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東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神に捧げ物をすることには実は原則がある

2019-12-03 16:17:38 | 文章

私は家庭の不和がきっかけで1997年に主イエスを信じるようになりました。その後、主の言葉を実践することで、家庭内の争いはなくなりました。主は私の家族を救い、私を痛みから救い、人生の希望を与えてくださいました。

初めて教会の集会に行った時のことを覚えています。牧師はヨハネによる福音書第十二章の第一節から八節を読み、マリアが主イエスに香油を塗ったことや、貧しいやもめがした献金について説教し、私はこれらの話を聞いてとても感動しました。牧師は私たちにこう言いました。「兄弟姉妹の皆さん、私たちは主への信仰においてマリアや貧しいやもめのようになり、主にもっと捧げ物をしなければなりません。貧しいやもめは自分の食費を主に捧げ、マリアは非常に貴重なナルド一斤を主に塗りました。つまり、マリアは自分の持ち物から一番いい物、一番貴重な物を主に捧げました。そして、このような行動を主は最も歓迎すべき、賞賛に価するものとされています。ですから、私たちもお金を捧げれば捧げるだけ宝を天に積むことになります。そうする者が主に最も祝福され、そのような者だけが今世で百倍の恵みを受け、来たるべき世で永遠の生命を得ることができるのです…。」集会の後、私は多くの兄弟姉妹が献金箱にお金を入れに行くのを見て思いました。「主イエスは人類が贖われるように十字架にかけられて亡くなられ、私を痛みから救ってくださった。だから、主の愛に報いるために主にもっと捧げ物をするべきだ。これからは貧しいやもめとマリアに倣って献金することで主を愛そう。そうすれば主に喜んで頂き、牧師にも好かれる」

それ以来、私は牧師が説いた通りに実践し、普通なら貯ていたであろうお金を特に主への捧げ物として費やしました。

私が最初に主を信じ始めて間もない頃で、ちょうどクリスマスの日のことを覚えています。クリスマスの夜、私は教会に行って五百元を寄付しました。食料などの諸費を何とか節約したお金です。他の教会から来たある牧師が私がそんなにたくさんのお金を捧げているのを見て、喜んで私を祝福して、私に大きな祝福が与えられるように主に祈ってくれました。私の献金にどれほど牧師が喜んでいるかを見て私は「この先生がこれほど満足している捧げ物なんだから、主は必ず受け取ってくださる」と思いました。主が私の捧げ物を受け取ってくださると思うと、心にこの上ない甘美な思いを感じました。それから数日間、私はもっと積極的にお金を捧げました。手元に少しでもお金があれば必ず捧げていました。教会の牧師も捧げ物をし続ける私を褒めちぎり、私が祝福されるようによく祈ってくれました。その頃の私はいつも自分の観念と想像の中で生きており、たくさんのお金を捧げさえすれば、牧師に喜ばれ、主イエスに必ずほめて頂いて、主に最も喜ばれる者となるのだと信じていました。

ところがその後、牧師と長老がお互いに嫉妬を抱き、地位と捧げ物をめぐって口論し仲たがいしました。その結果、教会は完全な混沌に陥り、私はそこに聖霊の存在による平和と喜びを見出せませんでした。

この光景を目の当たりにして、ひどく失望せずにはいられず、三自教会を離れ、主の足跡を求めて他の教派へと向かいました。因信称義(「信仰による義」)派、呼喊派やその他の教派に行きましたが、どこに行ってもほぼ同じ状態であることが見受けられました。しかも、そこの牧師の説教はいつも捧げ物の教えで、主の祝福をもっと頂けるようにもっと捧げ物をするようにと信者たちに説いていました。それで、私はいつも欠かさずそれらの教会に献金をしました。牧師と長老は捧げ物をする人を常に好み、捧げ物を欠かさない人が祝福されるようにといつも喜々として祈っていたので、私は牧師たちのやり方が正しいと信じていました。

2012年、ある姉妹が私に全能神の国の福音を伝えてくれました。求め検討することで、全能神がまさに主イエスの再臨だと確証したので、教会生活を始めたのです。こう考えました。「これまでずっと主を信じて、いつも捧げ物をしてきた。今、私はついに主の再臨をお迎えしている。もっと捧げ物をすることで神様の愛に報いたい」しかし、全能神教会には献金箱がないことを知り、思いました。「宗教界の牧師や長老は捧げ物をする教えをいつも説くのに、なぜ全能神教会の責任者はこのことに関心がないのだろう。」私には自分なりの考えがありましたが、兄弟姉妹が皆敬虔な生活を送り、福音の伝道と神の証しに自らを捧げ費やし、善行を積んでいるのを見て非常に感動しました。それで私は尚もお金を捧げて善行を積みたいと思ったのです。

ある時、私は教会の姉妹楊(ヤン)さんが福音の伝道でひどく疲れているのを見たので、福音の働きへの支援の印に三百元を渡し、貯めていたお金を神にも捧げました。すると意外なことに、楊(ヤン)さんが私にとても真剣に言いました。「李さん、全能神教会で私たちがすることには全て原則があります。献金もそうです。お金をただ受け取るわけにはいきません」

彼女にそう言われて、私は非常に困惑し、「神に捧げ物をするのは全く当然のことだ。宗教では主を信じる者はいつも捧げ物をしなかったのか。どんな原則が必要なのか」と思いました。それでこう言いました。「私は主を信じる者として、他の教会の集会に行ったことがあり、そこの牧師たちはよく捧げ物をすることについて説教して、献金するように兄弟姉妹に訴えていました。私もよく献金していました。でも牧師が献金の原則などという話について説教するのは聞いたことがありません。献金に関して全能神教会と他の教派には何か違いがあるのですか」

楊さんは愛想よく言いました。「神に捧げ物をするのは然るべきことですし、私たちが被造物として果たすべき本分です。でも、捧げ物をすることには原則があり、またそれ以上に求めるべき真理があります。先ず献金に関する教会の原則を見てみましょう。『神の働きには人の調整が必要であり、教会の各階級の指導者や同労者が神の働きを維持する上で、神の選民に養いと潤しと導きを与えることが求められることは、神を信じる者なら誰もが極めて明確に知るところである。神の国の福音が拡大するには、神の選民が奔走して自分自身を費やすことが求られる。それに加えて、神の選民が用いる神の言葉のさまざまな書籍や真理の伝達には印刷と配布が必要である。従って神の救いの働きは、神の働きを受ける神の選民の一人ひとりのために代価を払い、そうした費用は全て神の選民が神に捧げる献金によって支えられる。

従って、神は全ての選民に期待を寄せておられ、神に捧げ物を行うことは被造物の本分、義務であり、神のために自分を費やすことは彼らが果たすべき責務である。これは当然の道理であり義務である。各人がこの事柄をいかに理解しているかにかかわらず、神の働きのために自身の負担分を捧げるべきである。十分の一を捧げようと主張する者もいれば、異なる形で献金する者もいる。それは自発的に捧げられている限り、神は喜んで受け取られる。神の家の規定では、神への信仰歴が一年未満の者は捧げ物を行うことを一時的に免除され、貧しい者は捧げ物を義務付けられず、各自の信仰に従って捧げ物を行うことが許される、とだけ規定している。教会は家庭の争いにつながるような捧げ物は受け入れない。献金する者は何度か祈り、自身が完全に自発的であり決して後悔しないという確信して初めて献金することを許可される。……

捧げ物をするための原則は以下の通りである。神の働きを知らねばならず、神への信仰を通して真理を本当に認識したと悟ることができるようになると、人間としての生き方を知り、完全な救いを得る道を歩み、神の愛による御恩を感じ、自身の良心が安らぐように人としての自身の義務を果たさなければならないと感じる。

この時に捧げ物をするならば、それは全く自発的であり、同時に良心と理知を有しているため、喜びと慰めを感じる。たとえ長年神を信じていても、自分が真理の追求者だともやがて完全な救いを得るとも感じていなければ、何の捧げ物をする必要はない。捧げ物をしたところでそこには完全な自発性がないからである。……教会は説教やその他の理由で他人に捧げ物をするように求めることを許さない。捧げ物をすることについて熱弁する者は皆、下心を持っている。捧げ物をすることは、各自の良心と理知、そして真理の認識によるのである』」(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「教会設立と教会生活管理の原則」より)

楊(ヤン)さんは交わりを続けました。「李(リー)さん、捧げ物の原則によれば、自分の所有物を捧げることは私たち一人ひとりが果たすべき本分であり義務なのですが、自分が真理を理解しているかどうか、そしてそうする意志があるかどうかに従って実践しなければならないのです。なぜなら神は私たちが外面的にお金を捧げることを望まれないからです。神は一番多く捧げる者ならば誰でも祝福なさるわけではありません。神が求められるのは私たちの心であり、私たちの刹那的な衝動や一時的な熱意ではないのです。もし私たちが神の御心を理解し、神による救いを経験するゆえ神の愛に報いたいと思い、何度も祈り求め、神の祝福を得ることを意図せずに喜んで自発的に捧げ物をすれば、そのようなものだけが神が受け取ってくださる捧げ物です。もし神の御心を求めず、本当はその意志がないのに単に大金を捧げるだけならば、いつかそれを後悔するようになるでしょうし、神はこのような捧げ物は受け取られません。ですから神の家では、真理を理解せず、自ら捧げ物をしたいという意志のない人は捧げ物をしてはならないと定められています。なぜなら神は人に意志に反して何かをすることを強制なさらないからです。現在、あなたは教会に入ったばかりで、まだ理解していない真理がたくさんあります。熱心に神の御言葉を読むことに専念しなくてはなりませんし、真理を理解してから、真理の原則に従って捧げ物をしていいのです。このようにしてのみ、神はそれを記憶なさいます。それに全能神教会では、誰であれどんな口実を使おうとも、人々に捧げ物をしなさいと訴えてはいけないのです。そんなことをするのは間違った意図を抱いている人であり、取り扱い、鍛錬、警告の対象になります。人々にしつこく献金を求める指導者や同労者は解任になります。さらに、兄弟姉妹が捧げるお金は特定の個人ではなく神への捧げ物であり、兄弟姉妹からの捧げ物を個人的に受け取ったり、自分で勝手に使ってはいけません。捧げ物をこっそり盗む者はユダであり、深刻な状況においては教会を追放されます」

私は驚愕して言いました。「全能神教会はやはり宗教とは違いますね。捧げ物をするには真理を理解しないといけないし、このような原則と規定があります。これは心に神がいて神を畏れる人だけができることですし、今まで宗教では見たことがないものです。私が宗教に入って過ごした時間を思い起こせば、牧師は私たちが新しい信者か古くからの信者なのかとか、真理を理解しているかどうかなどには全く無関心でした。ただ兄弟姉妹に捧げ物をせよと訴え続け、『神は人々の捧げ物を喜ばれる。たくさん捧げた者だけが神に称えて頂ける』と言うだけでした。牧師はこのように説教して私たち皆に道を踏み外させ、たくさん捧げるほど大きな祝福を頂けると思い違いをするように仕向けました。

そのため、多くの兄弟姉妹が牧師に好かれて神の賞賛を得ようとしてお金を捧げてしまいましたし、自分が捧げたお金がありとあらゆる名目で結局は牧師と長老に巻き上げられるとは全く気づきませんでした。牧師がそんなことをするのは実に汚い策略です。ユダが捧げ物を盗んだのと同じではないでしょうか。そんな行為のなりゆきはとても深刻です。現在、全能神教会では信者が人に捧げ物をするように求めることを許していませんし、捧げ物の原則もあります。教会では先ず真理を理解することが求められ、その後で捧げ物をすることが許されます。捧げ物を個人的に横領したり浪費しようなどとする人は、状況に応じて然るべき罰が下されます。全能神教会は本当に公正で正義があり、真理が支配する教会です。楊(ヤン)さん、私は全能神が主イエスの再臨であるとすでに確信していますし、捧げ物はいたって自発的にやっていますから、どうぞ受け取ってください」

楊さんは優しく語りました、「李(リー)さん、捧げ物に誠意がこもっているとしても、原則に従って何回かお祈りを捧げなくてはいけません。と言うのも、後悔しないという確信があって、行いが純粋であって初めて捧げ物を神に受け入れて頂けるからです。それに私は自分であなたのお金を受け取ることはできません。お金を受け取るのにも原則があるからです。その原則の内容を見てみましょう。『教会の指導者、同労者、福音を伝える人は単独で兄弟姉妹から直接捧げ物を受け取ってはならない。少なくとも二人で共に捧げ物を受け取り、金銭が神の家に渡った証明として捧げ物をした兄弟姉妹に領収書を渡さなければならない。教会の上層に金銭を献上する取引は常に二人で共に行われなければならない。金銭は一人だけで運んではならない… 』(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「神の家の資金管理及び使用の行政原則」より)李さん、神は私たちを知り尽くしておられます。私たちがサタンに深く堕落させられていることも、皆貪欲な本性を持っていて金銭欲が特に強いこともご存知です。そのため教会では献金の受け取りは二人でしなくてはならないと定めています。そうすればお互いを監視できますからね。これは神が私たちを守ってくださっているのです。今私は一人ですから、捧げ物の受け取りの原則に適っていません。数日後に担当の者と一緒に受け取りに戻ってきます。原則に従った実践だけが神の賞賛を頂けるのです」

楊(ヤン)さんの話を聞いて、私は言いました。「分かりました。全能神教会では、単に献金一つにも厳しい原則や条件がそんなにたくさんあるとは気づきませんでした。宗教界とは本当に違いますし、社会にあるどの部門や組織ともすごく違います。神の家での条件は全て人を守るためのものであり、全能神教会では確かに真理が支配していることが分かります」

楊(ヤン)さんは非常に感激して言いました。「その通りです。全能神は終わりの日に働きに来られ、何百万語もの言葉を表されます。これらの御言葉は全て真理であり、完全な救いを得るために必要な全真理を人に伝え、それによって人は全ての行動において真理の原則を持ち、真の人間らしく生きることができます。全能神は仰せられます。「あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の御言葉から、私たちは何事においても真理を求め、何事も神への信仰における原則によって対処しなくてはならないことが分かります。これが神の承認を得る条件なのです。私たちは神の私たちへの要求を全て遵守しなくてはなりません。そうして初めて神の加護を頂けるからです。そのため神は私たちに神への信仰において真理を受け入れ、真理を実践し、何事も真理の原則に従って対応することを求められます。私たちがそうして初めて神の御心に沿い、神の賞賛を頂けるからです。そうしなければ、私たちは神に忌み嫌われて拒まれ、他の全ての人々にも軽蔑されます。李(リー)さん、全能神が表される真理の全てが私たちに必要なものであり、全能神の御言葉を読む限り、真理の原則をさらに理解するようになるでしょう」

楊(ヤン)さんの交わりを聞いた後、私は自分が宗教において主を信じて過ごした時期のことをまた考えました。どの教会にも献金箱があり、牧師はよく人々にお金を捧げさせるように説教をしており、一番多く捧げた人が誰であれ牧師に高く評価されていました。私たちはお金を捧げる時はただ献金箱に入れます。捧げ物をすることに原則などありませんでしたし、ましてや領収書を求めることも私たちはしなかったため、捧げたお金のほとんどは牧師と長老の懐に納まってしまいました。しかし全能神教会は違います。お金を捧げるにしても受け取るにしても従うべき原則があり、このことで本当に私の見識が伸び、視野が広がりました。

楊(ヤン)さんが私の捧げ物を断わるのを聞いた時、私には分かりませんでした。しかし献金に関する原則を読み、神の御言葉についての楊(ヤン)さんの交わりを聞いたので、彼女が真理の原則通りに行動し、完全に神の御心に沿って行動していたことが今では分かります。全世界は今やサタンによるあまりの堕落のため、暗闇と悪の絶頂にあります。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」という格言は人々の座右銘となっており、誰もがお金を崇拝し、どこもかしこもお金と権力のやり取りで溢れています。どの団体もお金を稼ぎ方を考えており、災害があった地域に寄付された救援金も権力を濫用する貪欲な役人に横領されたりします。しかし、全能神教会だけは純粋な土地であることが私にはわかります。全能神ご自身が真理を表して人に糧を与えられるのは、人が自分の本分を果たす過程において真理を求めて理解し、真理の原則に従って行動し、そうして真理を獲得し、いのちを得て真の人間らしく生きられるようにするためです。これはまさに真の神の働きです。私はこの神への信仰の道を真剣に歩んで真理を求めることによって、原則をもって物事に対処して全能神の救いを得られるようになりたいと思います。

リ・フイ


全能の神の御言葉から、私は人生の進むべき方向を見つけた

2019-11-26 00:39:40 | 文章

私はフィリピン人のノヴォといいます。私は子供の頃から母と一緒に神を信じてきました。兄弟姉妹と共に教会に行き、講話も聞きました。そうして長年主を信じてきたのですが、私には自分が不信心者のように思えました。それは、心の内ではいかに金儲けをしてより良い生活を送ろうかと一日中考えていたからです。さらに、出かけては友人と酒を飲むこともよくありましたし、小遣いができた時はギャンブルしに出かけました。自分が悪い事をしているのは知っていたので、こうした自分の悪癖を変えます、としょっちゅう神に祈ってはいましたが、結局それを実践に移すことは全くありませんでした。こうして、私はどんどん堕落していき、心から神に祈ることもせず、毎週形だけの簡単な祈りを捧げているに過ぎませんでした。主が戻っていらっしゃった時には一人ひとりの行動をお裁きになり、誰が天国へ行って誰が地獄へ堕ちるか決められるのは知っていたので、私は時々非常に絶望的な気持ちになりました。私は堕落した人間であり、神は私をお許しにはならないだろうと思いました。そうこうするうちに、私は結婚して子供ができ、信仰は心の片隅に追いやってしまいました。子供により良い将来を与え、金持ちになりたいという願いを叶えるため、私は故国を離れて仕事を探すことにしました。その結果、私は台湾に渡りました。しかし、仕事が見つかってからも、過去の生活習慣を変えることはありませんでした。暇な時には相変わらず同僚と出かけては飲んだり歌ったりして、不信心者の生活を送っていました。

2011年から私は台湾のある工場で溶接工として働いていました。そして2012年のある日、台湾の同僚からカトリック教徒か聞かれたのです。私がそうだと答えると、その同僚は自分の教会のミサに私を招待してくれました。それからある日曜の朝、夜明けとともに、同僚は工場に私を迎えに来て、友人の家に連れて行ってくれました。そこで私はジョセフ兄と出会ったのです。ジョセフ兄は「兄弟よ、あなたは主なるイエス様の再来を待っていますか。」と聞くので、私は待っていると答えました。するとジョセフ兄は「主なるイエス様が戻っていらっしゃった時にはどんな働きをなさるかご存知ですか。」と重ねて聞くので、私は「白い玉座に座られ、人類を裁いて違うグループに分けられます。その後、各自の行動と行為により、その人が天国へ行くか地獄へ堕ちるかを神が決められます。」と答えました。するとジョセフ兄は続けて「もし私たちが主なるイエス様は既にいらしており、裁きの仕事をなさっていると言ったら、信じますか。」と聞くのです。それを聞いて私は非常に驚き、こう思いました。主なるイエス様が既に戻っていらした?そんなことがあるだろうか?既にお戻りならば、裁きを行われるのではないか?私は大きな白い玉座の前で裁きが行われているのを見ていないぞ!しかし、私は神の裁きは神秘であり、神の知恵は人間には計り知れないと思い、こうした思いを直接ジョセフ兄に尋ねることはしませんでした。私の考えは間違っているかもしれないので、まず彼らの考えを聞いた方がいいと思ったのです。そこで私は「それは私が答えられるようなことではありません。もっと話を聞かせてください。」と言いました。ジョセフ兄らは、それから聖書の様々な個所を示し、主なるイエス様が戻っていらしたら行われる裁きの働きについて話してくれました。その時見せてくれた中には「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)」「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)の2か所もありました。私は聖書が神の働きを記したものだと知っていましたから、ジョセフ兄らが教えてくれたことは真実だと思いました。

次にジョセフ兄は全能の神の御言葉から「裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)の2か所を読ませてくれました。

私が全能の神の御言葉を読み終わると、ジョセフ兄らは話を続け、神の働きは本当に現実なのであって超自然的なものではなことをわからせてくれました。終わりの日における神の裁きの働きは、私の想像とは違いました。私は、神が天空に大きなテーブルを据えられて大きい白い玉座にお座りになると、一人ずつ神の御前に立ち、神が私たちの罪を読み上げて私たちが善良か悪かを定められ、天国に行くか地獄に堕ちるかを決められるのだと思っていました。しかし実際は、御言葉を表し、人間の邪悪と不従順を明らかにされるために、神は現実に受肉なさったのです。神は人間の罪を裁かれ、自分の邪悪な本性を理解できるよう助けてくださったのち、内なる罪深い本性をなくして、昼は罪を犯し夜はその罪を告白するという生きる苦しみを終わらせてくださいます。神は私たちが神を真に理解できるよう助けてくださり、私たちが清めと救いに到達できるようにしてくださいます。こうして、人間は天の王国に入る資格ができるのです。終わりの日における神の働きを受け入れず、生き方の性情を変えない人は、最終的には火の湖に投げ込まれます。このように裁きの働きを行われることで、神は実際に人間の現実的な要求に応えてくださるのです。私はこう考えました。長年主を信じてきて、頻繁に神に祈っては罪を告白してきたにもかかわらず、私は未だに罪に生きてきた。ギャンブルをし、酒を飲み、嘘をついて人を欺いた。いつも罪を犯しては告白し、また罪を犯した。私の人生は苦しみに満ちている。確かに、私たちは本当に神に来ていただき、裁きと救いの働きをしていただかねばならない。聖書には「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)と書かれている。主は聖なる方である。もし人間が罪から清められないなら、主の御顔を仰ぐ価値はない。もし我々の想像通りに、神が人間を裁くために終わりの日にいらして天空に白い玉座を据えられ、直接人間の終末を決められるとしたら、人間はどうやって罪をなくせるだろうか?人間は非難され、懲罰を受けているではないか?全能の神は、お戻りになった主なるイエス様のようだ。これは本気で研究しないといけない。主をお迎えするチャンスを逃してはならない。

そして私は『言葉は肉において現れる』という本をもらい、とても嬉しく思いました。家に帰ってから、私は神の御言葉を一晩中読みました。全能の神の「あなたがたの口は欺きと卑猥な言葉、裏切りと傲慢な言葉で満ちている。あなたがたはわたしに正直で聖い言葉も、わたしの言葉を体験しわたしに従う言葉も決して語ったことはなかった。これはどんな信仰だろうか。あなたがたの心は欲求と富で満ちており、あなたがたの頭の中は物質的なもので満ちている。毎日、あなたがたはわたしから獲得した富と物質がどれくらいあるか評価して、どのようにわたしから得ようと計算している。毎日、あなたがたはもっと祝福が施されるよう待っている。その結果もっと大きな娯楽を楽しめるかもしれないからである。いつもあなたがたの考えにあるのは、わたしでもわたしから来る真理でもなく、むしろ夫(妻)、息子や娘たちであったり、あるいは食べたり、着たりするもの、そしてどうやってもっと楽しく過ごすかということであったりする。たとえお腹が一杯になっても、あなたがたは依然として死体以上の存在ではないか。たとえあなたがたの体をきらびやかに着飾っても、いのちのない死体が歩いているだけではないか。あなたがたは白髪が生えるまで、腹を満たすために一生懸命働くが、だれもわたしの働きのために喜んでうぶ毛一本さえ犠牲にしようとはしない。あなたがたは旅をし、骨折って働き、肉のためにまた息子や娘たちのために頭を悩ますが、だれもわたしの心にあるものを心配したり考慮したりすることはない。あなたがたはわたしから何を得たいと思っているのか。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」より)という御言葉を読み、私は神の御言葉が鋭い刀のように心に突き刺さるのを感じました。御言葉は私の生きる状態をまざまざと明らかにし、内なる心の本当の状況を言い表しました。私は、神のみが人間の心を調べ、人間の邪悪を顕せると知っていたので、全能の神の御言葉は本当に神の御言葉だと思いました。神の御言葉から、私は自分の信仰が嘘と欲に満ちていることを知りました。私は神の御名だけを受け入れていましたが、心には神がありませんでした。私は自分の家族や仕事、そして自分の将来だけを考えていました。毎日、どうしたらもっと金儲けができるか、どうしたら家族がもっと豊かな暮らしができるか、とだけ考えていたのです。私は神に対し、折に触れて神を愛しますと告げていましたが、言った通りにせず、神を欺き続けました。また、私はいつでも、神に祈る際にもっと祝福してくださるようお願いしていました。神は永遠に愛の神であり、人間に対する慈悲で溢れている、例え私が罪を犯しても神は私の罪を赦し、私に慈悲をたれて祝福してくれると思っていたのです。しかし、全能の神の御言葉を読み終わった私は、何人も神の義なる性情を犯してはならないことを知り、私の心は神を畏れ始めました。裁きと刑罰についての神の御言葉により、私は自分の過去を非常に悔やみ、とても悲しくなって寝床の中で泣きました。人生で初めて、私は激しく泣きながら、「神よ、私の罪をどうかお赦しください。あらゆる点で私はあなたに背きました。あなたを欺きました。私にはあなたに共にいていただく資格はありません。私は刑罰を受けるべきです。神よ、悔い改め、救われるチャンスを下さり、感謝します。これからは、真実を求めるために最善を尽くします。真実の心をもってあなたを愛します…。」と神に祈り、悔い改めました。そして祈りの後、罪を犯しては告白するという悪循環に陥った自分の生き様を変えるために、私には神の裁きを受ける必要があるのだ、全能の神の御言葉をもっと読み、頻繁に御言葉について考えることで、真実をより良く理解し、肉体に背く強さを持ち、真実を実践に移して神の御心を満足させられるようにしなければならないのだ、と言い聞かせました。

それ以来、私は『言葉は肉において現れる』の本を職場に持っていき、仕事中に暇な時間がある時は神の御言葉を読み、それについて考えました。全能の神の御言葉により、私は自分の行動と考えがいかに邪悪で反抗的なものであったかを知りました。全能の神は「あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。」あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より)とおっしゃっています。神の御言葉の内に、私は自分の邪悪な性情を解決する道を見つけ、最高に誠実な態度で心の底から神に祈るようになりました。そしてこうした祈りにあって、神が私を導いていらっしゃるのを何度となく感じました。内には信仰と力がありました。私は過去のような生き方をしなくなり、心の内にあった邪悪な思いや考えを行動に移さなくなりました。私の人生は変わりました。罪を犯してはそれを悔い改めるという生き方ではなく、代わりに、真に神の光の内に生きるようになりました。そして今では、神の御言葉に従って行動するようにしています。また、私の考え方もその多くが変わりました。全能の神の御言葉は、私の人生に正当な目的を与えてくださいました。過去にしたように、贅沢な暮らしを送ろうと知恵を絞ることはやめました。他人より抜きん出ようとするのもやめました。その代わりに、私は自分の邪悪な性情から解放され、清めと救いを得るために、真実を追求しています。また、神の愛に報いるために、どんなことについても神の御言葉を守り、創造物としての義務を果たそうと努力しています。

2014年7月、私はフィリピンに戻りました。フィリピンからは多くの兄弟姉妹が神に選ばれていることを知り、非常に嬉しく思いました。現在私は全能の神の教会で教会生活を送り、兄弟姉妹とともに神の御言葉について語り合っています。私たちは互いに支え合い、真実を追求し、生き方を変えようと努め、救いを得るために皆で一生懸命頑張っています。私たちはまた、終わりの日における全能の神の働きを自国や外国の人々に証言するために、一生懸命努力しています。私たちは主なるイエス様が既に戻られたことを知ってもらいたいし、私たちのように終わりの日に神の救いを得られるようになってもらいたいのです。全能の神に感謝いたします!今や、私の人生は非常に豊かで、毎日が幸せです。あの堕落した生活は全く捨て去ってしまいました。こうして私に人生の目標と進むべき道を見つけてくださったのは、全能の神です。そして私は、こうした生き方が意味のある生き方だと感じています!

フィリピン ノヴォ

 


カトリックの信仰:主は本当に再臨された

2019-11-14 19:38:52 | 文章

レンシー(米国)

私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

カトリックの信仰, 主の再臨
ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。

「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

ヤン兄弟は言いました。

「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。

編集者注 このエッセイを読むと、今日の教会がすべてひどく荒廃している理由、そして私たちはどのように主の再臨をお迎えするべきかがついに理解できました。私たちは、本エッセイの主人公が成し遂げたように、忠実な兄弟姉妹のすべてが聖霊の働きを受け、神様の足跡を辿ることを私達は願っています。では、私たちはどのように注意して主の再臨をお迎えするのを待つべきでしょうか。 (待つ―主の再臨をお迎えするにはどのように目を覚まして待つべきか?)」と題した素晴らしい映画からの抜粋をお勧めします。

 

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(II)

2019-11-11 20:06:18 | 文章

その後、映画の主人公であるシャオイーがこのように語っている場面を観ました。「なぜ中国共産党は全能神教会を人間の組織だと言うの?なぜ受肉された神様には触れないの?『言葉は肉において現れる』のこともそうだ。中国共産党は全能神が表した真理を恐れているからさ。共産党は知ってるんだ。全能神の信者はみな『言葉は肉において現れる』を読んで全能神を受け入れたって。だから全能神教会が人の手によって創られた、人による組織だなんて言いふらすんだ。終わりの日のキリスト・全能神の出現と働きを隠して、この男性に注目を集めようとしてる。人々が神様を信じて従うのを止めさせるものだ。それが本当の目的だよ。事実を捻じ曲げ、神様が働きをなさる教会を人間の組織だと言う。そんなの神様の教会を弾圧するための言い訳さ。中国共産党はとことん狡くて邪悪だよ。」

その瞬間になってようやく、中共政府がいつも「全能神教会は人間の組織である」と主張する理由がわかりました。これは、中共が全能神教会を抑圧するための口実であり、その悪しき動機が隠されていたのです。映画の抜粋シーンを観た後、刘(リュウ)さんから3つの聖書の言葉が送られてきました、「そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。」(ヨハネの黙示録13:6)「この時代は邪悪な時代である」(ルカによる福音書11:29)「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙5:19)

刘(リュウ)さんはこのように話してくれました。「アダムとエバが神の御心に背いて善悪の知識の木の実を食べたため、人間は堕落してサタンの支配下で生きるようになり、サタンの邪悪な道を歩み、神に抵抗しています。全世界がサタンによって支配されてきたと言えます。ですから、この堕落した人類は、神の働きが到来してもいつも非難し、拒絶し、抵抗しています。主イエスが現れて働かれた時と同じです。この時もユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人がローマ政府と共謀して主イエスを十字架にはりつけにしました。終わりの日には、神の働きを為さって真理を伝えるために出現される全能神は宗教界からも中共からも非難と抵抗を受けられます。しかしサタンがいかに猛威を振るおうと、いかに神の働きを妨害して覆そうと、神の羊たちは皆神の御座の前に戻ります。これは神の権威によって決定されます。噂を流して神を非難し冒涜する人々は永遠に救われないのです。この点は疑いの余地がありません。神が世界を洪水で滅ぼし、ソドムを焼き尽くされた事実や、ユダヤ人がイスラエルから追放され、世界各地に離散した事実から、神の性質が聖く義にして、不可侵であることがわかります。神に抵抗する者は誰しも、神の義なる罰を受けなければなりません。一方、世界から拒絶され、非難されるほど、神の働きが為される可能性は高く、なお一層求めて吟味すべきものであることもわかります。真の道は古くから迫害を受けてきたためです。」刘(リュウ)さんの話はあまりにも反論の余地がなかったため、私は完全に納得しました。

それから刘(リュウ)さんは、『いのちの入りについての説教と交わり』の次の一節を送ってくれました、「真の道を吟味する際、特にウィキペディアに頼る人々がいます。彼らは『ウィキペディアに書かれていることは正確だ!』と言いますが、よく考えてみてください。ウィキペディアとは何でしょうか。この世のものに過ぎません。堕落した人間に書かれていないでしょうか。サタンの悪の力の一部ではありませんか。そこには真理があるでしょうか。そこに真理はありません。神に仕えるものではなく、神を畏れることは決してなく、神に証しされたグループではありません。どうしてそれを信じるのですか。嘘だらけのサイトです。嘘を広めています。サタンの政府が捏造する噂や嘘なら何でも、ウィキペディアは広めています。従って、嘘を広める組織ではありませんか。中国共産党が捏造する噂なら何でも、彼らが全能神教会の信用を傷つける手段なら何でも、ウィキペディアに掲載されます。つまり、ウィキペディアはサタンが嘘を広める道具で、サタンが人を欺く道具ではないでしょうか。それなのにどうして人々は真の道を調べるときウィキペディアを信じるのでしょう。この人々は何を血迷っているのか。この世が義であり公正であると信じているのでしょうか。政府や宗教界が『これが真の道だ』、『これが真の神だ』といった意見や主張を述べれば、この人々はその道と、その神を信じるでしょう。政府や宗教界が『これは真の道ではない』とか、『この神は本物ではない』と言えば、この人々はその道もその神も信じないでしょう。彼らは誰を信じるのかと言うと、政府を信じ、宗教界の言葉、宗教界の牧師や長老の言葉を信じています。ではこのような人は本当に神を信じているのでしょうか。彼らは神を信じていません。真理を認識しないため、神を信頼せず、神が本物であると信じず、神が真理であることを認めません。それ故に、そのような人が真の道を分析しようとすれば、サタンの嘘や噂を耳にするなり麻痺してしまうでしょう。この人は知的でしょうか。いいえ、違います。混乱しているのです。私の神への信仰には一つの原則があります。もし神であるならば、真理を伝え、人間を救うことができるはずです。それができれば私は信じます。私の神への信仰は揺らぎません。私たちが神を信じるのは真理を頂くためではないでしょうか。真理を得ることは、神を得ることです。真理を得なければ、あなたの信仰は失敗であり、何の役にも立ちません。真理を得て初めて、神を得ることができます。真理を得ずに、神を得ることはできません。」

この話の一節を読んだ後、私は何だか恥ずかしくなりました。どの言葉も自分に向けられていたように感じて、こう思いました。「そうだ、ウィキペディアはこの世のものであり、その内容も堕落した人類によって書かれている。彼らは神を知らず、真理を持たず、神によって証しされた集団ではない。彼らが広めているものはあまりにも不純物だらけじゃないか。神への信仰と真の道の吟味において、俺はこの道に真理があるかどうかを確かめるべきだ。神のみが真理であり、道であり、いのちであり、神の働きのみが真理の表現なのだから。以前の私は、全能神の御言葉が真理であることは理解していたが、未だに中国共産党の噂や、権威があるとされるサイトに支配されていて、全能神の働きを吟味しようとしなかった。本当に愚かだった。中国共産党は全能神教会についての噂をたくさん捏造してきたし、ネットのプラットフォームは見境なく無分別にそれらを公開し、あちこちに転載している。それらが人々に及ぼす害は深刻だ。幸いにも、神が兄弟姉妹を通じて私を助け、導いてくださったおかげで私は惑わされていない。そうでなければ、主の再臨を迎えるチャンスを逃していただろうな。」

私は刘(リュウ)さんに尋ねました。「どうして神はこれらの噂が存在し、ネット上に溢れ、神の信仰者を欺いて害を及ぼすのを赦しておられるのでしょう。」

刘(リュウ)さんは、私が読むために神の御言葉の一節を送ってくれました。神の御言葉にはこうあります。「大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている『脱穀場』だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの『悪い者』が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。」

刘(リュウ)さんはこのように話してくれました。「全能神の御言葉から、神が働かれる間にこれらの噂の存在を許されているのは神のご厚意と知恵によることが分かります。神の国の時代の働きは、神の人類救済のための経営計画を完了させるためのものです。神は、神を心から信じている人々の集団を神の国に招き入れ、偽の信仰者や空腹を満たすためにパンを求めるだけの人々を暴き、排除されます。主の信仰者は数多くいます。真の信仰者か偽の信仰者であるか、毒麦か麦であるかはどのように証明できるでしょうか。これらの噂は、神が人々を暴く働きを為さる道具の役割を果たしてきました。これは、神の知恵と全能性を十分に示しています。ある人が真の信仰者か否か、麦か否かは、この噂の嵐の中で暴かれるでしょう。これは脱穀場をきれいにするという神の働きであり、神の終わりの日の働きを受けた人は皆、この試験に合格しなければなりません。ここから、神の働きはまさに本物であり、非常に実際的で賢いことがわかります。終いには、サタンさえもその心と口と目が納得を示し、神の義を称えるようになります。」

神の御言葉を読み、兄弟の話に耳を傾けたところ、私は急に目が覚めて、神への感謝の気持ちがこみ上げ、自分のそれまでの歩みを思い出しました。絶望のふちに沈んでいた私を困難から救い出し、希望に満ちた米国という地に足を踏み入れるチャンスを与えてくださったのは神でした。そうして私は真のキリスト教徒になり、自由に神を崇拝しています。神の終わりの日の働きが私のもとに到来したとき、ウィキペディアの記事を盲目的に信じたためにサタンの噂の犠牲になるところでしたが、神が慈悲と恵みをかけ、兄弟姉妹を通じて思い出させてくださったおかげで、神の働きを求め、吟味して、救いのチャンスを掴むことができました。今では毎日神の御言葉を読み、神の働きを経験しています。兄弟姉妹と協力して神の国の福音を広めています。神の国の福音を広めるという本分を尽くすことができ、大変光栄に思います。神に感謝します。全能神にすべての栄光あれ。

ウィリアム、米国

 

全能の神は私に人生の二度目のチャンスをお与え下さりました

2019-11-08 08:44:13 | 文章

2012年7月21日は私にとって最も忘れられない1日、そして私の人生で最も重要な1日となりました。

あの日、北京の房山区は過去61年で最も激しい豪雨に見舞われていました。午後4時過ぎに、私は外の様子を見に街路に出ると、あちこちが水浸しになっていました。私の家の車は既に水に浮かんだ状態で、未だ水流に流されていなかったのは車の前にあった物が車をブロックして動かないようにしていたからです。この光景を見てとても気掛かりになった私は、すぐさま私と同様に神の信者であった旦那に電話をしたのですが、何度電話しても連絡が取れませんでした。その時、私は神の御心を求めずに、急いで家に戻って旦那と連絡を取ることにしました。

その後、私と旦那は傘を手に車を見に行きました。私達が車の隣まで行くと、旦那は運転しようと車に入ろうとしたのですが、車は旦那が触れる前に勝手に動き始めたのです。旦那は急いで数歩だけ追い掛けましたが、車は水流に流され、旦那も一緒に引き込まれてしまったのです。これに慌てた私は駆け寄って旦那を掴みたかたのですが、そう動く前に私も水流に引き込まれてしまったのです。あっという間に、私達はこのうなるような水流に60メートル以上も押し流されてしまったのです。丁度その時でした、ミニバンタイプのタクシーが突然私達の目の前に横向に浮かび上がって来たのです。私の旦那はこのタクシーに寄り掛かって体を起こそうとしたのですが、そうする前にタクシーは押し流されて行き、私達も一緒に数メートル押し流されてしまいました。水流の流れが変わった個所で、旦那はついに無理やり起き上がる事ができたのです。旦那は、「早く!あの高いパビリオンに入るんだ!」、と言って、私達は手をつなぎ、やっとの思いで小さなパビリオンの中によじ登っていったのです。丁度その時、洪水はその水位を増し、私達はまた流されてしまわないかとビクビクしながら柱にしがみつきました。私は、この生きるか死ぬかの危機に陥ってから初めて神を頼りにすることを思い出したのです。私は心の中から、「神様!今日私が生きるか死ぬかはあなた次第で御座いますが、私の死もあなたの義となることでしょう!」、と続けて祈りを捧げて懇談しました。私は神から一瞬たりとも離れようとせずに、何度も続けて祈りを捧げ続けました。突然その時、奇跡が起こったのです。沢山の棒が私達の方向に流れる水流をブロックし、洪水に体を打たれ続けても痛みを感じなくなったのです。水位が高くなるにつれ、私達は神を讃えながら祈りを捧げ、讃美歌を歌い続けました。後に、水流の勢いは増し続け、私は完全に疲れ果ててしまい、これ以上は柱にしがみついていられないと思いました。私は慌てて、「これ以上は無理。私はこれで終わりだわ!」、と旦那に叫びました。そして突然、私は洪水に飲み込まれてしまったのです。私の旦那は急いで私を掴もうとしたのですが、その瞬間が私の生死の分かれ目となったのです。丁度その時でした、車が私達の前に浮かび上がり、偶然にも柱の間に挟まったのです。急流は車の両サイドを流れるようになり、私達の無事が確保されたのです。神はなんて素晴らしいのでしょう!神は本当に全能なお方なのです!あの日、神が私を御救い下さっておらなければ、私は洪水に流されてしまいどこかで命を落としていたことでしょう。全能の神が、私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったのです。神はこれについてこう仰っておられます、「神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)

こうして私達は5時間も雨に打たれ続けました。実は、それまでに、レスキュー隊員数人が既に私達を発見していたのですが、水流の勢いを見た彼らは自分達が流されてしまうことを懸念して、私達を救助しに来ずにただ単に遠くから見つめていたのです。明らかに、人は災害発生時には自分勝手でどうすることも出来ないのです。全能の神のみがいのちの源であり、それ以上に、神のみが時にかなって私達を救うことが御出来になるのです。全能の神から離れるということは死ぬということなのです。私は神の愛を個人的に体験できたことを踏まえ、「私は、本日より、意を決して全能の神に従い、神から授かった御救いに対して、神の優しさの恩に報いることが出来るよう自らの個人的な経験を用いて福音を広げ、より多くの人々を神の前に導いて行く」と神に誓いたく思います。

一般的な兄弟姉妹2人(北京)

2012年8月15日

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