風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

ML広場 【ベック兄 御代田 04/4/11】より (キリスト者へのメッセージ)

2004-05-21 | 日記
引用聖句:第一コリント15章1節から21節

(15:19~21) もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。  しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、助け手となるためじゃない。救い主となるためじゃなくて、主となるために、死んで、また生きられたのです。と。(ローマ書14章9節)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イエスさまは生きておられます。実際に復活なさったのです。釈迦は死にました。孔子も死にました。マホメッドも死にましたけど、イエスさまは生きています。主イエスさまは生きていて、今日も支配しておられるのです。
イエスさまは罪の、山のような重荷を背負って十字架に行かれました。そしてイエスさまは死んで、その身をおかれました。そしてイエスさまは勝利者として墓からよみがえられたのです。イエスさまは死からよみがえられた最初の人です。イエスさまがよみがえらせた死人はみな、再び墓の中に戻らなければならなかったのですけど、イエスさまは死に対する勝利者であり、イエスさまに対しては死はもはや力を持っていないのです。

イエスさまがよみがえられたということは、イエスさまの死という犠牲が私たちのすべての罪を贖うのに十分である。と父なる神が認められたことを意味しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちはよみがえられた主をもってるのであり、その主はいのちに溢れてるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このイエスさまの生命力は人の死んだ精神を生きたいのちに目覚まし、石のような人の心を肉の心に変えることができるのです。新しく生まれた子どもはまさしく主なる神の力の奇蹟です。
 けど、再び生まれた人間はまさしく、主なる神のいのちの奇蹟なのではな
いでしょうか。イエスさまの生命力は非常に強いので、あらゆる病人はイエスさまが触るだけでいやされたのです。けども今日の人々はイエスさまがその人に新しいいのちを与えるとき、その人の精神は当時の人がからだに経験した奇蹟を精神に経験するのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエスさまは・・・・・・・・・ニコデモに次のように言われました。「まことにまことにあなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。あなたは新しく生まれなければならない。とわたしが言ったことを、不思議に思ってはなりません。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうでしょうか。私たちが今のままの状態で、主なる神の国で生活することができないということを知ってるなのでしょうか。自分の力で新しい生活を送ろうと試みたことがあるなのでしょうか。その新しい生活とは、絶対に誠実で、絶対な愛をもって、絶対的に聖く、完全に自己を滅ぼした生活を意味します。
この新しい生活を送ろうと試みたことがあるなのでしょうか。その試みはいかがなのでしょうか。それは失敗の生活ではなかったでしょうか。真面目に試みれば試みるほど絶望するに違いない。
死んだからだが浅間山を登ることができないと同じように私たちは新しく生まれ変わることなしには新しい生活を送ることはできません。いくら自分の力であらゆる努力をしたとしても、それは新しい生活の買い物や真似事にすぎません。だれでもが新しく生まれ変わらなければならない。けど、どうやって新しく生まれ変わることができるなのでしょうか。死人が自分で再び生きることができないと同じように、自分の力で生まれ変わることができる者はだーれもいません。
イエスさまがそのことをなすに違いない。そして私たちはそれに反対してはいけません。イエスさまにそのことをさせましょう。私たちは主イエスさまとの交換を認めます。すなわち、私たちの持ってるもの、すなわち自分の罪を自分の弱さ、自分の不信仰、疑問、疑い、悔い改めたくない心をイエスさまに与えるのです。
私たちの罪はイエスさまの死となりました。イエスさまは私たちのために十字架につけられたのです。けどもこれは交換の半分でしかありません。今や私たちは主イエスさまのもっている義といのちを受け取るのです。何という交換でしょうか。私たちは死といのちを交換するのです。イエスさまのいのちはわれわれのいのちとなるのです。これが新しく生まれ変わるということ
なのです。


・・・・・・・・・・・ヨハネ伝1章の12節に書かれています。
【しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。】とあります。・・・・・・・・・・・・・主のいのちを内に宿したところの新しく生まれ変わったところの人間とだけ、主(なる神)はホントの交わりをもつことができるのです。
よみがえられた主イエスさまによって主なる神は私たちに非常に近いものとなるのです。主イエスさまとの交わりは本当の満足です。精神生活の孤独は病みます。すなわち愛情の渇きは完全に静まるのです。あらゆる欲望とあらゆる虚しい努力は完全になくなりますので、私たちは完全な心の平安を得るのです。
私たちは主イエスさまが、私たちは小羊たちがいのちと完全な満足を得るためにやって来た。と言われるとき、イエスさまの思っておられることを知るのです。これは人間に完全な満足を見いだそうと試み、その当然の結果としてひどく失望させられたすべての人々にとって喜ばしい知らせです。
人の心を満足させることは、よみがえられたイエスさまだけができるのです。私たちは毎朝、仕事の前に聖書読んだり、祈ったりする静かなときをお持ちなのでしょうか。私たちがもしも、集会に行くことができないとします。そのことはそんなに大切でないとしてもこの静かなときを持つということは非常に大切です。
人が呼吸しないでは生きていけないと同じようにキリスト者はこの静かなときを持たない限り、みこころにかなった生活をすることができません。この静かなときにイエスさまのいのちが絶えず、われわれのいのちにしみこんでくるのです。
イエスさまとの交わりが深くなれば深くなるほど、私たちの生活は豊かになります。主イエスさまは私たちの精神、たましい、神経、からだにとって いのちの泉であり、力の泉なのです。
イエスさまの中には いのちの力が溢れています。私たちはイエスさまから出て生きるということをますますよく学ばなければならず、われわれの貧しさや弱さから出る生活を学んではいけません。信ずる者同士私たちはイエスさまから、絶えず流れるいのちを得ていなければなりません。
それは時々であったり、気まぐれであったりしてはなりません。もし人が暗い部屋に灯りをを持って入りますと、その部屋は灯りがあるから、もちろん明るいはずです。けどもその灯りのもとが無くなりますと暗くなります。すなわち絶えず流れてる灯りを必要とするわけです。
そのことは私たちのいのちにおいても、同ーじことなのではないでしょうか。すなわち私たちはいつも暗いのですから、私たちは主イエスさまの光の泉により頼まなければならない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・主イエスさまと私の二人の毎日の絶えざるいのちの交わりです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よみがえられた主イエスさまとのいのちの交わりはこの世の別れることが条件となってます。一週間に土曜と日曜日だけ自分の妻と過ごし、ほかの日は他の者と過ごすことを考えてみればどうでしょうか。それは日曜日だけ主と過ごし、ほかの日はほかの主人に仕えるというキリスト者に似ていませんでしょうか。聖書はこのような者の如く生きる信者たちについて非常に厳しく語っています。ヤコブ書4章4節。
4:4    貞操のない人たち。(信ずる者に書かれたことばです。)
       貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することである
ことが
       わからないのですか。世の友となりたいと思ったら、
       その人は自分を神の敵としているのです。
       
と。この世との交わりはキリスト者にとっては姦淫よりも悪いのです。それは主イエスさまに敵対する姦淫であります。あるとき、救われていない人々を導こうとして、ある娘さんがいまして、この娘さんは踊りながらそのパートナーに

「あなたは主イエスさまを信じますか?」
と尋ねますと、その男は
「もちろん、違うよ。」
と答えました。そして、
「ところであなたはキリスト者なのでしょうか。」
その娘さんは尋ねられましたので、
「そうです。」
と言いますと、この若い男は
「こんな所で何をしようと言うなのか。」
と言いました。
この世の人々は見せかけのキリスト者をあざ笑います。またこの世の人々はこの世のものを身につけてるキリスト者を笑います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主イエスさまは完全に私たちに満足しておられるなのでしょうか。私たちが
満足してるかどうかなのではなく、イエスさまが満足しておられるかどうかが問題です。その過ごした時間はイエスさまとの交わりだったでしょうか。また自分の心がイエスさまのほかにもちたいと思ってるすべてのことから完全に離れていたなのでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエスさまは私たちを訴えるなのでしょうか。
主イエスさまとの交わりをおろそかにすることは罪です。主イエスさまが私たちをお呼びになるとき暇があるなのでしょうか。義務と名付けてるほかのことがらがもっと大切なのでしょうか。仕事が先、交際が先、テレビが先、本を読むことが先で、その他色々なことが先なのでしょうか。そして寝る前の最後の五分、すなわち一日の残り、一番最後の残りをよみがえられた主に
ささげるなのでしょうか。
エペソにいる兄弟姉妹にイエスさまは言われたのです。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」
私たちはイエスさまが第一の場所を占め、主イエスさまとの交わりが自分の一日の喜びとなるために、今日、まぁ、今年のイースター、自分の一日の時間割を完全に変えようと思いませんでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イエスさまとの交わりが自分の喜びなのでしょうか。それとも自分はイエスさまとの交わりを断ち切られたなのでしょうか。自分は以前にはイエスさまと一緒にいて、今では再び、この世の中にいるようになってしまったなのでしょうか。
もし、次のようであるならば、そのときはあなたはまったく違った状態でした。すなわちあなたの心はよみがえられたイエスさまの愛に燃えていたときでした。けどもその上には、あんまりたくさん灰が乗っかっていますので、自分はその下で燃えるいのちをほとんど気付かないのです。
自分はこの世とともに歩き、しかも私はこのキリストを知らないと言われないけど、状態でそれが分かる、否認する信者となってしまったのです。私たちが主に背中を向けて、そのときもイエスさまの愛は絶えず誠実に続いていたのです。主の腕は私たちを抱き上げようと毎日広げられていたのです。

イエスさまはそむいた者には、わたしに来る者を、わたしは決して拒まない。決して捨てない。だーれでも、この主イエスさまのことばによって、イエスさまのもとに行くことができ、主の御前にすべてを告白して、イエスさまの血は、すべての罪から聖めてくださるのです。
そうすれば、すべてが元通りによくなります。そしてイエスさまとの交わりを曇らせる影はありません。よみがえられた主イエスさまがわれわれの主とならなければならない。

けどもイエスさまは実際に私たちのいのちにおいて主なのでしょうか。
多くのキリスト者はイエスさまを奴隷以上のものに取り扱っていないなのではないでしょうか。彼らが悩みに沈んでる場合、彼らはイエスさまの助けを求めます。彼らが弱っているとき彼らはイエスさまから力を得たいのです。
彼らが自分一人でもはやできないとき、イエスさまが飛び込んでもらいたい。助けてもらいたい。イエスさまは彼らに仕えるべきなのです。けども彼らは主イエスさまの支配を欲しくない。
聖書はそのようなキリスト者を肉のキリスト者と呼んでいます。なぜなら、肉すなわち自己は支配をもってるからです。
そこには大きな心の悩みがないでしょうか。私たちは自分のための生活がホントの信仰生活のため、障害となってることをしばしば感じます。私たちは傲慢になります。また、名誉欲やまた逆に劣等感に陥ることがある。
この両方とも自己の支配なのです。けどもイエスさまの専制、その自己の専制政治から解放されるためにイエスさまは来られたのです。自己はわれわれにとって、われわれの一生涯の限りのようなものなのではないでしょうか。そうなら新約聖書が求めてるような生活はわれわれのうちでできる人はだーれもいないでしょ。
 もしそうなら主のみことばは単なる夢や妄想のようなものでありましょう。自分自身の権力から自由になるためにここにひとつの道があります。すなわちイエスさまは全人類の代表者として十字架にお架かりになったのです。
そしてイエスさまはわれわれの代理人でもあるのです。イエスさまに起こったことは私たちにも、私たちの自己にも起こったのです。なぜなら私たちはイエスさまとともに十字架につけられたからです。
イエスさまが十字架で両手、両足を打たれたとき、われわれの両手、両足も穴を開けられたのです。イエスさまが十字架に架かり、なんにもすることができず、行なうこともできなかったそのとき私たちの自我は外に置かれたのです。
十字架に架かった者がほかになにができましょう。
十字架に架かった者は消されたのであり、ダメになったのです。これと同じことが十字架を通してあなたや私に起こったのです。
なぜなら、私たちの古き人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っている。とローマ書に書かれてます。
ですから主なる神の永遠に当てはまることば、すなわち聖書によれば私たちの古い人は、主イエスさまとともに十字架につけられた。ということがすでに起こった事実である。ということになります。それと同時に暴君である古い人に打ち勝とうとする努力は虚しいものであり、無駄なものであり、必要でないものです。
私たちは古き人を押さえつけることができず、それと闘うこともできません。また私たちはその古き人を良くすることも、変えることもできません。
私たちはただひとつの事をやることができます。
すなわち、古い人はイエスさまとともに十字架につけられ、そして私たちがその古い人を主にゆだねるときに、イエスさまがその古い人を十字架でしっかりとつかんでくださる力を持っておられる。ということを素直に信ずることです。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私たちの意思は私たちの主のものです。私たちは祈るたび毎にイエスさまを主と呼びます。ホントにそういう気持ちなのでしょうか。制限されない主の支配より、ほかに人間の生活における偉大なものはありません。これが本当の自由であり、解放です。イエスさまがわれわれの生活の主であるとき、その主である程度に従って、イエスさまは私たちの生活に対する責任をもっておられます。
もしも私たちがイエスさまに半分だけ支配を与えているならば、私たちの肩にはなおも半分の責任が残ってるわけです。このことは多くのキリスト者の生活を重苦しくしています。
よみがえられたイエスさまはすべてを、すなわち私たちの内部的及び、外部的生活の全責任を担いたいのです。私たちはイエスさまに第一の場所を与え、私たちは第二の場所に立つのです。これは私たちを非常に苦しめていた堅い殻の解放ではないでしょうか。私たちはなお自分自身の手や心の中に自分の生活の支配をもってるのでしょうか。それはなんという重荷でしょう。
 
イエスさまはいつも困難ということを知らず、いつも問題の答えを持っておられるもっとも良いとりなし人です。私たちの生活の支配を主の御手に上げましょう。イエスさまは十分です。よみがえられた主イエスさまは私たちの生活からなにをお造りになることができるなのでしょうか。それは新しい生活。満たされた生活。実を結ぶ生活です。
 
イエスさまは完全ないのちの交わりをわれわれに提供しておられます。すなわちイエスさま、よみがえられたイエスさまとともにする二人の生活を差し出しておられるのです。それは婚約の場合と同じではないでしょうか。
 
ある青年に完全な生活の交わりを、すなわち結婚を申し込まれた娘さんはなんと答えることができるのでしょうか。もちろん「はい。」か「いいえ。」かです。けどそれは、絶対的に「はい。」か「いいえ。」でなければならない。この「はい。」という返事は、二人の人間をもっとも深い交わりに導くのです。この「いいえ。」という答えは、二人の道を分けるのです。

よみがえられたイエスさまが、もしもある人に今もまだ永遠に続く聖なるいのちの交わりを提供されますと、それはその人の生活におけるもっとも偉大にして重要なときが来たことを意味しています。主のことばを聞きましょう。ホセア書の2章19節、20節です。非常にすばらしい主の呼びかけです。1354ページです。

2:19   わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。
      正義と公義と、恵みとあわれみをもって、
      契りを結ぶ。

2:20   わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。
      このとき、あなたは主を知ろう。

私たちはイエスさまになんと答えるなのでしょうか。もしもイエスさまに「はい。」と言えば、なにを失うなのでしょうか。それとも、全部を得るなのではないでしょうか。無条件に自分の生活をよみがえられたイエスさまの御手にゆだねましょう。イエスさまの誠実なしもべであったパウロの告白を今日、自分のものとして自分の名前をその下に書こうではないでしょうか。
ピリピ書3章8節です。

3:8    それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っているこ
       との すばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思ってい
       ます。
       私はキリストのためにすべてのものを捨てて、
       それらをちりあくたと思っています。
       

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