東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

26.どのようにして人は聖霊の働きを得られるか。

2019-10-31 14:35:05 | 信仰と生活

神の言葉

聖霊の働きは日毎に変化し、段階毎に高まっている。明日の啓示は今日よりも高く、段階が進むにつれてさらに高まる。これが神が人間を完全にする働きである。人がこれに付いて行けないのであれば、いつでも取り残されうる。人間が従順な心でいなければ、最後まで従うことはできない。これまでの時代は過ぎ去った。今は新しい時代である。新しい時代には新しい働きがされなければならない。とりわけ、人間が完全にされる最後の時代になると、神はそれまでになく素早く新しい働きをする。それゆえ、人が従順な心を持たないならば、神の足跡を辿ることを困難と感じる。神はいかなる規則に従うこともなく、自身のどの働きの段階をも不変のものとして扱うことはない。むしろ、神の為す働きは常に新しく、常に高みへと登り続ける。神の働きは段階を追うごとに益々実践的になり、益々人間の実際の必要に則したものとなる。人間はこのような働きを経験して初めて、最終的な性質の変化を遂げることができる。人のいのちに対する認識はますます高まり、同様に、神の働きも益々高みへと上る。このようにしてのみ、人は完全にされ、神に用いられるに相応しい者となることができる。神はこのように働いて人間の観念に反論し、覆す一方で、人を高みへ、そしてより現実的な状態、神への信仰の最高の領域へ導き、その結果、最終的に神の旨が成就するのである。故意に反抗する不従順な本質を持つ者は、神が即座に、すさまじい勢いを持って働くこの段階から置いて行かれる。進んで従い、喜んで身を低くする者だけが、道を最後まで進むことができる。このような働きにおいては、あなた方はみな、どのように従い、自分の観念をどのように脇に置くかを学ぶべきである。進む一歩一歩において注意深くあるべきである。不注意であるならば、間違いなく聖霊に拒絶されるような、神の働きを妨害する者となる。……神の働きは時代ごとに異なるのである。もしあなたが、ある局面では立派に従うが、次の局面になるとそれ程従わないか全く従わないというのであれば、神はあなたを見捨てるだろう。今の段階を神が上がっていくにつれ神に付いて行っているのであれば、次の段階でも神に付いて行かなければならない。そうして初めて、あなたは聖霊に従順な者となる。あなたは神を信じているのだから、絶えず従順でなければならない。従いたい時にだけ従い、従いたくない時は従わないということではいけない。そのような従い方は神に認められない。わたしが語る新しい働きに付いて来ることができず、昔聞いたことに固執するのであれば、どうしてあなたのいのちが進歩できるだろうか。神の働きというのは、神の言葉を通してあなたに施すことなのだ。あなたが神の言葉に従って受け入れるのであれば、聖霊があなたの中で間違いなく働くのである。聖霊はわたしが語る通りに働く。わたしの言う通りを行いなさい。そうすれば聖霊はすぐにあなたの中で働く。

『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

現時点では、聖霊が歩む道とは、神の現在の言葉である。したがって、その道を歩むには、人は受肉した神の現在の言葉に従い、それを食べて飲まなければならない。神は言葉の業を行っており、全てが神の言葉から語られ、あらゆることが神の言葉、すなわち神の現在の言葉により建て上げられている。それが、肉となった神について全く疑念がなくなることであれ、神を知ることであれ、人は神の言葉に多くの努力を注がなければならない。さもなければ、何一つ成し遂げることができず、その人には何も残らないだろう。神の言葉を食べ飲むことに基礎を置いて、神を知り、神を満足させることによってのみ、人は徐々に神との正しい関係を確立できる。神の言葉を食べて、飲み、実行に移すことは、神との最善の協力であり、神の選民のひとりとして証しするための最も優れた実践である。人が神の現在の言葉の本質を理解し、それに従うことができる時、その人は聖霊により導かれる道によって生活しており、神が人間を完全にする正しい道に入っているのだ。

『言葉は肉において現れる』の「性質が変化した者たちとは神の言葉の現実の中へ入った人々である」より

神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

人間は、自らの心で神の霊に触れることにより、神を信じ、愛し、神を満足させ、それによって神の満足を獲得する。また、自らの心で神の言葉に接する時、彼らは神の霊によって動かされる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むのであれば、あなたはまず自らの心を神に捧げ、神の前で自分の心を静めなければならない。自らの心を全て神に注いだ後、初めて、人間は徐々に正常な霊的生活を得ることが出来る。人間が神への信仰の中で自らの心を神に捧げず、心が神の中にあらず、神の負担を自分自身のものとして扱わなかった場合、彼らが何をしても、それは神を欺くことである。そして、まさしくそれが宗教に熱心な人々の行動のすべてである。これでは神から称賛を受けることは出来ない。神はこのような人からは何も得る事が出来ない。こういう人は、神の家の装飾品のように場所を取るだけで何の役にも立たず、神の業の脇役以外に使い道がない。神はこのような者を用いない。このような人間の内では、聖霊の働く機会はない。しかしそれ以上に、このような人には完全にする価値が無い。こういう部類の人間はまさしく「生ける屍」であり、彼らには聖霊により用いられることの出来る要素が全く無い。彼らは、すべてサタンによって占有され、サタンにより極端に腐敗させられ、また、神によって排除される対象である。現在、聖霊は、人間の長所を活用することのみならず、人間の欠点を完全なものとし、変化させることによっても、人々を用いている。あなたの心を神に注ぎ、神の前に静めることが可能であれば、あなたには、聖霊により用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格があり、またそれ以上に、聖霊によって自分の欠点を補ってもらう機会があるであろう。自分の心を神に捧げる時、あなたは更に深く肯定的な側面に入ることができ、より高いレベルの洞察に達することができる。否定的な側面においては、自らの過ちや欠点が一層分かるようになり、神の意志を満足させることをもっと熱心に求めるようになり、受動的にではなく、活発に真理の道に入るであろう。それは、あなたが正しい人間であることを意味するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

聖霊はこの原則によって働く。人々の協調を通して、人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで成果が達成し、聖霊による啓発を受け、光に照らされる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠である。人々が聖霊と協力すればするほど、そして、神の要求する基準に達することを求めれば求めるほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴ってのみ、神の言葉の本当の経験と実質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全にされた人が最終的に生み出される。神は超自然的なことは行わない。人は、神が全能で、全てのことが神によってなされるという観念を持っている。その結果、人々は消極的に待ち、神の言葉を読んだり、祈ったりせず、聖霊に触れられることを待っているだけである。しかし正しい理解を持っている人々は次のように信じている。「神の行いは私が協力する範囲にのみに及び、私の中における神の働きの効果は、私がどう神と協力するかにかかっている。神が語られるときには、私は神の言葉を求め、神の言葉に向かって突き進むために、あらゆる努力をすべきだ。これが私の達成すべきことだ。」

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より

経験から分かることだが、最も重要な課題の一つは神の前で心を静めることである。それは、人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。唯一あなたの心が神の前に静まっている場合のみ、あなたの真理の追求とあなたの内の性質の変化が実を結ぶであろう。なぜなら、あなたは重荷を荷って神の前に来るからである。また、あなたは、絶えず自分に至らないことが多過ぎると感じ、知るべき真理があまりにもたくさんあり、経験すべき現実があまりにも多くあり、神の意志に全ての注意を集中させる必要があると感じているからである。また、これらのことが常にあなたの心を占めており、あたかもそれらがあなたを強く圧迫し、息ができなくなるかのようである。こうして、あなたは心に重荷を感じる(しかし、これは否定的な状態ではない)。神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのは、こうした人々のみである。彼らが神の啓示と光を受けられるのは、彼らの重荷の故である。また、彼らの心は重いからである。またそれは、彼らが払った代償と、神の前で受けた苦しみのためであると言える。というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだ殆どの人々がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神の方を向いていない。それゆえに、人々のいのちの性質には、まだそれほど大きな変化がない。それは、人々がまだ神の恵みの中だけに生きており、聖霊の働きを得ていないからである。神が人々を用いる際の条件は次のようである。人々の心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神の言葉を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っていることである。このような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることが出来る。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係の確立は極めて重要である」より

人間に対する聖霊の業には、ひとつだけ条件がある。人間が飢え渇きをおぼえ、求め、神の行いに気持ち半分でもなく疑念を抱いても居らず、自分の本分を常に守ることが出来るのであれば、人間は聖霊の業を得ることが出来る。神の業の各段階において、人間に要求されているのは、途方も無く大きい確信と、神の前において求めることであり、神がいかに愛すべき存在であるか、聖霊が人間に対してどのように業を行うかを人間が理解できるのは、経験によるほか無い。あなたが経験せず、経験により手探りで進まず、求めなかったとしたら、あなたが得るものは無いであろう。あなたは、自分の経験により模索する必要があり、神の業を理解し、神の奇しさ、計り知れなさを知ることが出来るようになるには、経験によるほか無い。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より

神による人間の完全化には法則があり、それは、あなたの霊が解放され、あなたが神をさらに愛すことが出来るように、あなたが実践の道を得てあらゆる否定的な状態と訣別できるように、あなたの望ましい部分を用いてあなたを啓くことである。こうすることにより、あなたはサタンの堕落した性質を払拭出来る。あなたは純朴で素直であり、自分を知ることを望み、真理を実践することを望んでいる。神はあなたが自分を知ること、真理を実践することを望んでいるのを知っているので、あなたが弱く否定的な時はあなたを二倍啓き、あなたがさらに自分を知り、自らを悔い、自分が実践すべき物事を実践出来るようになろうとするのを助ける。あなたの心を落ち着かせて安心させるには、この方法によるほかない。神を知ること、自らを知る事、自らの実践に注意する者は、神の働きや神による導きや啓きを頻繁に授かることが出来るであろう。消極的な状態にあったとしても、良心の働きか、あるいは神の言葉による啓きにより、すぐに立ち直ることが出来る。

『言葉は肉において現れる』の「実践を重視する者だけが完全にされることができる」より

あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。 …

… あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より

神は、神の言葉を求め貴ぶ者たちの中で業を行う。あなたが神の言葉を貴べば貴ぶほど、神の霊はもっとあなたの中で働くだろう。人が神の言葉を貴べば貴ぶほど、その人が神により完全にされる確率も高くなる。神は神を真に愛する者たちを完全にする。神は、自らの心が神の前に安らいでいる者たちを完全にする。あなたが神の全ての言葉を大切にし、神の啓示を貴び、神の臨在を貴び、神の心配と守りを大切にし、神の言葉がいかにしてあなたの現実といのちの糧となるかを貴ぶならば、あなたは神の心に最も適っている。あなたが神の業を貴び、神があなたのために為した全ての業を貴ぶならば、神はあなたを祝福し、あなたが所有する全てのものを倍増させるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に適う者を完全にする」より


宗教音楽 讃美歌 「神だけがいのちの道を持っている」

2019-10-30 11:01:05 | 教会讃美歌

宗教音楽 讃美歌 「神だけがいのちの道を持っている」

いのちの道は誰もが備えているものではなく
それは誰もが簡単に手に入れられるものではない
いのちは神だけから来るのであって唯一
神だけがいのちの本質 いのちの道を持っている
それゆえ神だけがいのちの源であり
尽きることなく流れる生けるいのちの水の泉である
世界の創造以来
神は人にいのちをもたらすために
いのちの活力に関する多くの業を行った
人がいのちを得るために
神は大いなる代価を払った
なぜなら神自身が永遠のいのちであり
神は人が復活するための道だから

神は人の心から離れず人の間に住む
神は生活の原動力 生存の拠り所である
神は生きるための豊かな貯えであり
人を生まれ変わらせ
違う役割の中で生きさせる
神の力と神の絶えることのないいのちの力によって
人は何世代も生き続ける事ができた
神のいのちの力は人々をいつまでも支え続ける
神は普通の人がこれまで払ったことのない
大いなる代価を払ったのである
神のいのちの力は全てに勝り 全てを超える
神のいのちは永遠で神の力は途方もない
どんな被造物も敵も
神のいのちの力を圧倒することはできない
それは実在していて
いつでもどこでも明るく光り輝く
天と地は変わっても神のいのちは変わらない
全てのものは過ぎ去るが
神は全ての存在の源 根幹であるため
神のいのちは残っている
神自身が永遠のいのちだから
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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クリスチャン映画「救い」真の救いとは何か|完全な映画|日本語吹き替え

2019-10-29 21:46:44 | 動画

クリスチャン映画「救い」真の救いとは何か|完全な映画|日本語吹き替え 
救いとは何でしょうか?主イエスを信じる者は、誠実に主に祈って罪を告白し悔い改めれば、罪は赦され、救われ、主が再臨するとすぐに天国へ引き上げられると信じています。 しかし、救いとは本当にそんな簡単なものなのでしょうか?
この映画の主人公であるシュウ ジチァンは、長年神を信じ、熱心に神のために努力し、本分を尽くすために、あらゆることを犠牲にしてきました。そのため中国共産党に逮捕され、拷問されます。刑務所から釈放された後は、本分を尽くすことを続け、実践的な経験を積み、その説教や働きは兄弟姉妹の実際の問題を解決します。その後、妻も逮捕されますが、不平を言ったり諦めたりくじけることはありません。このことで兄弟姉妹から賛辞を受け賞賛されます。シュウ ジチァンは真理の現実を知っているので間違いなく神の国に入れると信じています。しかしすぐに予期せぬ試練が起こります。中国共産党の警察による拷問を受け、妻が亡くなるのです。シュウジチァンはひどく取り乱し、神についての観念や誤解、不満をもつようになり、神への反抗や裏切りさえ考えるようになります…。しかし後になって、神を裏切っていることに気付くと、反省し、自分のように試練を受け、不平を言ったり神を誤解したり裏切ったりする人々が、真に救われるのだろうかと考えるようになります。このような者は本当に神の国に入る資格があるのでしょうか?

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私のいのちが幾許も事態に神はその御手で私を御救い下さりました

2019-10-28 20:16:49 | 文章

神に救われなければ 今もさまよっていただろう

もがき罪に苦しんで 虚しく、望みもなく

神に救われなければ 悪魔に踏みにじられて

罪の快楽に溺れ 先のこと考えもせずに

全能神に救われ その言葉に清められ

罰と裁きにより 堕落した心も変わり

明かされた真理で 新たな生命下さり

目の前の神を見て 真実の愛を知る

ようやく気づいた 神の愛のお守り

神の声を聴いて 玉座へ引き上げられ

婚宴を楽しもう 完成され、清められ…

(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)

私は、この讃美歌を耳にする度に、いつも深く感極まる思いになります。もし、この讃美歌が歌うように神から御救いいただいていなければ、私は依然として当ても無く世界中をさまよい、お金を追い掛けて疲れ果て、ずいぶん前に自分の命を失い異国の地で死んでいたかもしれません

私は80年代にごく普通の農家に生まれました。私の兄は幼い頃からいつも体調が悪く病気を患っていました。私の父は私が10歳の時、事故で怪我を負って、その後2年間は体がまひしていました。私の家計の状態は元々厳しく、父の治療で膨大な借金を抱えてしまいました。私達の友人と親戚は私達が借金の返済が出来るようにならない事を懸念して、私達にお金を貸そうとしてくれませんでした。私は、どうすることも出来ずに、16歳の時に学校を中退し実家を出て働くことを余儀なくされてしまいました。 深く静まり返った夜、私はよくこう思いました:“自分と同じ年の子供達は幼かった時、放課後になると自分が畑仕事をしている間自由に遊びまわっていたよな。でも今あの子達は自分と同じように大きく成長してからも未だ学校に通ってるし、親といる時は甘えん坊みたいに振る舞っているのに、自分は家族のサポートをするために若くして仕事を始めて、沢山しんどい思いをする羽目になるなんて…” 当時、私は自分の両親に何で私を生んだのか、何で私は苦しみながらあくせく働くためだけにこの世に生まれてきたのかと文句と言ったことがありました。しかし、私がこれに対して出来ることは何もなく、この現実を受け入れる他ありませんでした。当時、私は一生懸命働き、収入を得て、両親が快適に暮らせるようにして、他人から見下されないようにする事を何よりも望んでいました。

私は最初、民間のアルミ合金工業で働きました。私は児童労働者であったため、上司はいつも私の食事や住宅の事で面倒を見てくれました。1年が過ぎた後、私は自分の賃金は低すぎると感じ、誰もやりたがらなかった家具工場でのラッカースプレー作業に就く選択をしました。当時私は、どんな仕事でももっとお金を稼げるなら法に触れない範囲で働きました。私の目標は、また貧乏人の生活を送る羽目にならないよう金持ちになることでした。その後、親戚が仕事で海外に行ける機会を提供してくれる会社に私を紹介してくれたのです。私は数年後に海外に行けるなんて考えてもいませんでした。

2012年の春、私は日本に来て新生活を始め、自分の願いを叶えました。私は造船業界で、見習いとしてある企業と3年間の契約を結びました。仕事を始めた時、私はくたくたになり、大変な思いをしました。料理の仕方を知らなかった私はカップヌードルを1か月間食べ続けた後、吐き気がして食べれなくなったので料理を学ばざるを得なくなりました。私は芯が残った米を何日食べたか見当もつきません。 日本では、私達は外国人であったため、企業で働く作業員が不公平な扱いから逃れることは容易ではありませんでした。私達は企業から汚くて、しんどくて、危険な仕事をさせられていました。ラッカ―のスプレー作業をしていた時は、非常に怖い思いをしました。なぜからガスが火に触れると発火してしまい、一瞬でも目を離したら命が危ないからです。しかし、私生活で苦しんだり、職場が危険であったとしても、もっとお金を稼いで家族に仕送りをする事を考えたり、帰国してたら車と家を購入して、他人よりも上に行ってもう貧乏にならなくて済むことを考えるている内は当時の苦難はさほど大したことではないと感じました。そこで働きながらあっという間に3年が経ち、私のビザは有効期限が近づいていました。この企業には契約更新のポリシーがあったので、私はもっとお金を稼ごうと契約を更新して日本で働き続ける選択をしました。予想外に嬉しかったのは、契約を更新して直ぐに全能神の神の国に関する福音に巡り合うことが出来たことでした。

2015年9月、私が日本で知り合った友人が終わりの日における神の働きについて語ってくれたのです。彼女が神への信仰について話してくれていた時、私はこれは単なる信念の一種であり、興味深いことだとは思わず、神を信仰しても私の運命は変わらないと感じていました。そして直ぐに、私はこの友人に自分の考え方と今まで絶えてきた苦難について話した後、彼女にこう聞きました:“神を信じると運命を変えられるの?今まで沢山辛い経験をしてきたから、私は運が悪いんだよね。でも、お金があれば、辛くなくなるだろうから、今一番現実的なのはお金を稼ぐことなんだ。自分が神を信じることはないと思うよ。” 私がこう言ったのを聞いた友人は、神の御言葉のこの箇所を私に読んでくれたのです:「あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、『創造主の権威は超越不可能である』という知らせを伝えないもの、『創造主の権威は至高のものである』という恒久の真理を伝えないものは存在しない。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より)これを聞いた後、私はこの御言葉はとても道理になかっていると感じ、更には自分が契約の更新が出来たことも、神が御用意して下さったものであるように考えずにはいられなくなりました。これには自分が生まれた家庭や自分の家族との生活は選択の余地がなかったのではないかとまで考えさせられました。私は、支配権を握る主権者がどこかにいるのではないかと感じました。

私の友人からは、『言葉は肉において現れる』の「唯一なる神自身III」における神の御言葉も読むように促され、それには人が人生を通して経験する必要のあるこの6つの節目について書かれていました:節目1 出生:節目2 成長:節目3 独立:節目4 結婚:節目5 子孫:節目6 死。私は神の御言葉を読んで唖然としました。私は、神が人類の運命についてこれほど明確に語られているとは思ってもおらず、現実は正に神の御説明通りだったのです。一般的な環境において、人はその人生を通してこの6つの節目を経験することになるのです。私は世界中には苦しんでいる人達が沢山いて、自分だけではないという事について考えました。もし人々が自分の運命を選択することが出来て、それをコントロール出来たとしたら、皆が大きく豪華な家に住むことを選び、貧困や苦難で苦しむ人々が存在しているでしょうか?実際には、人がどの家庭に生まれるかを選択する余地などはなく、どんな両親を持つかを選択することも出来ないのです。大人になった後、どの旦那や妻と一緒になるかも私達次第で決まることはないのです。。。私はこれについて考えれば考えるほど、増々神の御言葉が現実的だと感じるようになり、それから全能神の御言葉を心の中で信じ始めたのです。運命は自分で変えられるものではないのです。それ以降、私は神への信仰に増々興味を持ち始め、神の存在を信じ、人の運命は人がコントロールし得るものではないと信じるようになったのです。しかし、神についてあまり知らなかった私は、神をとても遠い存在に感じました。しかし、私は、その後すぐの体験の中で “神は私のすぐ側で、私のことを見守って下さっており、保護して下さっておられる”と実感したのです。

ある雨降りの日、私はいつも通りに職場に着きましたが、まさか大惨事が自分を狙って忍び寄っているとは思いもしていませんでした。午前10時過ぎ、私が現場で勤務中に突然 “ドカーン” と鳴る音がしたのです。私は一体何が地面と衝突したのか分かりませんでしたが、恐怖のあまり体がひんやりゾクッと震えました。振り返ると見ると、直径40センチで長さ4メートル、重量が0.5トンもある鉄パイプがクレーンから落下していたので呆然としてしまいました。それは私が立っていた場所から0.5メートル以内の所で地面に落ちたのです。その瞬間、私はあまりの恐怖感で開いた口が塞がらず、ショックから落ち着きを取り戻すのにも時間がかかりました。私は心の中でこう続けて叫びました:“神様、有難うございます!神様、有難うございます!” もし神がそこで私のことを見守りながら保護して下さっておらなければ、あの鉄パイプは私に向って真っすぐ落下し、私の小さないのちは終わりを迎えていたことでしょう。

仕事が終わって、私が兄弟姉妹達にその日起こったことを話していた時、彼らはそれは神の御加護であったのだと言って話してくれたのです。彼らは私に全能神のこの御言葉も読んでくれました:「基本的に、長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇します。これは、あなたの傍らには、常にサタンが存在し、あなたを見据えているからです。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、何事もうまくいかなかったりすることを喜び、また、あなたがサタンの罠にかかることを喜びます。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難からあなたを守ります。これが、平安や喜び、祝福、身体の安全など、人間が持つものは、実際のところ全てが神の支配下にあり、神が各人の人生と運命を導き、決定する、とわたしが言う理由です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 6」より) 私は神の御言葉を読んで、人々は毎日サタンの罠の中を生きており、残酷なまでに傷つけられているのだと理解しました。神による御見守りと御導きを受けていなければ、人々は随分前にサタンに飲み込まれていたことでしょう。長年の間、私は何度神に見守っていただいた事があったのかは不明ですが、今までずっと神のことを知らなければ、神を敬うことも知らなかったのです。私は本当に全く何の良心も持っていなかったのです。その瞬間から、私は神の御救いの恵みについてより深く理解出来るようになりました。私が今日まで生きてこれたのも、神の愛情こもった御手が私を御導き下さっていたおかげで、私は心からそれを神に感謝しました。また、私は今後、神に従うために自分が出来ること全てを行う決意をしました。それ以降、私は頻繁に兄弟姉妹達と一緒に集会に参加し、普通の教会生活へと移行し、私の生活に少しずつ変化が表れ始めました。すると私はもう以前のような切望、苦しみ、虚しさを感じなくなったのです。私達兄弟姉妹は共に神の御言葉を読んで交流し合い、神を讃える讃美歌を歌い、心に自由と解放感を感じながら霊的生活の中でお互いを助け合っていました。私を見下したり、貧乏人を軽蔑したり、金持ちの機嫌を取るような人はこの中に独りもおらず、私は威厳を以て生きて行ける気になりました。私は、この全能神教会の大きくて、温かくて、恵まれた家庭で暮らしていると、以前よりも大きな幸せと満たされた気分を味わうことが出来たのです。

ある日のこと、私の勤めていた会社にいたある日本人に事件が起きました。彼はその会社の永年勤続者で、既に10年を超える勤続経験を持っていました。彼は安全意識においても、テクノロジーにおいても非常に優秀な人でした。その日、彼は勤務中にリフトトラックを運転していたのですが、それを地上20メートルの位置に上げたまま他の作業をしていました。運転中に、彼は注意不足でトラックから液化ガスを自分に漏出させてしまったのです。同時に他の作業員が彼の上で溶接作業を行っており、突然火花が彼の服に落ち、漏出した液化ガスが火花と接触した瞬間、それが突然炎上して火事が起ってしまったのです。 多くの作業員達はこの年配の作業員がその場で炎に包まれるのをただ呆然と見つめる以外にどうしようもなく、何もしてあげる事が出来なかったのです。彼を助けられる人を探しに行くのは既に手遅れで、数分の内に彼は焼死してしまったのです。この悲劇を見て、多くの人が彼を気の毒に思いましたが、自分達の命について、“私達は結局何のために生きているんだ?”と考えずにはいられませんでした。こんな悲劇がすぐ側で起こった事を踏まえ、私は、神から離れて神の御見守りと御加護を失ってしまったら、人の命は常に保護されていない状態にあるのだと正しく理解出来たのです。人は災難の前では非常に小さな存在であり、容易に潰れてしまい、人の専門性がどれだけ優れていても、どれだけ金持ちであっても、自らを救うことは出来ないのです。

後に、私は神の御言葉のこの1節を読みました:「創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。」 (『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より) 私はこの神の御言葉を読んで深く動揺しました。人々の魂は神から来るもので、それは人類の世界に入り込むよう神によって運命付けられているのです。しかし、人々はそれでも神を信仰して敬おうとしないのです。彼らは創造主である神の権威を体験する機会を大切にせず、金、名誉、親族のためだけに生きることしか知らないのです。彼らは皆、自分達の運命の采配を振り払おうと精力的に走り回り多忙にしていますが、人々はこういったものを求めて一体何を手にすることが出来るのでしょうか?死が差し迫っている時に親戚、名誉、富の内いったい何が命を救ってくれるのかと、考えた事がある人はいるのでしょうか?私の年配の同僚の死について考えてみてください、これはこの事実を示す最良の実例だと言えないでしょうか?私が以前追い求めていた事を振り返ると、私も同じ事をしていたと言えないでしょうか?海外に出稼ぎに行った時、貧乏で恥をかきたくなかった私は、お金を稼いで人から高い評価を得るためなら汚くても、しんどくても、危険でも、仕事なら何でも引き受けていました。 私はありとあらゆる苦難を通ってきましたが、この生き方を変えようと思ったことは一度もありませんでした。私は同じ道をずっと歩み続けていたのです。心の中で、私は神の存在を知らず、人の運命は神の手中にあることも知りませんでした。私は自力で自分の運命を変えようとし、自分の人生において既に運命付けられている神の御計画と御采配から懸命に逃れようとしていたのです。私が歩んでいた道は没落に繋がる道だったのではないでしょうか?神の御救いを受けていなければ、また神の御見守りと御加護がなければ、わたしのちっぽけな命はとっくの昔にサタンにもぎ取られていたことでしょう。さらに言うと、私の人生がどうやって今ほどに充実感のある有意義なものになり得たでしょうか?この瞬間、私は、生きることの意味は富や名誉を求めたり、人から高い評価を受けるために他の人よりも出世することでもなく、むしろ神の存在の中に自ら入り込み、神を敬い、神の御救いを受けてサタンの害から抜け出すことなのだとやっと分かったのです。 このように考えれば考えるほど、私は増々深く感動してしまいます。私は、自分は神を信じることが出来ると言うこと、そして、これは神が特別な御恵みを以て私を御扱い下さったおられるということが分かるようになったのです。私は心に抱く神への感謝の意をどう表現してよいのか分からないので、代わりに“神に救われていなければ”という讃美歌を学んで、神への称賛を示し、全能神に私を御救い下さったことを感謝しました。

リン・ウー(日本)


神は来たとあなたたちは言ったが、私たちは信じる気になれない。

2019-10-27 11:52:34 | 信仰と生活

神の御言葉による答え:

このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。わたしたちは神が現実に行なう働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの意志をどう理解したらよいかわからないあなたがたを引き受けるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後には彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは悪者を代表しているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。あなたが自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、わたしは神である、わたしは神のひとり子である、と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人が神に地位や敬称を与える必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。…あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。なぜ今日、神の働きはイエスの働きと異なっているのか。なぜ今日の神はしるしや奇跡を示さず、悪霊を追い払わず、癒やしもしないのか。もしイエスの働きが律法の時代に行われた働きと同じであれば、恵みの時代の神を現すことができただろうか。イエスは磔刑の働きを完了できたろうか。もし律法の時代のようにイエスが神殿に入り、安息日を守ったなら、誰からも迫害を受けず、みなに受け入れられたろう。それならば、磔刑に処せられただろうか。贖いの働きを完了できたろうか。終わりの日に受肉した神がイエスのようにしるしや不思議を見せたなら、何の意味があろう。終わりの日に神が働きの別の部分、経営(救いの)計画の別の部分の働きをしてはじめて、人間は神についてより深い知識を得るのであり、そうしてはじめて、神の経営(救いの)計画は完了する。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より