新聞のコラムは社説と並んで新聞の顔と言われるが、最近、面白くないと思うことが多くなった。
最初は読む側の自分が年をとって、感受性や好奇心や社会的関心が低下してきたのかと思った。
▼しかしどうもそれだけではなさそうだ。主な原因はコラムには見出しが無いからではないかと気付いた。
たとえば政治関係のの憲法・集団的自衛権問題や原発・エネルギー問題などがテーマのときだ。巧みな出だしの文章と引用文の面白さに惹かれて読み進むと、急に強引で一方的な決まり文句の結論となることが多い。何か引っかけられたような気になることがある。
紙面の記事や社説には洗練された大見出し・小見出しがついている。読者はそれを見て読みたい記事と読みたくない記事を容易に選択できる。コラムには見出しがないのでこの選択ができないのだ。
▼コラムは随筆風な内容のときと論理的な小論文的内容のこともある。随筆の場合は「つれづれなるままに・・・」話の展開と内容の風情を楽しむのもよい。しかし小論文的な政治批評などでは主題提起と論理展開がなければ落第だ。見出しは主題提起の重要な一文だ。
もう一つ、不覚にも最近になって気付いたのだが、新聞電子版のコラムには見出しがある。手持ちの朝日新聞「天声人語」の文庫版にも表題がある。いまだに新聞紙面だけに表題が無いのだ。やはりおかしい。
情報が氾濫し、何かと気ぜわしい現代だ。新聞社が読者サービスを考えるなら、紙面コラムにも電子版コラムと同様、読者が選択しやすいように、見出しをつけるべきではないだろうか。 (2015/6/29)