東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

中国共産党政府と宗教界が狂気のごとく神を罪に定め、神に抵抗した後の結果は、どうなるのでしょうか。

2019-09-30 16:52:33 | 信仰と生活

参照聖書箇所

「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書 12:31-32)

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23:13)

「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。」(ヨハネの黙示録 20:10)

関連する神の言葉

「人の子は証しされ、神自身が公に現された。強く照り輝く太陽のように神の栄光が現れた。神の栄光の顔が眩しく輝く。あえてそれに反抗的な目を向けるのは誰か。反抗は死を意味する。」

『言葉は肉において現れる』の「第十五章」より

「キリストは、彼を真に信じる者がいのちを与えるために終わりの日にくる。……あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。……あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。」

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

「二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、諸国に逃亡した。多くは殺され、全ユダヤ民族は前例を見ない破壊を受けた。彼らは神を十字架に釘付けにし―凶悪犯罪を犯し―そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の結果に耐えなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちが彼らの国と民族にもたらした苦い結果と災害である……

私たちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し、阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。」

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

「人々が完全になり、地上のあらゆる国々がキリストの国になるとき、七つの雷鳴が轟く。現在はその段階への大きな一歩であり、来るべき時代について訓令が解き放たれる。これが神の計画であり、近い将来に現実となる。しかし、神は既に神が述べたすべての事柄を達成している。従って、地球上の国々は満潮になれば崩れてしまう砂の城に過ぎないことは明らかである。最後の日が近づいており、赤い大きな竜が神の言葉の下に倒れる。神の計画が滞りなく遂行されるために、天使たちが地上に舞い降り、神を満足させるために全力を尽くす。受肉した神は、敵に戦いを挑むために、戦場に陣を敷いている。受肉した神が現れると、敵は打ち倒されてその場所から消え失せる。神の手により最初に壊滅すべき、打ちのめすべきは中国で、神は中国に対して何ら慈悲心を持たない。」

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

「古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の民族にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。」

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉・第二十六章」より

「世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。宗教的世界──どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。……どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。」

『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉・第二十二章」より

「この時、人間は腐敗を極めたのであった。人間は、神の存在、人間の出自を知らなかった。もし誰かが神のことを口にしようものなら、ソドムの人々は攻撃し、中傷し、冒涜したであろう。神の警告を伝えるために神の使いが来た時ですら、腐敗したソドムの人々は悔い改めの姿勢を見せなかったのみならず、自分達の邪悪な行いを止めようともしなかった。それどころか、ソドムの人々は、恐れ多くも神の使いを痛めつけようとした。ソドムの人々が明確に示したのは、神に対する極端な敵意のある本性であり、本質であった。腐敗したソドムの人々の神に対する反抗は、ソドムの人々の腐敗した性質の明示や、真相の理解の欠如に起因する誹謗中傷であるだけでは無かった。ソドムの人々の邪悪な行いは愚かさや無知に起因するものでは無く、またソドムの人々が裏切られたからでも無く、勿論、誤った方向へと導かれたからでも無かった。ソドムの人々の行いは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、そして騒動のレベルに達していた。当然ながら、人間のこうした行いは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになる。したがって、神は直接的かつ隠すこと無く、神の怒りと威厳を示した。それは、神の義なる性質の、真の明示である。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼすことを望んだ。つまり、神はソドムの町の人々とその罪を、最も完全な方法で根絶し、町の人々を抹殺し、地上の罪が増加するのを防ごうとした。その最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、そして権威を用いてソドムの人々を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものであった。ソドムの人々に対する神の姿勢は、身体的な破壊だけで無く、霊的なもの、永久の根絶的な破壊であった。これが、ソドムの人々が『消滅』することに対する神の望みに関する、真の含意であった。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身2」より

人々が神を冒涜した時、あるいは怒らせた時、神は審判を下し、その審判は神の最終的な結論である。そのことについては、聖書において「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書12:31)、また「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書23:13)と説明されている。しかし、主イエスがこのように述べた後、律法学者とパリサイ人、そして主は狂気であると言った者達に対する処遇は、聖書に記されているだろうか。これらの者達が罰を受けたと記されているであろうか。それらについて、何も記されていないことは確かである。ここで、何も記されていないというのは、何も記録されていないということではなく、人間が見ることの出来る結果がない、ということである。このことにより、問題が明らかになる。すなわち問題とは、神がある事柄に対処する際の姿勢と原則である。神を冒涜したり、否定したり、中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対する神の処遇について、神は見ないふりをしたり、聞こえないふりをしたりすることはない。神には、そうした物事に対する明確な姿勢がある。神はこうした人々を嫌悪し、心で糾弾する。神はこうした人々に対して、神を冒涜した者に対する明瞭な姿勢があること、神はどのようにしてそうした人々の結末を決定するかをその人々が理解するよう、こうした人々の結末を率直に宣言している。しかし、神がその言葉を述べているにもかかわらず、神がこうした人々をどのように処分するかに関する事実を殆ど理解できず、神による結末や審判の背景となる原則を理解できずにいる。すなわち、人類は、こうした人々の処遇について、神の具体的な姿勢と方法を理解できずにいる。この問題は、神が業を行う際の原則が関与している。神は事実を出現させ、一部の人々の邪悪な行いに対処する。つまり、神はこうした人々の罪を宣告することも処遇を決定することもなく、神は直接的に事実を出現させることにより、こうした人々が処罰され、相応の報いを受けるようにする。こうした事実が出現した時、その罰を受ける物は、すべて人間の目に見える人々の身体である。一部の人々の邪悪な行動を処分する際には、神は言葉により呪うが、それと同時に神の怒りがその人々におよぶ。こうした人々が受ける罰は人々の目に見えないものである場合もあるが、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合がある。こうした人々を救わない、こうした人々に対して更なる慈悲や寛容をもって対処しない、それ以上の機会を与えないと神が判断した場合、こうした人々の神に対する態度は、こうした人々を無視する態度である。「無視」とは、どういう意味であろうか。この言葉は、何かを脇によけ、意識しなくなることを意味する。ここで、神が「無視」すると言う場合、2通りの解釈ができる。1つ目は、神がその者の命、その者の全てをサタンに与えて扱わせるようにした、という解釈である。神はその者の命などを担わなくなり、その管理を辞める、ということである。その者が狂気であっても、愚かであっても、あるいは生きていても死んでいても、あるいは地獄に落とされて罰を受けていても、それは神に関係ないものとなる。つまり、その被造物は創造主と何ら関係が無くなるということを意味する。2つ目は、神がその者に対して、神自らの手で何かをしようと決断した、という解釈である。神が、そうした者の取り組みや、そうした者自身を、補助的に活用する可能性もある。そうした者に対し、パウロに対して対処したように、神が特殊な方法で対処する可能性もある。以上が、そうした者に対し神の心が判断を下す際の原則と姿勢である。したがって、人々が神を拒否し、中傷し、冒涜した場合、あるいは神の怒りを買い、あるいは神の赦しの範疇を超えた場合、その結末は想像を絶する。神がそうした者たちの命などのすべてを、それ以降永遠にサタンに委ねるというのが、最も重篤な結末である。こうした者たちは、永遠に赦されることが無い。これは、そうした者達がサタンの餌食となり、玩具となり、それ以降、神はそうした者達との関係を一切絶つ。サタンがヨブを誘惑した時、それがどれほど悲惨なものであったか、あなたがたは想像出来るであろうか。サタンがヨブの命に手を出さないことが条件であったが、それでもヨブは大いに苦悶した。それならば、完全にサタンの手に委ねられた者、完全にサタンの手中にある者、神のいつくしみや憐れみを完全に失った者、創造主の支配が及ばなくなってしまった者、神を信仰する権利と神の支配下に属する被造物である権利を奪われた者、創造主との関係を完全に絶たれてしまった者が受けるサタンの猛威は、それにも増して困難ではなかろうか。サタンによるヨブの迫害は、人間が見ることの出来るものであったが、神がある者の命をサタンに引き渡した場合、その結末は、あらゆる者の想像を絶するものとなるであろう。それは、牛やロバとして生まれ変わった人間、汚れた、悪霊に取り憑かれた人間のようなものである。これが神によりサタンに引き渡された者の結末である。主イエスを嘲笑し、中傷し、非難し、冒涜した者は、外部から見れば、全くそうした結末に苛まれていないように見える。しかし、あらゆる物事に対し、神は特定の姿勢をもって対処する、というのは真実である。様々な種類の人間に対して神が対処した結果どうなるかについて、神は明確な言葉で人間に伝えないこともある。神は、直接的に言葉を述べず、直接的に業を行うこともある。神がそうした事柄について言葉を述べないということは、そうした事柄に対する結末が存在しないことを意味するのではなく、より深刻な結末であることを意味する可能性もある。見た目には、神は、一部の人々に対して神の姿勢を示そうと語っていないように思われる。実際、神はそうした人々に気遣うことを久しく望んでいない。神は、そうした人々にもう会いたいとは思わないのである。そうした人々の行動や態度、性質や真髄などのため、神は単にそうした人々が神の前から立ち去ること、そうした人々の霊魂や身体を直接サタンに引き渡し、サタンの意のままにさせることを望んでいるのである。神がそうした人々をどれほど憎んでいるか、嫌悪しているかは明瞭である。ある者が、神がその者に二度と会わないことを望むほどに、また神がその者を完全に見捨てるほどに、また神自身がその者を取り扱うことさえ望まないほどに、神の怒りを買った場合、すなわち神がその者をサタンに委ね、サタンに支配させ、虜にさせ、サタンの思うがままにさせた場合、その者は完全に終焉を迎える。その者の人間たる権利が奪われ、被造物としての権利が消滅する。それは、最も過酷な罰ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より


太極舞・救い主の降臨を賛美しよう 【神が出現することの意義】

2019-09-29 21:09:01 | ゴスペル音楽

 王国新歌「神が出現することの意義」は、独特でやわらかい太極舞の形で、神様が二回受肉して働き、言葉を発する本当の意義をあなたの心に響くように語っている。舞台全体は青空広がる青草を背景にして、古典楽器の筝と蕭の調和が、のびやかで美しく、渾然一体となっている。メロディはしとやかで美しく、天からの音みたいで、あなたをこの混乱した世の中から離れて造物主のそばに戻るようにし、あなたに造物主が新しい時代に発表した命の御言葉を享受させる。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 

人生の明るい道を歩んでいます

2019-09-28 18:46:36 | 文章

人生の明るい道を歩んでいます

以前、私は世界のトレンドを追い掛けるような人で、遊蕩生活に身を任せてしまいたくて肉の快楽だけを欲していました。私はよく友達と一晩中カラオケに行ったり、夜中に車を乗り回したり、海に出て釣りをしたり、美味しい食べ物を探して世界中を旅したりしていました。自分の周りにいる他の人達を見ても、皆が美味しい物を食べたり、高価な物を身に付けたり、贅沢を楽しもうとしていました。私は、人は人生においてこういったものを目指して働く必要があり、これが一生懸命働いて収入を得る必要がある理由であり、これが皆が持つべき人生の目標なんだと感じていました。こういったものを手にしてのみ、人生を無駄にしなくて済むと思っていました。 こういったものを手にするためなら、どれだけの距離を旅しても構わないと思いました。そして私は海を渡って渡米し、数年間苦労した後に、自分のビジネスを立ち上げたのです。私は自分の車と家を持っていました。私は夢にまで見た恵まれた生活を送っていたのです。私は毎日、満腹になり心が満足するまで食べて、呑んで、快楽を追い求めました。私はこういう生活を送ってのみ人生には意味があるのだと思っていましたが、それは私が終わりの日における全能神の働きを授かるまでの話しでした。私は、神の裁きと刑罰を受けてから初めて本当に意義深い人生というものを認識し、それから私は人生の明るい道を歩み始めたのです。

2016年の5月、私の妻が全能神の国に関する福音書をくれました。全能神の御言葉を読み、私は神の6000年の人類救済に向けた経営計画について知り、更には、全能神はイスラエル人をエジプトから導き出されたヤ―ウェ神であられ、十字架に釘付けにされて人類の罪を贖われた主イエスでもあられ、そして今、真理を説いて、人類に対する裁き、清め、救いの働きを実行されるために、肉として御戻りになられたということも理解できました。しばらく経たない内に、私は全能神教会で教会生活に参加するようになり、そこで兄弟姉妹達と出会ったのです。私は、彼らが皆誠実で、彼らの言葉には見せ掛けや、口先だけの社交辞令などがない事を知り、彼らと出会ったことで今まで感じた事がないような解放感を味わいました。

私は教会で集会に参加し始めた頃、とても新鮮な気分がして、兄弟姉妹達と共に集い、真理を追い求めて、いのちの性情の変化を遂げたくなりました。しかし、私はそれまでの間、肉の安楽を切望し、人生の快楽を求めていたため、彼らと一緒に集まって真理を追い求めたいという思いはあっても、これを気にせずにはいられませんでした。ある時、私は友達からディナーに招待されたのですが、それは教会の集会と同じ時間だったので、心の中で強い葛藤を感じました。 行くべきか、行かないべきか?私はこの決断についてこう考えました:“最後に出掛けて楽しんでからずいぶん経つよな。友達が今日私を招待するのは簡単なことでもないだろうから、行くべきかな。友達には毎日招待してもらえる訳でもないし、教会の集会は次回にすればいいか。” こうして、私は用事があると断言して、教会の集会に行く予定を変更してディナーに出かけたのです。私達は食べて、呑んで、カラオケにまで行ったのですが、帰宅途中、私は心の中では何の幸せも感じていなかったのです。私は、心の奥底で、説明できないような虚しさと罪の意識まで感じていたのです。 私は過去を振り返ってみました。私が友人達や他の村民達と食事をしていた時、ディナーのテーブルでは全員がいつになく誠実に私と接してくれていたのですが、私の知らない所ではどうやって私からお金を騙し取ろうかと頭を悩ましながら悪巧みをしていたのです。私は彼らの相手をしながらとても疲れてしまいました。私はどうしても自分の関心事について話せる人が見つけられなかったのです。今日、私は出掛けて、満足するまで呑んで、食べて、友人達を満足させることも出来ましたが、私はこれから一体何を得たのでしょうか? 私は虚しくて、心細くなり、神を失望させてしまったような気分になり、自分の兄弟姉妹達にも申し訳ない気持になりました。

しかし、心に感じるこの虚しさと自責の念を以てしても私を肉の快楽から解放することは出来なかったのです。私は、依然として心の中では遊蕩生活や肉に属するものに身を任せてしまいたいと思っていたのですが、神は私の追い求めることに関する誤った考え方を正すために、実際的に様々な出来事をご用意して下さり、環境をご計画して下さったのです。国慶節が近づいていた時、私の妻がこう言って提案をしてきました:“シンプルなお祝いをしてから、残った時間で神の御言葉をもっと読んで、神の家族の動画を見ましょう。そしたら、真理をもっと授かることが出来るし、神の御救いの恵みを理解することが出来るわ。” しかし、私は妻の言葉を真剣に考えず、代わりに元々計画していた通りに記念日の祝いの準備を始めたのです。私は道のりを慎重に選び、マーケットに行って必要な食材とその他の物を全て購入しました。私は妻と一緒に海辺に行って、二人でこじんまりとバーベキューをすることにしたのです。国慶節の当日、私は妻を連れて車で楽しく出発しました。しかし、事は計画通りには進まず、道がずっと渋滞していた上に、旅の途中でGPSが誤動作を起こしていたため私達は間違った道を行っていたことに気が付いたのです。目的地まで行くのは大変で、やっと海辺に到着した時も、風がとても強くてバーベキューが出来ませんでした。こうして、私の妻は引き返して家に帰ろうと言ったのですが、私はそうしたくありませんでした。私は運転を続けてバーベキューが出来る近くの公園を探そうとしつこく言い張って、他の3つの公園に行きましたが、その全てが人でいっぱいだった上に、駐車スペースが無かったのです。これでやっと、私はしぶしぶ引き返し、自宅に向かって運転し始めました。家路はさきほど同様に大渋滞していました。私達は、元々昼食にバーベキューをしようと出発したのですが、既に夕方の4時だというのに未だ何も作れていなかったのです。私達はもう腹ぺこでした。通常なら、私は自分が正しと感じて、自信に溢れているところなのですが、今回は、腹も立たず、何も言いたいことがありませんでした。私はただ静かに座って気が晴れないまま自宅に向かって運転しました。その時です、私の前にいた車が急ブレーキをかけたので、私も素早く急ブレーキをかけました。前の車にはぶつからずに済みましたが、私達は後ろから追突されてしまったのです。幸い、誰にも怪我はなく、車の表面がかるく凹んだだけで済みました。この事故が起ったのは神の許しによることだと分かっていた私は、この運転手を非難などせずに、ただ運転を続けました。そこで私は、“入念に計画したのは全部無駄な努力になってしまったなあ。計画してても予期せぬことがあったら対応しきれないってことも、全ては神が御用意して下さっているってことも本当なんだな。今日は本当に外出して人生の快楽にふけようとするべきじゃなかったな。自分の気質を頼りにするんじゃなかったよ!” と思いました。

帰宅した後、私と妻は神の御言葉の中からこの数節を一緒に読みました:「旧約聖書時代の神の働きや神の言葉の記録を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという教義に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)「人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない…進歩しようと努力せず、理想もなければ、あなたはこの邪悪な波によって押し流されてしまうだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神のこの御言葉は世界のトレンドの本質を分かり易く、明瞭にして下さりました。世界のトレンドというものは、ただ単にサタンが人類を誘惑して堕落させるため利用しているものなのです。こういった物は人を破滅させるための罠であり、計略なのです。サタンは食べることや呑むこと、快楽を追い求めること等、肉が欲するものを利用して人を騙し、束縛するのです。人の心はこういった肉に属するものに取りつかれてしまうと、肯定的なものを追い求めなくなってしまい、神から増々疎遠して行き、結果的にはサタンによって破滅させられ、捕らえられてしまうのです。私は、神の御言葉を読んで、追い求めることに関する自分の見解はその全てが完全に間違っていたのだと気が付きました。私の関心事が食べることであれ、呑むことであれ、肉の快楽を追い求めることであれ、人の上に立てる生活を求めることであれ、こういったものの全てはサタンが人類を堕落させた結果なのです。私は、自らの実体験により、人がこういったサタンに属するものを追い求めると、人は増々堕落していき、増々ずぼらになり、放蕩していくのだと確認しました。それはただ単に、人の貪欲さ、身勝手さ、邪悪さ、そして不実さを悪化させていき、その人達は罪の中に生きることとなり、普通の人間性を失ってしまうのです。 人がこういったものを増々楽しむようになっても、こういったものをどんどん手にすることが出来たとしても、結局は虚しいままとなるのです。人がこういったもの全てを手にしても、神の前に来ることが出来なければ、その人のいのちは結局無駄になってしまい、意味もなければ、価値もないものとなってしまうのです。人は、神の前に来て、神を信じ、神を敬って初めて適切な生活を送る道を歩んで行き、人はその時初めて虚しく、邪悪な生活から自らを解放することが出来るのです。これを踏まえ、私は自分の生活の仕方を変えて、生活の正しい道を歩む決心をしたのです。

私は、自分の兄弟姉妹達が神のために積極的に労力を費やしている所を見た時、そしてそれぞれの本分を尽くすことと有意義な人生を送ることに対する彼らの情熱を見た時、私も同じものを追い求め、神の御要望に従った真の人の生き方を熱望するようになりました。これを踏まえ、私は、通常の集会への参加に加えて、自分自身の本分を尽くすための時間も欲しくなりました。この時、教会は私にいつくかの本分を用意してくれたのです。私は教会から2人の姉妹をある場所へ車で連れて行き、翌週彼女達を迎えに行って欲しいと頼まれました。 最初にこの本分が私に任された時、私は喜んでそれを引き受けました。しかし、この本分を私に割り当てた兄弟姉妹達が去った後、私はこれについて考え直し始めた上に、“困ったなあ、この姉妹達を連れて行く日は僕の休みの日じゃないか。しかも、来週ピックアップしに行く時は凄く早起きしなきゃいけなくなるし、移動距離は問題じゃないんだけど、あの道はすぐ渋滞起こすのが問題なんだよなあ。車が少ない朝早くに行くのがベストだけど、帰りに長時間渋滞に巻き込まれるかもしれないなあ。渋滞の中で座ってるだけじゃ時間の無駄になるだし、せっかくの休日が台無しだよ。。。” と後悔までし始めたのです。私がこう不平を漏らしているのを聞いた妻が私にこう言って交流してくれました:“本分を尽くすってことはあなたが思っていたほど単純なことじゃないのよ。間違いなく真理を実践することが伴うの。真理を実践するってことは、肉に背くってことよ。それは、あなたが苦難を経験して、犠牲を払うってことよ。考えてみてよ、あなたは今まで遊びにいっては呑んで、食べて、快楽を求めることが出来ていたから、疲れた日の後に楽しい思いが出来なくなって一言も文句を言わなかったでしょ。でも、あなたは、今せっかく本分を与えてもられるようになったのに、それに自分のフリータイムを使って困難のある道を歩むはめになったからって、心の中ではこれをやりたくないって思ってるのよ。この本分は、表面的には兄弟姉妹達があなたに割り当てたもののように見えるけど、これは特定の誰かのために尽くすものじゃなくて、実際には神に御満足していただくため、神の愛に応えるために尽くすものなのよ。この本分は今日、あなたに与えられたもので、神があなたを引き上げて下さっているの、これは神の愛があなたに舞い降りてきているということなのよ。あなたはこれを大切にして、初日に後悔が残らないようにしないとだめよ。” 妻は、私にこう言った後、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

私は、全能神の御言葉を読み終えた時、そして私の妻の言葉を聞き終えた時、神がこの本分を私にお与え下さったのは、私が神を満足させて苦難に耐えられるか否かを見るための本当の試験であったのだと気が付きました。しかし、私は、自分の肉の欲するものと個人的な損得だけを考慮し、苦しんで犠牲を払う意思もなく、その代わりに不平ばかり言っていることを明らかにしていたのです。私は、自分が非常に利己的であることに加え、自分の心の中では呑むこと、食べること、その他の快楽を含めた肉の喜びが神よりも高く位置づけされていたことが分かったのです。 私は食べるため、呑むため、快楽を求めるためなら自分の所有物の何を費やしても、どんな犠牲を払っても全く構いませんでしたが、神のために自分の時間を費やすことを要する本分を与えられたとたんに、私は自分の損得を判断するようになり、神に御満足していただくために真理を実践しようという意思も持てていなかったのです。このように考えて行動していたのでは、私はサタンからあざ笑われ、神の前で神の証言が出来るようにもならないでしょう。こういった事柄を理解した後、私は素早く神の前に行き、私が神の前で神の証言をし自分の置かれた霊的な戦いでサタンを打ち負かすために、確実に肉に背きサタンに従うことを止められる意思をお与え下さるよう祈りを捧げました。私は、本分と実際に協力することに対する自分の態度を改めた後、神の祝福を実際に目にしたのです。私が姉妹達を連れて目的地に向かっていた時も、彼女達を迎えに行った時も、大きな渋滞は起きなかったのです。それは私の想像を完全に超えるもので、私の観念を本当に覆されてしまったのです。私は、初めて、本分を尽くすことで得られる平安と幸福を実感し、人が肉に背き、神の御満足していただくことを実践すると、神はその人に道を開いて下さるだけでなく、その人が真理を理解して神の御業を目にすることが出来るようにして下さることも分かりました。私は、突然、これはバケーションに行ったり、豪華な料理を食べることよりも私を幸せにしてくれていると感じたのです。この本分を休日に尽くすことは全く時間の無駄ではないことが分かったのです。むしろこれは非常に意味のあることなのです!

私はこういった実経験の中で、肉に背いて本分を尽くして神に御満足いただくことの美しさを自ら知ることができたのです。神がなされること全ては、私をサタンの邪悪な支配から救い、そうすることで、私が近い将来に真理を追い求める正しい道を歩むことが出来るようにすることなのだと分かりました。こういったもの全ては神の愛であり、神の御救いなのです。数日後、私は兄弟の一人から電話を受けました。私は彼から他の省に出向いて兄弟を数人迎えに行ってくれないかと頼まれ、何のためらいもなくそれを引き受けました。これを引き受けた後、私は不満を感じてはいませんでした。私はこの任務にとても前向きに、喜んで着手し、移動も最初から最後までスムーズに行きました。兄弟姉妹達をそれぞれの目的地まで無地に送って行った後、私は自分をとても誇らしく感じました。なぜなら、私が不純な心を持たずに、意欲的に自分の本分を尽くしたのはこれが初めてだったからです。これはまた、神の創造物が尽くすべき本分を実際に尽くすということは、人が行い得る本当に最も意義深いことであると私に教えてくれたのです。私はもう呑むこと、食べること、娯楽を求めることを望まなくなり、肉の欲する快楽を求めることもなくなり、真理を追い求め、受け入れ、実践し、近い将来に神を心から愛する人になることだけを望みました。 こういった私の生活における些細なことが私の気が付かない形で私を変えてくれたのです。私の生活はもう以前のように腐っても、堕落してもいません。私は変わり始め、物事に積極的に取り組むようになりました。これはまるで、私が人生の全く新しいチャプターを歩み始めたかのような感じがします。私は心の中で今まで感じたことがないような人生の美しさと喜びを感じ、全能神が私を人生の明るい道へと御導き下さったことに感謝しています。全ての栄光、全能神にあれ!

シェ・リー(米国)


17.偽のキリストとは何か。

2019-09-27 20:11:38 | 書籍

神の言葉

人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を代表することができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

"受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを自ら遂行するけれども、天の神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりしない。むしろ、謙虚に自身の肉のうちに隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストの高慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の属性を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を預言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

 

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(2)現代のパリサイ人を見抜く方法

2019-09-26 19:03:09 | キリスト教映画

 

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(2)現代のパリサイ人を見抜く方法
主イエスが御働きをなさるために来られたとき、宗教界の指導者達は主を中傷し非難しました。そして最後にはローマの統治者と結託して、主を磔刑に処しました。今日の、全能神に敵対する宗教界の指導者達の罪深い行いは、その当時主イエスに敵対したユダヤ教の人々の恐ろしい言葉や行いに似ています。なぜでしょう。彼らが神に敵対する根本的原因を知っていますか。その本質を知りたいと思いますか?この動画をご覧ください!

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