風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

「あなたの罪は赦されているよ」

2004-01-25 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
 ベック兄のメッセージのある家庭集会に初めて集った時(=キリスト集会に初めて集った)、姉妹がたに、ベックさんと二人っきりでお交わりする事をすすめられた。 正直言って、全く気がすすまなかった。メッセージはよく意味がわからなかったし。集会のシステム?がよくわからなかったし。訳のわからない大きな外国人と二人っきりにされちゃうの~? 大丈夫かなあ? 変なことされちゃうかなあ? __なあんて とっても心配だった。
 春日部の吉田兄の家の、二階に、二人で上がって行った。どきどき・・・。 断片的にしかお話を覚えていないけれど、、、、、。
 今日、ご馳走を食べた帰り、ベックさんがあの時おっしゃった、「あなたの罪は赦されているよ」という言葉が、あらためて胸によみがえってきた。罪、と言っても、別にこの世的にお縄頂戴、みたいな罪を犯したわけではないが、不思議だね。あの時私の胸に去来したもの、それは、長い間、私の心にどうしても気にかかっていた、ある罪のこと。「罪は赦されているよ」なんて、初対面の外国の人に突然言われて、なんで【すぐ】に、そのことを思い出したんだろう。 ああ、そうか、それが聖霊さまの働きなんだね、きっと。
 そしてね、もっと不思議なことに、そう言われた途端、大粒の涙が溢れてきたんだ。。。。。 普段意識していなかったのに、ずっと私の胸に重くのしかかっていたんだね。 お祓いみたいなこともしたことがあったけど、あんなに気持ちが軽くなったことはなかったよ。どうやっても気持ちが晴れなかったんだ。 あらためて思い出してみて、あの時の喜びを、静かな喜びを、かみ締めています。

 今日、上記のことを思い出す直前、「さとうきび畑」の歌を口ずさんでいて。 「♪お父さんて呼んでーみたい  お父ーさん どこにいるの  このまま緑の波に埋もれてしまいたい・・・・・・」の所で、亡き父を思い出していたら、涙ぐんできて。 でも私の娘たちは、次女は全く「お父さん」と呼んだ体験を持たないし、長女も「パパ」と呼んではいたけれど記憶はもうないはずだし(0歳、2歳時に両親が離婚したから)___とそんなことを考えていたら、今更ながら、娘たちと父親を離別させた自分の罪の大きさに恐れを感じた。 娘たちにもとてもすまない取り返しのつかない選択をしてしまったし、父親である私の元夫にも、長い間辛い淋しい思いをさせてしまった。 これって 私の大きな罪だなあと思った後で、ベックさんが初めてお会いした時におっしゃった 「あなたの罪は赦されているよ」と言う言葉を、急に思い出したのだ。
 私は、、、、、何と多くの重荷を背負って生きているのだろう。 いくつかはイエス様のもとにおろし、平安を戴いたけれど、まだまだ背負っていたものがあったことに気づいた。


     天の下では、何事にも定まった時期があり、
     すべての営みには時がある。
     生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
     植えるのに時があり、
     植えた物を引き抜くのに時がある。
     殺すのに時があり、いやすのに時がある。
     くずすのに時があり、建てるのに時がある。
     泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
     嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
     石を投げ捨てるのに時があり、
     石を集めるのに時がある。
     抱擁するのに時があり、
     抱擁をやめるのに時がある。
     捜すのに時があり、失うのに時がある。
     保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
     引き裂くのに時があり、
     縫い合わせるのに時がある。
     黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
     愛するのに時があり、憎むのに時がある。
     戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

            (聖書、伝道者の書 3章 by ソロモン王)


 もちろん、ベックさんに「あなたの罪は赦されているよ」って言われたとき、離婚のこと(正確には、娘たちの人生から父親を疎外させたこと)についても、嬉しくて涙が出たのだが。 自分の罪が赦されていることに対しては、あの時安心できたけれど、娘たちや夫、という、相手に対しては、ほんとに……。
 次女が19歳の時 あれこれ問題を起こした時、内心が半狂乱の嵐の真っ只中にいる私は、心ここにあらずで仕事をしていたに違いない。(信仰をすでに持っていた) ある日、店長から報告と相談を受けたらしい上司が見え、話をひきだされてしまった。。。。 その方も、カトリック信者だったので、話しやすかったのだと思う。
 「ずっと仕事中心に生きてきて、娘たちに母親らしいことをしてこれなかったし淋しい思いもさせてきたから、今、娘がこんなふうになったのだと思う。 私はパートになって、仕事を減らして、娘ともっと多くの時間を過ごした方がいいと考えています」と言ったら、彼女は、「○○さんは離婚したことを自分で責めているでしょ? でもね、その時はそうせざるを得なかったんだから、その事で自分を責めることはないのよ」って、、、、、。 わーわー泣いてしまった。 自分が気づかずにいた事を教えられ、ほっとしたのだと思う。

 私は自分がどうして洗礼を受けるよう、ベックさんから言われたのか、いまだにわからない。 私の信仰は、なんだか他の方と違うのだ…。 実を言うと「救いの確信」がない。「救い」って? これは、自分の「罪」を知らないからだと思う。
 まだ聖書の神様を知らない方は、自分が罪深いなんて思いもしないと思う。 初めに私が言ったように 「お縄頂戴」(←これ、若い子には通じないかも?)的な罪でない限り、自分が罪びとだなんて思ってらっしゃる方はいないだろう。 実は私もさして認識が変わらないと思う。 自分の罪についてちゃんと自覚がないから、赦しも救いも理解できていないと思う。 理屈では言えても。
 このごろ思う。こんな私が、こんなふううに神様の話、聖書の話、信仰の話、する資格があるのかなと。 
 しかし、今日、あらためて、まるで長い眠りから覚めるように、または急に目が見えるようになったように、二つの大きな罪について 思い出させていただいた。


 読んでいる方には なんのことやらですね。ごめんなさい。今日の文は、神様への手紙のようなものです。すみません。
 でも、ここまで読んでくださって、ほんとうにありがとうございました。
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