アジア映画巡礼

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ありがとう!「ぴあ」最終号

2011-07-21 | 映画一般

昨日、雑誌「ぴあ」の最終号が送られてきました。通巻1341号、創刊が1972年7月なので、39年間発行されてきたことになります。この最終号は保存版として、創刊号の復刻版も付いています。

ぴあ [最終号]
クリエーター情報なし
ぴあ

実はインド映画を紹介してきた身としては、「ぴあ」には、というか、ぴあ株式会社には大きなご恩があるのです。それは、1988年にインド祭という日印両政府によるイベントが行われた時、その一環の<大インド映画祭1988>を引き受けてくれたのがぴあ株式会社(以下、ぴあ)だったからです。

下はこの時のカタログですが、25本のインド映画を一挙上映、しかも、東京だけでなくなるべく多くの場所で上映する、という大規模な催しで、その苦労たるや並大抵のものではありませんでした。

まず、話が開始されたのが1986年の初め。インド側が全作品に日本語字幕を付け、日本上陸までを担当する。映画のプリントが日本に到着して以降は日本側のハンドリングとなり、上映とそれに必要なことをすべて行う、という取り決めでした。日本側の引き受け手は、<ぴあフィルム・フェスティバル>で1983年から毎年インド映画を紹介していたぴあ。それに、私たちのインド映画祭実行委員会が協力することになりました。

当初はインド側が「100本上映する」とアドバルーンを揚げたため、作品選定や予算などもその規模で組んだものの、やがてインド側はトーンダウン、最終的には25本の上映に。さらに日本語字幕制作に関しても、当初「そんなもの、インドで十分できる」と豪語していたのが、「電光掲示板字幕にしてはどうか」と変な技術を提案。スクリーンの下に電光掲示板を付けて、そこに字幕を出すというのです。実際に英語字幕のを見せてもらったのですが、1行しか出ないし、赤字で読みにくいし、実用にはとてもとても。即「却下!」です。

すると今度は「香港で字幕用写植を作らせる」と言い出し、「中国語と日本語は違うのよ~」という忠告も聞かないまま発注。いざ香港製日本語字幕写植ができあがってみると、これがナンチャッテ日本語のオンパレードで、「し」と「も」の区別はついてないは、濁点や半濁点はいいかげんだは、手書き日本語文字の読み間違いは死ぬほどあるは....と、箸にも棒にもかからない代物でした。結局日本で写植を打ち、それをインドのラボで字幕ブロックにして画面に打ち込む、ということに落ち着いた次第です。

インド側が香港発注などにこだわったのは、費用を浮かせるためだったのですが、結果的には高くついたのではと思います。そんなこんなで時間を食ってしまい、字幕打ち込みはもうギリギリ。我々のインド映画祭実行委のスタッフを1人ボンベイ(現ムンバイ)のラボに送り込み、日本で写植を仕上げてはインドに送っての突貫打ち込み作業をする羽目に。写植原稿は、航空便で送るより早いし確実、ということで、つてを頼ってインドに行く人を見つけ、何人もの人に運んでもらいました。その中には、山梨の宝石業の人とか、ラジニーシュのアシュラム@プネーに修業に行く人とかまで。その節は大変お世話になりました~。

この時の25作品は、権利がクリアできなかった2本を除いて、映画祭終了後日本のフィルム・センターが全部まとめて収蔵してくれました。ただ、字幕の出来があまりよくなかったので、その分評価は低くなったようです。字幕の出来というのは、一つには当時まだインド映画の字幕翻訳者は育っていず、いろんな人にお願いしてやっていただいたのですが、担当した全員が素人だったことと、インドで打ち込んだので、途中の停電などがあって日本の水準からすると「?」な点があることによるものです。昨年東京国際映画祭で上映された『炎』 (1975)もこの時のプリントだったので、ちょっと残念でした。本当は、新たに字幕を付け直してほしかったのですが。余談ながら、フィルム・センターに収蔵されている23本のうち、一番人気のある作品は『踊り子』 (1981)(下写真)のようです。

とまあ、こんな苦労を含め、ぴあは約3年間にわたってしんどいインドとの交渉を粘り強くやってくれ、大規模なインド映画上映を成功させてくれたのでした。当時端で見ていた私は、スタッフの方々の優秀さにも目を見張ったのですが、社長の矢内廣氏の言動にも感心することが多かったです。特に1986年9月のインド出張は驚きでした。映画祭を実施することが決まってすぐの段階で、自ら下見を兼ねてインド側を表敬訪問なんて、行動力のある方だな~、と、お尻の重いお役人世界にいた私(当時は国家公務員でした....)は目が覚める思いがしました。

下は、その時撮ったボンベイのマリーン・ドライブの写真です。1986年は、まだ高い建物が全然なかったんですねー。今は高層ビルがニョキニョキしてますが。

この時矢内社長やぴあの皆さんには、チャーチゲート駅に近いアンバサダー・ホテルに泊まっていただき、映画開発公社(Natinal Film Development Corporation)などを訪問したのですが、面白かったのはホテルのチェックアウト時に矢内社長がディスカウント交渉をなさったこと。インドではそうするものだと思い込んでらしたらしく、これまた粘り強く交渉。最後にはフロントも根負けしてOKを出し、双方健闘をたたえ合うかのように笑いながら握手をしてらしたのが印象的でした。なんだか全然エラソーになさらないし、面白い方です。

そう言えば、この時もう一つ面白いことが。「ぴあ」の綴りを見たインド人たちが一様に身を固くするのです。そう、「Pia」は「PIA」、つまりパキスタン航空と同じなんですね。きっと一瞬、「パキスタンの回し者か!?」とか思ったんだろうなー、と笑いをかみ殺しながら、「ぴあ、です。ピー・アイ・エーではありません」と説明して回りました。

余談はさておき、インド映画の紹介に関しては、ぴあも「井戸を掘った人」。このご恩は忘れません。雑誌はなくなっても、ますますのご発展をお祈りしています。長い間「ぴあ」本誌も送っていただき、ありがとうございました!(とちゃっかり、この場を借りて御礼を)

 

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