東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

神を信じる道で、良き方向への転換

2020-01-15 22:48:40 | 信仰と生活

長年、神に従ってきましたが、いのちの入りへの道で私はほとんど進展しておらず、これが私を非常に不安にさせていました。特に、いのちの入りに関する説教の録音で、聖霊がこの男性を使って、そこで説教を聞いてた兄弟姉妹に話しかけたという話を聞き、彼が「あなたがたは、今、神を信じており、真理を求める素晴らしさを味わってきました。あなたがたは正しい道を進み始め、あなたがたの救いを求める道は信頼感で一杯です。」というようなことを言ったのを耳にし、不安でいっぱいになりました。私は、「彼らは神を信じ始めて間もないのに既にいのちの入りの道に進み、救われると確信しています。一方、私は長年神を信じているのに、まだ真理を得ることができず、人生における私の性質は全く変わっておらず、正しい道に入ったかを気にしたことさえない。救いを得ると言うのは簡単だが、実行するのはそうたやすいことではない!」と考えました。私は、「真理が人間のすべての腐敗を解決すると、神はどのように話したのだろう」と考えました。私自身はこれを経験したことが全くなかったのです。真理は私以外の人の腐敗を解決しても、私のは解決しないとさえ感じ、真理や救いを求める道に対する信頼を失ってしまいました。私自身の状態が正しくないことに気が付いていましたが、そこから逃れる術はなく、神に助けを求めるより他に何もできないでいました。その後、神の言葉が私を啓き、なぜ、私が長年、神を信じながら人生に進展がなかったのか、なぜ、私の性質が全く変わらなかったかの理由を私に分からせてくれました。さらに、神は私が真理を実践し、いのちの入りへの道に促してくれました。

神の言葉は次のとおりです。「人間のいのちの成長と人間の性質の変化はみな、現実に入ることによるのであり、さらに、詳細な経験に入ることによるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より)「真理を知っているが、真理とはそれ以上の何ものでも無いと考え、その真理を実践しない者も居る。そうした者は、真理は自分の意志や腐敗を解消できないと考えている。こうした者は愚かではなかろうか。こうした者は、不合理ではなかろうか。こうした者は、自分が聡明であるという妄想を抱いているのではないだろうか。人間が心理に従って行動したならば、人間の腐敗した性情は変化する。人間が生来の人間性に従って神を信仰し、神に仕えたならば、性情が変化する者は一人として居ないであろう。終日自分の不安のことだけを考え、真理について調べ、既知の真実を実践することが出来ない者も居る。こうした行動は極めて不合理であり、そうした者は生来苦悶する者であり、祝福を得ていながらそれを享受しない者なのだ。」(『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より)神の言葉の啓示を通してのみ、私は、長年、神を信じてきながら私の性質に一切変化がなかったこと、そしてこれは、私が神の言葉を文字通り、理論的な意味において理解することにのみ集中し、理論上の理解でしかなかったことが主な原因であることに気が付きました。私は、真理を実践することや、現実に入ること、さらには、実践的な経験を通して神の言葉を体感することに意識を集中していませんでした。私が神を信じてきたこれまでの長い年月を思い返し、真理のどのような側面であろうと、それを深く理解したり、真理の性質を理解したりするために努力していませんでした。いわんや、真理の側面を理解するため、細かく実践するための道に入ろうとさえしていませんでした。そうする代わりに、理論上の知識や理解で十分であると考えていたのです。たとえば、実生活の中で、私は名声や利益を得るために常にもがいており、他者に自分の意見を聞いてもらい、自分を尊重し、自分が優れた人間であることを保証してもらいたいと考えていました。これらの腐敗が明るみに出ると、少しの間考え、私自身の腐敗を認め、これは私の傲慢さの現れ以外の何物でもないことを知りながら、神に祈りました。その結果、何度も、自責の念を感じ、神に懺悔をしたところで、私の昔から本性は変わることがなく、同じ過ちをいつまでも繰り返してきました。神が用意した環境で祈り、神を求めることにより、神がこの環境を使って私の腐敗に対処したことが分かるようになりました。このことを理解しても尚、神によるすべての試練や調整、そして神によるすべての私への対応やすげない態度は、神の救いであり、神の愛であり、神の心は常に善良であり、それ以外の何物でもないことを頭で認識するのみでした。その結果、いくつかの困難を経験したにも関わらず、私は全く変わらないでいました。あの男性の説教を聞いた後、私はこの交流こそ私が必要としていたものであり、これにより、私がこれまで理解することのなかった真理を理解することができるようになったと感じました。それにもかかわらず私が行なったことは、交流を頭の中で思い返すだけで、それに特に注意を払わなかったため、少しばかり理解したものも暫く経つうちに消失し、何も得ることができなくなっていたのです。

これらの事実に直面し、私は真理を全く求めていなかったと気が付きました。私は、長年神を信じていましたが、真理を実践したり、現実に入るための努力を一切したりしてきませんでした。そのため、長年、真理を得ることも、私の性質を変えることもできずにいました。これは、神の義なる性質の現れに他ならず、神はかつて次のように言っています。「神の言葉を実行できるよう、生かし出すことに全力を尽くさなければならない。もしあなたが教義上の認識しか持っていないなら、あなたの神への信仰は無意味なものになるだろう。もしあなたが神の言葉を実践し、言葉を生かし出すなら、あなたの信仰は完全であり、神の心と一致していると見なされる。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは神を信じているので真理のために生きるべきである」より)神は義なる存在です。神は誰も不公平に扱ったり、気まぐれに人に与えたりしません。ましてや、人に無条件に与えたりすることもありません。私は真理を実践せず、神の言葉に生きる努力をしませんでした。その結果、今日、巻いた種を刈り取らなければならないのです。今回、私はひどい自責の念にかられ、神の働きを経験しながら、自分からいのちの道に入らず、そして今日、私が信じるものに対して何1つ見せるものがなく、神の救いに則して生きていないことを激しく後悔しました。しかし、このような堕落した生き方は続けたくありませんでした。その代わりに、ゼロからやり直し、実践の中で努力し、神の言葉を自分自身の中で実行したいと思いました。

その後、私は、真理の実践と現実へ入るための訓練を始めました。もう私は、かつてのように、神に祈ったり懺悔をしたりするだけで、他者に自分の意見を聞いてもらい、自分を尊重し、自分が優れた人間であることを保証してもらいたいと思うことはなくなりました。代わって、真理を求めるために神の前に出て、特にこの問題と関連した神の言葉を飲食できるように探し、神の言葉による裁きや刑罰を受け入れ、この方法で私自身の腐敗を解決するようになりました。このようにして真理を実践し、いのちに入る時、神は、私が他人に私を先祖のように敬わせ、あるいは、神のように崇拝させようとし、神の性質と競っていたことを特別の恩寵により見せてくれました。私はその本性において悪魔サタンであり、その本質は、赤い大きな竜のそれと極めて近かったことを知り、無意識のうちに、自分自身の本性に不快感と嫌悪感がこみ上げてきました。その後、神を崇高な存在たらしめる真理、神に証言することに関する真理を学び、実生活の中では、いのちに入るための訓練を受けました。この実践を通して、私は高みに立とうとしていた自分の醜さや忌まわしさをさらに明確に認識し、人々にそれについて伝えました。私は自分自身をさらに嫌い、呪い、肉体を捨て、神に喜んでいただくために真理を実践したいと考えるようになりました。このようにして暫く訓練を受けた後、私の傲慢な性質が現れるのが著しく少なくなったことに気が付きました。

通常の対人関係では、寛容さや忍耐を発揮し、知恵を使い、信条を持ち、正直な人間なる必要があることを過去においても知っていました。しかし、実際にはこれら5つの側面に入ったことがなかったのです。そのため、兄弟姉妹と交流していると、つまらないことや彼らが露呈したいくつかの腐敗した性質により、彼らに対して偏見の念が湧き、彼らと仲良くすることができなくなってしまうことがよくありました。現在、過去に対する理解を実生活に活かし、訓練と実践を続けています。他者が露呈した腐敗した性質により彼らに不親切な態度を取ってしまった時は、神に祈り、真理を求め、私が遭遇したばかりの問題をどのように理解すべきか、どのように神の言葉を実践し、そこに入るべきかをたずねます。神の導きにより、現在、すべての人が変わろうとしていることを知っています。ですから、腐敗した性質が今後も露呈されることがあるでしょうが、その性質を露呈した人自身がそれに気付いていないか、彼自身の性質に無意識に支配されているのです。または、意図的に私に対してそのような態度に出ているわけではありません。これは、私が常に傲慢だった性質が他者をうんざりされていたにも関わらず、私自身が全くそれに気付いていなかったのと全く同じです。これはすべて、サタンが人に行なう害です。憎むべきはサタンであり、兄弟姉妹について人間が意見を持つべきではありません。このように考えると、私の内側に留まる怒りや恨みが瞬時に消え、サタンへの怒りに取って代わり、兄弟姉妹に対する共感や許しの気持ちが湧き、彼らを助けるために適切な機会を模索したいとさえ思うようになりました。自ら進んで他者を助けようとすると、彼らとの関係はずっと友好的なものになり、彼らを助けたことから得る幸福感を味わうことができました。

神の言葉に入り、真理を実践するために訓練をしていると、実践的な経験を得て、真理のあらゆる側面に入っただけではなく、神の素晴らしい働きも目の当たりにしました。神のリーダーシップや導きを感じ、真理を実践することにより私の心にもたらされた確かさ、平和、喜びを味わいました。人生において無意味なものは何もなく、毎日、学ぶべきレッスンがあり、毎日、新しい見方や理解があり、毎日、神が私を救ってくれるのを見ることができ、真理を感じ、これを求めることがとても有意義であり、真理は本当に人を救い、変えるものであることを実感しました。

この個人的な経験と理解を得た後、神を信じる私の道は良い方向へ転換されたと感じ、救いは私の手の届かないところにあると感じることはなくなりました。私が神と一緒に働き、今後も、真理を学び、実践し、これに入り続ける限り、私の腐敗した性質を必ず変えることができると信じています。神の働きは人を助け、神の言葉は人を変えると信じています。私はこれを既に味わったため、これを信じています。今日から、私は、大地にしっかりと足をつけ、真理を求め、実践していきたいと思います。私が神の証人となり、私を救った神の働きの証人となり、人を救う神の力の証人となり、神の素晴らしい偉業の証人となれるよう、真実の人として行動するために、神が今後も私を導き、私の性質を変えてくださいますように!

上海市 転変

 

神様の働きはとても賢明である

2020-01-14 23:18:45 | 文章

安徽省鞍山市 実際

私が教会で指導者として働いていた時、私の指導者は私たちへの教訓として他の人の失敗談をよく話してくれました。例えば、字義や教義について語るばかりで、自分自身の堕落については触れなかったり、真理が現実にどう当てはまるかについて自分の見解を話さなかったりする指導者がいたそうです。その結果、彼らは実際的な働きを行なうことができず、偽指導者となって交代させられました。また、自分を誇示したり、高く掲げたり、地位を守るために自分の証しをする指導者もいました。最終的に、そのような指導者は人々を自分の前に連れてきて、ありとあらゆる悪事を行ない教会から追放される反キリストになりました。働きを行ないながら自分の肉体をあまりに強く気にかけ、快楽に飢えて本物の働きをまったくしない指導者もいました。そのような指導者はまるで、教会での地位がもたらす益にしがみつく寄生虫のようでした。結局、彼らは暴かれ淘汰されました……これらの失敗談を聞いて私の頭にある疑問が浮かびました。「神様は全能ではないのか。これらの指導者は悪事を働き、神様に抵抗し、教会の働きに悪影響を与えていたのに、なぜ神様はもっと早くに手をお下しになって、これら偽指導者を暴いて淘汰なさらなかったのだろう。そうなさっていれば、兄弟姉妹のいのちも教会の働きもすべて害を受けずに済んだのではなかったか」答えが見つからないまま、この疑問が私の心に残りました。

そんなある日、私は次の説教の一節を読みました。「各階層の指導者に絶えず批判を浴びせ、無責任な発言をする人がいます。このような振る舞いはこの人たちの何を暴露しますか。ひどく傲慢で理知に欠けている人や、神様の働きをまったく理解していない人は、正しい形で物事を受け止めないことを明らかにしています。もしあなたが、この人には聖霊の働きがなく、働きを通じて神様の選民を真理に導いていないと認識しているなら、それはあなたが真理に入ったことを証明しているのではないですか。このようなことが起きているのに気づいたら、つまり偽の働き手や使徒が現われたら、神様の選民の責務は何ですか。神様の選民はこの状況をどのように解決すべきですか。このような問題をどう取り扱うべきですか。その件を上位の人に報告し、問題の人物を暴くことができます。適切な手段をとって、より多くの神様の選民がその問題を識別できるようにしなさい。適切な方法で報告し、暴き、提案することで、その問題はこのような形で解決されるのではないですか。ゆえに、神様の選民は責任を担い、このような事柄を解決する最善の方法を知らなければなりません。神様の選民に真理がないのであれば、これらの問題を解決するにあたって適切に行動することはきっとありません。中には強い正義感をもつ人もいますが、そのような人は自分たちの教会で神様の働きを妨げたり破壊したりする人を決して許しません。このような人を見つけ次第、報告して暴くのです。妨げたり破壊したりする者に抵抗する人がいる一方、それに盲従する人もいます。誰であれ指導者を無闇に崇拝してそれに従う人もいれば、何の識別力もないまま振る舞い、人の言うことを何でも受け入れる人もいます。このようにして、ありとあらゆる人が暴かれるのだと分かりますこのようなことが起こると、人はすっかり暴かれます。これは神様の善意なのです。真理をしっかり捉えていれば、偽の使徒や働き手が現われても、神様の選民はその存在にすぐ気づき、抵抗し、排除することができます。これは何を意味しますか。神様の選民がいのちにおいて円熟し、成長を遂げたこと、そして神様の救いを完全に授かったことを意味しています。この人たちが神様のものとなり、神様によって完全にされたことを表しています。このように、生じるすべての事柄には神様の善意が込められているのです。」(『いのちの入りについての交わりと説教III)』の「人の観念と判断の見極め方」より)この一節は私の困惑をすっかり解消してくれました。実際のところ、神様は偽の使徒や働き手が教会に出現することを許されます。それによってありとあらゆる人を暴くことがおできになるからです。これにより、神様は人々の中に真理を植えつけ、認識と知恵を授けられることで、人々が真理を認識し、神様の御言葉の現実に入れるようにしてくださるのです。偽の使徒と働き手が悪事を働いて教会の働きを妨害する際には、教会の益を守って神様の証しを立てるべく、正義感をもち真理を求める人全員が立ち上がり、この人たちの行ないを報告し、暴き、抵抗し、拒絶するのです。真理を求めず見境なく他人に従う人たちは、認識がなく、大衆について回ることしかできず、他の人に無闇に従い黙従するため、最後は悪事を働く人と共謀することになります。権力者に従う卑しい支持者やおべっか使いは、真理を愛しておらず、他人を崇拝して追い求めるだけなので、偽の使徒や働き手によって惑わされてしまいます。傲慢で理知のない人は神様の働きを認識していないので、教会の働きに口を挟んだり、それに関する観念を膨らませたり、さらには神様の働きに疑問を投げかけて判断を下しさえします。これによってこのような人たちの本性が暴露されます。明らかに、神様の働きはとても賢明です。神様は人間の観念と一致しないこれらの事柄を通じて働きを行なわれ、人を暴き、訓練し、完全になさいます。神様を本当に信じて真理を追い求める人は、真理を求め、神様の御心を理解し、真理を実践し、証しを立て、それによって神様に満足していただき、神様の救済を授かり、完全にしていただくことができます。真理を求めていない人は、単に他人の言葉を繰り返すか、無闇に崇拝するか、自分の観念と想像に応じて神を批判することしかできません。そのせいで暴かれ淘汰されるのです。私は次の神様の御言葉の一節について考えました。「神は、数多くの否定的なこと、数多くの逆境によって、あなたを完全にする。神は、サタンの数多くの行為と非難、そして多くの人々の中に表されるサタンの表現を通して、あなたが認識を獲得できるようにして、あなたを完全にする。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)これは紛れもない真実です。不利な出来事、あるいは否定的な出来事だと人から見なされるものであっても、神様は人が識別と見識を得られるよう、この不利な状況を通じて働きをなさっています。人に真理を悟らせ、神様の知恵、全能性、驚くべき御業に気づけるようにし、サタンの計略を見抜いてサタンに背を向け、神様の元へと戻れるようにと、この状況を通じて働きをなさっているのです。これが、人間の観念と一致しない事柄を通じて人を完全になさる、神様の働きに隠された意味です。偽の指導者や働き手が現れた瞬間、神様がその人たちを暴いて淘汰なさったとしたら、人には真理を理解する力がないため、そして他人の真の本性に気づき、それを見抜く能力もないため、これらの指導者や働き手が払う表面的な犠牲や努力に惑わされてしまうでしょう。結果的に、神様の働きに対する観念と批判を膨らませ、不満を口にし、不当な扱いを受けたと訴える偽の指導者や働き手をかばおうとさえするでしょう。このようなことが起こると、神様は人を完全にするという目標を実現なさることができなくなります。神様が偽の指導者や働き手の本性をあえて暴かれなかったのは、神様が全能でいらっしゃらないから、あるいはこの人たちの過ちにお気づきにならなかったからではありません。むしろ神様は、聖霊の働きがある人とない人の違い、真の指導者や働き手と偽の指導者や働き手との違い、教義を語る人と真理の現実がある人との違いを人々に気づかせる訓練の手段として、こういった否定的な行ないを持ち出そうと思われたのです。神様は私たちを訓練なさり、真理を求め正義感のある人、真理を求めず認識を欠く人、神様の働きに対して常に観念を抱く傲慢な人を私たちが見抜けるようになさりたかったのです。すべての人が真理を理解し、神様の御言葉の現実に入り、神様のものとなれば、このような偽の使徒、指導者、そして働き手も、それぞれの目的を果たしたことになります。このようにして、神様がそれらの人を完全に淘汰なさる時、人は神様を誤解しないだけでなく、神様の義と全能性を讃えることになります。明らかなように、人が真理を悟り、異なる種類の人々を認識し、神様の本当の働きを真に理解できるよう、神様はこのような不利で否定的な出来事を通じて働きをなさるのです。

神様、あなたの啓きと導きに感謝します。おかげで、神様の善意と知恵は、人の観念と合致しない出来事にさえ込められていることが分かりました。神様がおっしゃるとおり、人間を最も有意義な形で暴き、完全になさるべく、「わたしの知恵はサタンの計略に基づいて働くと言った。」「神はすべての事柄を神に仕えるように操られる」のです。この先、私は状況の善悪を判断するにあたり、自分の卑しい人間的な視点を用いないことを誓います。自分が携わるすべての出来事において、真理を真に理解し、真理を自分のものにできるよう、ひたすら真理を求め、神様の知恵と全能性、神様の性質、そして神様が所有されているものと神様そのものを認識するよう求めていくことを誓います。

 

人はどうやって真の祈りに入るのか

2020-01-13 19:41:12 | 御言葉讃美歌

御言葉讃美歌
人はどうやって真の祈りに入るのか
 
祈りの時 あなたは神の前で安らぎ
誠実でなければならない
そして真に心を通わせなさい
響き良い言葉で神を騙してはならない
そうすれば心は神の前で静まる
あなたのため決められた環境で
自らを知り憎み己を捨てるだろう
そしてあなたは神と正常な関係を持ち
真に神を愛する人となる
 
祈りは神が成就することを中心とする
より大きな啓示を求めなさい
状態・悩みを神の前に持って来て
神の前であなたの決意を告げなさい
そうすれば心は神の前で静まる
あなたのため決められた環境で
自らを知り 憎み 己を捨てるだろう
そしてあなたは神と正常な関係を持ち
真に神を愛する人となる
祈りは手順に従うことではなく
あなたの真心で神を求めること
あなたの心を守ってくれるよう神に祈りなさい
そうすれば心は神の前で静まる
あなたのため決められた環境で
自らを知り 憎み 己を捨てるだろう
そしてあなたは神と正常な関係を持ち
真に神を愛する人となる
 
『言葉は肉において現れる』より


自分の霊的背丈がはっきり見えた

2020-01-12 22:08:46 | 信仰と生活

ある時参加した教会のリーダーミーティングで、新たに選出された教会のリーダーの1人が次のように言いました。「私には十分な霊的背丈がありません。この本分を果たすのに、私は適任ではないと感じています。あまりにも多くのことにプレッシャーを感じ、ここ数日は眠れていません…」この頃、私は神様を求める中で重荷を感じていたので、彼女に話しかけました。「すべての仕事は神様によるものです。人間はほんの少しばかり協力するに過ぎません。私たちが重荷を感じるならば、もっと頻繁に神様の前に出て、神様に頼ることで、神様の全能さや知恵を知ることができるでしょう。私たちの仕事で重荷を感じるのは良いことです。けれど重荷が苦悩となるならば、これは障害となり、ネガティブな気持ちを招き、神様を誤解することにさえつながります。」神様のお導きにより、私は自分の伝えたことが特に彼女に光を与えたと感じました。この姉妹も、彼女の心に神様の居場所がいない状態になっていたこと、そして神様に頼るのではなく、自力で行おうとしていたことに気が付き、霊的に成長する道を見つけました。この時、真理のこの側面に対する現実を私が把握していることを証明し、姉妹の問題を解決できたと考え、非常に嬉しくなりました。
 
2ヶ月後、教会は私を異動させ、資料の編集にあたらせました。その仕事に携わるようになった当初、私はそれに関係する原則を理解しておらず、編集しなければならない資料を見るたび、消極的になって葛藤を覚えずにはいられませんでした。何も理解していないのに、この本分を尽くす責任だけでなく、これら資料の問題点を明らかにする任務さえ与えられたのです。私がこなせる以上の仕事でした。私は大きなプレッシャーを感じ、気持ちを落ち着かせることができませんでした。また、神様にどう頼れば良いかも分からないでいました。あまりにも不安が大きくなり、三日三晩眠れませんでした。このような状況の中で、とても当惑してしまいました。あの新任の教会リーダーの問題を解決した時、私は真理のこの側面を完全に理解したと感じていました。しかし、自分が同じような問題に直面した時、このような経験の対処方法が分からないのはなぜでしょうか。私は混乱した気持ちと困惑を抱えながら神様の前に出ました。
 
 
その後、「働きと入ること(2)」の中で次のような神様の言葉を見つけました:「人間が働きを行い、話をするとき、あるいは霊的日課として祈る時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし、実際は、人間が理解したことは単に聖霊の啓きに過ぎず(必然的にそれは人間の協力に関連している)人間の真の背丈ではない。人間が一定期間の経験において真の困難に数多く遭遇した後、人間の真の背丈はこのような状況において明らかにされる。…こうした経験を何周期か経た後になって初めて、霊において目覚めている人の多くが、それが従前における自分の現実ではなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間がその光を受けただけであることに気付く。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著なもので、物事がどう生じるかとか、それらがどこに向かうかを説明することはない。すなわち、神は人間の困難をその啓示の一環とせず、むしろ直接的に真理を啓示する。いのちに入ることにおいて困難に遭遇すると、人間は聖霊の啓きを採り入れ、それが人間の実際の経験となる。」(『言葉は肉において現れる』)この一節を熟考しているうちに、次のことを理解しました。姉妹が問題を解決するお手伝いをした時に私が理解した真理は、神様の光によるものでした。この時、私が神様と協力したために、聖霊の啓示を受け取ったのです。しかし、それは私の本当の霊的背丈ではなく、真理のその側面を把握していたことを証明したわけでもありませんでした。あの時、聖霊が真理を理解するよう私を啓いてくださったのは、それが私の仕事に必要だったからです。そして私が協力することにより、神様は私の仕事での問題や困難を解決するのを助けてくれました。しかし、この点に関して実際に自分で経験するまでは、私の霊的背丈は極めて小さいものでした。ですから、霊的成長において困難に遭遇した時は、聖霊の啓示を受け入れることによってのみ、真理が自分のいのちとなるのです。
 
神様の言葉による啓示と導きにより、私は心を落ち着かせ、神様に畏敬の念を抱き、頼りました。そして、資料の編集に関わる原則を慎重に比較検討していくと、私は気付かないうちに神様の啓示と導きを受け取り、資料の中にある問題を徐々に見つけられるようになり、資料を修正する中で考えがずっと明確になってきました。さらに、消極的な気持ちや誤解から段々と自分を解放することができました。
 
神様に感謝します。この経験を通して、私は自分の霊的背丈をはっきりと認識し、自分の理解が正しい道から外れていたのを修正することができました。このことにより、聖霊が啓示した真理を理解していることは、真理のこの側面の現実を把握していることを意味するものではないと認識できました。これからは、今以上に聖霊の啓示を実生活に活かし、実践し、成長し、これらの真理が、本当の意味で私のいのちの現実になるようにしていきたいと思います。
 

 


神の言葉が私を覚醒させた

2020-01-10 18:47:31 | 文章

渺小 山東省济南市

私は以前、神様が「偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である」とおっしゃったのは、終わりの日の神様の働きを受け入れるものの、その後あとずさりする人を指しているのだとばかり思っていました。それ故、どんな理由であれ兄弟姉妹たちがこの道から退くのを見るといつでも、私の心は彼らへの軽蔑で一杯になりました。「偉大な白い玉座から逃れ、神様の懲罰を受けるべき操り人形であり裏切り者がまた一人」と思ったのです。それと同時に、私自身は神様の裁きを受け入れるうえで正しく行動しており、神様の救いを受けるのはそう遠くないと感じていました。

ある日、私が霊的な勤めを果たしていたとき、「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」という記事に神様の以下のような言葉を見つけました。「それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。」(『言葉は肉において現れる』より)この言葉を熟考した後、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者は、この道から後ずさりする人々だけを指しているのではないということを私はついに理解しました。さらに重要なことに、それが指しているのは、神様に従いながらこれらの真理を尊重しない人々、これらの真理から外れた新しい道を探し、常にこれらの真理を忌避している人々、神様の懲罰と裁きに従う覚悟がないのに、神様によって清められることを求める人々だということです。私は神様の啓示と導きの下で、自らの行動を反省し始めました。神様は今、人を裁く言葉を表し、苦しみと精練によって神様と相容れないものを人から除いておられます。しかし、神様の懲罰と裁き、苦しみと精練に直面して、神様がこのような状況をすぐに取り除かれることを願いつつ、私はいつも逃げようとしています。これは真理を避け、真理から外れた道を探していることではないでしょうか。神様がもたらされた人々や物が私の個人的な観念に合わなかったり、あるいは私が後ろ向きな状況に陥ったりすると、たとえ兄弟姉妹たちとの交流を通じて私の問題が解決されるとしても、私はなおも抵抗し、聞くことを拒否します。神様がおっしゃるように、これは真理を求めていない、私を神様にさらに近づける道を愛していないということではないでしょうか。仕事のやり方がおざなりであるために取り扱われ、刈り込まれるとき、私はいつも自らを説明する言い訳を探しています。これは真理を受け入れることを拒む本質ではないでしょうか。私は実生活で自分に都合のよいようにすることがよくあります。それが真理であることを知っているときでさえ、私は肉を裏切り真理を実践することを拒否します。これは裁きを受け入れていないだけではなく、浄化されることを求めていないのではないでしょうか。・・・そのことについて考えるようになったので、さらにはっきりと私は理解しています。偉大な白い玉座から逃れていると神様がおっしゃる人々は、教会を離れる人だけを指しているのではありません。もっと重要なことに、それは真理を受け入れず、神の裁きに従わおうとしない私たちの心を指しているのです。今になって初めて私は恐怖や慄きを感じ始めました。私は教会を去っていませんが、問題に遭遇するたび、真理を受け入れるのを常に拒否し、神様の裁きを避けていました。私は正に神の裁きの席から逃れる操り人形であり裏切り者ではないでしょうか。しかし私は、自分は神様の救いを受けるのにとても近いところにいるが、教会を離れる人々だけが神の玉座から逃れる操り人形であり裏切り者であると信じていました。神の言葉についての私の理解があまりにも一面的で浅く、神の働きについての私の知識もあまりにも不足していたことがわかります。今や、神の懲罰と裁きを誠実に受け入れ、性質の変化を成しえた人々だけが神の救い本当に受けます。それなのに私は自分の想像に生き、真理を渇望せず、自らのいのちに責任を持たず、危機感や切迫感が全くありませんでした。もしこのように続けていれば、私は正に神の懲罰の対象になったのではないでしょうか。

神様の言葉の啓示のおかげで、私は自らの観念や想像から目を覚まし、自分が神様の懲罰や裁きを受け入れる覚悟のある者ではないことに気づきました。それはまた、私が危機に瀕していたことを私に知らしめてくれました。これからは、やがて神様により清め、完全にしていただけるように、私は心をすべて神様に捧げ、神様の懲罰と裁きに従い、最大限の努力を行って真理と性質の変化を求めます。