず、代わりに元々計画していた通りに記念日の祝いの準備を始めたのです。私は道のりを慎重に選び、マーケットに行って必要な食材とその他の物を全て購入しました。私は妻と一緒に海辺に行って、二人でこじんまりとバーベキューをすることにしたのです。国慶節の当日、私は妻を連れて車で楽しく出発しました。しかし、事は計画通りには進まず、道がずっと渋滞していた上に、旅の途中でGPSが誤動作を起こしていたため私達は間違った道を行っていたことに気が付いたのです。目的地まで行くのは大変で、やっと海辺に到着した時も、風がとても強くてバーベキューが出来ませんでした。こうして、私の妻は引き返して家に帰ろうと言ったのですが、私はそうしたくありませんでした。私は運転を続けてバーベキューが出来る近くの公園を探そうとしつこく言い張って、他の3つの公園に行きましたが、その全てが人でいっぱいだった上に、駐車スペースが無かったのです。これでやっと、私はしぶしぶ引き返し、自宅に向かって運転し始めました。家路はさきほど同様に大渋滞していました。私達は、元々昼食にバーベキューをしようと出発したのですが、既に夕方の4時だというのに未だ何も作れていなかったのです。私達はもう腹ぺこでした。通常なら、私は自分が正しと感じて、自信に溢れているところなのですが、今回は、腹も立たず、何も言いたいことがありませんでした。私はただ静かに座って気が晴れないまま自宅に向かって運転しました。その時です、私の前にいた車が急ブレーキをかけたので、私も素早く急ブレーキをかけました。前の車にはぶつからずに済みましたが、私達は後ろから追突されてしまったのです。幸い、誰にも怪我はなく、車の表面がかるく凹んだだけで済みました。この事故が起ったのは神の許しによることだと分かっていた私は、この運転手を非難などせずに、ただ運転を続けました。そこで私は、“入念に計画したのは全部無駄な努力になってしまったなあ。計画してても予期せぬことがあったら対応しきれないってことも、全ては神が御用意して下さっているってことも本当なんだな。今日は本当に外出して人生の快楽にふけようとするべきじゃなかったな。自分の気質を頼りにするんじゃなかったよ!” と思いました。

帰宅した後、私と妻は神の御言葉の中からこの数節を一緒に読みました:「旧約聖書時代の神の働きや神の言葉の記録を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという教義に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)「人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない…進歩しようと努力せず、理想もなければ、あなたはこの邪悪な波によって押し流されてしまうだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神のこの御言葉は世界のトレンドの本質を分かり易く、明瞭にして下さりました。世界のトレンドというものは、ただ単にサタンが人類を誘惑して堕落させるため利用しているものなのです。こういった物は人を破滅させるための罠であり、計略なのです。サタンは食べることや呑むこと、快楽を追い求めること等、肉が欲するものを利用して人を騙し、束縛するのです。人の心はこういった肉に属するものに取りつかれてしまうと、肯定的なものを追い求めなくなってしまい、神から増々疎遠して行き、結果的にはサタンによって破滅させられ、捕らえられてしまうのです。私は、神の御言葉を読んで、追い求めることに関する自分の見解はその全てが完全に間違っていたのだと気が付きました。私の関心事が食べることであれ、呑むことであれ、肉の快楽を追い求めることであれ、人の上に立てる生活を求めることであれ、こういったものの全てはサタンが人類を堕落させた結果なのです。私は、自らの実体験により、人がこういったサタンに属するものを追い求めると、人は増々堕落していき、増々ずぼらになり、放蕩していくのだと確認しました。それはただ単に、人の貪欲さ、身勝手さ、邪悪さ、そして不実さを悪化させていき、その人達は罪の中に生きることとなり、普通の人間性を失ってしまうのです。 人がこういったものを増々楽しむようになっても、こういったものをどんどん手にすることが出来たとしても、結局は虚しいままとなるのです。人がこういったもの全てを手にしても、神の前に来ることが出来なければ、その人のいのちは結局無駄になってしまい、意味もなければ、価値もないものとなってしまうのです。人は、神の前に来て、神を信じ、神を敬って初めて適切な生活を送る道を歩んで行き、人はその時初めて虚しく、邪悪な生活から自らを解放することが出来るのです。これを踏まえ、私は自分の生活の仕方を変えて、生活の正しい道を歩む決心をしたのです。

私は、自分の兄弟姉妹達が神のために積極的に労力を費やしている所を見た時、そしてそれぞれの本分を尽くすことと有意義な人生を送ることに対する彼らの情熱を見た時、私も同じものを追い求め、神の御要望に従った真の人の生き方を熱望するようになりました。これを踏まえ、私は、通常の集会への参加に加えて、自分自身の本分を尽くすための時間も欲しくなりました。この時、教会は私にいつくかの本分を用意してくれたのです。私は教会から2人の姉妹をある場所へ車で連れて行き、翌週彼女達を迎えに行って欲しいと頼まれました。 最初にこの本分が私に任された時、私は喜んでそれを引き受けました。しかし、この本分を私に割り当てた兄弟姉妹達が去った後、私はこれについて考え直し始めた上に、“困ったなあ、この姉妹達を連れて行く日は僕の休みの日じゃないか。しかも、来週ピックアップしに行く時は凄く早起きしなきゃいけなくなるし、移動距離は問題じゃないんだけど、あの道はすぐ渋滞起こすのが問題なんだよなあ。車が少ない朝早くに行くのがベストだけど、帰りに長時間渋滞に巻き込まれるかもしれないなあ。渋滞の中で座ってるだけじゃ時間の無駄になるだし、せっかくの休日が台無しだよ。。。” と後悔までし始めたのです。私がこう不平を漏らしているのを聞いた妻が私にこう言って交流してくれました:“本分を尽くすってことはあなたが思っていたほど単純なことじゃないのよ。間違いなく真理を実践することが伴うの。真理を実践するってことは、肉に背くってことよ。それは、あなたが苦難を経験して、犠牲を払うってことよ。考えてみてよ、あなたは今まで遊びにいっては呑んで、食べて、快楽を求めることが出来ていたから、疲れた日の後に楽しい思いが出来なくなって一言も文句を言わなかったでしょ。でも、あなたは、今せっかく本分を与えてもられるようになったのに、それに自分のフリータイムを使って困難のある道を歩むはめになったからって、心の中ではこれをやりたくないって思ってるのよ。この本分は、表面的には兄弟姉妹達があなたに割り当てたもののように見えるけど、これは特定の誰かのために尽くすものじゃなくて、実際には神に御満足していただくため、神の愛に応えるために尽くすものなのよ。この本分は今日、あなたに与えられたもので、神があなたを引き上げて下さっているの、これは神の愛があなたに舞い降りてきているということなのよ。あなたはこれを大切にして、初日に後悔が残らないようにしないとだめよ。” 妻は、私にこう言った後、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

私は、全能神の御言葉を読み終えた時、そして私の妻の言葉を聞き終えた時、神がこの本分を私にお与え下さったのは、私が神を満足させて苦難に耐えられるか否かを見るための本当の試験であったのだと気が付きました。しかし、私は、自分の肉の欲するものと個人的な損得だけを考慮し、苦しんで犠牲を払う意思もなく、その代わりに不平ばかり言っていることを明らかにしていたのです。私は、自分が非常に利己的であることに加え、自分の心の中では呑むこと、食べること、その他の快楽を含めた肉の喜びが神よりも高く位置づけされていたことが分かったのです。 私は食べるため、呑むため、快楽を求めるためなら自分の所有物の何を費やしても、どんな犠牲を払っても全く構いませんでしたが、神のために自分の時間を費やすことを要する本分を与えられたとたんに、私は自分の損得を判断するようになり、神に御満足していただくために真理を実践しようという意思も持てていなかったのです。このように考えて行動していたのでは、私はサタンからあざ笑われ、神の前で神の証言が出来るようにもならないでしょう。こういった事柄を理解した後、私は素早く神の前に行き、私が神の前で神の証言をし自分の置かれた霊的な戦いでサタンを打ち負かすために、確実に肉に背きサタンに従うことを止められる意思をお与え下さるよう祈りを捧げました。私は、本分と実際に協力することに対する自分の態度を改めた後、神の祝福を実際に目にしたのです。私が姉妹達を連れて目的地に向かっていた時も、彼女達を迎えに行った時も、大きな渋滞は起きなかったのです。それは私の想像を完全に超えるもので、私の観念を本当に覆されてしまったのです。私は、初めて、本分を尽くすことで得られる平安と幸福を実感し、人が肉に背き、神の御満足していただくことを実践すると、神はその人に道を開いて下さるだけでなく、その人が真理を理解して神の御業を目にすることが出来るようにして下さることも分かりました。私は、突然、これはバケーションに行ったり、豪華な料理を食べることよりも私を幸せにしてくれていると感じたのです。この本分を休日に尽くすことは全く時間の無駄ではないことが分かったのです。むしろこれは非常に意味のあることなのです!

私はこういった実経験の中で、肉に背いて本分を尽くして神に御満足いただくことの美しさを自ら知ることができたのです。神がなされること全ては、私をサタンの邪悪な支配から救い、そうすることで、私が近い将来に真理を追い求める正しい道を歩むことが出来るようにすることなのだと分かりました。こういったもの全ては神の愛であり、神の御救いなのです。数日後、私は兄弟の一人から電話を受けました。私は彼から他の省に出向いて兄弟を数人迎えに行ってくれないかと頼まれ、何のためらいもなくそれを引き受けました。これを引き受けた後、私は不満を感じてはいませんでした。私はこの任務にとても前向きに、喜んで着手し、移動も最初から最後までスムーズに行きました。兄弟姉妹達をそれぞれの目的地まで無地に送って行った後、私は自分をとても誇らしく感じました。なぜなら、私が不純な心を持たずに、意欲的に自分の本分を尽くしたのはこれが初めてだったからです。これはまた、神の創造物が尽くすべき本分を実際に尽くすということは、人が行い得る本当に最も意義深いことであると私に教えてくれたのです。私はもう呑むこと、食べること、娯楽を求めることを望まなくなり、肉の欲する快楽を求めることもなくなり、真理を追い求め、受け入れ、実践し、近い将来に神を心から愛する人になることだけを望みました。 こういった私の生活における些細なことが私の気が付かない形で私を変えてくれたのです。私の生活はもう以前のように腐っても、堕落してもいません。私は変わり始め、物事に積極的に取り組むようになりました。これはまるで、私が人生の全く新しいチャプターを歩み始めたかのような感じがします。私は心の中で今まで感じたことがないような人生の美しさと喜びを感じ、全能神が私を人生の明るい道へと御導き下さったことに感謝しています。全ての栄光、全能神にあれ!

シェ・リー(米国)


熱心に見える教会には聖霊の働きがあるのか

2019-09-02 13:35:22 | 文章

信仰ステーションの兄弟姉妹

数ヶ月前、私は所属していた教会の牧師たちが名声と利益のために争い、地位を手に入れるためにあれこれと企んでいるのを目撃しました。それは説教の中でもお互いを攻撃し、けなし合うほどでした。彼らの説教は聞いて喜ばしいものではなく、私たちは霊的な糧を得られないままでした。更には、多くの兄弟姉妹の信仰も冷めていきました。みな富を求め、肉的な楽しみを求めて世の流れに従っており、食べたり飲んだり楽しむことに全関心を寄せていました。ほとんど集会に出席しない兄弟姉妹もおり、生活の中で大変な事が起きたり重要な祝日だったりという時だけ出席していました。…このような教会の状態を目の当たりにした私は、聖霊の働きを伴う教会を探そうと、その教会を去りました。多くの教会を回って探しましたが、どの教会も同じようなもので、希望を失いかけました。けれども最近、様々なショーやイベントを頻繁に行っている教会を見つけました。そこでは海外から牧師が来て説教をすることもありました。その教会の雰囲気はとても温かく、活気に溢れ、大勢の人が毎回集会に出席していました。活気のあるその教会と熱心に集会に出席する兄弟姉妹たちを見て、この教会こそ聖霊の働きを伴っていると考えました。けれども、熱心に見えるその教会でも、牧師の説教は兄弟姉妹にとっていのちの糧となるようなものではなく、霊的に満たされるものではないと気づくまでに時間はかかりませんでした。そこでの歌や踊りは教会の雰囲気を変えるだけのもので、それが続くうちは誰もが元気旺盛になるのですが、皆が座って説教を聞くとなったとたん、居眠りしてしまうという具合でした。そればかりか、兄弟姉妹たちはいつも献金や祈りで互いに競い合っていました。誰でも献金を多くする人が主を愛する人と見なされ、誰でも長く祈って聞こえの良い言葉で祈れば霊的な人と見なされました。…このような教会では、兄弟姉妹は誠実さも謙虚さもないどころか、かえって虚栄心は強くなる一方で、ますます偽善的になっていきました。人前で自分を表現し目立つことに集中し、極端に独善的で傲慢でした。問題に遭遇するといつでも自分の好きなように対処し、他人の話に耳を傾けようとはしません。つまり、全く主の教えを守っていなかったのです。教会でのこのような状況に直面して、私は「外側からはこれほど熱心に見える教会に聖霊の働きがありえるのだろうか?」と思わずにはいられませんでした。私はいつもこの疑問で悩んできましたので、ご回答をいただけたら幸いです。

ウェンシ

聖霊の働き, 教会

ウェンシ姉妹

こんにちは。あなたが聖霊の働きがある教会を探したことは素晴らしいことで、それは完全に神様の御心に適っています。教会に横行する不道徳が主の教えに反することは明白で、そのような教会はおそらく既に聖霊の働きを失っています。熱心に見える教会には聖霊の働きがあるかどうかという問題に関しては、私たちが判断するのは難しいです。けれども、実は、聖霊の働きがどのような結果をもたらすことができるかを理解すれば、自然にこのことが簡単に判断できるようになります。

この質問に答えるにあたり、いくつかの文章を読んでみましょう。

「人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を崇拝し敬慕する心を育むためのものである。」『働きと入ること(2)』より 「聖霊は、人々を啓くために働く時、通常人々に神の働き、および彼らの真の霊的歩みと本当の状態についての知識を与える。また、今日の人に対する神の切実な思いや要求を人々に理解させる。それは、神を満足させるために彼らが全てを犠牲にする決意をするためであり、迫害や逆境に遭遇する時でさえ、神を愛さなければならず、それが流血や命の犠牲を意味する時でさえ、神のために証しに立たなければならず、後悔することがないためである。」「実践(1)」より 「聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。」「聖霊の働きとサタンの働き」より

これらの抜粋から、聖霊の働きとは、それによって一時的に感情の盛り上がりがあるように感じるためでも、宗教的儀式や規則を守るためのものでもないことが分かります。それよりは、聖霊の働きは神様の御心と神様が要求されることが理解し、自分の弱さと欠点を神様の言葉から知ることができるように私たちを導くものです。聖霊の働きは私たちに実践の仕方を教え、いのちの糧を与えてくれます。自分の堕落をより理解できるようになるだけでなく、常に神様についての新たな認識を得ることができ、それによって神様を畏れ、神様を愛する心が芽生え、神様に従い、主の教えを守って神様のために全てを捧げ費やすことができるようになります。聖霊の働きにより、私たちはしばしば啓かれ、神様の言葉を読む時には常に私たちに光が注がれるようになります。聖霊の働きがあるならば、主の教えに反することを話したり行なったりした場合、聖霊による責めと取り扱いを感じます。私たちが自己を理解し、神様に悔い改め、神様の言葉に従って実践できると、聖霊は私たちを導き続け、主にいっそう近づくことができます。聖霊の働きがあれば、私たちの心には神様の居場所があり、神様を偉大な方と敬うことができ、どのような困難や迫害、苦境に遭おうとも、常に神様に満足いただき、神様の要求に沿うように行動し、サタンの勢力によって拘束も制限もされまいと決意することができ、私たちの人生があらゆる面で神様の御名を褒めたたえることができるようになるのです。聖霊の働きがあるならば、神様が緊急となさることを緊急とすることができ、神様がお考えになるように考えることができ、神様の御旨に配慮して神様に満足いただくために本分を尽くすことができます。要するに、聖霊の働きが伴っており、聖霊が共にいて下さり、神様の言葉が問題に直面した時に私たちを導いて下さり、神様の言葉に従って実践する決意があるならば、私たちの人間性と私たちの生き方はますます正常になり、神様にいっそう近づき、私たちの霊は安らぎ、平安で喜びを感じるのです。真理を追求する人たちが一定の期間の後に、程度の差はあれ、このような結果に到達するのを教会の集まりで見るならば、それはその教会には聖霊の働きがある証拠です。ウェンシ姉が先ほど言われた通り、たとえ教会が様々なショーや行事を行って、外側からは温かく熱心に見えても、また何回集会に出席したとしても、説教を聞いても新たな光はなく、現実の問題や困難は解決されず、いのちの糧も養われないままで、神様についての認識を得ることもありません。牧師、説教師、一般の兄弟姉妹の誰であれ、その語る言葉と行動が主の教えに反していながら罪の意識もなく、鍛錬されてもいなければ、それはその教会には聖霊による働きも守りもないことの証明です。聖書にこうあります。

「くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ」(箴言26章23節)

もし教会が単に外見上熱心に映るだけで、そこに集う人々の心は神様を遠ざけ、神様との正常な関係はなく、それどころか神様の言葉を実践したり主の戒めを守ったりすることができないのであれば、そのような教会が聖霊の働きがある教会とみなされることがどうしてあり得るでしょうか。もはや「上ぐすりをかけた土の器」ではないでしょうか。ですから、教会が聖霊の働きを伴っているかどうかが決まるのは、そこに集まっている人の数でも、熱心さの程度でも、教会員が行っているように見える良い行いの数でもありません。むしろ、人々がいのちの糧を得ることができるかどうか、神様についての新たな認識を常に得ているかどうかによるのです。もし私たちが僅かな表面的な意味や規則にしがみつき、真理によって養われることがなく、神様についての新たな認識を得ることもなく、いのちの成長もなく、現実の問題も未解決のままであれば、そのような教会には聖霊の働きも臨在もありません。

実際、心から主を信じて聖霊の働きをこれまでに経験したことのある兄弟姉妹のほとんどが、荒廃が宗教界全体に広がっており、宗教界が聖霊の働きと臨在を失ったと感じています。宗教指導者の大半が主の言葉を実践しておらず、主の戒めを守っていません。彼らは継承されてきた人間の伝統だけに固執し、聖書の知識や神学的理論を解説することを重視しています。これは自己を顕示し、自己の証しをするためです。主の証しとなるのでも、主を称えるのでもなく、主の道から完全に逸れてしまっています。信者といえば、概して罪を犯しては悔い改めるという状態の中に生き、様々な罪を犯し、主からはいっそう離れるばかりで主への恩義を一切感じていません。世俗的な流れに従い、富や名声、地位を求め、肉の快楽を追い求める信者すらいます。宗教界が聖霊の働きを失ってしまい、神様に嫌われて拒否されていることは明らかです。これはまさに主イエスの預言を成就しています。

「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書24章12節)

この御言葉は律法の時代の終わりを思い起こさせます。当時のユダヤの民衆は律法を守ることができず、祭司はお粗末ないけにえを捧げていました。牛、羊、はとが神殿に持ち込まれて売られ、律法を破る者がいてもそれに対する懲らしめはありませんでした。人々の出入りは多く、外側からは神殿には活気があり賑やかに見えましたが、実際にはすでに長い間、聖霊の働きを失っていました。律法の時代における神殿での荒廃の主な理由は、当時のユダヤ教の指導者達がヤーウェの律法を守らず、神を畏れる心をもたなかったことにあります。受け継がれてきた人間の伝統にのみしがみつき、神様の戒めを捨てて神様の道から完全に外れてしまい、それゆえに神様に呪われることになってしまったのです。一番重要なのは次の点です。肉となられた神様、つまり主イエスは恵みの時代に人類を贖う働きを行われましたが、それは神様の働きの変容であり、主イエスの贖いの働きを受け入れた人は全て聖霊の働きを得、新たな実践の道を見出しました。しかし主イエスの働きを拒んで抵抗した人は神様の働きによって取り除かれ、聖霊の働きを失って闇と荒廃の中へと落ちたのです。

昨今の宗教界は聖霊の働きを失い、広く荒廃していますが、神様の意図が背後にあることは疑う余地がありません。聖書に次のように預言されています。

「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書四章7~8節)

聖書の「この畑は雨をえ」とは、聖霊の働きを伴う教会、神様が臨在されていて人々が御座から流れるいのちの水に養われ潤されることを享受できる教会を意味しています。「かの畑は雨をえないで枯れた」という言葉は、聖霊の働きを失った教会を意味します。私たちが聖霊の働きがある教会を積極的に探さないならば、いのちの水の供給を完全に失い、闇と荒廃に落ちるでしょう。私たちが積極的に聖霊の働きを伴う教会を探し、神様の足跡を辿ることが神様の御心であるのは明白です。教会における荒廃の問題を根本から徹底的に解決して、聖霊の働きと臨在を再び取り戻すにはこの方法以外にないからです。カナンの地が飢饉におそわれたとき、ヤコブとその家族がカナンの地を離れ、食料を求めてエジプトへ行く以外に、飢餓を逃れて生き残る方法がなかったのと同様です。

ではどうやって聖霊の働きを伴う教会を見つけることができるのでしょうか。実は主イエスがとうの昔にその方法を教えてくださっています。終わりの日の再臨に関して、イエス様は仰いました。

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16章12~13節)

ヨエル書第二章29節にも預言されています。

「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ」

そしてヨハネの黙示録の二章と三章の各所にも、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と預言されています。これらの預言から、終わりの日に主が戻られるとき、主は更に多くの言葉を語り、私たちを潤し養い、全ての真理を理解させて下さることが分かります。私たちが神様の要求を満たし、諸教会に御霊が語られることを知ることができれば、主の足跡について行くことができ、聖霊の働きを得ることができます。従って、どの教会が神様が新しい言葉を語り、新しい働きをなさっていることを証ししているかを注意深く見なければなりません。語られる言葉を良く聞いて、それが私たちのいのちの糧となり、現実の問題を解決してくれるかどうかを見極めなければなりません。その教会の兄弟姉妹が神様の言葉によって潤され養われると同時に、常に神様についての新たな認識を得ているかどうか、いのちが成長を続けているかどうか、人間性と生き方がますます正常になっているかどうか等を見極めなければなりません。これらの現実的な結果が生まれているならば、それはその教会が聖霊の働きを伴っており、神様ご自身が働かれており、臨在されている教会であることの証明です。

主イエスは約束されました。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)

主イエスは信実であられ、私たちがもっと長い時間をかけて祈り主に願うなら、必ず終わりの日に再び来られた神様の語られる言葉を見つけ、聖霊の働きを得て、子羊と足並みを揃える人になることができるでしょう。

神様に感謝します。神様が私達を導いて下さいますように!

信仰ステーション

チォンウェイ(中国)

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私は真の幸福を手にしました

2019-08-24 08:40:08 | 文章

私は真の幸福を手にしました

私はごく普通の農家に生まれました。私の家族は裕福ではなかったものの、私の父と母はお互いを愛し合い、私のことも大切にしてくれました。私達の家庭生活はとても豊かで、恵まれていました。私は、大きくなってから、「私も優しくしてくれる旦那を見つけて最高に満足で、幸せな家族を築かなきゃいけないわ」と自分に言い聞かせました。これが一番大切なことでなのです。私は富がなくても、旦那との愛情豊かな関係と平穏な家庭生活さえあればそれでいいのです。

私の旦那とは共通の知り合いを通じて出会いました。私は、彼はとても背が低かったので好きではなかったのですが、私の父と母は彼のことをとても好意的に見ていました。二人は私に、「彼は誠実な人だから、お前のことを大事にしてくれるよ」と言いました。私は旦那がとても誠実に人と接している所を見て、彼が自分の家族を大切にする人のように見えたので、「背が少し低くてもいいか。私のことを大事にしてくれさえすれば、それでいいわ」と思いました。こうして、私は結婚に合意して、1989年に私達は結婚しました。結婚後、私の旦那は私にとても優しく、私のことをとても大切にしてくれました。私の結婚生活はとても満足で、豊かなものでした。私は、旦那が私を大切にしてくれたことを心の中で覚えています。私もまた、彼の事を一心に気遣い、全ての事において彼の事を思いました。私達が2人の娘達を授かった後、旦那に職場で安心してもらおうと思った私は家で家族の世話をしました。当時、私の幼い娘は頻繁に病気をしており、ある時の夜中、彼女は突然熱を出したのです。私の旦那はその時夜勤を働いていたので家にはいませんでした。パニックになった私は自分で娘を病院に連れて行くことにしました。これを知った旦那は家に帰ろうとしてくれました。彼は私にあまり大変な思いをして欲しくなかったのです。私は自分の旦那がこんなに優しくてとても幸せでした。後に、二人の子供は村を出て学校に通うことになりました。子供達が学校に通う間、そばで面倒を見てあげられるように私は泊まる場所を賃借しました。ある程度のことを自分で対応できている限り、私は旦那に面倒を掛けないようにしていました。困難なことがあったり、私が少し疲れている時でも、私達の旦那と妻としての関係はお互いの愛情と支え合いで満ちていました。私はとても恵まれた生活をしていると感じていたのです。

当時、私の旦那の給料は日常の経費を何とかやりくりできる程度しかありませんでした。私達の生活は少し大変でしたが、私は決して旦那に文句を言いませんでした。私は旦那と妻は人生の喜びと悲しみを分かち合うべきだと感じていたのです。その後、旦那の職場の経済状況が悪化して、旦那は毎月それまでのわずか半分しかもらえなくなってしまったのです。近い将来、私達は子供達の学費を払えなくなっていたでしょう。私は、旦那にかかるプレッシャーを軽減しようと、親戚から頻繁にお金を借りていました。私は、「この困難は一時的なもので、状況はそのうち良くなる」、と思っていました。お金を長い間借り続けていたため、私達の借金はどんどん増えていきました。旦那と私は共に大きなプレッシャーを感じていました。2013年に、私の旦那は海外に出稼ぎに行くことを考え始めました。それ聞いた私は、最初は気乗りしなかったのですが、「彼が2,3年の間海外に出稼ぎに行けば、私達の借金をいくらか返済できるし、家庭環境も改善できるわ」と考えました。しかも、私達は子供達が育ち盛りであったため、良い生活環境を与えてあげたかったのです。家族のためにと思い、私は旦那が海外に出稼ぎに行くことに賛成しました。

私の旦那はカンボジアに3年間働きに行きました。この3年の間、私は家で子供達と年配の両親の世話をしました。最初は、旦那もよく電話をくれて、家族を大事にしていることを示してくれていました。彼は仕送りもしてくれていました。後に、旦那はどんどん電話をしなくなり、仕送りもとても少なくなっていったのです。ついに、旦那は全く仕送りをしてくれなくなり、家にも滅多に電話をしてくれなくなるほど状況は悪化してしまいました。私は、旦那に何か起こったのではないかと心配になり、娘達を連れて彼の元へ向かったのです。私達はカンボジアに着いて、旦那の無事を確認することができたので、私はとても安心しました。私達はカンボジアが初めてだったので、私は娘達と一緒にしばらくそこに滞在して、帰国するまで旦那と一緒にいる準備をしていました。しかし、家の外で旦那と一緒にいると、旦那を知る人達が私を変な目で見るのです。私達は地元の言語を話せなかったので、彼らが何を言っているのかは解りませんでした。その一週間後、私の旦那が突然、見知らぬ子供を腕に抱え私の前に連れてきたのです。旦那はこの子にこう言ったのです、「早く叔母に挨拶するんだ。」何が起こっているのか分からなかった私はただ呆然と見詰めてしまいました。旦那に聞いてみると、この子供は彼がカンボジアで出会った女性との間に生まれた子供であったことが分かったのです。私は言い表せないくらいに腹が立ち、どうしていいのか分からなくなりました。私が旦那を非難した時、彼は素っ気なくこう言ったのです。「こんなのよくあることだよ。ここでは沢山の人がやってることだよ!」旦那がこう言ったのを聞いて、私は体中が震えるほどに腹が立ちました。長年に渡ってお互いを愛し合ってきた後に、彼がこんなに冷たく無情なことを口にして、こんな恥知らずのことをしてしまうなんて考えてもいませんでした。私は怒りに任せて旦那を2回引っ叩きました。私は旦那の裏切り行為を受けて麻痺してしまいました。旦那に裏切られた事実は予告なしに私をめがけて落ちて来た雷のようでした。彼はこんなことを仕出かすような兆候を見せたことは今まで一度もなかったのです。私はこんなことをした彼を許せませんでした。私は床に座り込んで、血涙を流しました。私は何度も自分にこう問いかけました。「どうして旦那が私にこんなことするの?私の知る旦那はどこに行ってしまったの?彼の永遠の愛の誓い、優しさや気遣いはすべて嘘だったっていうの?私は全てをこの家族に注いでいたのに。旦那にお金や物を欲しいと言ったことすらないのに。」しかし、こうなった今、旦那の裏切りは私にとってとても大きな屈辱で、私にはこのまま生き続ける尊厳がないと感じました。

その後、私は毎日のように泣きじゃくりました。私はあの女性と子供を嫌いました。私は離婚して娘達を連れて帰り、このいわゆる家族から出て行く決意をしたと旦那に伝えました。私は旦那が離婚に合意しないとも、あの女性と別れたがらないとも思いませんでした。後に、私は、自分の家族の中に私の旦那が他の女性を見つけて、その女性と子供を持っていたことを知っていた人が何人かいたことを知りました。彼らはそのことを私に隠していたのです。私は尊厳を以て生きれていないともっと強く感じるようになってしまいました。私はこの家族のために苦労しながら犠牲を払ってきました。まさかそのお返しに裏切られ、騙されることになるとは全く思っていませんでした。私は心から悲しみました…この裏切り行為はそれだけでとても痛ましいものであったのに、それよりも許し難かったのは、私が旦那とあの女性を知る人達から変な目で見られたり、非難されたりまでしたことでした。元々は、私を裏切ったのは旦那で、私の家庭を台無しにしたのはあの女性でしたが、今となっては、他の人達の目に私が第三者として映っているのです。当時感じた苦しみを言葉で表現することはできません。惨めな思いをしていると時間が経つのは早いもので、私の体重はあっという間に10キロ以上も減ってしまったのです。

私が完全に落胆していた当時、私は終わりの日における全能の神の御救いと巡り合いました。私の隣人であるリン・チンがこの事態を知った時、彼女は私の家に来て私に福音を説いてくれたのです。彼女は、「神を信じなさい。神はあなたをお助け下さるわ」と言ったのです。しかし、無神論を信じてきた私がそんな簡単に神を信じれるはずがありませんでした。私は彼女に何の返答もしませんでした。その後、リン・チンは再度私にこう言ったのです、「神の御言葉を読みなさい。神はあなたを御救い、あなたがこの苦しみから抜け出せるようにしてくださるわ。」彼女はとても切に話してくれたので、私は感動しました。又しても彼女をはねつけることを恥ずかしく思った私は、代わりに「言葉は肉に現れる」という本のコピーを受け取りました。私はこの本を開き、この節を読んだのです。「全能者のいのちの供給から離れた人類は、自分がなぜ存在するのか分からず、しかも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然、彼らの目を閉じようとせず、仕方なく、霊の目覚めもなき肉体で、この世における下劣な存在のままいい加減に生きようとする。あなたは、このように生きている――何の希望もなく。彼も、このように生きている――何の目的もなく。伝説上のその聖なる者だけが、苦しみにうめき、彼の到来を待ち焦がれる人たちを救うために来ることができる。…あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)この神の心のこもった御言葉を読んで、私は涙でいっぱいになり、この神は本当に人類を理解されていると感じました。旦那の裏切りに直面した時、私は死にたかったのですが、それを実行する勇気がなければ、そんな形で死ぬ覚悟もできていませんでした。私は人生の方向性と目的を見失い、自分自身を諦めたくもなりました。しかし神の御言葉を読んだ時、私は人生の希望を持てるようになり、私の心も平安を見つけたのです。旦那には裏切られましたが、私は神に頼ることができたのです。私は独りではなかったのです。全能の神はこう仰いました、「この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。」私は傷ついていたし、自分を気遣ってくれる人が一人もいなかったので、神に頼る気になれたのです。私は神の抱擁を必要としていたのです。私は、毎日が苦しく、しんどくて、そのまま生きて行きたくありませんでした。人類をとてもよく理解されておられる神は私がこの苦しみから離れられるようにお導き下さったのです。結果、私はリン・チンと一緒に神の御言葉を読み始めました。私達は神の御意図について話し合い、神を崇拝する讃美歌を学びました。私は、「大変な時は、神に祈りを捧げて、神の御言葉を読むの。そうしたら神はあなたの傷ついた心を慰めて下さるわ」、というリン・チンの言葉を受け、彼女の言った通りにしました。私は、全能の神の教会にいる兄弟姉妹達が撮ったミュージックビデオと讃美歌の動画を見て心の中で幸せを感じ始めたのです。私は神の家族のみが本物の愛情を持っており、本物の喜びは自分の兄弟姉妹達と一緒にいてのみ得られるものだと感じました。「カナンの地の幸福」という動画を見た時は特にそう感じました。歌ったり踊ったりしている兄弟姉妹達と一緒になって私の心も踊っていました。苦しみ落ち込んでいた私の心は直ぐに元気を取り戻し、ついには笑顔までが私の顔に戻り始めたのです。私はすかさずこれが私の求める家族なのだと感じました。その結果、私は兄弟姉妹達と過ごす教会での生活を楽しんだのです。

後に、私は更にこの神の御言葉を読みました。「サタンが社会動向を利用して人間を腐敗させる問題についても、説明が必要であろう。この社会動向には、様々なものがある。一部の人々は、「それは、人間の衣服のことであるか。それは最新のファッションや化粧、ヘアスタイルやグルメに関することであるか。」などと言う。社会動向とは、そうした物事に関することであるか、というと、それらも社会動向の一部であるが、ここでそうした物事については取り上げない。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、世社会動向が世間において人間の行動にどう影響するか、そして社会動向により人間にもたらされる人生の目標や人生観についてのみ、議論する意向である。社会動向は、人間の精神状態を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要である。こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に退化させ、人間の倫理や性質をますます低下させる邪悪な影響があり、現在においては、大部分の人々に誠実さや慈悲、良心はなく、理性など尚更欠如している状態にまで達している。…大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを無意識のうちに受け入れるようになり、そうした社会動向に呑み込まれて支配される。こうした社会動向は、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの判断が出来ない人間に、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、人生哲学、価値観を、次々と進んで受け入れさせる。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが述べた言葉や、サタンにより「授けられた」生活の道を受け入れる。この種の人々には強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏している。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)私は神の御言葉のこの部分を読んで、「こんなによくあることだよ。ここでは沢山の人がやってることだよ!」という旦那の言葉を思い出しました。私の旦那の考え方は、サタンの影響を受けた社会の悪質なトレンドが人々を堕落させ、同化させてしまうという神が明らかにされた真理の中で説明されていることではないでしょうか?旦那は、国を出る前は、自分の家族の面倒を見て、私と子供達を大切にしてくれていました。しかし、出稼ぎのために家を出てからわずか3年の間に、彼は社会の悪質なトレンドを完全に従うようになってしまい、自分の家族を裏切ってしまったのです。そこで私は、「現代社会では人の愛人になることは恥ずかしいことではないわ。実際にはよくあることじゃない」と思いました。多くの男性は、「家庭の赤旗は落ちず、色付きの旗は外でそよ風にはためく」、といった悪質な思考に痛手を受けているのです。こうして彼らは恥じることなく不倫してしまうのです。彼らは不名誉なことをしてでも、栄光を手にすることに動機付けられているのです。私の旦那は私と離婚したくないと同時に、あの女性と別れたくもないのです。彼はこのような思考と観念によってコントロールされてしまっているのではないでしょうか?神の御言葉を読んで、私は、「事実上は、皆が犠牲者であり、サタンの邪悪な思考によって騙され、それ故に、私達は道徳と羞恥心を失ってしまうほどに堕落させられている「、ということが理解できました。人々は自分の利己的な欲望を満たして一体何を得ることができているのでしょうか?実際に幸せになっているのでしょうか?私の旦那とあの女性について言うと、あの二人は私よりも幸せだとは思いません。更に言うと、私達の子供達は罪のない犠牲者なのです。私の家族が直面した不幸はサタンによる堕落と害によるものではないでしょうか?私自身について考えても、もし神の御救いに巡り合っていなければ、私も社会の悪質なトレンドにむしばまれていたと思います。私は、旦那が他の女性を見つけたんだから、自分も同様に他の男性を見つけられると思いました。私は間違ってももらい手のない女性ではないのです。私はサタンに飲み込まれそうになっていた時に私を御救い下さった神に感謝しています。神は私が神の前に行って、神の御加護を受けられるようにして下さったのです。そうでなければ、私はこの社会の悪質な潮によって没落させられていたことでしょう。

私は読み続けていると、この神の御言葉を目にしました、「サタンが人間を腐敗させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることも無い。…神は、人間の心が蘇ることを求めている。つまり、神がこのようにして人間に対して業を行うのは、継続的に人間の心を目覚めさせ、魂を目覚めさせ、人間がどこから生まれたか、人間を導き、支え、また人間に与え、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるためであり、創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、人間はどのような道を歩むべきか、人間はどのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるためである。こうした方法が用いられるのは、人間が神の心を知り、理解し、神による人間救いの業の根拠となる大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるためである。人間の心が蘇ると、人間は堕落し、腐敗した性質の生活を送ることを望まなくなり、その代わりに神が満足する真理を求めることを望むようになる。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンにより支配されることも騙されることも無くなる。その代わりに、人間は神の業と言葉に積極的に協力して神の心を満足させ、神に対する畏れと邪悪の忌避を得る。これが神の業の元来の目的である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)私は神の御言葉を読んで、サタンがありとあらゆる社会のトレンドを利用して人を堕落させていても、神はその間ずっと人類を救う働きをなされているのだと理解することができました。私達が深く堕落し過ぎていても、神は決して私達を救うことを諦めてはおられなかったのです。終わりの日において、神は人類の魂を呼び覚まし、人類がサタンの邪悪な卑劣さを見抜けるようにするために、また肉となられ、神の御言葉を発して下さったのです。神は、私達が真理を追い求め、堕落したサタンのような性情から抜け出し、サタンから完全に離れ神の元に戻れるようにするために私達を目覚めさせてくださったのです。神の御言葉から、私は、神のみが純粋で聖なる本質を持っておられ、神は悪と邪悪さを御嫌いであり、私達人類全員が神の前に行き、神の御言葉の御導きを受け入れて、光による御啓蒙を手にすることを願っておられるということも理解できました。サタンの悪質な思考は人類の心を堕落させ、人類がそれから抜け出す力を失わせて、人類が少しずつ堕落して行き、飲み込まれていくように仕向けていたのです。神のみが私達を救うことを御出来になるのです。神の御示しになる真理によってのみ、私達は人類を堕落させようとするサタンの悪質な計略と策略を見抜く事ができるようになり、サタンによる害から抜け出す力を持って本当の人間のいのちを得ることが出来るようになるのです。私は全能の神に感謝いたします!全能の神が私を苦しみの底から救って下さったのです!私は神の御言葉を読み、真理を追い求め、最終的には神の御救いを受けられるようになりたいと思っています。

最近、私は神の御言葉を読み続けている内に、真理を少しは理解できるようになり、多くの状況の中を見抜くことが出来るようにもなりました。私はもう自分の旦那も、あの女性も嫌ってはいません。彼らは自分達の生きたい生活を自由に選ぶことが出来るのです。私の親戚と友人はどうかと言うと、彼らとも落ち着いて接することが出来ています。私はもう自分の親戚を責めることは止めました。なぜなら、私達全員がサタンによって堕落させられた犠牲者だからです。現在、私は頻繁に自分の兄弟姉妹達と一緒に集会に参加しています。私達は神の御言葉を読み、自分達それぞれの体験について話し、共有し合っています。私達は毎日、神の御言葉の恩恵を受けています。私達の心の中には平安と喜びがあり、私達の生活は明るい希望で満ちています。全能の神様、私を人生の正しい道に導いて下さり、そして私に真の家族をお与え下さり、どうも有難うございます。私はここで、本当の幸福を手にすることが出来たのです!私は永遠に神に付いて行きます!

張華(カンボジア)


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

2019-08-10 23:00:05 | 文章

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

編集者注記:今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘(リュウ)兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、刘(リュウ)さんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると()、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。

アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。

その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ねずみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。刘(リュウ)さんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時、()刘(リュウ)さんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「刘(リュウ)さん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。前に通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

その後、ネット上で刘(リュウ)さんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「刘(リュウ)さん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

それを聞いた刘(リュウ)さんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹の()シャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。

 ウィリアム、米国