水銀党本部執務室

冬月のブログです。水銀党本部の活動や、政治社会問題、日常の中で感じた事など様々なテーマで不定期に更新されております。

ありがとう、マリー

2009-02-10 23:54:59 | Weblog
今日17時20分頃、私の家で飼っている犬のマリー(♀、ゴールデンレトリバー)が永眠しました。
死因は心不全でした。
1997年2月12日生まれで、2日後の誕生日には12歳になるはずでした。

昨年11月に悪性のリンパ腫が見つかり、抗癌剤治療を続けていましたが、先月の終わり頃から容態が悪化し、一昨日の昼、いつもの公園への散歩の帰り道でうずくまって動けなくなり、翌朝からは一歩も歩けない寝たきりの状態になりました。
午後になっても歩けない状態なので、医者からビタミン剤、抗生剤、栄養を筋肉に同化させる薬、赤血球を作る働きを活性化させる薬などをもらって、自宅で点滴を始めました。

今日、マリーは点滴を受けながら寝床の上にうつ伏せの姿勢で休んでいて、私がなでると顔を上げて応えてくれていたのですが、17時20分頃、突然目を見開いて、頭ががくんと下がり身体が崩れるように横倒しになりました。
私が途中で抱き止めて耳元で名前を呼びましたが、既に心臓の鼓動と呼吸が止まっており、私と母で呼びかけたりさすったりしましたが、意識が回復する事は無くそのまま息を引き取りました。

ゴールデン・レトリバーのような大型犬の寿命は平均で10年と短く、近所に住んでいたマリーと同世代のレトリバーたちはみな数年前に亡くなっています。
うちのマリーだけはありがたい事に、肝臓の数値が悪い事を除いては若い頃の元気な様子のままで10歳を越したのですが、11歳に入った去年の4月には食欲や体力が衰えるなどの老化の症状が現れ、初夏には東京の猛暑に耐え切れず脱水症状を起こしました。その時は点滴ですぐに元気になったのですが、11月、家族で旅行に行くので医者に預けた際の検査で、顎の下に小さな腫瘍ができている事がわかりました。これが悪性のリンパ腫で、いわゆる癌です。
リンパ腫になった犬はそのままだと3週間、抗癌剤で治療しても、もって半年延命できるだけなので、その時からマリーの死を受け入れる心の準備はしていました。

抗癌剤治療をせず、自然に逝かせてやるという選択肢もありました。
しかし、半年間寿命を延ばして、その間、今まで私達が忙しくて一緒にいてやれなかった分だけマリーと一緒に過ごそう、せめて今までは食べさせてやれなかったマリーの好物を好きなだけ食べさせようと、治療をする事に決めました。
(マリーは子どもの頃台所のピザを食べてからチーズが大好きになりましたが、身体に悪いので与えないできました)

実際、治療を始めてから1週間前ぐらいまでの数ヶ月は効果があり、元気に走り回り食欲もある日々が続きました。

リンパ腫の病巣は骨髄にありますが、骨髄は正常だと赤血球やリンパを製造して全身に送る役目をもっています。この骨髄が癌に侵されて、身体のあちこちに腫瘍ができるので、治療は骨髄の働きを抑制する事になります。
その副作用として、血中の赤血球の量が低下してマリーは眠っている時間が増えました。
かといって骨髄の働きを活性化させると癌が強くなるので、投薬は医者と相談しながらの難しい判断が続きました。

また、リンパ腫の癌が炭水化物を主たる栄養源としていたので、それまでのドライフードを与えられなくなり、脂肪やタンパク質が中心の食事療法になりました。
これには、好きな肉やチーズが沢山食べられてマリー自身は嬉しそうでしたが、肝臓の数値は一層悪くなりました。

そして、一連の措置にも関わらず癌は確実に進行し、年明けからは腸に腫瘍ができたせいで血便が出るようになりました。
数日前からは散歩の途中にふらつくようになりましたが、マリーはそれでも散歩に行きたがり、外に出ると自分のお気に入りの公園まで私を引っ張って歩こうとしました。
しかし帰り道にとうとう動けなくなり、私は父に車で迎えにきてもらってマリーを連れ帰らなければなりませんでした。


去年の4月に目に見える形で老化が始まった頃から、私は何度と無くマリーの容態を記録する観察日記をつけるべきか迷いましたが、結局日記を書く事はしませんでした。
その理由は、極めて感情的なものです。
いわゆる「死亡フラグ」というのでしょうか。
日記を書いてしまったら、本当にマリーが死んでしまうような気がしたのです。
Mixiにもこのブログにも、マリーの病気の話題は書かないようにしていました。

今、マリーが死んで、亡骸の横に座ってマリーの事を初めてここに書きます。

マリーは、私が小学生の時に家にやってきました。
マリーの親犬の持ち主だったアメリカ人のブリーダーが生まれたマリーにつけた血統書上の名前はカスカーラで、マリーというのは私達の家族がつけた名前です。
そんな経緯から、私はしばしば彼女の事をマリー・カスカーラと呼んでいました。

マリーは私にとってかけがえのない家族で、やってきた当時まだ一人っ子だった私にとって弟や妹の代わりで、そして何より、同じ時を過ごした友でした。
犬の知能は最高でも人間の6歳児止まりが限界といわれています。確かにマリーが把握していた人間の言葉は、私達が教えたものと日常生活の中で本人が自主的に覚えたものを合わせてもそれほど多くはありませんでした。
しかしマリーと私は、そうした言葉の壁を超え、長年の付き合いの中でお互いの性格や癖を驚くほどよく知っていました。
私はマリーのちょっとした身振りでマリーが私に伝えたい事の多くを理解できましたし、それはマリーも同じでした。
私や家族の誰かが辛い時、マリーは何も言われなくてもいつもそばにいって温かく励ましてくれました。
マリーといられたこの11年と11ヶ月に、本当に感謝しています。

マリーは、私をどう思っていたでしょう。

両親の前で抗癌剤治療を強硬に主張したのは私です。
それはマリーと一日でも長く一緒にいたいという、私の自己満足だったのかもしれません。
事実、私はマリーと一緒にいられて幸せだった。

でも、マリーは幸せだったのでしょうか。
マリーは私を恨むべきかもしれません。治療の副作用でマリーは苦しんでいましたから。
マリーの身体はかたくなって冷たくなっていて、もうマリーにたずねても、生前のあの優しくて思慮深い目でマリーが応えてくれることはありません。

私にはただ、一昨日にマリーのお気に入りの公園で日向ぼっこをした時の、マリーの嬉しそうな顔だけが救いです。
今は、マリーにごめんなさい、それからありがとう、それしか言えません。
マリー、うちにきてくれて、そして今まで本当にありがとう。