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引き揚げを待つ満州。ソ連兵は女学生たちをドラム缶に入れて連れ去った。日本人の男も中国人に「仕返し」された【証言 語り継ぐ戦争】 #戦争の記憶
8/15(火) 7:32配信
南日本新聞
父・一之さんの遺言書や大学の卒業証書を手に持つ迫田清美さん
■迫田清美さん(87)鹿児島県霧島市隼人町内 【写真】一之さんが出征前に家族に残した遺言書
私の本当の誕生日は1936年2月26日。陸軍のクーデター未遂、2.26事件が始まった日だ。父の一之は警視庁の警察官で、対応に追われ出生の届け出が10日ほど遅れた。5人きょうだいの2番目だった。 4、5歳のころ、父が亜細亜ゴム工業(現・ブリヂストン)に転職し、家族で満州(現中国東北部)の遼陽市に渡った。内地での貧しい生活と比べると、夢のようだった。 レンガ造りの広々とした社宅には、十五、六歳の中国人のお手伝いが2人いた。庭でニワトリ20羽を飼って、肉でも卵でも食べたいものが食べられた。近くの奉天(現瀋陽)に、よく遊びに行った。あちこちでアカシアが咲き、街中からいい香りがした。ポプラ並木は息を飲む美しさだった。 45年5月20日、父は陸軍歩兵第278連隊に召集された。39歳と兵隊としては高齢で、11歳から生後2カ月の乳飲み子まで子どもが5人いた。今でこそ憤りを感じるが、軍国教育を受けていた当時の私には誇らしかった。
私が1人で父を駅まで見送った。父の服の袖をつかみながらスキップした。「お前はしっかりしているからお母さんを頼むよ」と言われた。母への遺書には「子どもを丈夫に育てるように」とあった。手が震えてなかなか文字が書けなかったと戦後、母から聞いた。 穏やかな暮らしは終戦で一変する。引き揚げ船が出るまでの1年弱、遼陽の会社の工場で5、6世帯と身を寄せ合った。 武装した中国共産党の「八路軍」やソ連兵が何度もやって来た。恐ろしかったのはソ連兵。土足のまま畳に上がり「ダワイ、ダワイ(やれ、早くなどの意味)」と言って小銃を突きつけた。指は引き金にかかっていた。ぶるぶる震えるしかなかった。女学生のお姉さんたちを工場にあったドラム缶に入れると、担いで行ってしまった。しばらくしてお姉さんたちは戻ってきたが、何があったか聞く人は誰もいなかった。 中国人たちもしょっちゅう来ては、男たちを外に連れ出した。おしりを出してうつぶせに寝かせ、竹で血が出るほど何度も強くたたいた。中国人は貧しい暮らしだったので、仕返しなのだと思った。残っていた男は会社の幹部ばかり。日本人女性は「自分たちだけ兵役を免れたからだ。ざまあみろ」と毒づいていた。
46年5月、母ときょうだい4人と引き揚げ船で博多に帰った。乗り場は忘れたが、遼陽から貨物列車で半日ほど離れた所。母は父の遺書と明治大学の卒業証書をなくさないよう、背中に貼り付けるようにして運んだ。父が生きた証しを守りたかったのだろう。 戦後は父の実家があった霧島市の日当山温泉近くで暮らした。食料難はつらかった。配給は1日に1人当たりサトイモ2個。今もサトイモは食べられない。ぬめぬめとした食感が、つらい記憶を呼び覚ますからだ。 しばらくしてラジオの尋ね人コーナーで、父を探している人がいた。ソ連国境に近い黒龍江省の日本兵収容施設で父と一緒だったという。父は「南満州に残した妻子が心配」とわずかな食料をリュックサックに詰め、4、5人の仲間と飛び出したそうだ。その後の消息は分かっていない。 私は日当山中学校を卒業後に上京した。看護師として働き、定年後に母の介護のため、隼人へ戻った。 数年前、遺族会で父が最後に目撃された黒龍江省を訪ねた。近くの都市からバスで向かったが、木や家が一つもない草原が6時間は続いた。わずかな装備で歩くのは無謀だと思った。それでも父は私たちに会いたかったのだ。
ソ連兵に銃を突きつけられる悪夢を今も見る。平和よりも大切なものはない。 (2023年8月15日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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「母ちゃんを殺さないで」。略奪に来たソ連兵に向かって泣き叫んだ。彼らは手を出さなかった。若い女性を探していたのかもしれない〈証言 語り継ぐ戦争〉
最終更新:8/15(火) 7:32
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引き揚げを待つ満州。ソ連兵は女学生たちをドラム缶に入れて連れ去った。日本人の男も中国人に「仕返し」された【証言 語り継ぐ戦争】 #戦争の記憶
8/15(火) 7:32配信
南日本新聞
父・一之さんの遺言書や大学の卒業証書を手に持つ迫田清美さん
■迫田清美さん(87)鹿児島県霧島市隼人町内 【写真】一之さんが出征前に家族に残した遺言書
私の本当の誕生日は1936年2月26日。陸軍のクーデター未遂、2.26事件が始まった日だ。父の一之は警視庁の警察官で、対応に追われ出生の届け出が10日ほど遅れた。5人きょうだいの2番目だった。 4、5歳のころ、父が亜細亜ゴム工業(現・ブリヂストン)に転職し、家族で満州(現中国東北部)の遼陽市に渡った。内地での貧しい生活と比べると、夢のようだった。 レンガ造りの広々とした社宅には、十五、六歳の中国人のお手伝いが2人いた。庭でニワトリ20羽を飼って、肉でも卵でも食べたいものが食べられた。近くの奉天(現瀋陽)に、よく遊びに行った。あちこちでアカシアが咲き、街中からいい香りがした。ポプラ並木は息を飲む美しさだった。 45年5月20日、父は陸軍歩兵第278連隊に召集された。39歳と兵隊としては高齢で、11歳から生後2カ月の乳飲み子まで子どもが5人いた。今でこそ憤りを感じるが、軍国教育を受けていた当時の私には誇らしかった。
私が1人で父を駅まで見送った。父の服の袖をつかみながらスキップした。「お前はしっかりしているからお母さんを頼むよ」と言われた。母への遺書には「子どもを丈夫に育てるように」とあった。手が震えてなかなか文字が書けなかったと戦後、母から聞いた。 穏やかな暮らしは終戦で一変する。引き揚げ船が出るまでの1年弱、遼陽の会社の工場で5、6世帯と身を寄せ合った。 武装した中国共産党の「八路軍」やソ連兵が何度もやって来た。恐ろしかったのはソ連兵。土足のまま畳に上がり「ダワイ、ダワイ(やれ、早くなどの意味)」と言って小銃を突きつけた。指は引き金にかかっていた。ぶるぶる震えるしかなかった。女学生のお姉さんたちを工場にあったドラム缶に入れると、担いで行ってしまった。しばらくしてお姉さんたちは戻ってきたが、何があったか聞く人は誰もいなかった。 中国人たちもしょっちゅう来ては、男たちを外に連れ出した。おしりを出してうつぶせに寝かせ、竹で血が出るほど何度も強くたたいた。中国人は貧しい暮らしだったので、仕返しなのだと思った。残っていた男は会社の幹部ばかり。日本人女性は「自分たちだけ兵役を免れたからだ。ざまあみろ」と毒づいていた。
46年5月、母ときょうだい4人と引き揚げ船で博多に帰った。乗り場は忘れたが、遼陽から貨物列車で半日ほど離れた所。母は父の遺書と明治大学の卒業証書をなくさないよう、背中に貼り付けるようにして運んだ。父が生きた証しを守りたかったのだろう。 戦後は父の実家があった霧島市の日当山温泉近くで暮らした。食料難はつらかった。配給は1日に1人当たりサトイモ2個。今もサトイモは食べられない。ぬめぬめとした食感が、つらい記憶を呼び覚ますからだ。 しばらくしてラジオの尋ね人コーナーで、父を探している人がいた。ソ連国境に近い黒龍江省の日本兵収容施設で父と一緒だったという。父は「南満州に残した妻子が心配」とわずかな食料をリュックサックに詰め、4、5人の仲間と飛び出したそうだ。その後の消息は分かっていない。 私は日当山中学校を卒業後に上京した。看護師として働き、定年後に母の介護のため、隼人へ戻った。 数年前、遺族会で父が最後に目撃された黒龍江省を訪ねた。近くの都市からバスで向かったが、木や家が一つもない草原が6時間は続いた。わずかな装備で歩くのは無謀だと思った。それでも父は私たちに会いたかったのだ。
ソ連兵に銃を突きつけられる悪夢を今も見る。平和よりも大切なものはない。 (2023年8月15日付紙面掲載)
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最終更新:8/15(火) 7:32
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