▼カタカナ語の氾濫
ハイテク、 情報化、オリンピック、小学校の英語教育開始などのせいか、この頃またカタカナ語が氾濫している。明治維新後と先の敗戦後に続く三度目の変化の波のようだ。行政にまで波及してアジェンダとかコンプライアンスだとか気取ったカタカナ語が使われる始末だ。 しかし気がつくと自分もこのごろ安易にカタカナ語を使っている。付和雷同して日本語の乱れに巻き込まれているのではないか。気になってこの問題を少し整理してみた。 ▼カタカナ語とは カタカナ表記にはいろいろあるが、ここではカタカナ語を次のような通説にしたがって使っている。 「日本語の単語の語種は大和言葉(和語)・漢語(字音語)・外来語とそれらの混ざった混種語に分けられている。カタカナ語とは外来語のうち主に欧米諸国から入ってきた、和製英語を含めたカタカナ言葉を指す。」
▼なぜカタカナ語を使うのか 楳垣実「外来語」そのほかの参考書から抜粋してみると次のような理由が挙げられている。
*対応する表現のない外国語 *適当な訳の付けられない 外国語 *新鮮な感覚、新鮮な語感 漢字の多い文章は硬い感じ、古くさい感じがするのに対して、カタカナ語は難しくならず親しみやすい。 新鮮な印象や感じが出せる。新しい事物、新しい考え方の表現にマッチする。 *日本語はダメ・ダサいという誤った劣等意識から使われることもある。 *多くの言葉、新しい言葉を知っているとアピールする。ひけらかし、見栄。 *普段属している集団で使われている言葉。例えば科学技術の専門用語、スポーツ 用語、ファッション用語など。ジャーゴンといわれる仕事の仲間内の言 葉。 ▼カタカナ語の推移
*第一の波は明治維新。日本語のローマ字化論まで出た文明開化の波はおびただしいカタカナ語を生んだ。 *第二の波は先の大戦後。「オー ミステーク!」に始まり、ファッション誌を先頭にカタカナ語が氾濫した。 *第三の波は現在。コンピュータ-から始まった情報革命、更に人工知能(AI) 技術にグローバル化も加わって専門用語の常用化といった現象さえ現れている。 例えばインバウンド、バックアップ、アルゴリズム、ゲノム、ミサイル、アラートなど枚挙にいとまがない。 最近は「混種語」が「縮約」された「ググる」などの言葉も普通に使われている。 今年(2019年)の新語流行語大賞のトップテンにはローマ字の #KuToo と 原語のままの「ONETEAM 」も選ばれた。
▼カタカナ語の使用割合 下記のデータは石綿敏雄の「日本語のなかの外国語」とウィキペディアに載っていた国立国語研究所の資料の一部を抜粋したものである。(数値は%) (1956年 ) (1994年 ) 和語 36.7 25.7 漢語 47.5 34.2 外来語(カタカナ) 9.8 33.8 混種語 6.0 6.4
漢語が本来の日本語( 和語、やまと言葉)より断然多く、漢語とカタカナ外来語合計で70%台になる。広義の意味では漢語も外来語である。したがって普段あまり意識することはないが日本語の大部分は外来語なのだ。 高度成長期の頃、いろいろな日本人論を読んでいたときに、カタカナ語の氾濫が気になって一度調べてみたことがある。そのときの結果は上記のように意外なことに「カタカナ語は10%前後でそんなに多くない」ということだった。
詳しくいえば 「延べ語数」と「異なり語数」や書き言葉と会話の違い、新聞雑誌、実用書、教科書などジャンルの違いなどで数値は変わる。カタカナ語は次々と登場しては消えてゆくので感覚的な印象と統計値の違いも出る。 いずれにしてもちょっと拍子抜けしたが日本語は大丈夫なのだと安心した記憶がある。 ところがその後1990年代にはカタカナ外来語が30%台まで増えている。つまり40年間で約3倍に増えていることである。これは尋常ではない。このあと情報化時代に入ってカタカナ語が更に増え続け、既に30年が過ぎている。いまカタ カナ語の割合はどうなっているのだろうか。心配になる。 ▼カタカナ外来語使用の賛否 1.賛成派・肯定派・ 楽観論者カタカナ語を 積極的に生かして使おうという主張派だ。
(カタカナ語を使うメリット) *複数の意味合いをひとつの単語に集約できる *カタカナ語を理解している人同士で仲間意識が強くなる *なんか格好良さそう *語彙が豊富になる。 ~国際化~国際性~専門用語 2.否定派・批判派・悲観論者 カタカナ外来語の乱発乱用は日本語の美しさを損なう。放っておけば日本語は滅びる。という主張派だ。 ( カタカナ語を使うデメリット) *語彙の体系性の変更・破壊 *誤用が多い *理解できない人に劣等感を与える。 *つぎつぎ新しい外来語が出てくるので老人はついて行けない。 * 原語とのズレ *日本語の伝統破壊 ▼エピソード 田舎のカタカナ語 私の故郷の方言は道南の海岸方言といわれる。東北各県の方言の流れにアイヌ語と明治時代の英語が混じっていて複雑である。したがって私は1.5カ国語を話せると思っているくらいだ。 例えばアイヌ語のマキリ(イカ捌き用小刀)、船で使う英語のゴーヘイ(前進)・ゴースタン(行進)・ホースピー(フルスピード、全速)などがある。 田舎のカタカナ外来語は原語の発音に近い。文字ではなく会話の形で入ってきたからだろうか。 おこがましくも私もカタカナ外来語の解明をしてみたことがある。昔のストーブで使うデレッキ(火掻き棒)について、多分The rakeザ・レーキであり、なまって デレッキとなったのではないかと考えた。米語会話で「ところで」by the way がバイザウエイではなくバイドウェイと聞こえることころから連想したのだ。 サイダー(シードル《仏》)ラムネ(レモネード《英》)のたぐいだと思った。 ところが これは素人の勝手な解釈で、よくある間違いなのだそうだ。何かの本でそれを知ってがっかりし、知ったかぶりを恥じたことがある。 結局デレッキの語原は分からずじまいだった
▼カタカナ語の将来 *むかしフランス人は英語を田舎者の言葉と馬鹿にしていたらしい。しかしそのフランス語を押さえて、今や英語が世界共通語になっている。 その英語は80%が外来語だという。日本語も先述のように約70%が外来語だ。 ただし残念ながら漢字主体の日本語に世界的な普遍性はない。 *日本語の語種は和語(大和ことば)、漢語、外来語、混種語であり、漢字かな混じり文とするのが常識だ。しかしこのほかに考えなければならない問題として方言、沖縄言葉、アイヌ語の問題がある。
言葉は時代と共に変わる。 漢字漢語と伝統的な和語(大和ことば)が減ってカタカナ語が増えることは 寂しいががやむを得ないことなのだろうか。
文字を持たなかった日本人が漢字に出会い日本文化は劇的に変化した。「漢字と日本人」の名著でも知られる高島敏雄氏は日本語は和語と漢語が混合した畸型のまま成熟してしまった。明治以来の音標文字化運動も途中で停止したままであると言う。カタカナ語の先行きはどうなるのか、どこかで飽和し、平常化するのか、 それとも明治のローマ字化論のような極端な言語問題につながるのか。いずれにしてもあまり明るい展望はなさそうだ。
▼疑問に思うこと 今回改めてカタカナ語について調べていて、疑問に思ったことがある。
文章作成の参考書は「文章読本」をはじめ数多いが、カタカナ(外来語)語の問題については、不思議なことにほとんど扱っていないのである。
手許にには丸谷才一、三島由紀夫、谷崎潤一郎、 清水幾太郎、井上ひさしの「文章読本」をはじめ、四十冊ほどがある。 しかしこの中でカタカナ(外来語)の意義について書かれているのは本多勝一の 「日本語の作文技術」のなかの「漢字とカナの心理」と篠田義明の「通じる文章の技術」だけである。しかも 「漢字とカナの組み合わせのわかりやすさ」と「カタカナ語の多用は分かりにくくなる」ことを戒めているだけである。
* どうもよく分からない。自分が不勉強なだけの話なのか、カタカナ外来語の問題は一般向け文章技術の啓蒙・啓発書で扱う問題ではないのだろうか。年をとってぼけてきた私の頭のなかでは解けないペンデングになっている。
▼老人とカタカナ語 年寄り(自分)がカタカナ語を多用することについては、年をとっても時代遅れと思われたくない見栄と負け惜しみの背景があると思う。一方いい年をして今更若 い人の尻馬に乗ってカタカナ語を口走るのは軽薄で恥ずかしいという気持ちもある。 これではまずいと思いながら、ついつい軽薄なカタカナ語を使って乱文・迷文を書き散らしている。昔風にいえば汗顔の至りである。
なおこの小文の記述はほとんど下記の著書の引用や孫引きに基づいている。恥ずかしながらだいぶコピペに近いのである。
参考書 *日本の外来語 矢崎源九郎 1964年 岩波新書 *外来語 楳垣 実 1975年 講談社 文庫 *日本語のなかの外来語 石綿敏雄 1985年 岩波新書 * 日本語と外国語 鈴木孝夫 1990年 岩波新書 (2019/12/23)
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