エッセー

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「ブラックアウト」の悪夢

2018-10-06 11:07:38 | 読書

   胆振東部地震ではまさかと思うことが現実となった。今まで見たこともない山崩れと住宅地の液状化、そして「ブラックアウト」(北海道大停電)だ。
                                                                                                               長い間電力会社の火力発電部門にいた私にとって、「ブラックアウト」はいつも恐れていた「悪夢」であった。それが現実となったことにショックを受けた。

 余震も収まらない今の時点で軽々しい発言は要注意だが、いろいろ思い浮かんだことを私なりに少し整理してみた。
         
北海道の電力網の弱点                                   かって北海道は津軽海峡に隔てられて「電力の孤島」であった。当時、関係者がもっとも恐れていたのが火力発電所の事故によるドミノ倒しの全道大停電(ブラックアウト)であった。私も発電所の運転員をしていた若い頃はタービン発電機の回転音のちょっとした変化(周波数の変化)にも神経をとがらしていたのを思いだす。                                           1979年(昭和54年)、北海道と本州の電力線がつながる、いわゆる「北本連携」が出来て、いざというときは本州から電力救援を受けられることになった。ようやく北海道も電力の孤島でなくなり一安心したことを鮮明に覚えている。 

     
 しかしこのほかにも北海道の電力網はいろいろな制約条件、ハンディキャップを背負っていて、それが今回の事故で一挙に吹き出したように思える。

 基本的な問題のひとつとして、日本の電力網はヨーロッパ全体やドイツのようなメッシュ型ではなくクシ形になっている。同じネット状でも相互救援の機能は低いのである。しかも北海道は「本州連携」で孤島状態からは脱したが連携容量が少ないので重要施設の一部しか救援できない。      

 北海道は人口が少なく、経済規模も小さい。しかも送電配電の区域は広大だ。このため北海道の電力系統の容量は小さく、東京電力の約十分の一、従って供給安定性の関係上「スケールメリット」のある大きい発電所は造れない。今、問題となっている苫東厚真火力の4号ユニットの出力は70万KWであるが、本州では100万KW級発電ユニットがざらにある。                      
                                       この辺の事情は北海道鉄道(JR)と事情が似ている。それでもマスコミがよく批判する「総括原価方式」があるので、広い北海道の僻地や離島にまでなんとか電気を届けることがは出来ているというのが実状なのである。

 電力企業には「自由化政策」以前から、厳しい競争原理が働いていた。
 高度成長期の頃、日本の電力消費はアメリカの約半分、電力単価はアメリカの約2倍といわれていた。電力は産業の米といわれ、電力消費量は豊かさの指標でもあった。かくして高度成長期はアメリカに追いつき追い越せが日本人の合い言葉だった。北海道は遅れていた経済と生活向上のために、このうえ更に、「本州に追いつき追い越す」努力が求められていた。
   昨年NHKで北海道の電力の回想を特集していた。いろいろな困難のある中で 広大な北海道僻地にまで電力網を形成していった苦労話などが紹介されていた。私の元上司も出演して電力単価引き下げのために粗悪炭を使った火力発電の苦労を語っていた。こうした対策と努力の積み重ねで泊原発を含む電源のベストミックス形成が進んだ。                             

 しかし明るい希望が見えてきた一方で、火力発電の公害問題が発生し、追い打ちを掛けるように福島原発の事故が起きた。電力企業を巡る情勢は激変し、長い冬の時代が続いている。
  北電は泊原発の再稼働ができないため、老朽火力で急場をしのいできたが、今度のブラックアウトで責任を問われるというさらなる試練に直面している。
 福島原発事故の時に言われたことだが天災は不可抗力だが「人災」は再発防止を図ることができる。電力会社OBとしては、今この瞬間にも苦闘している現役社員に声援を送りたいし、公益事業者の誇りを持って毅然と対処してほしいと願っている。

外国の大停電「ブラックアウト」    
                                        全道停電は改めて電気が極めて重要なインフラであり、ライフラインであることを痛感させられたが、外国では大停電「ブラックアウト」はよくあることとされている。ネットで検索してみると世界的には驚くほど大停電が多い。改めて日本の電力システムの健全性に気づく。く。    

 私の記憶では1965年(昭和40年)のニューヨーク大停電のニュースが衝撃的だった。このとき一市民がインタビューの中で「このような事故がなくなるようにもっと自由化を進めるべきだ」と、言っていたのに驚いた。日本なら福島原発事故の時のようにすぐ国営論が出るところだ。  当時アメリカの庶民の夢はプール付きの家、高級車それに護身用の銃と非常用電源を持つことだという話を聞いたことがある。さすが「自助論」の国、自由思想、競争社会の根底を垣間見たような気がした。     

      
 電力の安定供給、エネルギー安全保障の話になるときりがなくなるが、今も記憶しているのはロシヤとウクライナの「天然ガス紛争(2005年)」のとばっちりでドイツが電力不足となり、エネルギー政策を急遽変更した事例だ。このときドイツは原発廃止政策を取りやめ原発建設に政策の舵を取り直したのである。その後日本の福島原発事故を受けて再度原発廃止政策に戻ったが、エネルギー・電力政策の難しさを考えさせられる出来事だった。          

▼「ブラックアウト」報道で気がかりなこと
*バッシンググ 

 福島原発事故のとき、マスメディア、特に朝日新聞とプチ朝日的といわれるほとんどの地方新聞の感情的なバッシングはひどかった。しまいには「吉田調書」の誤報問題を引き起こして世の非難を浴びた。アメリカのメディアが「50人のヒーロー」と発電所員の活躍を讃えているのに日本の朝日新聞は「所長の命令に背いて逃げた」と報道したのだから驚く。英語で世界にも発信したというから更に驚く。    

 発電所の公害問題や福島原発事故のあと、朝日・毎日・地方新聞にに寄ってたかって執拗にバッシングされ続けた電力各社はまるで「貝になった」ように物を言わなくなった。電力会社の隠蔽体質だけをクローズアップして攻撃する一方的な報道姿勢にも問題があるのではないだろうか。

 近年マスメディアの衰退が報じられることが多くなり、オピニオン・リーダーの立場を失ったといわれるが影響力は依然として強い。福島原発事故のときのような偏向報道、誤報、ねつ造、バッシングが再び起きないように視聴者側のリテラシーと厳しいチェック行動が必要なのかもしれない。
       
*マスメディアの科学技術オンチ   

 福島原発事故の報道で私にはもう一つ気がかりなことがあった。日本のマスメディアの科学技術オンチぶりである。

 蒸気発生器の水位問題と地下水問題の不正確な報道をはじめ「周波数変換所」を「変電所」と間違えたメディアがいたりした。電圧と周波数の安定という「電気の質」について報道されることもなかった。

 このとき時驚いたのは日本のマスメディアには科学技術専門の担当部門が無く、記者もいないということだった。NHKだけが例外だという。アメリカでは科学技術専門の担当がいるのは常識だという。科学技術立国がスローガンの日本で、事実(ファクト)報道が頼りないのもこんなところに一因があるのかもしれない。       

*専門外専門家(識者)の無責任な発言
                                        胆振東部地震に伴う「ブラックアウト」報道は今のところ抑制的に見えるが、苫東に電源を集中したのが原因とする「文芸評論家」の新聞コラムがあった。「集中」だけを原因とするのは現時点では断定できないことで短絡的な意見だと思う。

    緊急事態における反応のパターンとして、玄人の「延長思考」、「素人の暴論」と言った人がいる。確かに、専門家のともすれば保守的な考え方に対して部外者や素人の素直な疑問や指摘が問題の本質を突くことはしばしばだ。しかし知識不足で感情的な思い込み、予断、同調・付和雷同というネガティブな面もあることに気をつけなければならない。
                                       急速な科学技術の進展にともなって分化と専門化が進み、「深いが狭い見識の専門化・識者」が増えている。電力問題でもときどき基礎知識さえ怪しい有名人のうさんくさい説が流れることがある。                                        例えば原発や火力発電をやめて、代わりに再生エネ発電をといった主張である。
  再生エネ発電の利点と欠点についてはようやく一般市民にも理解が広がってきているが、 再生エネの「バックアップ」システムについてはほとんど知られていない。

   極端に要約すれば50万KWの太陽光発電を実用化するためには夜間発電用に50万KWの火力発電所(調整火力)を新設するか、50万KW相当の大規模蓄電池が必要となる。このための経済的な損失と技術的な負担は膨大なものになる。(詳しくは「精神論抜きの電力入門」澤昭裕 2012年新潮新書 参照)
         
 似たようなケースでは福島原発事故のときの作家やメディアの失言暴言が思い出される。
  原発が初めて建設されたとき原子力の平和利用を礼賛していたある高名な作家は福島原発事故が起きた途端「原爆で亡くなった人達に対する裏切りだ」と言った。

   緊急事態の時、よくある反応のパターンは茫然自失型とパニック型だがこの作家は感性が鋭いのでパニックになるタイプなのかなと余計なことを考えた。いずれにしろセレブの不用意で節操のない発言は影響が大きいだけに要注意だ。

第三者委員会への期待                     
*本質の追求
                                                                                                             胆振東部地震に伴う大規模停電の検証(第三者)委員会が9月21日に発足した。北電内部の検証委員会も発足した。まずは専門化による客観的事実(ファクト)の解明が期待される。

   一つ気がかりなのは、今まで日本の大事件大事故で、本質的な検証と総括が行われたことは一度もないという事実だ。先の戦争の「未総括」を始め、いつもうやむやで曖昧な幕引きになってしまう。責任追及ばかり先行して物理的対策が不十分なケースも多い。この原因の背景には日本人の曖昧な国民性があるのではないかという疑問を持っているが、いずれにしても大規模停電(ブラックアウト)の検証結果は北海道民の生活と産業の盛衰に直結する。公平公正で本質に迫る検証を期待したい。

*明確な説明      
                                                                                                               同時に検証当事者とメディアは一般市民にもわかりやすい説明を心がけるべきだと思う。特に地震が発生し、発電所がトリップ(緊急停止遮断)したときの「系統常数」や「系統負荷遮断」のシーケンス(連続)動作は問題の本質に迫る基本データである。体系的で明快な説明がほしい。              
  釈迦に説法だが、遠因・近因・直接原因、間接・直接、背景といった視点でのアプローチと「6M分析」(人・マシーン・環境・管理・方法・材料)での説明がわかりやすいと思う。
 今回の検証をきっかけとしてメディアや一般市民の電力問題、エネルギー問題に
 関する理解が進めば、電力システムを含む「エネルギー安全保障」の問題についても議論内容が向上すると思う。

 例えば今進められている「電力自由化」には本質的に系統の安定性が低下するマイナス効果がある。こういった今まであまり取り上げられなかった問題についても議論できるようにパブリックリレーションが向上すれば、古い言い方だが「災い転じて福となる」ことが期待される。

電気を起こす技術、使う技術                                            以前から漠然と感じていたことだが、今回のブラック・アウトで改めて考えさせられたことがある。 電気を起こす技術と使う技術のアンバランス状態、今風にいえば格差だ。                                     電気を使う技術はEV(電気自動車)、パソコン、スマホ、AI(人工知能)、に象徴されるように爆発的に進歩している。

   一方、電気を起こす技術、発電については原発・火力・再生エネ発電どれをとっても一長一短があり、安定供給ができて、安くて、環境に優しいという基本的な必要条件をクリヤーする電源は存在しない。                   

 少し古いが科学雑誌「ニュートン」が2012年12月号で「電力と新エネルギー(日本が直面している大問題)」というわかりやすい特集を組んでいる。 この特集であげられている発電方法は16種類にのぼるが中には太平洋の黒潮を利用する「海流発電」などの壮大な計画もある。

  愚痴になるが、電力会社広報担当やマスメディアはどうしてこういう一般向け啓蒙記事を流さないのだろうと不思議に思う。                 

 注意しなければならないのは潜在的発電可能なエネルギー量と実際の発電可能容量の違いである。例えば北海道が風力・太陽光発電の宝庫と言われているのは潜在的発電可能量のことを言っている場合が多い。実際には送電線容量、距離などの制約条件があるためマスコミで騒がれる割には実際の発電量は増加していない。
(北電が恣意的に妨害しているように報道されたこともあるが、根拠のない思い込みか偏向報道である)
  発電システムの将来については悲観楽観こもごもの意見があるが、一般市民にとってもエネルギーと電力問題のリテラシーが必須な時代になっていると思う。
   
科学技術文明と里山幻想    
 *9月6日の夜空と里山幻想
                                        停電で真っ暗な中、9月6日の夜空には下弦の月と散りばめられた星が、驚くほどはっきり見えた。地震や津波は地球規模で考えればちょっとしたくしゃみ程度のものなのだろうが、天変地異の前の人間社会のか弱さを思い知らされる。 
 科学文明の行き着く先の予想はは必ずしも明るくない。内田樹氏は「人類は里山生活」をすべきだという(「最終戦論」参照)。
  しかし胆振東部地震の山崩れの俯瞰写真を見ると里山の山際も危ない。のどかな田園が一瞬にして悲劇の舞台になり、多くの人が亡くなったことを思えば言葉もない。
   
*冬でなくてよかった。

 今度の地震で私の住んでいる地域は震度5だったが我が家は壁掛けの額が落ちた程度で、ほとんど被害がなかった。しかし停電復旧は丸一日と18時間(42時間)後だった。携帯電話のバッテリーが無くなって困っていたがお向かいが車の電源を使う充電器を持っていて助けられた。

  今までなんとなく人ごとのように感じていた「災害」だったが、今度はさすがに恐怖を覚えた。厳冬期でなくて良かったと思う。

 非常用のポータブルストーブが売れているという。非常用発電装置付き住宅か大型蓄電池付き太陽光発電住宅の選択肢もあると思うが今のところいずれも高価過ぎて一般的ではない。

 皆さんいろいろ不安を抱え、悩んでいると思うが一つの救いは今度の災害で全道民が被災者となったことで「運命共同体意識」が呼び覚まされたのではないかということだ。日本人の思いやりや助け合いの文化は世界が認めている美徳だが災害の多い日本だから生まれた国民性だともいえる。(和辻哲郎の「風土」参照)

 あれやこれや考えているうちに私の生まれた田舎の光景を思い出した。昭和初期、フィラメントの見える電球。非常用に石油ランプもあった。提灯も使っていた。戦時中はサメ油のカンテラも使った。ひどく臭かったのを覚えている。終戦で灯火管制が解除されたときの、あのまぶしいような電灯の明かりがいまも記憶に残っている。
                                          思いは行きつ戻りつして、やはり人類は里山暮らしに戻るべきか、などとあらぬ妄想が 浮かぶ。               

 追記 :

2006年10月24日付けエッセー教室での私の習作「身近なエネルギー問題」で、ベストミックス、ロシアとウクライナの天然ガス紛争、「長期大規模大停電の心配」について書いた。しかし切迫感はなかった。 

昨年、2017年1月28日には「太陽光・風力発電の報道の疑問点」をブログに投稿している。今回の小文とダブル点もあるが、「ブラックアウト」を機会に改めて電力問題を考える、ということでご容赦をお願いしたい。

                           (2018/10/06)