アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

第20回東京フィルメックス:Day 5(上)

2019-11-29 | アジア映画全般

11月27日(水)に見た2本のご報告です。両方ともコンペ作品で、Q&Aがあったため、2回に分けてレポートします。 

『水の影』


 2019/インド/マラヤーラム語/116分/英語題:Shadow of Water/原題:Chola
 監督:サナル・クマール・シャシダラン
 主演:ニミシャ・サジャヤン、ジョジュ・ジョージ、アキル・ヴィスワナット


冒頭、祖母が孫娘におとぎ話を語っている声が聞こえてきます。悩みを抱えた王子が森の乙女と出会うお話です。そして、山の中の道をジープが走るところから本編が始まります。高校生のジャヌーことジャナキ(ニミシャ・サジャヤン)は、ボーイフレンドと一緒に都会に遊びに行く約束をします。ところが待ち合わせ場所の山道に行ってみると、ジープが止まり、大柄な中年男が一緒にいるではありませんか。ボーイフレンドは彼を「ボス」と呼び、親しそうですが、中年男は無愛想で不気味です。ジャヌーは尻込みしますが、都会に行く誘惑には勝てず、ジープに乗り込みます。途中食事休憩をしたりしながら、海辺にある都会コチに着いて、3人はショッピングモールに行ったりします。そこでジャヌーに新しいクルター・パジャマとベールのセットを買ってやったボーイフレンドは、ジャヌーを海に連れて行き、大いにはしゃぎます。そしてボスに連絡して車に乗せてもらい、帰途につきますが、その頃にはもう夕闇が迫る頃になっていました。山道を走るのは危険だとして、「それならバスで村に帰る」とべそをかくジャヌーを説得し、3人は安ホテルに泊まることになります。ボスに「酒と食べ物を買ってこい」と追い出されたボーイフレンドが戻ってみると、ジャヌーが一人、浴室で泣いていました...。


2年前に東京国際映画祭で上映された『セクシー・ドゥルガ』もそうだったのですが、「なぜ、そこで逃げない!」というイライラが募る作品でした。上記のストーリーの後、翌日山道を帰るシーンが途中からまたすごいことになっていくのですが、ヒロインに全然共感できず、「この人、いくら高校生だからって脳ミソがなさすぎる!」と監督のキャラクター作りに疑問満載。あとでサナル・クマール・シャシダラン監督とちょっと話した時に言ってみたのですが、「現実にそんな目に遭うと、なかなか逃げられないんだよ」とのことでした。でも、ヒロインには逃げてほしい! 逃げないのなら、それなりの論理がほしい。と、フラストレーションのたまる作品でした。私と近い気持ちになった観客もいたようで、Q&Aではそんな質問も出ました。

市山:この作品はある事件が元になっている、とお聞きしたんですが、どういう事件だったのでしょうか。そして、事件そのままではないと思うのですが、どういう形で映画にしようと思われましたか?

監督:本作は、その事件をそのまま描いたわけではないんですが、長い間気になっていた事件があって、それがきっかけでできました。その事件は1996年に起こった、16歳の少女が40人ほどの男性にレイプされた、というもので、しかも彼女がボーイフレンドらしき人物と出かけていてそういうことになった、というものです。それに基づいています。


Q1(男性):予想できない展開で、最後まで釘付けでした。私が感じたのは、ボスがむき出しの自然の本能で、ボーイフレンドが理性というか文明というかそういう存在、という構図として捉えました。ファーストシーンについてうかがいたいのですが、霧の中の情景が出てきて、ジャヌーが丘を歩いて行く時、犬が付いていき、その犬が三度振り返ってこちらを見ます。どうやって演出したのか、不思議でした。その後も霧が晴れたりするのが絶妙のタイミングだったりして、あれはどの程度演出があったのか、知りたいです。

監督:私にとって映画を撮るのは、人生で起きる事件をそのまま捉えている、という感じです。確かに、予想できないことが起きてほしい、と思ったら来たりします。あの時は、2つの幸運に恵まれたのですが、一つは犬が振り返ってカメラを見てくれたこと、そしてしかもそれを偶然撮れたということです。あの霧に関しても、あの時は長いショットを撮ったんですが、急に霧が晴れるということが起きました。もっと霧が続いてほしいと願っていて続く時もあるし、続かない時もあります。つまり、映画を作っているのは自分ではなくて、自分は単なる道具に過ぎない。そういったものを多くはらんでいるのが映画作りではないでしょうか。


Q2(男性):観客の不安をかき立てるような展開が面白かったです。それと、水の映像表現がすごく迫力がありました。最後の方で少女が石を積む場面がありましたが、あれには何か宗教的な意味があったのでしょうか?

監督:少女はちょっと不思議な行動をとりますよね。それが何なのかと言うことを私はあえて言いたくないんですが、ただ彼女は一度失ったバランスを取り戻すための行動をしている、という風に私は考えています。石を積む、というのは調和のシンボルであって、あとは皆さんが自分自身で意味をくみ取ってくださればいいと思います。特に宗教的な意味というのはありません。でも、彼女が心を取り戻す、という意味にはなっています。


Q3(男性):最初の質問者がおっしゃった3人の関係性のお話がありましたが、1人の女性を2人の男性が取り合う、という構図からいくと、黒澤明監督の『羅生門』を想起してしまいます。実際に起こった事件にインスパイアされて作られた、とのことですが、シナリオにするのにどういったプロセスを辿って作られたのか、参考になさった作品があったのか、お聞きしたいです。

監督:黒澤明監督という巨匠の名前を出して下さって、とても光栄に思います。いくつかの作品を参考にはしましたが、『羅生門』はその中には入っていません。でも、友人の旦匡子さんは、「『羅生門』を思い起こさせる」と言ってくれました。1人の女性と2人の男性という関係からも見て取れるように、人間関係、主従関係というものは、幾世代にもわたって続く伝統であって、歴史によってそれが築かれています。またこの3人の関係性は、性的な関係、性欲を介した関係とも見て取れます。ただ性欲と言っても、愛を使う、愛を餌にする、というのもあります。どのように考えるかは皆さんの見方次第で、どこかの瞬間でこの映画をパッと思い起こして下さる、ということがあれば、嬉しく思います。


Q4(女性):判断は見た人に委ねたい、とおっしゃるので聞きにくいのですが、女性として本作を見ていて、最後の方は彼女の感情に寄り添い切れなかった感じがあります。一つわからなかったのは、森に連れて行かれる時、彼女もボーイフレンドも殺されちゃうのかな、と思ったんですが、そこで彼女は逃げることもせず、大人しくボスに付いていく。ボーイフレンドを拒否して、当たり前のようにボスに付いていく。ボスの方も何をするわけでもなく、彼女と川遊びをする。また、「ボスを殺してきた」とボーイフレンドが戻ってきた時も、彼に駆け寄るのではなく、ボスの遺体に駆け寄っていく。その行動を見ていると、彼女は嫌がりながらもボスに惹かれていた、ということなのかとも思うのですが...。日本人である私と、インド人である彼女は全く考え方が違うのかも知れないし、男が2人いてどちらかを選ばないといけない時は、強い男を選ぶのでしょうか。レイプされているわけだから、本来なら逃げるのでは、と思います。なのにボスに付いていく、というのがわからなくて、うかがいたいと思いました。

監督:まず、この映画の冒頭に出てきたお話を思い起こしていただきたい。あれは、祖母が孫娘に聞かせる、という形を取っています。ある男が女性の宝物を奪う、という話なんですが、その話がこの映画の中に要約されていると思います。多くの文化圏では、女性は男性のために生きている、男性のために存在する、という見方があるのですが、それと同時に、処女性がタブー化されています。つまり、処女性はなくすともう終わりというか、処女を奪った男性に囚われてしまうところがあると思います。例えばインドでは、レイプが起きたとしても、その女性がレイプした男性と結婚すると男性は罪に問われないのです。これがもし他の犯罪だとすると、誰かを殺した人と一生の伴侶になるということは考えられるでしょうか。それが、レイプの場合は問題ない、とされてしまうのです。そこで家族という絆を築くと、結婚後も続く様々なDVも、処女性を奪った男性なので罪に問われない。冒頭にあったような話が頭にすり込まれているので、そういうものだと思っているわけですね。これはインドだけではないと思いますが、そして、処女至上主義というのは薄れつつあると思いますが、まだまだ存在しているのです。


あと付け加えたいのが、ボーイフレンドが酒を買いに行かされるシーンで、ホテルの門口に女性が出てきます。この人は性産業に従事している人です。こういう人がいたり、道ばたで寝ている人がいたりする大都会の生活ですが、一度犯罪の被害者になるともう選択肢がない。ゴミとして扱われる。自分の村に帰って何事もなかったように生活する、というのはあり得ない。つまり、自分が一度壊されてしまうわけですね。この映画のジャヌーは14歳か15歳という設定でまだ幼いので、自分の頭の中でこれを処理できません。解決策を見つけられない、という形です。結婚にしても、普通は親が勝手に決めて、自らの意思は存在せずに決められてしまうのですが、行く先はそこしか思い浮かばないわけです。



観客の質問もそれぞれ長かったのですが、監督もよくしゃべり、たちまち時間切れ。その後ロビーでサイン会となったのですが、観客にとっては疑問点いっぱいの映画だったようで、サインを依頼する人が次々に監督に質問していって、しかも答えに納得せずまた次の質問を、という形で、Q&Aと同じぐらいの時間がかかっていました。


でも、どの質問にも監督は丁寧に、かつ嬉しそうに答え(自分の作品に観客が反応してくれるのがとても嬉しかったようです)、通訳の松下由美さんにはお気の毒だったのですが、Q&AパートⅡになったのでした。私としては先に書いたような質問をちょこっとしたのと、劇中の都会のシーンでメトロの駅と高架線路が出てきたので、「あれはケーララ州のコチ(旧名コーチン)ですか?」という質問をしたのでした(乗りに行きたい、コチのメトロ♥)。次からは作風を変えてほしいなあ、と思った、ケーララの映画でした。

(『熱帯雨』につづく) 



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